─三章 二人の少女(5)─
遠く背後で枝の折れる音が聞こえ、レアはぎょっとなった。
素早く手近な木の幹に隠れる。
空耳だろうか?
追っ手であるわけがない。自分が森に逃げこんだとき、その姿を目撃した者がいなかったことは誓ってもいい。
レアはただ真っすぐ走っていたのではない。何度も進路を変え、痕跡を残さないように森の中を移動してきた。もし、あの柵の穴に気づいて追いかけてきた者がいたとし
ても、こうも素早く正確に追ってこれるはずがない。
再び枝の折れる音。空耳ではなかった。ただの動物ではない何者かが迫っている。
レアは心の中で毒づいた。知らないうちに、なにかミスを犯してしまったのだろうか。
正直、混乱した砦に侵入して目的を果たすのは簡単だった。ただ、あの「黒の部隊」の兵士が倉庫に現れたときだけは、自制心を失いそうになった。だが、それも
やりすごし、後はサレナク達との合流地点へ向かうだけだった。
それなのに追われている。どう思い返しても、後をつけられるようなヘマはしていないのに。
枝の折れる音は、しだいに近づいてくる。じっと気配を殺しているはずのこちらの位置がわかるかのように。
やがて、レアが注視している遠くの闇の中から、得体の知れない追跡者が姿を現した。
あいつ!──兜の中の顔がこわばった。
あの男だ。倉庫で出くわした「黒の部隊」の小男だ。
ふたたび理性を突き破ろうとする憎悪。必死でおさえる。
闇の中に溶けこんでしまいそうな黒い姿をした男を、レアはじっと息を殺してにらみつけた。相手の動きは、どう見ても森に不慣れな者の動きだ。なんであんな
のが、ここまで追ってこれたのかがわからない。飛び道具の類も持っていないし、ここで待ちかまえて不意を突けば、あっさりと殺すことができそうに思える。
だが、相手は腐っても「黒の部隊」の人間だ。倉庫で投げつけた短剣も、あっさりかわされたのを思い出す。もし不意打ちが失敗すれば、一戦交えるのは避けら
れない。
レア自身は、むしろそれを望んでいる。だが、任務に支障が出る行動は慎まねばならない。
あんな奴すぐに撒いてしまえる。ここまで追いかけてこれたのだって、どうせ偶然に決まっている。
いますぐ相手に斬りかかっていきたい激情をこらえて、レアは静かにその場を離れた。
* * *
はるか前方を移動していく相手の位置を、まるで方位盤でも見ているかのように正確に把握し、イノは木々の中を進んでいく。
勢いこんで追ってきたものの、夜の森は戸惑うことばかりだった。頭上からわずかに差しこんでいる月明かりのおかげで、視界こそ確保できてはいるが、急げば
木の根につまづきそうになるし、枝を踏んで大きな音は立ててしまうしで、 思うように動くこともままならなかった。
あまりのもどかしさに舌打ちしそうになる。この不思議な感覚がなければ、とっくに相手を見失って道に迷っていただろう。もっとも、それがなかったら、一人
で追いかけるなんてバカはしていないが。
今のところ、白服の男は足を止めようとはしていない。さっき止まったときは、気づかれたかと思ったが、相手はそのまま逃走を再開しはじめたようだ。
もちろんこれらは、自分が感じている『金色の虫』の動きから推測しているだけだ。あの白服の男は、気配はもちろん音すら立ててはいない。目に見える痕跡も
残しておらず、自分よりも相手の方が、森での動きに長けていることは確実だった。
だが、このうっとうしい森とて永遠に続くわけではないだろう。いずれ開けた場所に出る可能性がある。そいう場所ならば、こちらにとって不利な条件は少なく
なる。そこで一気に捕まえられるよう、つかず離れずの距離で追いかけるつもりだった。
しかし、それよりも先に男がネフィアの仲間達と合流したらやっかいなことになる。
できれば、そうなる前に決着をつけたかった。
* * *
もうすこしでサレナク達との合流地点までくるといったところで、レアの背後からけたたましい動物の鳴き声がした。
甲高い悲鳴を上げた主は知っている。クル・マレという小動物だ。他の動物に襲われでもしたのだろうか。
ちがう。外敵から身を守るため、小さな身体に猛毒を持ったクル・マレを捕食するような動物はいない。
あいつだ──レアは直感した。
さっきまでこちらを追ってきていた「黒の部隊」の男。あいつがこの近くまで来ているのだ。信じられない。今度こそ撒いたものと思っていたのに。
おおかた寝ているクル・マレを踏んづけたのだろう。追跡者としてありえないマヌケだ。だが、そのマヌケはなぜかこちらを確実に追ってきている。もはやそれ
が偶然でないことを、認めなければならなかった。
ひょっとしたら‥‥‥とレアは布でくるんだ小さな荷物に目をやった。ちがう。これに仕掛けがあるわけではない。もしそうならば、奪い去るときにとっくに気がつい
ている。
わけがわからない。それともイジャが言っていたように、本当に「黒の部隊」の人間には、なにか人の理解を超えた力でもあるのだろうか。だけど、あんなのは
全部、「英雄」や「英雄の部隊」を持ち上げるためのデマでしかない。真に受ける方がおかしいのだ。
しかし、いま現実に自分は追われている。こちらは一つもミスは犯していないというのに、確実に後をつけられている。
いままで築いてきた自信がゆらぐ。その屈辱に目がくらみそうになる。
結局、自分はなに一つ変わっていなかったのだろうか。なにもできなかった@cいあの頃のまま。
「ちがう‥‥‥」レアの口から低いつぶやきがもれた。
こみあげる怒り。凶暴なまでの感情が、胸の内で荒れ狂う憎しみとあわさり、黒い兵士の姿とかさなる。もう抑えることはできない。
レアはこぶしを握りしめた。砕けそうになるぐらい強く。
どのみち、このまま合流地点まであの男を導くつもりはない。仲間とともに相手を待ち受けたほうが簡単なのだろうが、そんなのはプライドが許さない。なによ
り自分が追われていたことを、サレナクにだけは絶対に知られたくない。
森はいったんここで途切れる。その先はひらけた草原だ。そこならお互いに、有利も不利もなくなる。
待ち伏せての不意打ちなんて小細工はしない。真っ向から戦って片づけてみせる。
無力な女の子はもういないのだと、今の自分に証明するためにも。
決着をつけてやる。