─四章 黒い輝き(1)─
憎たらしいほどあっけらかんと晴れ渡った空を、白い雲がふわりふわりと泳いでいた。のんびりとしていて、いかにも気持ちよさそうだった。その下をみじめな
思いで歩いているイノとは、文字通り雲泥の差である。
イノがいま歩いている草原は、二日前の夜、ネフィアの女(レアという名前らしい)と戦った場所と似たような景色をしていた。森の中に開けた草原。その先に
は再び森がはじまっているのが見えた。
森、草原、森、草原‥‥‥この二日間というもの、こんな光景が何度くり返されたのだろう。そして、これからも何度くり返されるのだろう。この大陸西地方に
展開する森林は、イノが想像してた以上に広大だった。ちょっと前では珍しいと思っていた景色も、今ではすっかり食傷ぎみである。
しかし、いくら飽きたところで、歩き続けるイノに進路の変更はできない。さらには、自分がどこへ向かっているのかすらもわからない。おまけに両手は後ろに縛られて、まわりには厳しい監視の目が光っている。なにからなにまで不自由づくめだ。
捕虜になんてなるもんじゃない──イノはつくづくそう思う。
まるで罪人のように縛られているのは、屈辱以外のなんでもなかった。当然ながら、武器は取り上げられている。自分の相棒でもあり、父の形見でもある剣を、
赤の他人が持っているのを見るのは、腹立たしいことこの上ない。
もっとも、剣を没収したリーダー格の男(サレナクと呼ばれていた)のおかげで、イノが命拾いをしたのは事実だ。たとえみじめな捕虜であろうが、少なくとも
自
分はまだ生きている。そのことには感謝しなくてはならない。
本当なら、イノは二日前のあの夜に、死んでいたかもしれないのだから。
* * *
「終わりね」
冷たい声で、女がいった。
イノは自分が敗北したことを悟った。相手の剣先は、ピタリと喉に突きつけられている。こちらがわずかでも抵抗する動きを見せようものなら、たちまち刃は喉
を刺し貫くだろう。
つめをあやまった。敵の動きを封じ、あと一歩で取り押さえられたというのに、攻撃の手を止めてしまった。相手が人間で、しかも女であったというだけの理由
で‥‥‥。べつに殺すわけではなかったのだから、そのまま躊躇することなく攻めるべきだったのだ。
だがどれほど後悔したところで、もう遅かった。自分の命は今、目の前に剣を突きつけている女の手に握られている。彼女が少し腕を動かすだけで、イノという
人間のすべてがあっけなく散ってしまう。
死ぬ──という現実。生きていればいずれそうなることぐらいは、イノにもわかっていた。兵士となって『虫』と戦う日々を過ごすようになってからは、なおさ
らそれを実感していた。だが、こんなところで、こんな死に方をするとは、思ってもいなかった。それだけは確かだ。
スヴェン達「黒の部隊」の仲間のことを考えた。クレナのことを考えた。亡き父のことを考えた。そして‥‥‥あの『金色の虫』と少女のことを考えた。
女は動かない。
聞こえるのは自分と相手の息づかいと、風が草をなびかせる音だけ。
女はまだ動かない。
どうしたというのだろう。いまさらこの相手が、情けをかけてくるとは思えない。こちらを見下ろしている青い瞳は、戦っていたときそのままの激情に今も強く
輝いている。
「やるならやれよ」
イノは女にいった。
強がりではない。その逆だ。「死」を間近にして冷たい恐怖が全身に広がり、頭のてっぺんまでのぼろうとしていた。このままでは気が狂いそうだ。
女が歯をくいしばった。
黒い刃が動く。
突然、横から現れた手が女の手首をつかんだ。
二人はぎょっとして、その手の主をみた。
巨大な月を背に一人の男がたたずんでいた。もつれあった黒髪を肩まで垂らし、半分以上が影におおわれている顔の中から、女に向けている灰色の瞳だけが光っ
ていた。袖のない深緑の上着から伸びているたくましい腕で、剣を持つ女の手をあっさりと押さえている。
「邪魔しないでよ!」
動揺から立ち直った女が、かみつきそうな勢いで男に叫んだ。
「もう勝負はついている」
「それはあなたが決めることじゃないわ!」
「無駄な戦いはするな、と言ったはずだ」
「これのどこが無駄だっていうのよ?」
女の激しい剣幕にもたじろぐことなく、男は淡々と言葉をつむいでいく。その様子は、かんしゃくを起こしている子供を相手にしているようにも見えた。じっさ
い、
彼の年齢は、自分や彼女の倍以上はありそうだった。
二人のやりとりを眺めながら、いまなら行動に出られるかもしれない、とイノは一瞬だけ考察した。だが女の方はともかく、男は確実にこちらの動きをとらえて
いるだろうと思い直した。
状況が状況だったとはいえ、二人とも、この男が近づいてくる気配すら感じていなかったのは確かだ。ただ者ではない。
「じゃあ、こいつをどうする気。このまま逃がしてやるっていうの?」
男の手を振りほどいた女が、イノを指さした。
男が灰色の瞳がこちらに向ける。心の奥まで見透かしそうな鋭い視線だ。しかし、自分の瞳を見た一瞬、向こうが驚いたように見えたのは気のせいだろうか。
「解放はしない。俺達と一緒に連れて行く」
「連れて行くですって?」
「そうだ」
連れて行く──つまりは捕虜。まるで現実味のない言葉に聞こえた。
「冗談じゃないわ!」
これまでで一番激しい怒りを見せて、女が怒鳴った。
「なにかあったらどうするの? 捕虜なんて必要ない。ここでとどめを刺すべきよ!」
「それは、お前が決めることじゃない」
男はあくまでも冷静に続ける。
「この作戦の指揮は、アシェルから俺に一任されている。その俺の判断には従うと、お前は誓ったはずだ。だから参加させた──」
射るような視線が女に向けられた。
「ちがうか。レア?」
レア、と呼ばれた女は黙って男をにらみつける。
イノは二人を見上げたままだ。自分の命は、この二人という秤にかけられ生死の境を揺れている。
やがて、青い瞳がイノを見下ろした。敵意と怒りをふくんだ強い光。
「どうなっても知らないから」
彼女は憎々しげに吐きすてると、地面に置かれたままになっていた『金色の虫』が入っている荷物のそばまで歩いていった。それを片手に抱え、この場から立ち
去っていく。途中で腹立たしそうに剣を収めた音が、静かな草原に響いた。
その後ろ姿を見つめていた男が、身をかがめてなにかを拾った。レアが落とした短剣だった。
そして男はイノに顔を向けた。月明かりがはっきりと、赤銅色の肌をした右頬のある大きな傷跡を照らしだす。まるで獣の爪にでもえぐられたようなひどい傷
だ。それが唇にまでつながっているおかげで、男が壮絶な笑みを浮かべているように錯覚させられる。
「話はいま聞いたとおりだ。わかったか?」
イノは黙ってうなずいた。命を救ってくれたというものの、男の様子には一かけらの親しみもない。もちろん、好意で助けてくれたのでないことはわかってい
る。だが、こちらを捕虜にしてどうするつもりなのだろうか。
「妙な気は起こさないことだ。そのときは命の保証はしない」
その言葉に嘘はないだろう、とイノは再びうなずいた。
男が手を差し出す。おとなしく剣を渡した。
「ついて来い」そううながすと、彼は歩き出した。
こうしてイノは、反組織ネフィアの捕虜となってしまったのだ。