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─一章  『虫』(5)─



曲がり角をこえ、部屋の前にたどりついた。

ここまで来ると、臭いは耐えがたいほど強烈になった。手をのばせば触ることができそうなぐらいの濃密な空気。それはまちがいなく、目の前でかすかに開いて いる扉の中から流れてきていた。

耳をすませる。水滴の落ちるような小さな音以外、部屋から聞こえてくる物音はない。何者かが潜んでいる気配もない。はっきりしているのは、胸のむかつく臭 いだけ。

イノは扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。

そして立ち尽くした。自分の見ているもの理解するのに、少し時間がかかった。

もはや、何のための部屋だったのかわからないぐらいに荒れ果てた室内。壁や天井にまでぶちまけられ、雨の上がった後のようにポタポタとしたたっている鮮 血。だが、それらを問題なくさせるほどのもの が、部屋の中央にあった。

それは一言でいえば死体の山だった。バラバラに砕かれ切断された人間の死体で築かれた塊だ。いびつな円錐状をした肉塊のところどころから、空を つかむように手や足がデタラメに突きだしている。そして、湯気を立てて垂れさがる臓物の間に埋めこまれているのは、兜をかぶったままの十人の兵士達の生首 だった。

血みどろの、殺されたときそのままの苦悶にゆがんだ顔。頭上から落ちてくる血のしずくの中で、光を失った多くの瞳が、瞬きもせずにイノを見ていた。そし て、なにかを訴えていた。

発作的な笑いと吐き気が喉もとまでこみあげてきた瞬間、イノは口を手でおおい、歯をきつく噛みしめ、訪れそうになった狂気をかろうじて押し返した。壁に手 をついて、よろけた身体を支える。

部屋から顔をそむけ、壁に背をあずけてぜいぜいとあえいだ。悪臭たちこめる空気だろうが、呼吸できるならありがたかった。

そして意志の力を総動員し、再び室内に視線を向けた。

鮮血の海。人の屍肉で築かれた山。

「黒の部隊」に入って一年、イノは『虫』の襲撃で犠牲になった人間達を嫌というほど見てきた。かつては人であった者が、残忍な怪物の手で壊されてただの モノとなっていく‥‥‥。そんな光景が当たり前の世界で生きてきた。

もちろん、最初は吐きもしたし夢でうなされもした。誰だってそうだろう。だが、たび重なる死線をくぐりぬけるうちに、しだいにその回数は減っていった。 はっきりいえば慣れてしまったのだ。それがいいか悪いかはわからない。だが、そうならないことには、バケモノ達との戦など続けていられないのは事実だ。

だが、今目の前にしているものはひどかった。あまりにもひどすぎた。

死体だけなら、ここまでの衝撃は受けなかっただろう。わざわざ切断し、砕き、形を整えながら積み重ねられた屍の山。それは、あきらかに何者かの意図によっ て造られたものだ。だからこそ最悪だった。

何者か──考えるまでもない。これを造ったのは『虫』だ。

『虫』にどの程度の知能があるのかも謎の一つだった。少なくとも、イノがこれまで相手にしてきた怪物達は、動物のように本能のみで活動しているようにしか 見えなかった。

だが今この醜悪な創造物を目の前にして、イノは『虫』の知性というものに触れたような気がした。とほうもない残忍さと、底知れない悪意。さらに、扉を開け た人間と向きあうようにわざわざ生首を置いているやり口には、イタズラめいた無邪気さのようなものさえ感じられる。

『虫』は、遊ぶような感覚で殺戮を楽しんでいるのだ。イノはそれをはっきりと知った。

父もこのように殺されたのだろうか? 

ふいに浮かんだ疑問。父の最期について、それを知るスヴェンは語ろうとはしてくれなかったし、イノ自身も考えることをずっと避けてきた。

楽しみのために殺され、遺体すらも玩具にされた兵士達。彼らの顔が父の顔と重なった。

イノの瞳が険しくなった。拳を硬く握りしめた。

許せない。これをやった奴を絶対に許すことはできない。 

イノは大きく息をはきだした。胸のむかつきはもうおさまっている。今あるのは、この悪趣味きわまりないもの造り上げた怪物への純粋な怒りだ。

あらためて周囲をながめる。血の海から一筋、小さな川のような血痕がのびていた。それはイノの足下をくぐって部屋の外へと流れ、通路のさらに奥へと続いて いた。

巨大な生き物が這いずった痕跡だ。その幅だけでも、さっきしとめた『虫』の五、六倍はある。細かく調べるまでもなく、そいつが「大型種」に分類される強力 な個体だとわかった。

痕跡はその一つだけ。広間に群れていた連中とはちがって、この『虫』は単体で行動しているのだろうか。

通路の突きあたりには、両開きの大きな扉が見える。食堂の扉だ。今は閉じているが、イノはスヴェン達と二度ほど足を運んだことがあったから覚えている。ま だ乾いていない血の跡は、その中へと消えていた。

扉に向かって、イノはゆっくりと血の川をたどりはじめた。

恐怖があった。悪夢のような部屋の光景は、はっきりと脳裏に焼きついている。死ぬまで忘れることはできないかもしれない。黒い装いの内にある身体は、すで に冷たい汗でべっとりと濡れている。

しかし、恐怖以上の怒りがあった。相手が強力な「大型種」であろうと、そんな奴にたった一人で立ち向かうことがどれほど無謀であろうと、この手で殺してや りたい、という狂おしいほどの怒りと憎しみには抗えなかった。

自分の呼吸の音が耳障りにきこえるほど、周囲は静けさにつつまれていた。広間の喧騒も聞こえず、まるで、この建物の中で生きているのが自分だけのように錯 覚してしまう。

突然、脳裏に浮かぶ一年前の記憶‥‥‥アルビナの砦。静けさと、血の臭いと、恐怖と、あのときも今と同じように一人だった。

だが、あのときの自分と今の自分はちがう。この場にいるのは「黒の部隊」の兵士だ。みじめな新兵ではない。恐怖にとらわれ、逃げ惑ったあげくに‥‥‥。

耳にとびこんできた音。

イノは我に返った。思い出したくもない過去を振り払い、気を引きしめて、前方から聞こえてくる音に神経を集中した。

閉ざされた食堂の奥から、何かを砕いてすり潰すグチャグチャという不快な音が響いてくる。あの中に何者がいて、どんな行為しているのか‥‥‥。おおよそが わかっているだけに、想像しなくとも胸が悪くなった。

食堂の前までくる。張りつめた神経をかきみだすような音はまだ続いている。そっと手を伸ばし、音を立てないようにして開いた扉のわずかな隙間から、イノは 中の様子をうかがった。

さっきの部屋よりもずっと広い空間。だが、そこが「食堂」として機能することは、もはやないだろう。イノがスヴェン達と訪れたときには、きちんと並んでい た何列もの長いテーブルが、今では散々な形に破壊され散乱している。床に散らばっている割れた食器と、食べかけの料理。それらをべっとりと彩っているの は、おびただしい鮮血だ。

そして、そこには巨大な『虫』が鎮座していた。

イノは息をのんだ。たどってきた跡から、バケモノのだいたいの大きさは想像していたが、いざ目のあたりにすると圧倒されてしまった。こちらに背を向けてい るため、はっきりとした全体像はわからないが、大人が七、八人は収まってしまうぐらいの体格をしている。
 
丸みをおびた節のある胴体。それをおおう灰色の甲殻はやけに滑らかで、室内の明かりに光沢を放っていた。一見したところ、脚らしきものは確認できない。何 の役割をはたすのかわからないが、尻の部分から一対の細い突起が生えている。

ふと、指でつつくと丸くなる昆虫を思い出した。後ろ姿で判断したかぎりでは、あれにそっくりだ。

相手がこちらに気づいた気配はない。奇妙な突起の生えた尻を入り口に向けたまま、節のある丸っこい身体をウネウネ波打たせて、何かの(想像したくもない) 行為に夢中になっている。それが、さっきから延々続いている不快な音の正体だ。

扉を少し押し、イノはさらに中の様子をうかがった。食堂内には、冗談じみた大きさのバケモノしかいないようだ。

今なら相手の不意を突ける。このまま背後から忍び寄り、背中に取りついて、一気に「核」を攻めてしまえばすぐさまカタがつく。大きな身体をしているが、甲 殻の隙間から 刀身を深くめりこませば、「核」をつらぬくことは可能だと判断した。

『虫』には必ず心臓部である「核」が存在する。いま目の前にいるこのデカブツも、その例外ではない。そして「核」さえ破壊してしまえば、どんなにタフな怪 物でもその生命活動は停止する。『虫』との戦いでは、やみくもに攻めて傷を負わせるよりも、多少の無理をしても「核」を狙う方が効率はいいのだ。

もちろん、頭で理解するのと実際にやるのとでは大ちがいだ。『虫』だっておとなしく弱点を討たせてはくれない。常に動き回る怪物の「核」の位置を見定めて 攻めるには、相応の技術と経験がいる。それを実践できるようになるまでに、相手に殺されてしまう者が多いのも事実だ。イノ自身も、最初は何度死にかけたか わからない。

だがそれも過去の話‥‥‥。少なくともそう思えるほどには、『虫』との戦闘を重ねてきたつもりだ。

イノはさらに扉を押し開けた。巨大な『虫』の様子に変化はない。

いったん中に入ればもう引き返せない。心に迷いが生まれる。いくら不意打ちのチャンスがあっても、相手はこれまでとはケタのちがう体躯の持ち主だ。それ に、どんな能力があるのかすら把握していない。相手を倒すより、相手に殺される可能性の方がずっと高いのは、誰にだってわかることだ。

だが、ここで背を向ければ一年前の自分と変わらない。命令違反を繰り返してまで『虫』との戦いにやっきになってきたのは、憎しみの熱に突き動かされていた だけではなく、過去の自分をぬぐい去るためでもあった。引き返すことで、その戦いのすべてを否定することになるような気がした。

そして‥‥‥何よりも相手は『虫』だった。大切な父を奪い去った怪物だった。消すことのできない憎しみを自分に植えつけた、倒さねばならない敵だった。

イノは静かに素早く、扉から中に入りこんだ。

いまだ『虫』の様子に変化はない。その背中は無防備にさらされている。

灰色の巨大な姿にむかって、床に散らばる破片や汚物に足をとられてしまわないよう慎重に接近する。鼻をつく異臭と、相手がたてている不快な音が、いやでも 緊張を高める。

真後ろから近づいているせいで、いまだに怪物の前面がどうなっているのか確認できない。だが、ちょっとでも回りこめば気づかれてしまうかもしれないため、 その危険はおかせなかった。

十分に距離がつまる。あとは背中に取りつくだけ。

イノは一気に駆け出した。

突如、『虫』がこちらを向いた。計ったような絶妙な間と、驚くほどの素早さで。

予想だにしない相手の反応。意識では状況を理解しつつも、イノは加速した身体を止めることができない。

唖然としているイノめがけて、『虫』が突進してきた。これまで見ることのできなかった怪物の前面が、視界いっぱいに広がる。

それは口だった。全身の三割以上を占めているバカげたほど巨大な口だ。関節をもった幾本もの顎を開いている様は、脚を広げたクモのようにも、人間が両手の ひらを広げたよう にも見える。その内側には鋭い牙がびっしりと生えていた。よだれと、血と、肉片にまみれたその牙が、イノを抱擁するかのように迫ってくる。

脇に逃げてる暇などない。

イノは加速した身体を強引に倒す。汚物まみれの床に転がりこんだ瞬間、背中のすぐ上を巨大な顎がかすめていくのを感じた。

獲物を捕らえそこなった『虫』が、突進した勢いのままイノの脇を駆けぬけていく。胴体の下にある何百という小さな脚がウジャウジャと蠢き、汚れた床をせわ しなく引っかいているのが見えた。

血だまりに手をつき、イノがすぐさま床からとび起きるのと、『虫』が彼に向き直ったのとは同時だった。その異様な外見や大きさからは想像もできないほど、 なめらかで敏捷な動きだ。

息を荒げながら、イノは『虫』をにらみつけた。相手はすぐに攻めてきそうな様子を見せない。十本ある顎を人間の指みたくクネクネと器用にきしませながら、 顎の付け根にある紅い瞳で自分 を眺めているように、いや、嘲笑っているように見えた。

気づかれていた‥‥‥イノは苦い思いでそれを認める。

このデカブツは、こちらが背後から忍び寄っているのをちゃんと知っていた。そして、逆に不意を突く機会をうかがっていたのだ。

どうやって気づいたのかはわからない。怪物の尻に生えている突起。 ひょっとしたら、あれが「目」の役割をはたしているのかもしれなかった。もっとも、それを知ったところで今さらすぎるが。

イノはくやしさに歯噛みした。自分がまだ生きているのは、ただ並みよりも小柄な体格をしていたというそれだけのことだ。もしそうでなかったら、床に倒れこ んだとこ ろで、そのまま相手の顎に引っかかって喰らわれていただろう。

さっきの部屋で目にした悪夢のような光景。やはり、あれをやったのはこの『虫』だ。このバケモノはどうやら人間を驚かせ怯えさせることが好きらしい。残忍 さと無邪気さ。あの死体の山から受けた印象はまちがっていなかった。

「‥‥‥いい性格してるよ」

凶悪な顎をくねらせ笑っている相手へ、イノは憎々しげにつぶやく。

それに応えるかのように、『虫』が再び突進してくる。何百という小さな脚が、瞬時にとてつもない推力を生みだす。

正面から戦えるような相手ではない。

イノは、ひとまず食堂の奥めがけ駆けだした。そこには、料理を出すための大きなカウンターがあった。木製の頑丈そうな造りで、自分の胸より下ぐらいの高さ がある。床を滑るように突っこんでくる怪物を、多少の時間食い止めるぐらいはできそうだ。その奥には厨房が見える。

カウンターめがけ、脇目もふらず突っ走るイノ。

牙の生えた顎をめいっぱい広げ、進路上の残骸を跳ね散らしながら追ってくる巨大な『虫』。

背骨がきしむかのような圧迫感。

イノがカウンターに手をかけ跳び越えた瞬間、『虫』がその背後に激突した。すさまじい衝撃に大きく揺れたその上から、積み重ねられていた食器類がなだれを おこして床にこぼれ落ちた。けたたましい騒音が食堂中に響き渡った。

厨房側に降り立ち、イノは振り返った。頑丈な平板にがっちりと顎を食い込ませながら、『虫』はなおも強引にこちらに迫ろうとしている。しかし、カウンター はミシミシと音を上げながらも、ちゃんとそれに持ちこたえてくれていた。

これで少しは時間がかせげる。不意打ちが空振りに終わった今、このバケモノを仕留めるためには、ちがう方法を考えなければならない。

イノは素早く『虫』の姿に視線を走らせる。相手の死角は、背中と考えてまちがいない。胴体の後ろ側には、「目」の役割を持つ突起以外戦闘に使うような器官 はなさげだし、前面にある脅威の顎も、構造を見るかぎり自身の真後ろにまでは動かせないようだ。

背中から「核」を狙う‥‥‥倒し方そのものは、不意打ちで実行しようとしていた方法と変わらない。だが、こうして戦闘になってしまった以上、相手もそうた やすくは後ろを取らせてはくれないだろう。

『虫』はまだカウンターと格闘している。やっきになって顎をめり込ませ‥‥‥。

はっとした。ちがう! 相手はこちらに迫ろうとしているのでない。

抜けない≠フだ。がっちり食い込ませすぎた顎が、びっしりと生えた牙が災いして。

今度は「引っかけ」ではない。誰がどう見たって、バケモノはカウンターから抜け出すために必死だ。

ちがう方法を考えるまでもなかった。ずいぶんあっけない幕切れだが、相手が抜け出すまで待ってやる気はない。このまま背中まで駆け上がって、一気にとどめ をさしてやるまでだ。

イノは素早くカウンターに手をかけた。片手にある剣を強く握りしめ──ぎょっとして視線を落とした。

右手にあったはずの剣が消えている。

信じられない事実に愕然とし、焦って瞳をめぐらせた。目の前であがいているバケモノの背後、残骸だらけの床に転がっている黒い剣が視界に飛びこんできた。

「くそっ!」声に出して毒づき、カウンターを跳び越えようとしたとたん、『虫』がようやくその場から抜け出した。相手は巨大な身体を敏捷に後退させる。イ ノも舌打ちして、向こう側へ飛びだそうとするのを止めた。

無惨な傷跡を残しているカウンターごしに、両者は対峙した形になった。
 
剣を取り落とすなんて!──イノは自分のマヌケさ加減を呪った。不意打ちを逆手に取られたあのとき、無我夢中で床に転がり込で難をのがれたさい、手から離 し てしまったのだ。今の今まで気づかずにすらいた。おかげでバケモノをしとめる最大のチャンスを逃してしまった。

まるで新兵のような失態だ。いや、新兵でもこんなマヌケなことはしない。それほどまでに、この戦いに緊張しているんだろうか。

静かに呼吸を整える。状況は今のところ降着している。『虫』は再びカウンターに動きを取られるのを警戒してか、突っこんでくる気配を見せない。そして、そ いつを倒すために必要な自分の剣は、無情にもその脇に転がってしまっている。

今イノの手持ちの武器といえば、ベルトに吊した短剣が一つだけ。「小型種」ならともかく、目の前の相手に応戦するにはあまりにも頼りなさすぎる。どのみち 短い刃では、巨体をつらぬいて「核」を狙うことはできない。

とにかく、剣を取り戻さないことには話にならない。だが、この状況で向こう側に飛びだそうものなら、ここぞとばかりに『虫』の餌食にされるに決まってる。 それに、まだ相手をしとめる方法だって思いついちゃいない。

やはり無理だったのか? じわりとにじむ絶望と恐怖。押しとどめる。振り払う。

考えろ考えろ考えろ。自分はこのバケモノを倒さなければならないのだから。

そのために、ここにいるのだから。

これから先も、奴らと戦い続けなければならないのだから。

『虫』が行動を起こした。広げていた顎を閉じる。人の指のようなそれが複雑に折れ曲がり重なり合って、ひとつの形を成していく。

イノが目をみはるうちに、怪物の前面が槍の穂先に似た姿になった。巨大でいびつな形をした槍。その先端が向けられているのは、他でもない自分だ。

イノの全身が総毛立った。

『虫』が加速する。異形の槍がとんでもない速さで迫ってくる。

厨房の奥へと逃れる以外に道はない、イノは背後にある広い調理台に手をかけ、その上をすべった。

『虫』がカウンターに激突する。一度は怪物の猛攻を凌いでくれた防壁も、巨大な槍の一突きの前には耐えきれず、あっというまにぶち破られ陥落した。

一つめの調理台を乗りこえたイノは、先にあるもう一つの調理台の上をすべった。そしてさらにもう一つ。 そのたびに、調理器具やら食材やらがどんどん落ちていく。だが気にかけてはいられない。

バリバリとけたたましい破壊の音を立てながら、『虫』はついに厨房内へと侵入してきた。その勢いは止まらない。進路上にあるものすべてをなぎ倒し、ひたす ら目標めがけて突き進んでくる。

冗談じゃない──あんなえげつない槍をまともにくらえば、身体に穴があくどころか真っ二つにされる。

イノはさらに奥に逃げる。その背後では、乗りこえてきた調理台が次々と『虫』の突撃の犠牲になっている。真っ二つに引き裂かれた台から、自分が落としたの とは問題にならない数の調理器具と食材が、盛大に宙へとバラまかれていく。

耳がおかしくなりそうな騒音の中、バケモノじみた槍の先端につらぬかれる寸前、イノは壁ぎわにあるテーブルの上に跳び乗った。

なおも相手の勢いは止まらない。テーブルの上から、イノは続けざまに跳躍した。その足下で『虫』がテーブルを押しつぶし壁に激突する。石壁の崩れるガラガ ラという音。衝撃で、厨房全体が地震でも起きたみたいに大きく揺れた。

大きな穴を壁に穿ち、身体の三分の一ほどをめりこませた『虫』の背に、イノはそのまま着地する。とたんに尻もちをついた。光沢を放つ甲殻は、こちらが想 像していた以上にすべりやすい。まるで油でも塗りたくっているみたいだ。

そのとき、イノの脳裏に閃くものがあった。腰の短剣を素早く取り出し、バケモノの背中に力いっぱい突きさした。小さな刃が、甲殻の隙間にある肉組織に深々 と潜りこむ。

刺されたことに多少は痛みでも感じたのか、『虫』が胴体を波打たせた。イノは慌てて手をついたものの、つかみどころのない甲殻の上では体勢を立て直すこ とができず、勢いよくすべり落ちて腕から床に叩きつけられた。

痛みに顔をしかめながらも、すぐに起き上がる。足下に調理用のナイフが数本転がっているのが目に入った。

イノは振り返った。すぐそばでは『虫』が壁からぬけだそうとしている。自分がすべり落ちてきたばかりのツルツルした甲殻が、その動きにあわせ光の波紋 をえがきだしている。

再び足下に転がるナイフを見る。とりわけ頑丈そうなものを素早く見定め、両方の手に一本ずつひっつかんだ。

『虫』は壁からぬけだす寸前だ。間に合うか。

イノは灰色の巨体目がけ飛びかかった。両手に拾ったナイフで、『虫』の脇腹を狙う。素早く正確に、それぞれを別々の位置にねじこむ。

瞬間、イノを横殴りのすさまじい衝撃が襲った。壁から出てきた『虫』が器用に身体をひねって、巨大な槍となっている顎で薙ぎ払ってきたのだ。

丸太でぶったたかれたような一撃に、イノはなすすべもなくふっとばされた。そのまま大鍋が置いてある台に激突する。頭上で大鍋がぐらぐらと危うく揺れた が、 倒れてくることなく持ちこたえた。

咳きこみながら起きあがる。とたんに脇を鋭い痛みが走った。しかし、骨が折れたような感覚はない。身につけた黒い鎧のおかげだ。それでも、めまいのしそう な苦しさにうめき声が出た。

派手な騒音。向けた視界に、『虫』の再度突進してくる姿が映った。容赦なしだ。

痛む身体に歯を食いしばって、イノはかろうじてその場を逃れる。巨大な槍が、大鍋のある台に激突する。ついに大鍋がひっくりかえって、湯気を立てた中身を ぶちまけた。死闘には場ちがいな芳香が厨房中にひろがった。

煮え立ったスープだか、シチューだかをまともに浴びたにもかかわらず、『虫』は平然とした態度で、イノの方へ向きを変える。

イノもぼさっとその様子を見ていたわけではない。体勢を立て直すのと同時に、食堂へと駆けだしていた。破壊されたカウンターをぬけて厨房から飛びだす。 目指す先には、床に転がっている自分の剣がある。取り戻すなら今しかない。

直後、背後ですさまじい破壊音がした。『虫』が追ってきている。

後ろから迫ってくる巨大な顎が、ギシギシという音をたてる。槍の形から、再び手のような形に戻しているのだろうか。しかし、振り返っている余裕はない。

押し寄せる殺気。圧迫感。このまま追いつかれバラバラにされて死ぬ‥‥‥焦りと恐怖が生みだす想像。剣のそばにたどり着くまでの時間が、永遠に思えた。

ようやく剣が目の前まできた。柄に指をひっかけ拾い上げると同時に、イノは無我夢中で横に跳んだ。着地する余裕もなく床を転がる。

間髪入れず、さっきまで自分のいた空間に『虫』が食らいつく。

攻撃をかわされ、その勢いのまま駆けぬけようとする灰色の巨体。そこから突きでているナイフの柄。

すかさずイノは跳ね起きる。身体を前に押し出し、取り戻した剣を鞘に収めながら、全速力で相手を追う。

『虫』がこちらを迎え撃とうとして旋回する。だが、その前に追いついたイノの両手が、怪物の胴体から生えた二本の柄をつかんだ。ツルツルして取っかかりの ない甲殻にへばりつくために、ぶっ刺してやったのだ。これを握っているかぎり、もう距離を開けられることはない。

獲物が脇に取りついたことを知った『虫』が、さっきのように身体をひねり、ふっとばそうとしてきた。うなりを上げて繰り出されてきた顎を、イノは相手の胴 体にぴたりと密着して避ける。見立て通り、この顎は真後ろにまでは届かないようだ。

ムキになってでもいるのか、『虫』は執拗に顎を振りまわしてくる。イノはひたすら相手の脇に密着してかわす。全神経を相手の動きに集中させて、完全な死角 である背中へと駆けのぼる機会をうかがう。しくじるわけにはいかない。

突如、身体がガクンと後ろにつんのめった。『虫』が走り出したのだ。その勢いでこちらを振り落とすつもりらしい。足で踏んばろうとしたがとうてい無駄だ。 バケモノと一緒に、すさまじい勢いで汚物だらけの床を引きずられはじめた。

イノは歯を食いしばった。ナイフを握る両腕にかかる負担。ちぎれてしまうぐらい痛い。それでも放さない。

怪物はまだ突っ走っている。そしてボキン、という情けない音。左手に握っていたナイフの柄がもげたのだ。

ちくしょう! と心の中で罵倒した。残るは右手に握る柄。だが、こんな勢いで引きずられていては、それも長くはもちそうにない。

目まぐるしく流れていく視界。ナイフにかけた右腕の痛み。 

不意に『虫』が急停止をかけた。あまりに突然のことだったので、イノの身体は大きく前に転げそうになった。とたん、目の前に『虫』が身体をひねって繰り出 してきた巨大な顎が迫った。必死の形相で胴体にへばりつき、それをかわす。

間一髪だった。そして『虫』の動きが止まっているこの瞬間を、イノは見逃さなかった。

じんと痺れている右手をナイフから放し、その柄に足をかけて一気に上へと駆けのぼった。めいっぱい伸ばした両腕の先には、一番最初に相手の背中に突きさし た 自分自身の短剣がある。

足下が滑った。なめらかな甲殻に、腹を思い切り打ちつける。だがイノの両手は、しっかりと短剣の柄をにぎりしめていた。

とうとうやった──腹の痛みにかまわず、イノは不敵な笑みを浮かべた。がむしゃらなだけの行き当たりばったりの作戦が、ついに成功したのだ。

イノを追っ払うどころか、完全な死角である背中をとられてしまった『虫』が、ついに逆上した。ところかまわず突っ走り、旋回し、顎を狂ったように動かし、 なんとかして背中に乗っかっている相手を振り落とそうとやっきになっている。

さらに目まぐるしく動く視界。両手で短剣をつかみ、相手の背中の上で腹ばいになりながら、イノはひたすらそのときを待った。

さっきのように刃が折れる心配はない。今手にしているのは、強度を何よりも優先させた対『虫』用の短剣なのだ。それに、怪物の上にいるぶん、身体にかかる 負 担もずっと少ない。

眼前に壁が迫ってきた。『虫』は身体ごと壁にぶつけ、その反動でこちらを落とす気だ。

すさまじい音と衝撃。視界が激しくゆれる。

短剣を強く握ったまま、イノの身体が大きく跳ねる。今度は全身を打ちつけた。だが、そんなことにはかまっていられない。待ちに待った機会が、ついにやって きた。

右手を腰にのばす。鞘から解き放たれる漆黒の刃。

壁に突っこみ、いったん停止した『虫』の背の上で、イノは片膝立ちになって身を起こす。真下に向けて構えた剣。狙いはすでに定まっている。甲殻の隙間── ためらうことなく突 き刺した。

刀身がやわらかい組織に沈んでいく。イノは立ち上がり、柄にかけた両手にのしかかるようにして、全体重を使いさらに刃を押しこんだ。あふれだす赤黒い体液 が、つややかな甲殻の上をドロドロと流れていく。

致命的な事態を察した怪物が、さらに暴れ狂う。猛烈な速さで流れていく食堂の光景。あらゆる方向に引っぱられる身体。巨体が幾度も壁に激突するたびに襲っ てくる衝撃。

だが、イノは動じない。両手と同化してしまったかのような剣の柄に、何度も何度も体重をかけ続ける。

深く、深く、深く、深く、もっと深く。剣は容赦なく相手の肉をメリメリと貫いていく。主の怒りと憎しみを、その黒い刃に乗せて。

イノの耳に叫び声が聞こえた。『虫』の悲鳴だろうか。

ちがう‥‥‥自分だ。獣のような雄叫びを上げて、怪物に剣をめり込ませている自分自身の声だ。

ついに刃が相手の心臓である「核」に達した。それまで傷口からじくじくと流れていた体液が、赤黒い奔流となって派手に噴きだす。

イノに向けて、まともに浴びせられるバケモノの血。何も見えない。何も聞こえない。呼吸さえもままならない。はっきりしているのは、口の中に入ってきた嫌 な味だけだ。

それでも剣は放さない。もはや刀身がすべて怪物の背に埋まっているにもかかわらず、なおも何かを貫こうとするかのようにイノは力を入れ続けた。

噴水のような出血が収まるにつれて、巨大な『虫』の抵抗も静かに止んでいく。

しなやかに動いていた十本の顎も、今は小さく痙攣しているだけになった。それは、無念そうに宙をつかんでいるように見えた。

おわった‥‥‥呆然とそれを理解し、イノは死骸となった『虫』から剣を引き抜いた。膝が折れる。プツン、と緊張の糸が切れる音が聞こえた気がした。

(今度こそ、スヴェン達と合流しなきゃな)

ぼんやりとそう思い、死骸の背から滑りおりたところでぐったりと座りこんでしまう。気持ちとは裏腹に身体が動いてくれない。

汚物まみれになっている自分を見下ろす。まったくひどいざまだ。

死闘に打ち勝った喜びはわいてこない。ただ疲れていた。

静寂につつまれた食堂。聞こえるのは自分の荒い呼吸の音だけ。

なんだかひどく眠くなってきた。まずい。新手の『虫』が現れるかもしれないのに。戦いはまだ終わったわけではないのに。

そう。奴らとの戦いは終わらない。これからもずっと、ずっと──



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