─三章 二人の少女(6)─
『金色の虫』の動きが止まった。
しくじった──イノは内心で毒づいた。
いまさっき踏んづけてしまった動物の悲鳴。まちがいなく相手にも届いたろう。
夜の森に少しだけ慣れ、追いかけるスピードを上げた矢先の出来事だった。足下でグニャリとした感触がしたとたん、鼓膜が破れそうなとんでもない鳴き声が辺
りに響きわたった。ぎょっとしたイノの足の裏から、短い毛をした小動物がすごい速さで逃げていった。初めて見る生き物だった。
後悔したがもうおそい。あの白服の男はこちらの存在を知っただろう。そうじゃなくても、警戒させてしまったのだけはまちがいない。
どうする?──奇妙な感覚だけでは、相手の出方まではわからない。
とりあえず、ここで突っ立っていても仕方なかった。イノは慎重に足を進めることにした。
しばらくすると、前方の木立の間に月明かりが見えてきた。どうやらこの先は森が開けているようだ。こちらが待ち望んでいた場所である。
ここまでイノを導いてきた「繋がり」は、『金色の虫』がその場所で止まっていることを告げていた。もちろん、そこには白服の男もいるはずだった。
しかし、どうしたのだろう。
いつまでも動かない相手を不審に思って、イノは眉をひそめた。木々に身を隠しながら、少しずつ歩みをすすめる。
やがて、月明かりに照らされた大地の光景が目に入ってきた。
そこは草原だった。森と森との間にできた広大な土地が、足首まである草一面におおわれている。その草地のど真ん中に、月の光を受けてたたずんでいる白い人
影が見えた。あの男だ。
イノはすぐさま草原に足を踏み入れず、木陰から様子をうかがった。あまりにも堂々とした男の態度が、かえって警戒心をつのらせる。
罠だろうか。しかし、広い草原には、他の人間が身を隠すような場所はない。それに相手の様子は、どう見ても誰かを待ち受けているようにしか見えない。
白服の男のたたずまい。遠目にもわかる殺伐とした雰囲気。ネフィアの仲間を待っているのではないだろう。となれば、その相手は、ここまで彼を追いかけてき
た自分以外には考えられなかった。向こうだって、すでにこっちの存在には気づいているのだ。この場で返り討ちにでもする気なのだろうか。
男の意図はわからないが、これ以上考えていても事態は動かない。いまだ彼が脇にかかえている包み。あれを奪い返すためにわざわざ追ってきたのだ。相手が罠
もなく待ち受けているというのなら、今が取り戻す絶好の機会だった。
任務のためにも。自分のためにも。
イノは決心し、月明かりの草原へ歩みでた。
ゆっくりと足下の草を踏みしめ、白服の男にむかっていく。
相手はその場を動こうとしない。だが、視線はこちらを見ている。
イノは立ち止まる。
月の優しい光の中、黒と白の人影は静かに対峙した。
イノはあらためて相手を眺めた。銀色の兜。その中の青い瞳。肩から腹の上までを、白地に金色の縁取りをしたケープのようなものがぐるりとおおっている。そ
の左脇
にある切れ目の上部には、綺麗に磨かれた紅い石が飾られていた。股下まで届いている上着は腰でベルトにくくられて、短いスカートみたいな形に見える。そこ
から柔らかそうな白いズボンをはいた両足が伸びて、膝下までの革のブーツの中にたくしこまれていた。
男は兜以外の防具を身につけている様子はない。目で確認できる武器は、ベルトに帯びた剣だけ。武装というよりは、衣装といった方がふさ
わしい印象だ。戦士にしては、ずいぶんと風変わりな姿である。
イノは男の右腕に目をむけた。革の手袋が布でくるまれた荷物をかかえている。その中にいる『金色の虫』──はっきりと感じた。
相手は、じっとこちらを見すえたままだ。
「そいつを渡してもらおうか」
イノは口をひらいた
奇妙な格好をしたネフィアの男が目的ではない。本来なら捕まえなければいけないのだろうが、素直に『金色の虫』を返すなら、逃がしてもいいと思っていた。
しかし、相手は沈黙したままだ。
「聞こえなかったのか?」さっきより強い口調でいった。
「そいつを渡せと言ってるんだ」
「ここまで来て、おとなしく渡すと思ってるの?」
ようやく口を開いた相手の声に、イノは自分の耳を疑った。
女じゃないか!──低い押し殺した声音だがまちがいない。それに若そうだ。ひょっとしたら、自分と同じぐらいの年齢かもしれない。
相手が女だと知って、イノは複雑な気分になった。女ならいざというとき取り押さえるのはたやすい。でも、いくら反組織の人間だからといって、自分と年齢の
近い娘に暴力をふるうのは抵抗があった。
「おとなしく渡せばなにもしない」
内心の戸惑いを出さぬよういった。
「へえ。優しいのね」
女はまったく動じない。それどころかこっちを嘲笑うような態度だ。
(くそっ! 状況がわかってるのかよこいつ)
この女がまったく世間知らずの田舎娘だとしても、反組織にいる以上「黒の部隊」の名前ぐらい知っているはずだろう。どんなに頭が鈍かろうが、こちらの格好
と
それとを結びつけることぐらいはできるはずだ。
それとも、やはりこれは罠なのか。
「心配しなくてもいいわ。ここには、わたしとあんたしかいないから」
こちらの懸念を読んだかのように女がいった。その声には、無理やり感情を抑えつけている響きがある。恐怖や怯え‥‥‥とはちがう何かが。
この女は、こちらが「黒の部隊」の人間だということを知っている。そのうえで挑発しているのだ。イノはそう判断した。
あまくみられているのだろうか。黒い兵装をしている自分が、若くて怖そうな人間には見えないから。
だとしたら、そいつはとんだ思いちがいだ。
「これが最後だ。そいつを渡せ。でないと──」
「でないと?」
「力ずくで奪わせてもらう」
イノは右手を剣にかけた。もちろん抜くつもりはない。しかし、相手も剣を持っている。ひょっとしたら斬りかかってくるかもしれない。そのときは、女といえ
ど痛いめにあわせるしかない。こっちだって遊びでやってるわけじゃないのだ。
女は沈黙した。だだ青い瞳だけをイノに向けている。
お互いに無言のままだ。風が足下の草をなでていく音だけが聞こえる。
やがて女がゆっくりとしゃがみこんだ。脇にかかえた荷物を地面に置く。
イノは心の内で、ほっと一息ついた。
瞬間、女が動いた。
剣に手をかけ、こちら目がけて一直線に駆けだす。
白い影がまるで地を滑るように迫る。
戦士としての本能が危険を叫んだ。驚くよりも先に、相手に警告を発するよりも先に、イノは一気に剣を抜いた。
すでに間合いをつめた女が剣を抜く。鞘から解き放たれた漆黒の刀身が月の光にさらされる。
うなりを上げて襲いかかる女の黒い刃。それを阻むイノの黒い刃。
激突する金属同士が奏でる甲高い音。火花とともに生まれた淡白い粉のような光。
流れるような動きで、女は剣を振るう。
イノは必死でそれらを受ける。たて続けに目の前で弾け、消えていく輝きの飛沫。その儚い明滅が、相手の青い瞳を凶暴なまでに揺らめかせる。
女は本気だ。本気でこちらを殺すつもりだ。
身体をひねって繰り出された相手の渾身の一撃を、イノは剣をかざしてなんとか防ぎきる。腕に衝撃が走った。
女がいったんその場を退いて、距離をとった。
イノはその場に踏みとどまった。動悸が激しく胸を打っている。
左手に剣を下げたまま女はたたずんでいる。一切の隙も見られず、息も乱れていない。
イノの背筋に寒いものが走る。刹那の攻防だったが、相手の力を判断するには十分すぎた。
たかが女‥‥‥しかし、その女は尋常じゃない剣士だった。とんだ思いちがいをしていたのは自分のほうだと、イノは苦い思いで認めた。
まずい。本気で戦ったとしても勝てるかどうかわからない。ましてや、殺さずに取り押さえるとなると──
イノは女の剣を見る。形状こそちがうものの、自分の剣と同じ、夜闇のような黒い色をした刀身。
色だけではない。刃同士の激突で生まれた淡白い光の粒子。それは疑いの余地なく、相手の剣もこちらと同じ材質──ジステリウスであることを証明していた。
しかし、普通の人間が手にすることはない希少な「闇の金属」で鍛造された剣を、なぜ反組織の女ごときが持っていたりするのか。
(どういう連中なんだ? ネフィアってのは)
いまだ謎につつまれた組織。だが、少なくともガティがせせら笑っていたような「負け犬の寄せ集め」などではない。それがはっきりわかった。
「本気でやった方がいいわよ」
そのネフィアの女が口を開く。
「そっちがどういうつもりでいるかは知らないけど、わたしはあんたを殺すから」
青い瞳は、荒々しい光をたたえてこちらを見すえている。さっきまで内に抑えていた感情を、全身から解き放っている様子だった。
イノはようやく、相手が抱いている感情の正体がわかった。
怒りだ。すさまじいまでの怒りと憎しみだ。
どうする?──イノは自分自身に問いかけた。
手をぬいて戦えるような相手ではない。かといって殺したくはない。
その答えを出す間もなく、女が動いた。
ゆらり、と白い影が傾いだかと思えば、それはもう眼前に迫っている。まるで手品のような踏みこみだ。
そして、横薙ぎに空を裂いてくる黒い刃。
イノは剣を垂直にかまえて受ける。耳を打つ金属音。
ぱっ、とはぜる光の粒の中、女の刃が軌道を変える。
イノの瞳がそれを素早く追う。柄を握る腕が追従する。
下からすくい上げる一撃。思いきり払いのけた。
すかさず女めがけて、イノは肩から突進した。純粋な力くらべなら、男の自分に分があるはずだ。ふっとばして取り押さえるつもりだった。
しかし読まれていた。白い姿が地面を蹴る。迫った黒い肩当てに片手をつき、彼女はあっさりとイノの頭上を越え、後方にすりぬけていく。
慌てて振り返ったイノの目に、空中で軽やかに身体をひねって着地する白い姿が映る。あらためて相手の身のこなしに舌をまいた。
女は地面に片手をついたままの姿勢から、猛然と襲いかかってきた。振り下ろされる刃。むかえ撃つ刃。その衝撃がイノの腕に伝わったときには、すでに相手の
剣は新たな軌跡をえがいている。
脚を狙ったそれを、後ろに跳びすさってかわす。
女がさらに追ってくる。白い影が視界に広がる。
息をつく暇もなく攻め立ててくる相手。しかもその攻撃のすべてが、防具におおわれていない部分を正確に狙っている。
女の情け容赦ない猛攻を、イノは必死で防ぎ続ける。一瞬たりとも気をぬくことはできない。そのうえ、相手を殺す意志がないだけに、『虫』と戦っているとき以上
の緊張が胃をキリキリと締め上げる。
たたきつけるような横からの斬撃を防いだとき、不意に女が身体を引いた。いったん間合いを離すつもりだろうか。
その隙をついて反撃に出ようとしたイノの瞳が、剣を持つ女の左手をとらえた。いつのまにか握り方を変えている。
刃の根本を、人差し指と中指ではさみこんだ構え。
瞬時にその意味に気づいたとたん、すさまじい剣速の突きがイノのあごの下に迫った。喉をつらぬかれる一歩手前で刃をかざしたものの、狙いを完全にそらしき
ることができない。
こすれあう金属同士の悲鳴。ほとばしる白い光。同時に、イノの首筋を鋭い痛みが走る。
頭の中がカッと燃え上がった。
首の痛みにかまわず、イノはすぐさま相手の剣を弾き、そのまま相手めがけて一気に振り下ろした。
無意識に放ってしまった一撃──命中すれば、女を肩口から斬り裂くことになる。
しかし、女は横に跳びのいてそれをかわした。さらに後ろに跳躍して、今度こそ距離をとった。
イノは追わない。
首筋に滲んだ生温かいものを手でぬぐう。たいした負傷ではない。しかし、もう少し傷口が深ければ、大量の血を噴きだして死んでいたところだ。
首の出血以上に、身体中が嫌な汗でべっとりと濡れている。
カッとなって思わず放ってしまったさっきの一撃。かわされたからよかったようなものの、そうでなかったら確実に相手を殺していた。その事実に今となって
ぞっとする。
女と自分。実力は互角かもしれない。だが、殺意の有無の差はあまりにも大きい。こちらは思うように攻めることができず、防戦一方だ。
だが、いつまでもこんな調子ではなにも解決しない。いずれ負けてしまうのは目に見えている。
負け──死ぬ。
大半の人間がそうであるように、イノもまだ死にたくなかった。
そう。ここで死ぬわけにはいかない。まだやることがある。父と自分の望みを果たすということが。『虫』をこの世界から根絶させるということが。
息を整えているのか。隙をうかがっているのか。相手が攻めてくる気配はない。
とにかくこの女は普通じゃない。剣の腕だけでなく、こちらへの敵意と憎悪には尋常ではないものを感じる。それは、「反組織とセラーダ」という敵対する立場の人
間にむけてのものではなく、まるでイノ個人へ直接むけられているような印象さえ受ける。
もちろん、イノには、この女からそんなものを抱かれる覚えがない。わけがわからなかった。
だが人間だった。女だった。年齢だって近い。目の前の相手は、自分が倒すと誓ったバケモノではない。父の形見でもある剣を、人の血で汚すわけにはいかな
い。
殺さない──たとえ下手な『虫』よりタチの悪い女であってもだ。このさい思いきりぶん殴ってでも、取り押さえてみせる。
女が姿勢をかがめる。
イノは身構えた。
突撃してくる白い影。まるで発射された大砲の玉だ。
狙いすました一閃。月光にかすむ黒い斬撃。
見極めたイノの剣が阻む。互いの刃が競うように吠える。突進の勢いに乗っていたぶん受ける衝撃は大きい。並みの剣ならへし折れていたかもしれない。
女はそのまま側面に回りこむように移動して、次の攻撃にうつる。
相手の剣と身体の動きにあわせるようにして、イノはそれら一撃、一撃をさばく。
女の瞳はこちらにピタリと張りついている。激情に輝く深い青色。その視線の強さだけでも、十分に命を削られてしまいそうだ。
速さと正確さをかねた女の剣撃は続く。だが、それがあまりにも正確すぎることに、しだいにイノは気づいた。
相手は、律儀なまでに鎧の弱点を狙ってきている。それだけに、少しずつだが動きが読めてきた。自分の防具の弱点は、誰よりも自分自身がよく知っているのだ。ほ
んのわずかな余裕でしかないが、とっ捕まえる機会ぐらい狙えるかもしれない。
しかし、女の刃がとんでもない速さで襲ってくることに変わりはなかった。一度の読みちがえも許されない。
上から迫る一撃を横っ跳びでかわす。薙ぎ払うような二撃目を剣で受ける。
相手の動きに全神経を集中させて、イノはひたすら隙をうかがう。
刹那に弾けた光の粉の中、女が瞬時に剣を引いた。すでに握り方がちがう。
突きの構え──怒濤の勢いで迫る黒い切っ先。まばたきしてる暇もない。イノはきわどいところで身体をひねって避けた。この一瞬、剣を突きだした彼女の腕は伸
びきっている。
捕まえるなら今だ。
イノが女の腕をつかもうとしたその矢先、目の前の白い姿がぐるっと回転した。視界のすみに映った彼女の右手。そこにはいつの間にか短剣が握られている。
慌てて上体をそらす。イノの喉もとを紙一重の差で、白銀のきらめきが駆ける。
だが、女はさらに回し蹴りを放った。今度は避けられない。
胸に衝撃。たまらず地面に尻もちをついた。揺れる視界に、草のつぶれる音が耳にとどく。同時に、金属が空を裂く音も聞こえてきた。
イノは無我夢中で横に転がった。そのすぐそばの草を、黒い疾風が刈りとばした。そのまま片手をついて身体を起こす。すかさず女が追撃してくる。
左手の剣。右手の短剣。まるでそれぞれが別個の意志を持っているかのように、女は両手に持った武器を自在に操って攻め立ててくる。その巧みさは、まるで相
手がもう一人増えてしまったかのように錯覚させられる。
短剣は砦の倉庫で出会ったときに投げつけてきたのと同じものだった。他にもまだ隠し持っていたのだ。
こうなってしまっては、イノは防ぐので精いっぱいだ。隙をうかがうどころじゃない。
女の攻撃には一片の慈悲もない。だが、激情に流されるようなその戦いぶりは、さきほどまでとはちがって、どこか焦っているようにも感じられる。
それはイノも同じだ。殺されるわけにはいかない。襲いくる大小二つの刃を受け止め、弾きながら、死にもの狂いで相手の動きを見極めようとする。
夜の静かな草原は、今では金属同士の激突する音と、白光の飛沫がほとばしる修羅場になっている。優しい月明かりの下、風にそよぐ草を踏みにじり、めまぐる
しく位置を変えながら、ひたすら躍動し続ける黒と白の人影。
果てしない攻防が続く中、相手の剣を受け流した瞬間、イノの左腕に痛みが走った。二の腕を短剣に斬りつけられたのだ。
再びカッとなりそうになるのを、かろうじて耐える。
夜気に流れていく二人の息づかい。互いに呼吸があがりはじめている。それでも女の動きが鈍ることはない。
(こいつがどうしても隙を見せないのなら‥‥‥)
黒い刃をさばき、続いて迫る短剣をかがんでやりすごしながら、イノは決意した。
こっちでつくるしかない──そくざにその場を飛びのいた。
女が追う。剣を持った左手を大きく引いた。
イノが剣を構える。
盛大にぶつかる刃同士。血しぶきのようにはじける音と光。
衝撃を受けきれず、イノは体勢を崩してよろめいた──ように見せた。
これは賭けだった。自分だけでなく、相手だって疲れている。どこまで冷静な判断を保っているかはわからないが、隙を見せればここぞとばかりに勝負を決めに
くるかもしれない。
そして──
白い姿が一気に迫ってきた。
(ひっかかった!)
あわてて姿勢を戻そうとしている様子のイノに向けて、女の短剣が必殺の勢いを持って繰りだされる。
しかし、対するイノはすでに片手を剣から離し、そのときを待ちかまえている。
空を斬り裂く音。眼前にきらめく刃。
イノの手が素早く動いた。そして喉をかっさばかれる瞬間、短剣を握った女の手首をがっしりとつかんだ。
はっ、と女が息をのむ音が聞こえた。
間髪入れず、イノは短剣を首からそらすようにして、渾身の力で手前に強くひっぱった。思いのほか、相手の体重が軽いことに驚く。
反撃するいとまもなく、女は完全にバランスを失って前につんのめった。イノはすかさず片手にある剣を逆手に持ちかえ、勢いよく突きだした。
鋼鉄の柄が、無防備になった相手の
腹を容赦なく打ちすえる。
女の口から短い悲鳴がもれた。苦痛に大きく折れる白い姿。その両手から武器が落ちる。
イノはぎくりとなった。
自らが一撃をあたえた相手の柔らかさと悲鳴に。
追撃を加えようとしていた腕が、金縛りにあったように止まってしまう。
──その一瞬を見逃すような相手ではない。
血走った眼でこちらを見上げ、歯を食いしばった女が、上体を起こしざま右腕を振り上げた。
避けようとしたがもう遅かった。直撃こそまぬがれたものの、固く開かれた彼女の手のひらが、イノの喉を殴打した。瞬時にして呼吸がつまる。あまりの苦しさ
に、相手をつかんでいた手を放してしまった。
身体を折って激しくあえいでいるイノに、自由になった女が強烈な蹴りをみまった。
なすすべもなく地面にはり倒される。ぶざまに大地を転がる身体。ようやく肺に入った空気。草と土の臭い。
苦しげに咳きこみながら、死にもの狂いで身体を起こしたイノの動きが止まった。涙でかすむ視界に、喉もとに突きつけられた黒い刃と、それを握っている女の
白い
姿が映っていた。
見上げるイノと。見下ろす女と。
どちらも肩で息をしながら、黙ってにらみあっていた。互いがあたえた苦痛に歪んでいる顔には、玉のような汗が流れていた。
月明かりに照らされた夜の草原は、再び静けさを取りもどした。
風が穏やかに草をなでてていく。
「終わりね」
冷たい声で、女がいった。