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─五章  反組織ネフィアと
          その指導者(2)─



頭を襲った衝撃に、イノは目を開いた。

(……なんだ?)

ぼんやりとした視界に、革のブーツをはいた二本の爪先が映っている。その片方がさっと動き、頭に二度目の衝撃が走った。

蹴られた!──イノは完全に目を覚ました。きっと顔を上げ、非礼きわまりない起こし方をした相手をにらみつける。

そして息をのんだ。見知らぬ若い娘が立っていた。

年齢は自分と同じぐらいだろう。明るい栗色の髪。流れるようなその長い髪の中から、小さな顔がこちらを見下ろしている。肌は「透き通りそうな」という表現 そのままの白さだ。優美な線をえがいている眉と、大きな青い瞳。整った形の鼻の下には、これまた形のいい唇がきりっと結ばれている。

自分の頭を蹴られたことも忘れて、イノは相手の顔に見入ってしまった。いままで(数は多くないにしろ)色々な女性を見てきたが、これほどの美人にはお目に かかったことがない。

少しの間ぽかんとしていたイノだったが、相手の姿をながめているうちに、どこか見覚えがあることに気づいた。

特徴的な白い服装。そして青い瞳。

まさか……その正体に思い当たった瞬間、彼女が口を開いた。

「起きたのなら、とっとと立ちなさいよ」

うんざりするぐらい耳にした声だった。自分を殺そうとし、なおかつ、その後も汚物のように扱ってきた女の声である。忘れるはずがない。

「はやくして」

あからさまに不機嫌な声で、女──レアがいった。

相手と同じぐらいむっつりとした表情をして、イノは立ち上がった。思えば、この女の素顔なんてまともに見たことがなかった。いや、視界に入れる気すらな かった。それを差し引いても、わずかとはいえ見とれてしまった自分を深く恥じた。

「アシェル様が、あんたに会いたいそうよ。黙って着いてきて」

「そのアシェルって奴が、お前らの指導者なんだな?」

「『黙って着いてきて』って言ったはずよ。あんた、耳も頭も飾りなの?」

容赦なくこちらをバカにした上、料理に飛びこんできたハエでも見るような目つきでにらむと、レアはさっさと歩きだした。

こいつ!──はやくも爆発しそうになる怒りをなんとか抑えて、イノは後を追った。

そのとき、はっと思い出した。

「お前、オレの頭を『蹴って』起こしただろ!」

「『斬って』起こされなかっただけ、マシだと思いなさいよね」

食ってかかるイノを振り返りもせずに、レアは憎々しげに言い放つ。

イノは大きく深呼吸した。目の前で揺れている相手の長い髪をつかんで、思いっきり引っぱってやりたい衝動をこらえるのに、生涯で使う忍耐力の半分を使って しまった。よくよく思えば、いまだに腕は縛られたままだ。

てっきり、あのサレナクという男が、自分を連れに来るものだとばかり思っていたイノである。

(なんだってコイツをよこしたりしたんだ!)

胸の内で、これから会うネフィアの指導者とやらに怒鳴った。

目覚めてからわずかな時しか経っていないのに、とんでもなく気分が悪い。『虫』の奇襲で立て続けに起こされたときだって、ここまでひどくはなかった。

イノがサレナクに連れられて入ってきたのとは別の扉から地下室を出て、二人は建物の中を歩いていく。もちろん、お互い口をきこうともしない。

やがて中庭らしき場所へと出た。きれいに整えられた短い草の上に、白い石のタイルが模様をえがくように配置されている。中央には噴水があり、見たこともな い動物をかたどった彫刻から、清水が静かな音を立てて円形のプールに流れこんでいた。プールの囲いからは、細い水路が十字型に庭園を区切って、草地の外に ある排水溝へとつながっている。吹き抜けの天井から差しこむ陽光が、それらをキラキラと輝かせていた。

心の和むような神秘的な光景。だが、そこを横切っていく二人には、まったく効果がなかった。

レアは振り返ることなく、ひたすら歩いていく。イノが後について来ようが来まいがおかまいなし、といった様子だ。事実そうなのだろう。彼女の踏み出す荒々 しい一歩、一歩は、この役目に対する怒りと不満を素直すぎるぐらいに表明していた。

朝早いせいか、建物内に他の人影は見あたらない。沈黙の二人は庭園を通りぬけ、いくつかの回廊と階段を上った後、一つの扉の前にきた。

「ここがアシェル様の部屋よ」

レアがようやく振り返っていった。

「アシェル様に対して、くれぐれも妙な考えは起こさないことね。そんな真似をしようものなら、生まれてきたことを後悔する目にあわせるわよ。い い?」

イノは無視した。

「わかったの?」

さらに無視した。

「『わかったのか』って聞いているんだけど?」

それでも無視した。

「殴られたいの、あんた!」

とうとう爆発した相手に、胸ぐらをつかまれた。

「いいから、はやく連れて行けよ」

目と鼻の先にある女の顔を、イノはふてぶてしくにらんだ。自分が捕虜であること、いまからネフィアの親玉と対面すること、これから先どうなるのかといった ことは、ぜんぜん頭になかった。とにかく腹が立っていた。

全身に怒気をみなぎらせながら、レアが真っ向からにらみ返してくる。言葉どおり、今にも殴りかかってきそうな雰囲気だ。

「捕虜のぶんざいで、そんな態度とっていいと思ってるの?」

「『はやく連れて行け』って言ったんだぞ。お前、耳も頭も飾りかよ?」

「ふざけたこと言ってると、本当にこの場でたたきのめしてやるから!」

「やれるもんならやってみろよ! それに、今のはお前がさっきオレに言ったことだぞ!」

「わたしがいつ──」

がちゃり、と扉の開く音がした。二人の視線が同時にそちらを向く。

「まあ、レアったら。ひとの部屋の前でなにを騒いでいるの?」

不思議そうな顔をして、自分達を見つめている一人の女性がいた。落ち着いた声の感じからして、歳は三十ほどだろうか。でも、整った顔立ちのおかげで、それ よりずっと若く見えた。そばでわめいている白服の女と同様の美人である。

彼女の容姿の中でひときわ目をひくのが、見事なまでに銀色の長い髪だった。イノの頭一つ分は高い身体に、細かな刺繍のほどこされた紫色の長衣をまとってい る。

「あら」

その女性が、イノの胸ぐらをつかんだままのレアの手を、驚いたように見た。

「だめじゃないの。そんなふうに人をつかんだりしたら」

「だって、アシェル様!」

手をはなしたレアが、顔を真っ赤にして叫ぶ。

アシェル──その名を聞いてイノは愕然とする。では、この女性がネフィアの指導者だというのか。想像してた反組織の親分像と、あまりにもちがいすぎる。

(それになんだか……)

「こいつが捕虜のくせに、生意気な態度を取っているのが悪いんです!」

レアがイノを指さしてわめく。

「しょうがない子ね。わたしは、ただ『彼を連れてきて』って言っただけなのに……」

困ったようなあきれたようなため息をついて、アシェルがイノに視線を向けた。

知的な雰囲気のある鳶色の瞳。どきり、とした。さっきまでの腹立ちが、一瞬でどこかへ行ってしまった。

「あなたのことはサレナクから聞いているわ。さあ、入ってちょうだい」

つつみこむような笑顔を見せて、ネフィアの指導者はイノを招き入れた。

(これは……)

微かだったがまちがいなかった。お互いの存在が、目に見えない糸で結びついたような感触。『金色の虫』や、あの夜襲ってきた『虫』と自分の間に存在してい たのと同じような〈繋がり〉を、イノはこのアシェルという女性から感じ取っていた。

イノは室内へ入った。その後にレアが続く。彼女が向けてくる険しい視線も、いまではどうでもよくなっていた。

何者なんだろう──部屋の真ん中にある大きなテーブルの向こう側へ移動するアシェルを見つめたまま、イノは眉をひそめた。不自由なのか、右足を引きずって いる彼女の動作。それなのに、一切の隙というものがない。

「レア。彼の縄をほどいてあげなさい」

背もたれのある椅子に腰をかけ、アシェルがいった。

「わたしは反対です。もしこいつが暴れて──」

「そのためにも、あなたがいるのでしょう?」

むすっ、と口を閉じた沈黙の後、剣をぬく音と同時に、イノの両手が自由になった。

「ちょっと。そんな危ないもの使わなくたっていいじゃないの」

「『手でほどけ』とは聞いてませんでしたから」

ふてくされた声で剣を収めるレアを見て、再びため息をついた後、アシェルがイノを見た。

「さあ。座ってちょうだい」

まるで親しい知人にでも話しかけているみたいだ。こっちは敵側の捕虜だというのに。なんだか調子を狂わされてしまう。

イノは言われるがまま、ぎくしゃくと彼女の向かいの椅子に腰を下ろした。

「あなたも立ってないで座ったらどう?」

「わたしは結構です」

レアがきっぱりと断る。彼女はイノの斜め後ろから、鋭い視線をよこしてきている。こちらが妙な動きを見せようものなら、即刻、首をすっとばそうという気な のはまちがいない。

「そう? じゃあ、まずは簡単な自己紹介からはじめましょうか。わたしはアシェル。このネフィアという組織を指揮している者よ」

「セラーダ軍セラ・シリオス直轄『黒の部隊』第二班のイノだ」

相手の優しげな雰囲気に飲まれないよう、声を低くして言った。

「セラーダの英雄率いる『黒の部隊』、ね。ご高名は重ね重ねうかがっているわ。でも、歴戦の猛者を集めたという部隊の隊員にしては、あなたはずいぶんと若 いように見えるけど?」

イノは押し黙った。腹を立てたわけではない。相手の口調に挑発するような響きはなかった。しかし、なにか意味ありげに聞こえる。

「まあ、いいわ」と、アシェルはあっさり話題を変えた。

「あなた達『黒の部隊』は、ブレイエの砦に派遣されてきたそうね。かの英雄の部隊を、あんな辺境の地に出向かせるほど、セラーダ軍は暇ではないでしょう し、目的はわたし達と同じものだった……と考えていいのかしら?」

鳶色の瞳が、部屋の奥に向けられる。そこには、小さなテーブルにちょこんと乗っかっている『金色の虫』の姿があった。

「任務のことは話せない」

「そう。それは残念ね」

「あんた達は何者なんだ。いったいなにを企んでいる?」

「わたしも、それを話すわけにはいかないわ」

イノは目の前の女性をにらみつけようとしたが、うまくいかなかった。彼女はまるでこのやりとりを楽しんでいるかのように、笑みを浮かべたままだ。想像して いた対面とはまったくちがう状況に、イノはずっと戸惑いぎみだった。

そして、この相手から感じるもの。触れてくるもの……。

「そうそう、サレナクから聞いたわ。ここまで来る途中、『虫』に襲われたのをあなたが救ってくれたそうね」

突然の話題に、面食らった。

「べつに──あんた達のためにやったわけじゃない」

「でも、あなたは戦った」

「襲ってきたのが『虫』だったからだ。そうじゃなかったら、あんた達にかまわず逃げてる」

「なんにせよ、あなたのおかげで、こちらの大半が命を失わずにすんだことは事実よ。ネフィアを代表して、そのことにお礼を言わせてもらうわ」

なんと返してよいものやらわからず、イノは口をつぐんだ。サレナクという男といい、この指導者といい、敵対している人間にもきちんと礼を言えるのは立派だ と思うが、言われた側としては複雑な気分だった。

アシェルはいったん沈黙した。この話題はこれで終わりのようだ。こちらが事前に『虫』の襲撃を察知したことや、異常ともいえる戦いぶりをしたことについて は、話してくる気配がない。たんにサレナクが報告していないだけなのか、報告されても与太話と切り捨てたのか、それとも……。

「さて」彼女が再び口を開いた。

「あなたのこれからの事だけど」

イノは身を固くした。

「わたし達ネフィアは軍隊ではないの。ここには、捕虜というものをちゃんと閉じこめておくような施設はないわ。かといって、この場所を知ってしまった外部 の人間を、すんなりと帰すわけにもいかない。だから、あなたが変な気さえ起こそうとしなければ、客人としてそれなりの扱いをしようと──」

「待ってください!」

それまで黙っていたレアが、声を上げた。

「まさかアシェル様は、こいつを野放しにするつもりなんですか?」

「完全に自由というのは無理ね。行動には制限がつくけど」

「そういうことを聞いてるんじゃありません。そんな提案はバカげてます!」

「まあ。せっかく考えたのに……ひどいこと言うのね」

「あたりまえです! こいつは、絶対に逃げ出そうとするに決まってますよ。そうなったらどうするんですか?」

「そうねえ。どうしたものかしら?」

「わたしに聞かれたって知りませんよ! だいたい──」

なおもがなりたてようとする狂犬のような女を、アシェルは片手をやんわりと上げただけで、ピタリと制してしまった。そして、その見事な手際にちょっと驚い た顔をしているイノを見た。

「あなたはどうかしら?」

「あんた達は、セラーダの敵じゃないのか?」

イノはいぶかしげにたずねた。後ろにいるバカ女の肩を持つわけではないが、捕虜に対してのこんな提案は、ずいぶん妙だと思う。

「『セラーダそのもの』を、相手としているわけではないわ」

「それはどういう──」

「質問の答えを聞かせてもらえるかしら?」

こんな展開になろうとは、思ってもみなかった。このネフィアの指導者は、何を考えているのだろう。優しげに微笑んでいる表情から、その真意まではわからな かった。しかし、ただのお人好しでないのだけはまちがいない。

「わかった。そっちの言うとおりに従う」
 
イノはうなずいた。相手の目的はわからないが、とりあえず成り行きにまかせてみようと思った。

「じゃあ、決まりね」

にっこりと笑うアシェル。後ろの方で、レアがぶつくさ言っているのが聞こえる。

「あなたにはここで暮らしてもらうことになるけれど、そのさいは、新しく組織に入った人間としてふるまってもらいたいの。くれぐれも、自分がセラーダ軍の 人間だとは明かさないようにね。わたし達の中には、その言葉に敏感な者もいるから」

反組織……という言葉の意味を、イノは再び強く意識した。

「それと、まさかとは思うけど、ここの誰かに危害を加えるようなことはしないでね。それを守ってくれるかぎり、あなたの身の安全はわたしが保証する。部屋 は、この『館』の中にある客用の一室を用意するから、そこを好きに使ってくれてかまわないわ」

彼女の優しげな瞳。そして、それ以上に相手のなにか≠伝えてくる、指先で触れあっているような感覚。話題にこそ出さないが、彼女もこちらから同じよう なものを感じていると、イノは直感した。

「さて。今日はこんなところかしらね」

そう微笑むと、アシェルはレアに顔を向けた。

「あとで、彼にこの土地を案内してあげてちょうだい」

「なんですって?」悲鳴に近い声が上がった。

「彼にこの土地を案内してあげて、って言ったのだけど?」

「ちょっと──ちょっと待ってください!」

レアは勢いよく前に出ると、両手をテーブルにたたきつけて叫んだ。うるさそうな顔をして、椅子ごとさりげなく脇にずれたイノのことなど、目に入っていない 様子だ。

「冗談じゃありません。誰か他の人間にやらせてください!」

「べつにいいじゃないの」

「絶対にイヤです!」彼女は再びテーブルをたたいた。

「歳も近そうなんだし」

「関係ないですよそんなの!」彼女はさらにテーブルをたたいた。

「ちょっと、そんなにテーブルをたたかないで。花瓶が倒れちゃうじゃない」

「花瓶なんてどうでもいいですよ!」

「やめなさい。どうでもよくないわよ。誰が掃除すると思ってるの?」

「そんな話してるんじゃありません!」

「あら大変! だから言ったのに、もう……」

「花瓶なんてどうでもいいからわたしの話を聞いてください!」

体中の血液が集まってしまったみたいに、レアの顔は真っ赤だ。朝っぱらからよくこんなにわめき続けられるもんだと、イノは初めて剣の腕以外のことで彼女に 感心する。それにしても、この女の案内だなんて、こっちから願い下げだ。

「しょうがないわねぇ」

倒れた花瓶をもとに戻し、水のこぼれたテーブルをふきながら、アシェルが困った顔で言った。

「なんと言われたって、わたしは知りませんから」

「わかったわ。サレナクにお願いするから」

イノは心の底からほっとした。近寄りがたいのは同じだが、となりにいる女よりは、あの男の方が全然まともだ。

「よく考えてみたら、あなたでは心配だものね」

「どういう意味ですか?」レアが眉をひそめた。

「もし彼が暴れ出すようなことがあれば、止められるのはあなたかサレナクぐらいなものでしょう? そう思って頼んだのだけれど──」

そんな事態などまったく考えていない様子で、アシェルは続ける。

「やっぱりあなたは『女の子』なんだし……もしも何かあったら大変だわ」

となりに立つ白い姿がピクリと震えたのを、イノは見てしまった。

「とりあえず、彼を二階の空き部屋まで送ってあげてちょうだい。サレナクにはわたしから伝えておくから」

「……待ってください」低い声がした。

「どうしたの?」

「……す」

「す?」

「やります、と言ったんです」

「ええ、わかってるわよ。だから、あなたには別の仕事を──」

「わたしが……この捕虜の案内役をやります……と言ったんです」

腹の底からはきだす怨念じみたレアの声に。

「あらそう? じゃあお願いね」

と、満面の笑みでアシェルは答えた。

ちょっと待ってくれよ!──今度はイノが叫びそうになった。

さっきサレナクに任せると言ったばかりなのに……。しかし、イノは案内人を選べる立場ではない。そんな捕虜としての自覚が悲しかった。

だからって──と横目でレアを見る。いくらなんでも人選がひどすぎる。この女が案内できる場所なんて、死体袋の中ぐらいしか思いつかない。

「さっさと着いてきて!」

さっそくとんできた、刃物のような声。

肩をいからせ、乱暴に扉を開けて出て行ったレアの後を追うため、イノは死を宣告されたような暗い顔で立ち上がった。

「イノ」

やわらかな声に振り返る。

「また会いましょうね」

微笑みを浮かべたまま、ネフィアの指導者はいった。



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