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─一章  『虫』(4)─



イノが通路に踏みこんだとき、『虫』の姿はすでに消えていた。

だが、怪物の血痕が残されている。それは壁に取りつけられた松明の明かりに照らしだされ、ねばっこい光を放って、点々と通路の奥まで続いていた。

追っている相手以外、他の『虫』が潜んでいそうな気配はない。イノは武器を剣からクロスボウに持ちかえ、急ぎながらも慎重に、血の跡をたどってすすんで いっ た。

何度目かの曲がり角へたどり着く。曲がり角ごとにそうしてきたように、壁に張りつき息を整える。耳をすます。聞こえるのは自分が後にしてきた広間の喧騒 と、近くではぜている松明の音だけ。

大きく息を吸いこみ、イノは一気に角からとび出た。瞬間、追っていた相手が通路の真ん中に陣取って、こちらをにらみつけているのが視界に飛びこんできた。

『虫』との距離は離れている。イノはクロスボウの引き金にかけた指に力をこめた。

その直後、イノの腕に衝撃が走った。反動で発射された矢が、通路の壁面を削り火花を散らす。

一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

手もとに視線を走らせる。クロスボウから生えている大きなトゲ。機構をつらぬき内部にまで深く潜りこんでいる。撃ちこんだのは目の前にいる怪物だ。

舌打ちするイノ。その耳が、小さな音をとらえた。

栓を抜いたような音。反射的に壁側に跳んだ。すぐそばを駆けぬけていく、鈍い光のきらめき。

『虫』に視線をもどす。相手はこっちに向けて小さな口を開けている。見る間にそこから鋭いトゲがせり出してきた。怪物は口からトゲを撃ち出しているのだ。

イノは使い物にならなくなったクロスボウを、怪物に目がけてぶん投げた。それを追うように同時に駆けだす。手が腰に差した剣の柄にかかる。

クロスボウが派手な音をたてて『虫』にぶちあたる。今度は怪物が狙いを外した。撃ち出されたトゲが通路の壁で火花を散らす。

その隙に接近しようとするイノ。だが、まだ斬りかかれる間合いではない。それを理解しているのか、『虫』はその場を動こうとせず、再び口の奥からトゲを生 み出しはじめた。

もうよけられる距離ではない。投げつける道具もない。イノ全力で駆けながら、全神経を相手の口とそこからせり出している凶器に集中させた。
 
紅い瞳が嘲笑うように輝く。そして、小さな発射音。

イノが一気に剣を抜く。鞘から解き放たれた刃が弧をえがく。

ぎいん、という鈍い音が通路に響き渡った。両者の間で瞬く火花。刃に叩き落とされ床を転がっていくトゲ。イノの腕を波のように痺れが走った。

『虫』が驚愕したように見えた。慌てて身体を反転し、その場を脱しようとする。

だがもうおそい。

灰色の身体めがけて黒い一閃がうなりを上げて襲いかかった。脚をごっそりと薙ぎ払われ、『虫』は大きく体勢を崩して倒れこんだ。

切断された脚から血を噴きだしながら暴れる『虫』の背を、イノは渾身の力をこめて踏んづける。そして容赦なく剣先を振り下ろし、とどめの一撃を加えた。

痙攣し、やがて絶命した『虫』から剣を抜く。

イノは大きく息をついた。顔についた怪物の血と汗をぬぐう。しんと静まり返った通路。たたずんでいるのは自分一人だけ。身体から少しずつ熱気が引いてい く。

(またスヴェンにどやされるな‥‥‥)

今さらのように、勝手な行動を取ったことを苦々しく笑い、イノはもと来た道に目を向けた。とりあえず広間に戻らなければならない。追ってきた『虫』は倒し た。あの兵士を殺した報いは受けさせたのだ。

青臭い考え──こんなことばかりしているから、いつまでたっても仲間から怒られたり、冷やかされたりするんだろう。自分でもよくわかっている。だがど う してもそうせざるをえなかった。なぜなら、『虫』を自らの手で葬る以外に、自身すら焼きつくしてしまいそうな憎しみの熱を冷ます方法なんて知らないのだか ら。

ふと、イノは広間に戻ろうとした足を止めた。

通路にたちこめている悪臭。足下に転がっている『虫』のものではない。それは背後からただよってきている。戦っている最中には気づかなかった。

知っている臭いだ。戦場で嫌というほど嗅いできた、血と糞便のまじったむせ返るような臭い。

人間の‥‥‥それもまともな死に様を許されなかった人間の臭い。『虫』が襲撃してきたとき、この北棟にいたという兵士達のことが頭に浮かんだ。

イノは振り返った。『虫』の死骸の先、通路の奥はまた曲がり角になっている。そこが、ぼんやりとした光に照らされている。壁に設置されている松明のもので はない。角のむこうにある部屋から灯りがもれているのだ。

無視することのできない悪臭。確信にちかい嫌な予感。意を決し、イノは『虫』の死骸をまたいで通路の奥へとすすみはじめた。どのみち命令違反をした事実は くつがえせない。戻るのが多少遅くなったところでたいして違いはない──そう自分に言い聞かせながら。



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