─四章 黒い輝き(4)─
「なんだよ? どうしたってんだよ?」
とつぜん訪れた静寂に、恐怖をにじませたイジャの声。
しかし誰も彼に答えない。この異様な雰囲気に飲まれてしまったように、他の者は立ちつくしている。さっきまであれほど怒鳴っていたレアも、その例外ではな
い。
この静けさ。放たれている殺気。
こちらを狙う何者か。尋常ではない敵意の持ち主──イノはようやくその正体がわかった気がした。
だが、そんなことがありえるのだろうか。この地方は奴らの「領域」からはるか外にあるのだ。現れるはずが‥‥‥。
ドスン、と大きな物音と振動がした。同時に、肉と骨のつぶれる不快な音が鳴りひびく。この場にいる人間すべての視線が、ぎょっとしたように音のした方を向
いた。
そこには、みなから離れて立っていた男を下敷きにして、一本の木がこつぜんと姿を現していた。すでに絶命した男の血と肉でべっとりと汚れた根本から、大人
ふた抱えほどの太さをもつ幹が伸びている。その先端は弧をえがくように大きくしなり、炎の明かりがとどかない闇の中へと消えていた。
キシリ‥‥‥キシリ‥‥‥と異形の木が耳障りな音をたてる。その表面は硬質そうな灰色の殻におおわれ、一定の間隔で区切られた節からは、ぬめった光を放つ
赤い肉組
織がのぞいていた。
声も出せずにいる一行の目の前で、木の根本がゆっくりと地面をはなれ持ち上がった。かつては人間だったものが、ボタボタと音を立てて落ちていく。灰色の幹
がしなやかにうねり、闇の奥に隠れていた残りの部分がずるりと前に滑りでてきた。
もはや、それを木と見まちがうことはなかった。甲殻と関節をもった大蛇のような長い胴体。その裏側に折りたたまれていた何十本もの細長い脚がいっせいに広
がった。犠牲者の血で汚れた平べったい頭部から、巨大な爪をもった前脚が左右に展開する。
血みどろの巨大な頭に、星のように散りばめられた紅い瞳が、己を見上げている人間達を睥睨した。
ようやく、誰かが悲鳴を上げた。
「『虫』だ! 全員、散らばれ!」
サレナクが弾かれたように怒鳴る。
瞬間、宙を飛ぶかのような勢いで、『虫』が長い身体をくねらせて襲いかかってきた。
反射的に剣を抜こうとしたイノは、自分の両手が縛られたままなのに気づいた。さらには、その剣すらも手もとにはないことに。
「なんでこんなところに、『虫』が出てくるんだよ!」
全員の動揺を代表するかのように、イジャが叫んだ。
続いて起こった絶叫。『虫』の腕に捕まったネフィアの男が、ものすごい速度で宙を運ばれていく。彼を助けようと、流れるように移動する怪物の胴や脚めがけ
て、
レアとサレナクが斬りつける。だが、二人のふるった黒い刃は、灰色の甲殻にむなしく弾かれただけだ。
わめく男を大事そうに爪にかかえ、『虫』は身をくねらせて木々の間を駆けぬけていく。そして、その勢いのまま、自らの頭部ごと抱きかかえた男を一本の木に
激しく叩きつけた。ぐしゃり、という鈍い音。
四散する血肉をまともにあびて、深紅の瞳が楽しそうに瞬く。
イノは歯がみした。どう見てもネフィアの連中は『虫』との戦いに不慣れだった。それどころか、あのレアという女もふくめて、初めて遭遇したと思える者がほ
とんどだ。
さらにその『虫』は強力な個体である大型種だ。このままじゃ間違いなく皆殺しにされる。もちろん、武器はおろか両手の自由すらきかない自分も、もれなくそ
の仲間入りだ。
『虫』が標的をサレナクにうつして突撃する。跳躍してかわした彼の脇をそのまますりぬけて、大蛇のような怪物は森の木立へと消えていった。
闇につつまれた森の中を、『虫』が移動しているのが聞こえる。枝の折れる音、幹をこする音、地面をえぐる音。それらが焚き火の光の中にいる人間達を嘲笑う
ように、いたるところから響いてくる。
どこから飛びだしてくるかわからない怪物の動きをつかもうと、ネフィアの面々が決死の形相で視線を走らせる。
しかし、その中でただ一人イノだけは、いぶかしそうに眉をひそめ、暗闇におおわれた森を見ていた。
(なんだアレは?)
黒い輝き──そうとしか形容しようのない光の塊。それが森の中をすさまじい速さで移動している。木々や茂み、夜の闇にさえもさえぎられるこ
となくはっきりと見える。
炎の明かり‥‥‥いや、これまで目にしたことのあるどの光ともちがう。目の錯覚かと思い、何度かまばたきしてみたが、その黒い輝きが消えることはない。
そして黒い光が止まる。自分の背後に。
そのとき、鋭利な何かで刺されたかのような感触がイノの身体の内に走った。そして、唐突に頭に流れこんでくる、怪物の爪に引き裂かれている自身の姿。
本能が叫んだ危険。頭に浮かんだ不吉な印象から逃れるように、イノはその場をとびのく。一瞬おくれて、闇から現れた巨大な爪がすぐそばをかすめた。
攻撃をかわしたイノを、忌々しげににらみつけながら、『虫』は身をくねらせて、再び木立の闇へ姿を消していく。黒い輝きと共に。あの謎の光は、バケモノが
全身から放っているものだったのだ。
森を駆けめぐる怪物と黒い輝き。再び響きわたる騒々しい音。
(さっきのは、なんだったんだ?)
『虫』の攻撃をさけるまでに起こった一連の出来事を思い返す。まるで、あのバケモノが自分を狙っていることを、あらかじめ教えられたような感じだった。
あの光のせいなのか?──木々の中を移動している黒い輝きに、イノは目をこらす。これまで数多くの怪物と戦ってきたが、あんな光を放つ個体なんて見たこと
がない。
イノはネフィアの人間達に目をやった。指示を叫ぶサレナクと、それ従おうとしている面々と、その様子を見れば、彼らにはあの輝きが見えていないのはあきら
かだった。
視線をもどす。もやのような黒い光。その動きに神経を集中させればさせるほどに、それが何かを伝えてくるような気がしてくる。
どぎつい殺意。殺戮への無邪気な悦び。
そして頭に流れこんできた、恐怖に顔をひきつらせた男の姿。
はっ、としてイノは脳裏に浮かんだその男を見た。一瞬おくれて、男のそばにあった茂みをふっとばし、灰色の巨大な影が飛びだす。悲鳴を上げようと口を開く
間
もなく、男の胴は鋭い爪によって真っ二つに断ち切られた。血しぶきをあげる上半身が、コマのようにくるくると両手を回しながら闇の森へふっとんでいった。
どさりと崩れ落ちる男の下半身。どろりとこぼれ落ちる男の内臓。
誰かが新たな悲鳴を上げた。
自らの手際に満足するかのように血みどろの爪をかかげ、優雅に弧をえがいて旋回する『虫』。その怪物の姿にかぶさっている黒い輝き。
異質な光が伝えてくる殺意──イノの頭に別の男の姿が流れこんできた。視線を向けた直後、その男めがけて『虫』が襲いかかった。男は必死に身を転がして、
怪物の一撃をさける。
その隙に、サレナクが怪物の胴体に斬りかかる。彼は最初の動揺から立ち直り、普段の冷静さを取りもどしているようだった。
イノには、サレナクの戦い方が『虫』の弱点である「核」を狙ったものだとすぐにわかった。他のネフィアの連中とちがって、彼だけは『虫』との戦闘に十分な
心得があるのだ。
しかし、相手の『虫』はヘビのような形状をしている。あの長い胴体のどの部分に「核」があるのか、突きとめるのは困難だ。さらに甲殻の隙間を狙おうに
も、相手は目まぐるしく動き回っている。現にサレナクの攻撃は、相手に傷をらしい傷を負わせることができていない。
ゆうゆうとした様子さえ見せて、『虫』は闇の森へと帰っていく。
イノは黒い輝きに注意をもどした。
誰を狙うか、どうやって殺すか──そうとしか思えない鮮明な印象が、めまぐるしくイノの脳裏に現れてくる。そして今のところ、その不可思議な印象の通りに
『虫』は行動しているように見える。これではまるで、あのバケモノの考えをこちらが読み取っているみたいだ。
しかし、そんなことがありうるのだろうか。『虫』の考えがわかるなんて‥‥‥。聞いたこともない上に、想像するだけでもおぞましい。しかし、今起こってい
ることは、まぎれもない現実だ。
これも、『金色の虫』と出会ってから起こっている奇妙な出来事に関係しているのだろうか。
周囲は再び『虫』が駆け回る音で満たされている。この戦いは、誰が見ても怪物の独壇場だった。こちら側はろくに反撃もできず、一人ずつなぶり殺しにされて
いるだけだ。
闇の中を突っ走っている輝きを目で追いながら、イノは両手を自由にしようともがい
た。今は謎の光の正体よりも、この状況をなんとかさなければならない。こんな縛られた状態でむざむざと『虫』に殺されるのは、死んだってごめんだ。
そして、黒い輝きが止まった。
その揺らめきが教える殺意の矛先──白い服装の女。
狙いはレアだ。しかし、彼女は気づいていない。
考えるよりも先に身体が駆けだし、イノは肩から白い後ろ姿にぶつかった。地面に倒れこむ二人の後ろの空間を、闇から飛びだしてきた灰色の爪がえぐっていっ
た。
「なにするのよ!」
上体を起こしたレアが激昂して、イノの兜を足の裏で蹴りつけた。
「こいつをほどけ!」
イノはかまわず立ち上がって叫ぶ。
『虫』はすぐさま次の攻撃にうつらない。森に帰ることもなく、むなしく斬りつけてくる人間達の間を、小馬鹿にするようにぐるぐると駆けめぐっている。
「こいつをほどいてくれ。オレもあいつを倒すのに手を貸す!」
笑うように瞬いている黒い輝きを横目でとらえながら、イノは訴えた。
「ふざけたこと言わないで! そういって逃げる気でしょ!」
「逃げやしない! それに、逃がしてくれるような相手じゃない!」
「誰が信じる──」
そのとき、ぞっとするような冷たい感触が身体の内におこった。頭に流れこんできたのは、言い争っている自分達の姿。
「来るぞ!」イノは叫んだ。
すかさず二人が飛びのいた場を、急旋回して襲ってきた『虫』の爪が斬り裂く。その後に続いた長い胴体が、木々の彼方へと消えていった。
「はやくしろよ! あんたらだけじゃ無理だ。みんな殺されるぞ!」
イノの必死な言葉に、兜の奥に見えるレアの瞳が、一瞬ためらったように動いた。
しかし。
「あんたの手なんか借りない!」
「お前──いい加減にしろよ!」
あくまでも拒絶する相手に、今度はイノが激昂した。
「この状況がわからないわけないだろ? オレを嫌うのはお前の勝手だけど、そのために自分や仲間が死んでもいいのかよ!」
「うるさい!」
「頭おかしいんじゃないのか? 死にたいなら一人で死ねよ!」
カッとなるあまり、縛られているのも忘れ、彼女につかみかかろうとしたイノの腕が、ふっと自由になった。
切れた縄が地面に落ちる。振り返ると、そこには剣を下げた一人の男が立っていた。
「サレナク!」レアが怒声を放った。
彼女にはかまわず無言のまま、ネフィアのリーダーはイノに何かを放ってきた。
受け止める。渡されたのは、没収されていた自分の剣だった。
イノはためらうことなく、鞘から黒い刃を解き放った。
闇の彼方から迫る輝き──奴が『視て』いる獲物。
「ふせろ、イジャ!」イノが警告をとばす。
悲鳴を上げながら、なりふりかまわず地べたに這いつくばったイジャの真上を、彼をつかみそこねた『虫』が駆ける。
どくん、と黒い輝きが大きく揺らめく。バケモノの紅い視線がこちらを貫く。ぞっとするほどの冷たい感触がイノを襲う。
あいつはオレのことに気づいた──それがわかった。
すさまじい速度で転回し、『虫』が空を裂いて迫ってきた。イノはうなりをあげて襲いかかってきた怪物の爪をあっさりとかわし、目の前を過ぎていくヘビに似
た胴体に刃を振り下ろす。
だが相手の動きが速すぎる。関節を狙った刃が甲殻に弾かれた。
舌打ちしたそのとき、イノは『声』を聞いた。自分のものでも、ネフィアの誰かが発したものでもない、あまりにもこの場にそぐわない『声』を。
驚きで思わずひるんでしまう。慌てて『虫』に意識をもどす。怪物は再度、急旋回してこちらに迫ってきている。
身内に刺さった冷たい針のような感触。黒い輝きから伝わってくる印象──どうやらあのバケモノは、これまでの見境なしの攻撃から、自分一人に的をしぼった
攻撃に変えたようだ。
奴は、こちらが他の人間とちがうことを知ったのだ。
「獲物」ではなく「敵」なのだと。
(でも、なんだってオレにはそんなことがわかるんだ?)
長くしなやかな身体と、無数の長い脚を巧みに使い、波のようにうねりながら接近してくる『虫』。いまだ生きている焚き火の明かりの中では、その動きをとら
えることさえ困難だ。
しかし、イノは相手の動作のすべてを教本でも見るように把握していた。黒い輝きが、怪物の意志であろう揺らめきが、それを明確に教えてくれる。
空間ごとえぐってきた爪をかがんでやり過ごし、鞭のように薙ぎ払われた尻尾を後ろに飛びのいてかわす。意識を集中させればさせるほど、相手が次に取る動き
が鮮明にわかっていく。
爪による一撃。尻尾による一撃。突進。そして爪──
脳裏に印象が流れこんでくる速度と、その印象を読み取る速度とがしだいに上がってきていた。それは書物を読みはじめた人間が、文章に慣れて読むペースを速
めていくのに似ていた。
そんな自分に、イノは背筋が寒くなるようなものすら感じた。こんな戦い方は経験したことがない。
しかし、反撃するこちらの剣は相手の外殻を削るだけだ。サレナクとレアも隙をみて斬りかかっているが、同様の結果だった。いかにジステリウス製の刃と
いえども、たやすく『虫』の甲殻を断つことはできない。しかも相手は大型種だ。殻も小型種のものよりずっと分厚い。
いくら向こうの動きが読めようとも、これではラチがあかなかった。『虫』の胴体の裏側。脚の生えている部分からならば、直接「核」を狙うことが可能だろ
う。だが怪物の方も、さすがにそこを狙わせてくれるだけの隙は見せない。
だいいち、肝心の「核」の位置すらまだ見当が
つかないのでは──
(いや‥‥‥わかる。わかるぞ!)
たたきつけてきた尻尾の一撃を、大きく横にかわした直後、イノはその事実に気づいた。
『虫』の身体にまとわりついている黒い光。注視すれば、その胴体のある一点がより強く輝いているのがわかる。
(あれだ──あれが奴の「核」だ)
当たり前のようにそう確信する自分。正体のわからない現象のすべてをあっさり信じて受け入れ、身をゆだねている自分。まるで生まれてから今日までずっと、
それらに馴染んできたかのように。
たびかさなる攻撃に失敗した『虫』が、また木立の奥へと姿を消した。むろん、あきらめてのことではない。刺すような敵意と憎悪は、より激しくイノに向けら
れ
たままだ。
相手の動きはわかる。弱点の位置もわかる。後はどうやってそこを攻めるための隙を奪うかだ。これだけは、一人ではどうにもならない。
「あんた」イノは、すぐそばで警戒しているサレナクに声をかけた。
「奴の動きを少しでも止めたい。オレに力を貸してくれるか?」
『虫』の狙いはもはや自分一人。サレナクら他の人間は眼中にない。それならば、怪物の不意を狙うのは彼らの方が適任だろう。
だが、捕虜である自分の頼みなど、はたして聞いてくれるだろうか。
森を荒らしながら移動する音が響いてくる。『虫』は苛立っている。
「やってみよう」
顔に傷を持った男は、あっさりとうなずいた。
「レア!」
離れた位置にいる彼女がふり向いた。
「あれをこっちによこせ」
サレナクは、レアの足下にある大きな袋を指した。イジャがかついでいた袋だ。
しかし、彼女は動こうともしない。
「‥‥‥嫌よ」青い瞳がイノをにらみつけた。
「はやくしろ。時間がない」
「なんで、そいつの頼みごとに、わたしが手を貸さなきゃならないの?」
「意地を張っている場合か。このままでは全滅するぞ」
『虫』はまだ周囲をぐるぐる回っている。激しい怒りをたぎらせながら、こちらをどうやって殺してやるかを必死で考えている。それがイノに伝わってくる。
「絶対に嫌!」レアは激しく頭をふった。「あんなのわたしだけで倒してみせるわ!」
枝の折れる音。幹をけずる音。地面をえぐる音。
「いい加減にしろ、レア!」
サレナクの怒声。彼女がひっぱたかれたみたいに身を震わせる。やがて身をかがめると、袋の中から何かを取り出して乱暴に投げてつけてきた。兜の中の顔が泣
き出しそうに歪んでいた。
「これは──」受け止めたサレナクが、素早く説明する。その手には、中央に切れ目の入った鈍色の小さな丸い物体が乗っていた。
「俺達が砦を奇襲したときに使ったものだ。左右にひねった後、衝撃をあたえれば爆発する。大きな音と光を出すが、破壊力はたいしてない。命中したところで
奴に傷を負わせるのは無理だろうが、少しのあいだ動きを止めるぐらいはできるかもしれん」
ブレイエの砦での轟音と閃光を思い出して、イノはうなずいた。
「投げるのは、あんたに任せる。あいつはオレだけに神経を集中させてる。だから、合図をしたらオレめがけて投げつけてくれ」
「わかった。音と光に、お前自身がやられないよう注意しろ」
こちらのつたない指示に、なんの疑問もはさむことなく了解するサレナク。ひょっとしてこの男は、こちらの身に起こっている不可解な現象について、何か知っ
ているのではないだろうか。
そして脳裏に流れこんでくる印象──イノは思考を中断した。
「離れろ!」サレナクに叫ぶと、自分もすかさずその場を退く。
木の葉と枝を盛大にふっとばして、頭上から『虫』が勢いよく姿を現す。激突するように地面に降り立ち、一直線にイノに迫ってくる。
憎しみにぎらつく紅い瞳。それをむかえ撃つイノの緑の瞳にも、ようやく、いつもの憎しみの光が灯りはじめた。
『虫』が身体をねじる。巨大な尾がうなりを上げて迫る。しかし、すでにイノは背後にあった木に素早く回りこんでいた。盾となった幹にたたきつけられた衝
撃。舞い散る葉。
イノは木の裏からとびだす。計ったように止まる。直後、手前に振りおろされた爪。黒い刃を振り上げる。関節を断ち切る手応え。爪が地面に転がり落ちる。人
の血にまみれた鋭利な表面を、前脚の切り口から噴出した『虫』の血が濡らす。
身をかがめるイノ。一瞬の間を置いて、怪物に残されたもう一方の爪が頭上を横薙ぎにかすめていく。すぐさま跳び退く。やがてその場にたたきつけられた尻尾
が、虚しく大地を震わせる。
まばたきのように頭の中に現れては消える印象。一つ残らずそれらを解し、繰りだされる怪物の攻撃すべてをイノは避けていく。
とはいえ、少しでも自分の動きをあやまったり、地形に足下を取られたりするわけにはいかない。相手同様、ありったけの集中力をふりしぼった。
薪の炎が生みだす光の輪の中。細長い全身を駆使して攻める異形の怪物と、それと互角に渡りあう漆黒の人影と。
目の前で繰り広げられている人知を超えた攻防を、まわりの人間はただ呆然とながめていることしかできない。
『虫』と黒い輝きに意識を集中し続けるイノに、再びあの『声』が聞こえてくる。場ちがいな『声』。どれほど攻めても、いつまでたっても殺すことのできない
自分に対し、かんしゃくを起こしてわめいている。
どくん、と揺らめく黒い輝き。わめく金切り『声』。
ついに怒りの頂点に達し、まわりのすべてが眼中になくなったバケモノの意志──
渾身の一撃を放つため、巨大な鎌首が身をもたげる。
「いまだ!」イノは叫んだ。
サレナクの手が動く。
『虫』の巨大な頭が突っこんでくる。
イノは後ろに大きく跳躍する。
憎しみに交わる緑と紅の瞳。その間に飛んできた鈍色の小さな玉が、勢いよく迫るバケモノの顔面に乾いた音を立ててぶつかった。
イノが両腕で顔をおおったとたん、鈍色の玉がはじける。腕ごしに感じたすさまじい量の光と音と衝撃。
文字通り目の前で炸裂したそれに、『虫』が完全に虚をつかれた。優雅にうねっていた身体がバランスを崩し、盛大な音を立てて横倒しに地面に倒れこんだ。
大音量のせいで、キーンという耳鳴りがひどい。それでも着地と同時に、イノは一気に前へと駆けだす。
混乱し、狂ったように地面でのたうちまわっているバケモノの尻尾が、しぶとく灯っていた焚き火をついに吹っとばした。舞い散る火の粉が儚く宙に溶けこむ。
残されたのは光のない真の闇。
その暗黒の世界を駆けながら、イノは動じることなく剣を構えた。
視えていた>氛汕ナよりもなお濃い輝き。それが周囲のすべてを、日の光で目にするよりも明瞭にイノに伝えてくれる。立ち並ぶ木々を、暴れている怪物の姿
を、横たわる死者を、サレナクやレアをはじめ立ちすくんでいる者達を。
聴こえていた>氛汕ナの中に苦しげに瞬く輝き。そこから放たれる『声』が、耳鳴りをこえてイノに届いてくる。胸を締めつけるような痛々しさで。
混乱から立ち直った『虫』が、ぐらりと頭を持ち上げる。紅く光る瞳がこちらを探す。見つける。だがもう遅い。
横たわる尻尾を跳びこえ、イノは一気に相手の懐に飛びこむ。大きく引いた剣を、ためらうことなく突きだす。
黒い輝き、その中心へ。
絶叫が起こった。この場にいる人間の中で、ただ一人の者だけに聞こえた断末魔の叫び。
瞬間、イノをすさまじい痛みが襲った。肉体ではなく、もっとずっと深いどこか≠。
目の前の黒い輝きが、音もなく四散するように消えた。『虫』の鎌首が、派手な音と共に再び地面に倒れこんだ。今度は、もう動くことはなかった。
イノにもようやく静寂と闇がおとずれた。奇妙な感覚が消えたと思ったそのときには、がくりと膝が折れていた。
しばらく、誰一人口を開こうとはしなかった。
「終わった‥‥‥のかよ?」
やがて暗闇の中から、イジャの震える声がした。