─三章 二人の少女(1)─
ブレイエの砦は戦のためにではなく、フィスルナに木材をはじめとする資材を輸送する目的で建造された──と旅の途中で、イノはドレクから説明してもらっ
た。周辺に点在する伐採場から運ばれてきた木材が、いったん砦に集められ、そして首都へと送られるという仕組みなのだそうだ。さすが年長者だけあって、彼
はこうした事柄には詳しい。
ドレクの説明通りに、フィスルナから西へ西へと向かうにつれて、立ち並ぶ木々が太くたくましくなり、数もしだいに増えていった。気づけば周囲は鬱蒼と
した森林である。
緑の少ないフィスルナ育ちのイノにとって、樹木や草花にあふれた光景というのは心奪われるものだ。植物だけでなく、様々な昆虫や、ときおり進路上を横切っ
たりする動物、頭上を羽ばたいていく鳥など、一日中ながめていても飽きることはない。ついそれらに気を取られすぎて、駆けているグリー・グルの背から落
ちそうになったことが、何度かあったぐらいだ。
初めて訪れる西の地方。まだ『虫』の脅威とは無縁の、大自然の魅力にあふれた景色を堪能しながら、イノは仲間と共に目的地の砦まで何事もなく旅をしてい
く‥‥‥はずだった。
それ≠ェ起こるまでは。
砦まであと一日という距離にきたとき、イノは何者かにそっとなでられたような気がした。仲間のイタズラかと思ったが、誰もそんなことができる距離
にはいない。ならば、どこからか飛んできた昆虫でもぶつかったのだろう、と最初はそう納得していた。
だが、それ≠ヘその後もたびたび起こった。
どこをどうなでられたと具体的に説明するのは難しい。とにかく、何かが「触れた」という確信だけがあった。そして、その正体はわからないくせに、気味が悪いと思えないのが不思議った。
そして、その奇妙な感覚は、目的地に近づくにつれてしだいに変化していった。いや、鮮明になってきたといった方が正しいのかもしれない。
見られている。呼ばれている──そんな印象をあたえる感覚に。
スヴェン達はどうかと思い、イノは彼らの様子を観察してみたが、みな普段通りにふるまっていた。むしろ、今回の任務が『虫』との戦闘でないぶん、いつもよりくつ
ろい
でいるようだった。
つまり、こんなおかしな目にあっているのは自分一人だけということだ。
疲れ。イノがまず考えたのはそれだった。激戦に次ぐ激戦。「黒の部隊」として過ごす日々が、自身でも想像できないほど身体の負担となっているのだとした
ら‥‥‥。
でも体調に問題はない。それどころか快調ですらある。おかしいのはこの奇妙な感覚だけ。
仲間達に相談はしなかった。だいいち、自分自身でちゃんと説明できない。どうせ、またからかいのネタにされるに決まっている。それに、変に心配されるのも
嫌だった。「頭がおかしくなった」などと思われでもしたらたまらない。
発狂──『虫』との凄惨な戦いの中で、心を狂わせてしまった兵士達の話を、イノはたくさん聞いてきた。体調に問題がないのなら、負担が
かかっているのは精神の方なのではないかという疑いが、ふつふつとわいてきた。
もちろん、イノには心が狂った経験はない。だがそれだけに、この奇妙な感じがその兆候でないと言いきることができず、考えれば考えるほど不安になった。ドレクが以前に「イカれちまったってことが一番わからないのは、イカれちまった本人だ」と言っていたのを思い出した。
もし本当に精神に異常をきたしているとなれば、フィスルナにある特別療養所に入れられてしまう。療養とは名ばかりの、世間から隔離された監獄のような施設
に。
そんなのはごめんだ。『虫』との戦いで死ぬのなら、覚悟はできている。だが、発狂してしまうという終わり方は願い下げだ。
そのため、周りに対して、イノはなんでもないふうを装った。その感覚以外は、なに一つ普段と変わらないのだから、それほど苦労することはなかった。
森林を切り開いて造られた一本道を駈けぬける一行の前に、やがて目的地であるブレイエの砦が姿を現しはじめた。
見られている。呼ばれている──イノだけが感じている謎の印象も強くなってきている。
そして、それは砦に到着したとたん「声」へと変わった。
〈キテ‥‥‥〉と。
* * *
ブレイエの砦を遠くに見下ろす崖の上から、小さな望遠鏡をのぞきこんでいたイジャは、自分の目を疑った。
グリー・グルに乗ってやってきた兵士の一隊が、砦の門を通りぬけて入ってくる様子がレンズに拡大されて見える。
目の錯覚だと思いたかった。快晴の空とは真反対の、影のような黒い姿の兵士達。だが、望遠鏡の中の小さな世界は、まぎれもない現実の光景を映しているのだ。
「どうかしたの?」
後ろから若い娘の声がした。
「やばいぜ。ありゃあ、どう見たって『黒の部隊』の連中だぞ。なんでまた、あんな奴らが‥‥‥」
そのとたん、革の手袋をはめた手がぬっと現れて、イジャから望遠鏡をもぎとった。
「おい!」とイジャは抗議の声を上げた。乱暴に望遠鏡を奪ったのは、さっき声をかけてきた若い娘だ。こちらを完全に無視して、筒の中をのぞきこんでいる。
さらに文句を続けようとして、イジャは自分の胸の高さにある娘の顔をのぞきこんだ。彼女のかぶっている銀色の兜が、顔の上半分を仮面のように隠している。その下にある唇がき
つく噛みしめられているのが見えた。
口先まで出かかった言葉を飲みこんで、イジャはきれいに剃ってある自分の頭をなでた。こういうときは黙っているに限る。それがわかるぐらいには、目の前にいる
相手の性格を知っていた。
娘は望遠鏡をのぞいたままピクリとも動かない。しかし、望遠鏡を砕いてしまいそうなぐらい力のこもった手が、彼女の内面の怒りを顕著にあらわしていた。ま
るで、いまにもこの高い崖から飛びおりて、あの黒い兵士達に斬りかかっていきそうな雰囲気だ。
不意に彼女がレンズから目をはなし、眼下の砦に背をむけた。それがあまりにも急な動作だったので、イジャの身体は思わずびくりと動いてしまった。
兜からのぞく青い瞳に強烈な光を宿し、全身から怒気を放ちながら、娘が足早に歩きだした。途中、手にした望遠鏡を用ずみとばかりに、イジャめがけて肩ごしに放り
投げてくる。
慌てて受け止めたイジャの口から、小さなため息が出る。
(そうとうご機嫌ななめだな‥‥‥うちの姫さんは)
彼女が歩いて行く先には、木々が立ち並んでいる。そのうちの一本の根元に、腕組みをして座りこんでいる大柄な男がいた。
瞑想しているかのごとく静かに眼を閉じている男のそばに、娘が立ちはだかった。自分よりずっと年配の相手を、貫くような視線で見下ろす。
「とうとう『黒の部隊』なんてものまで出てきたわ」
鋭い声。それでも男は眼を開けない。
「面倒なことになったわよ、サレナク。どうするの?」
サレナクと呼ばれた男はようやく眼を開き、視線だけを彼女に向けた。
「どうもしない。俺達はやることをやるだけだ」
「その『やることをやる』のに、いつまでグズグズするつもり?」
彼の落ち着いた返事に、娘の声が鋭さをました。
「事態はどんどん悪化してるのよ。のんびり構えてる暇なんてないわ!」
「そのために今、他の者達を砦近くまで潜行させている。彼らがアレの保管場所を突き止めるまで待て、と言ったはずだ」
「それがグズグズしてるって言ってるのよ! だいたい、なんだって保管場所を突き止める必要があるの? あの砦にあることははっきりしてるんだから、とっ
とと攻めこんでから捜せばいいじゃない」
サレナクは答えない。
「あの黒い連中の目的は、間違いなくわたし達と同じよ。このままアレを持って行かれたりしたら、どう責任取るつもり?」
たたきつけるような彼女の言葉にもまったく動ずることなく、サレナクは再び眼を閉じた。相手の怒声が、まるで心地よい音楽でもあるかのように落ち着いてい
る。
彼のその態度がますます娘を怒らせているのが、イジャにはよくわかった。見ている方がハラハラしてしまう。
「なんなら、今からわたしが一人で、あのちっぽけな砦に攻めこんであげてもいいのよ? あなた達はそれから、好きなだけのんびりと『やることをやれば』い
いんだわ」
サレナクの眼が開く。今度は顔を上げて相手を見る。その視線の力強さは、左頬にある大きな傷跡のせいで、よけいにすさまじさを増して見える。いさかいと
まったく関係のないイジャが震え上がるほどだ。
だが、対する娘は動じない。二人は真っ向からにらみあった。
やがてサレナクが、ゆっくりと口を開く。
「アシェルはそんなことを望んではいないぞ。レア」
視線と同様、すごみのある低い声。しかし、どこか聞きわけのない子供に言い聞かせるような響きがあった。
相手の言葉に娘──レアが一瞬ひるんだように見えた。
そして何事もなかったかのように、サレナクはまた眼を閉じる。
「甘いわよ。アシェル様も、あなたも」
黙って彼を見下ろしていたレアが、やがて吐きすてるように言った。
「あのさ‥‥‥」
頃合いをみはからって、イジャはおずおずと声をかけた。
「いくらなんでも、『黒の部隊』と一戦やらかすってのは、まずいんじゃないか?」
「どうしてよ?」
たちまち、レアの刺すような声と視線がとんできた。
「いや、だってバケモンばかり相手にしてる連中だぜ? おまけに奴らの大将の『セラーダの英雄』は、にらむだけで『虫』を殺したなんて話もあるぐらいだ
し‥‥‥」
「バカじゃないの? そんな人間いるわけないじゃない」
「でもよ‥‥‥」
「あなたがあの連中や英雄とやらについて、何を聞いているのかは知らないけれど、しょせんは同じ人間よ。斬れば血も流すし、死にもするわ」
レアがぴしゃりとはねつける。臆病じみた様子はカケラもない。彼女の強気な態度が、根拠のない自信や無知からくるものではないことを、イジャは十分に知っ
ている。
「まさか引き返そう‥‥‥だなんて言うんじゃないでしょうね?」
「だ、誰もそんなこと言ってないだろうがよ!」
「へえ。それは失礼したわね」
うろたえるイジャを見て、レアが小さく鼻を鳴らす。相手が年上であるにもかかわらず、完全にバカにした態度だ。
「俺達は戦をしに来たわけではない。アレを取り返すだけだ」
このやりとりを黙って聞いていたサレナクが、静かに言った。
レアはなにも言い返さなかった。が、内心の不満はありありと顔に出ていた。
イジャは、ひたすら彼の言葉通りになることを願った。
* * *
「いやぁ、ようこそいらっしゃいました『黒の部隊』の方々!」
やたら派手な声でイノ達を出迎えたのは、ブレイエの砦の責任者で、ビネンという人物だった。縦にも横にも大きな体格をした男だ。
砦の責任者といっても、ビネンは『継承者』ではない。こうした『虫』の侵攻とは無縁の砦を任されるのは、市民出の人間がほとんどである。もっとも、それは
それでたいそうな出世だ。フィスルナでは、富裕層の第一区か二区の身分なのだろう。
最前線にある他の砦と比べると、ブレイエの砦の外観はずいぶんとみすぼらしい。森林を切り開いた更地に、石造りの本部建物と、資材を保管しておくための大きな
倉庫が六つあるだけ。その周囲は、先を尖らせた木の杭を組みあわせた柵でおおわれている。当然、拠点防衛のための設備なんてない。命のやり取りも、手柄を
立てる機会もないためか、兵士達も武装こそしているものの、えらくのんびりとした顔つきである。
このような穏やかな辺境の砦に、英雄シリオスの「黒の部隊」が訪れることは異例中の異例の出来事だろう。スヴェンと会話を交わすビネンの様子は興奮気味
だ。周りにいる兵士達も、あからさまな好奇の視線を投げかけてくる。
しかし。
イノはそれらすべてを、他人事のように感じていた。眼に映っているものにも。耳に入ってくるものにも、何一つ意識を向けることができなかった。
〈キテ‥‥‥〉
砦の門をくぐった瞬間に声が聞こえたとき、イノは思わず辺りに目を向けた。あきらかにスヴェン達が発したものではない。そもそも、その声が耳から入ってき
たのかどうかもわからなかった。まるで頭に開いた穴から、直接ささやかれているような感じだった。
〈キテ‥‥‥〉
性別も年齢もはっきりしない声。それは時を告げる鐘のように、一定の間隔をおいてイノに送られてくる。そして、繰り返されるたびに強くなり、揺さぶってくる。
自分の中にある何かを。
(なんだ? なんなんだ?)
声を聞くたびにイノは周囲に目を走らす。スヴェン達も、ビネンも、周りの兵士達にも変わった様子はない。ここまでの道中と同じく、こんなわけのわからない
ことに襲われているのは、やっぱり自分だけなのだ。
そして不意に突き上げてくる衝動。
行かなければ。会わなければ。この声の主に──
イノは石造りの建物に目を向けた。この呼び声の主は、あの建物の中にいる。自分が男だという当たり前の事実と同じぐらいに、そのことに確信が持てた。
(でも、なんだってそんなことがわかるんだ?)
〈キテ‥‥‥〉
聞こえる。いや、感じるといった方がいいのか。それとも、本当に自分の頭はおかしくなってしまったのか。
「では、さっそくご案内しましょうか」
ビネンの声に視線をもどす。建物から注意をそむけるのに、大変な努力が必要だった。
先頭に立って歩き出したふとっちょの責任者の後に、スヴェン達が続いていく。イノもぎくしゃくとそれにならう。彼らが交わしていた会話はろくに耳に入って
いない。これから案内される場所が、どこかすらもわからなかった。
「どこへ行くんだって?」前を歩くガティにささやいた。
「ああ? お前、何を聞いてたんだよ?」
「ちょっと‥‥‥ぼーっとしててさ」
「気ぃ抜きすぎだっての。これから、例のキンピカの『虫』って奴を見に行くとこだろうが。あのオッサンの部屋に置いてあるんだとよ」
あきれた口調で答えてから、ガティはニヤニヤと笑った。
「しかし酒樽みてえなオッサンだよな。見ろよ、あの腹。お前一人ぐらいなら余裕で入りそうじゃねえか?」
普段なら笑いをこらえていたであろう彼の冗談にも、今のイノはあいまいに笑い返すしかできなかった。
金色の小さな『虫』。今回の任務の目的。この得体の知れない呼び声と衝動に、何か関係あるのだろうか。
一行は砦の中に入った。内部の説明を交えたビネンの案内で通路を進んでいく。そんな彼らの歩みが、イノにはたまらなく鈍く感じられる。
〈キテ‥‥‥〉
謎の声。呼ばれる。引っぱられる。前を歩いている仲間達を押しのけて、今すぐにでも駆けだしたくなる。
イノは拳を握ってその欲求に耐えた。汗がじわりと流れてくる。飢え死にしそうな人間が、目の前にある食べ物を無視する‥‥‥そんな心境だった。
「ここが私の執務室です。みなさんは『虫』なんてウンザリするぐらい見てきたでしょうが、アレには驚かれると思いますよ。まあ実のところ、私には『虫』だ
かそうじゃないのだかも、よくわからないんですけどね」
目的の部屋までたどりつき、扉の前でそう前置きすると、ビネンは一行を室内に招き入れた。
彼の言葉通りだった。
執務室に入った瞬間、「黒の部隊」全員が息をのんだ。その視線は、机の上に置かれている、木のツルで編んだ小さな檻の中に注がれてい
る。
「それ」は大人の手のひらと同じぐらいの大きさをしていた。丸みをおびた胴、外に伸びている三対の小さな脚、それらすべてが輝くような黄金色の甲殻につ
つまれていた。注意して見れば、その甲殻には複雑な模様のようなものが刻まれているのがわかる。頭部にある二つの瞳は、宝石のようにきらめく緑色だった。
生物というよりは、芸術的な置物のように見える「それ」を前に、しばらく誰も口を開こうとしなかった。
「こりゃあ、たまげたな」
やがてドレクが感想をつぶやいた。
「これって‥‥‥『虫』なのかよ?」
ガティが誰にともなくたずねた。
「何とも言えないな。こんな奴は見たことがない」
こたえたのはスヴェンだ。
「それ」は全体的な印象として、小型種と分類される『虫』にそっくりだった。しかし、色や大きさはもちろん、戦闘に使うような器官もなさげだ。そして何よ
り、どのバケモノも例外なく放っている殺気がまるで感じられない。緑色の瞳は、燃えるような憎悪ではなく、静かな知性とでもいった光に輝いている。
「しかし。ただの昆虫ではないな」
カレノアがいった。何事にも動じない「鋼の男」でさえ、目の前の美しい存在には目を奪われているようだ。
「それ」はじっと動かない‥‥‥というよりは、落ち着き払っているように見える。
沈黙が流れた。部屋の中にいる者達は、小さな輝きを見つめその正体について首をひねっている。
ただ一人をのぞいて。
こいつだ──
イノは金色に輝く「それ」を目にしたとたん。
こいつが──
呼び声の主なのだとわかった。
〈待っていた〉
謎の声が、はっきりとした少女の声になった。
幼い声音をとどけてきた金色の輝き。緑色をした小さな瞳は、イノだけを見ていた。
そばまで来るように、と。
身体がふらふらと前に進む。仲間の誰かが声をかけてきたのが聞こえた。でも、それはずっとずっと遠くの出来事だ。
イノは檻の前に立ち、相手を見下ろす。
『金色の虫』と自分。互いの視線が、互いの存在そのものが、絡みあう糸のようにゆっくりと交わっていくのを感じた。
その暖かさ。そのやわらかさ。
何もかもをゆだねてしまいそうな安らぎに、イノは目を閉じた。