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─四章  黒い輝き(3)─



だめだった。

もう一度、彼に会ってちゃんと話したかった。それだけなのに。

あの子に力をさいた時間が長すぎた。

そのせいで、みんなが『網』を食い破ってしまった。

あわててすぐにふさいだけれど、間にあわなかった。

はしゃぎながら出ていくみんな。もう止めることはできない。

みんなが流れていく。わたしとあの子の繋がり≠たどって。

楽しそうに笑いながら。

やがて、みんなは夢になってしまう。怖くて醜い夢に。

彼があぶない。彼を終わらせてはいけない。

あの人のように強くて。

あの人のように優くて。

わたしの願いを叶えてくれるかもしれない彼を。

流れていったみんなは止められない。でも、彼にそれを教えることならできる。わずかな間でしかないけれども。

わたしは呼びかける。

あの子と彼との繋がり≠ヨ── 

──どこか遠くから声が聞こえる。

〈気をつけて‥‥‥〉

この声。知っている。

〈‥‥‥が向かってる〉

あの子だ。不思議な光景の中で会った少女の声だ。

〈あなたのところに‥‥‥〉

なんだ? 今度は何をいっているんだ?

〈みんなが向かってる。あなたのところに〉

なにが向かっているって?

〈気をつけて。あなたもまわりの人達も‥‥‥〉

お前はいったい?

イノは、はっと目を覚ました。

焚き火の明かり。揺らめくオレンジ色の光が、まわりで眠っているネフィアの連中を照らしだしている。その外側には、闇につつまれた森が広がっていた。薪の はぜるパチパチという音に混じって、どこか遠くで鳥が鳴いていた。

座った姿勢で木にもたれている自分。後ろに縛られたままの両手。

眠っていた。そして夢を見ていた。あの少女が話しかけてきた夢を。

しかし、あれはただの夢だったのだろうか。彼女の切迫した口調は、現実に耳で聞くよりも生々しくイノの記憶に残っていた。

『気をつけて』 

そう。まるで何かを警告していたかのような‥‥‥。

そのときだった。

何かがイノに触れた。身体でもなく、心でもない、どこか深奥に。

それは、初めて『金色の虫』が触れてきた状況に似ていた。だが、あのときとはちがって、心地良よさは微塵もなかった。まるで汚物まみれの手で無遠慮になで まわされているような、不快な印象しか感じられない。

しかも、それは冷たかった。ぞっとするほど冷たかった。

顔から血の気がひいていくのが自分でもわかる。理屈ぬきの不安と恐怖が全身に広がる。

何者かが、こちらに迫ろうとしている。

全身にじわりと滲む冷や汗とともに、イノの中でそんな確信が高まっていく。

『みんなが向かっている』

さっきの夢で聞いた少女の言葉。このことを指していたのだろうか。

イノはあたりを見渡した。見張り一人をのぞいてネフィアの連中は眠りについている。誰にも変わった様子はない。

まただ。また自分だけが、おかしな現象に襲われている。

不気味な感触に身震いしながらも、イノはまわりの人間を起こすべきだと判断した。自分の身におとずれている不思議な感覚が、ただの夢や狂気の産物だとは、 もはや思っていない。理解こそできないが、まぎれもない現実の出来事なのだと受け入れていた。それが今、ここにいる全員に危機が迫っていることを告げてい るのだ。

イノは焚き火のそばにいる見張りを見た。よりにもよって、『一番声をかけたくない人物』だったが、今はそんなことを言ってはいられない。

「おい」

こちらの切迫した声が聞こえているにもかかわらず、今晩の見張りであるレアは、顔すら向けてこようとしなかった。揺らめく炎を黙って見つめている。

「寝ている連中を起こしたほうがいい」

レアはなおも無視している。

何者かはしだいに接近している。自身でも説明できない感覚が、それをはっきりと伝えてくる。

「お前、耳がないのか?」

ようやく、兜の中の瞳がきっとにらんできた。

「意味のない言葉を聞く耳なんてないわ」

「寝ている連中を起こせっていってるんだ。それがわからないのかよ?」

「さっぱりわからないわね」

「何かがオレ達を狙ってる。そいつは、もうすぐここに来るぞ」

「へえ。ナニカって何よ?」

相手にする気はまったくない、といった態度。頭にくるが無理もなかった。いきなりこんなことを言い出されれば、誰だって怪しむに決まっている。ましてや、こっちは向こうにとって敵側の人間だ。さらにつけ加えるなら、この女はやたらと自分を敵視しているのだ。

だからといって、イノも引き下がるわけにはいかない。ネフィアの人間に義理はないが、このまま正体不明の何者かに襲われるのを、黙って見すごすわけにもいかない。それに、自分自身の命だって十分すぎるほどに危ういのだ。

不気味な感触。自分達を狙う何者かは、どんどん近づいてくる。今では、そいつが尋常ではない殺意と敵意を持っていることさえわかる。それらをこうもはっき りと感じているというのに、口でちゃんと説明できないのがもどかしい。

「とにかく起こせよ」焦りに声を荒げた。「もう時間がない」

「なにか企んでるなら無駄よ」

レアはなおも冷たく言い放つ。

「なにも企んでない!」

イノはついに怒鳴った。
 
「いい加減口を閉じないと、黙らせてやるから!」

レアも負け時と怒鳴り返す。

「とっとと他の奴らを起こせよ!」

「なんで、あんたの言うことなんか聞かなきゃならないのよ!」

「みんな殺されてもいいのか!」

「その前にあんたを殺してやるわ!」

「やれるもんならやってみろよ! その前に他の連中を起こせっていってるんだ!」

全身に怒気をみなぎらせ、とうとうレアが立ち上がった。

「うるせえな‥‥‥なんなんだよ?」

イジャの迷惑そうな声がした。それを皮切りに、不平じみた声があちこちから聞こえだした。

結局、自分達の怒鳴りあう声で、まわりの人間は目を覚ましてしまったらしい。こんなことなら最初から一人で叫んでいればよかったと、イノは内心で舌打ちし た。

「何事だ?」サレナクがレアのそばまでやってきた。

「知らないわよ! こいつが『みんなを起こせ』って、いきなり騒ぎ出しただけ」

サレナクが、青い顔をしているイノを見た。

「ナニカ、がわたし達を狙っているそうよ。まともに相手する必要なんてないわ」

怒りのおさまらない様子で、レアがイノをにらみつけてくる。

「俺らが狙われてるって、本当かよ?」

イジャが不安げにあたりを見回した。

「危険な動物は、この辺りにはいないはずだぞ」

「ならセラーダの追撃隊か?」

「いや、それなら捕虜のこいつが騒ぐわけないだろ」

他の人間も口々に言いながら、焚き火の外に広がる暗闇につつまれた森をながめだした。

彼らにむかって口を開こうとしたイノは、だしぬけに、自分自身がその接近してくる何者かであるかのような錯覚にとらわれた。木々の間をぬうように駆けぬ け、茂みを突き破り。まるで相手の眼を通して見るみたいに、それらの光景が脳裏に──

「逃げ出すためのデタラメに決まってるでしょ!」

仲間達を叱りとばすようなレアの一声で、イノは我に返った。

「だいたい、なんだってこいつにそんなことがわかるっていうのよ?」

それまで黙ってイノを見下ろしていたサレナクが、口を開いた。

「全員荷物をまとめろ」

「なんですって?」

「急げ。すぐにここを離れるぞ」

彼女の声を無視して、サレナクは荷物の方へ歩き出した。

「どうかしちゃったんじゃないの? こいつの言うことなんて──」

突然、あたりが静寂につつまれた。それまで鳴いていた虫や鳥達の声が、ピタリと止んだのだ。聞こえるのは、ざわざわという木々の葉ずれの音だけ。

間にあわなかった‥‥‥イノだけがそれを理解した。



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