─五章 反組織ネフィアと
その指導者(5)─
最悪だ──イノにはそれしか言えなかった。
イノの予想に反して、レアは部屋の外でちゃんと待っていた。なにがなんでも、「捕虜を案内する」というアシェルの言いつけを守る気でいるらしい。
そしてイノの予想通り、彼女の案内はひどすぎた。歩くのがはやすぎる。説明もはやすぎる。もちろん愛想なんてカケラもない。
現在、『館』と呼ばれているこの大きな建物の内部を一通り見学したところだが、案内人の説明でイノに理解できたのは、ここが『館』と呼ばれているというこ
とだけである。
目の前を歩いているレア。こちらを振り返ることはなくても、激しい歩調にゆれている長い髪や、前からやってきた人のよさそうな男が驚いて脇によけたのを見
れば、彼女がどんな表情をしているのかは、手に取るようにわかる。
イノはため息をついた。最初のうちは相手と同じように腹を立てていたが、なんだか疲れてしまった。もはや、自分達がやっていることは、立場上からくる争い
ではなくて、ただの子供の喧嘩のような気がしてきた。
「おい!」
『館』の正面にある入り口から外に出たところで、イノは思いきって彼女に呼びかけてみた。
どうせ無視されるだろうと思いきや、もちろん無視された。
「こっち向けったら!」
ようやくレアが身体ごとふり返った。整った顔が、糊(のり)でも塗ったみたいに強ばっている。
「なによ?」
挑みかかるような……というより、誰がどう見ても『やる気満々』な態度だ。
あらためて彼女と向きあうことで、あらためてムカついてきたイノだったが、その気持ちを抑えて口を開いた。
「その……悪かったよ。さっき言ったこと。だから、もうこんなことやめにしないか?」
がんばって、そう言いきった。自分から謝るのは嫌で嫌でしかたなかったが、この子供じみたいさかいを続けているほうが、もっとバカバカしく思えた。
しかし、この女のことだ。謝ったところで、まともに聞く耳なんて持ってはいないだろう。そのときは、こっちから案内を断るつもりだった。
──ところが。
「そんなこと、いきなり言われても……」
イノの謝罪に、相手はものすごくたじろいだ様子を見せた。
「あなたがさっき言ったことなんて……よく覚えていないし」
動揺をまったく隠せていない表情に、あきらかに嘘だとわかる口調で、彼女は続ける。
「わたしの説明が聞き取りづらかったのなら、そのときにそう言ってくれればいいじゃない。『こんなこと』ってのが、なんだかは知らないけれど、変に誤解し
ないでほしいわね」
やたらと早口で、なぜかこちらを責めるようにいうと、レアはバツが悪そうにそっぽを向いてしまった。どうやら剣の技術はあっても、嘘をつく技術はまるで持
ちあわせてないらしい。その点だけは、フィスルナで刀鍛冶をしている『誰かさん』にそっくりだ。
説明する気なんか絶対なかったくせに──と、イノは思わず言ってやろうかと思ったが、口には出さずにいた。それよりも、この女がこうもうろたえているのが
意外だった。まるで、こちらが人間の言葉をしゃべれるのを初めて知った、とでもいった感じだ。
それはそれで、腹の立つ話ではあるが。
その後も、レアの案内は続いた。謝られたことをどう受け止めのたかはわからないが、歩くのもはやくなくなったし、説明も聞き取れるものになった。ただ、愛
想のないのは変わらなかった。
彼女が語ったところによれば、『館』をふくめ、この土地の中にあるいくつかの建造物は、大昔に暮らしていた先住民が建てたものらしかった。打ち棄てられ廃
墟となっていたそれらに手を入れて、ネフィアは自分達の本拠地にしているのだという。
土地の中央部にある、家々が立ち並んでいる場所へも案内された。そこで暮らしている住人達の姿に、イノは驚かされた。若い男女はもちろん、子供から老人ま
でいる。なごやかなその光景は、フィスルナで見かけるものとなんら変わりがなかった。
住人達の生活のほとんどは、自給自足で成り立っているらしい。ここで得られない物資に関しては、近隣の村や街との交易によって手に入れているようだ。レア
は口に出さなかったが、その中にはフィスルナから不正に流れている物資もあるのだろう。彼女とサレナクのみが持っている、黒い刃をした剣がその証拠であ
る。「闇の金属」を加工できる設備があるのはフィスルナしかない、と以前クレナが得意げに語っていたことがあった。
中央部をはなれてしばらく歩くと、柵にかこまれた大きな菜園へとやってきた。人の背丈よりも高い緑のなかを、カゴを手にした若い娘やおばさん達が楽しそう
におしゃべりしながら、赤い小さな実を摘み取っている。
働いている若い娘の何人かが、レアに案内されている見知らぬ少年に、好奇のまなざしを向けてきた。
イノは慌てぎみに、娘達から目をそらせる。よくよく思えば、いままで『ふつう』の女の子とまともに接したことなんてない。『ふつう』というのは、取り憑か
れたように武器について語り出したり、剣を振りまわして「殴る」だの「半殺しにする」だのわめいたりしない──という意味での『ふつう』だ。女の子のこと
はよく知らないが、その認識はまちがっていないはずだった。
菜園の仕事は、女性の受け持ちなのだろう。この場所にいる男はイノ一人だけだ。なんとも落ち着かない。となりでレアがなにやら説明しているが、ろくに耳に
入っていなかった。
「レア!」ふいに幼い声が上がった。
緑の中からひょっこりと現れたのは、まだ五、六歳ぐらいの小さな女の子だ。手には他の娘達と同じように、赤い実の入ったカゴを下げている。
「ネリイ!」
レアが名前をよぶと、少女はうれしそうに駆けよってきた。そして、膝をかがめた彼女の腕に勢いよくとびこんだ。
「いつ帰ってきたの?」
「昨日の夜よ」
この場に感じていた気まずさも忘れて、イノはぽかんとした表情でその光景を見つめていた。小さな少女に笑いかけている女が、自分と死闘を演じた女と同じ人
間だとは、とても信じられなかった。
「今日はお母さんのお手伝い?」
「うん」
「そう。ネリイはいつも働き者ね。えらいわ」
優しげな声。これが今朝アシェルの部屋で、獣のようにワアワア吠えまくっていた女の声だろうか。
不思議なもので、少女と親しげに接している姿を見ていると、レアがまるで『ふつう』の若い娘のように思えてきてしまった。さらに、無駄に容姿がきれいなも
のだから、ついつい見入ってしまう。
「あのお兄ちゃんはだれ?」
ネリイの声に、イノは我に返った。
「あの人はね、新しくここに来た人よ──」
幼い少女に向けられていたものとは正反対の視線が、こっちを見る。
「でも、ネリイは近づいちゃだめだからね」
「どうして?」
「その……『病気』なのよ、あの人は。すごくタチの悪い病気らしいから、ネリイは遠くから見るだけにしておきなさい」
「ふうん。よくわからないけど、かわいそうだね」
(お前のほうが、よっぽどタチの悪い病気なんじゃないのかよ!)
そう大声で叫びそうになるのを、イノはぐっと耐えた。ここで怒鳴ったりしたら、あのネリイという子がびっくりして泣き出すかもしれないと思ったからだ。そ
れに、捕虜という立場を隠さなければならない以上、目立った行動に出ることはできない。
ふと気づけば、少女がじっとこちらを見ている。「病気」に同情されているのか、「病気」を怖がられているのか……なんにせよ真摯な瞳である。どうしていい
やら情けないやらで、イノは顔をふせてしまった。
最低だ。最低の気分だ。最低の女のせいで。しかし、そんな女に二度も見とれた自分はもっと最低だ。
ろくでもない嘘をついたレアは、ネリイの持っているカゴから赤い実を一つ取り出し、そしらぬ顔でほおばっていた。いったい、どこまで根性が腐っているのだ
ろう。
「あ、ちょっとネリイ!」
うつむいているイノの耳に、レアの慌てた声が聞こえた。地面を向いた視界に、ひょい、と赤い実をのせた小さな手が出てきた。
「はいこれ、オオアカトウの実。いま取ったばかりだからおいしいよ」
ネリイだった。どうやらこの果物をくれるらしい。肩まであるふわふわした茶色の巻き毛の中から、同じ色をした目がこちらを見上げていた。
真っ直ぐな瞳。一瞬だけ、不思議な光景の中で出会った少女を思い出した。
こんな小さな子供と間近に接するのは初めてだった。イノはぎこちなく赤い実を受け取って口に運んだ。甘酸っぱい果肉の味。そういえばここに着いてから何も
食べていない。急に腹が空いてきた。
「元気だしてね!」と、ニコニコ笑いながら、少女はカゴごと目の前に差しだしてきた。『病気のお兄ちゃん』を、健気にもはげまそうとしてくれているよう
だ。
イノはせっせと赤い実をほおばった。理由はともかく、幼い相手の無邪気な優しさと笑顔に、さっきまでのムカムカした気分が洗い流されていくみたいだった。
「ありがとう。おいしかったよ」
カゴの中身を半分ほどごちそうになってから、小さな少女に礼をいった。うれしそうな相手の表情につられるように、自分も笑っていた。
「わたし、ネリイ。お兄ちゃんの名前はなんていうの?」
「オレは──」
「ごめんね、ネリイ」
それまで黙っていたレアが、さっと割って入った。
「せっかく集めたのに、この人がこんなに食べちゃって」
最後の部分だけ、まわりの人間にも聞こえるように言っている。はてしなく根性が腐った女だ。もはや腹も立たない。きっと、赤ん坊の頃からこんなだったのだ
ろう。
「いいよ。まだいっぱいあるから」
「ほんと、ネリイは優しいわね。じゃあ、わたし達そろそろ行かなきゃいけないから」
「うん。またね」
少女は元気に手をふって、向こうへと駆けていった。イノとレアも笑いながら手をふって彼女を見送る。
ネリイの姿が緑の中に消えた。二人の顔からも笑顔が消えた。
「行くわよ」
「ああ」
無愛想そのままのやりとりで歩き出す。
最後に来たのは、『見晴らし台』と呼ばれている場所だった。先住民が土地をかこんでいる崖を削って造ったものらしい。急な段差の石階段を上がっていくと、
岸壁に張り出した小さなテラスにたどり着く。ここからはネフィアの本拠地が一望できた。
もう日が暮れようとしていた。見上げれば、円い空が夕焼けの色にそまっている。穴の中にある土地だけに、外よりも暗くなるのがはやいようだ。遠くの景色は
薄闇につつまれ、中央にある家々には明かりが灯りはじめている。
二人は石の手すりに寄りかかって、その光景をじっと眺めていた。
イノは今日の出来事を思い返していた。アシェルとの対面、そしてレアに案内されたネフィアの本拠地とそこに暮らす人々。それらは、思いえがいていた「敵
地」の姿とは大きくちがっていた。反組織というだけあって、てっきり「打倒セラーダ」といったギスギスした空気一色にそまっている場所だと想像していたの
だ。しかし、今日出会った人々にそんな雰囲気はなかった。
「そうしていると、少しも兵士らしく見えないのね」
となり(だいぶ離れているが)からレアの声がして、イノは顔を向けた。彼女はこちらを見もせずにいるが、いまの言葉にはいつものような嫌味や挑戦的な響き
はなかった。どうやら、たんなる感想らしい。
「よく言われる」とだけ返した。
レアはそれ以上なにも言ってこない。手すりに腕を組んでいる彼女の白い姿は、決して友好的とはいえないが、これまでと比べてずいぶん落ち着いているように
見えた。
「あんたに聞きたいんだけど」
そんな彼女の横顔に、イノは思いきってたずねてみた。
「ここに暮らしている人達は、どういう素性の人間なんだ?」
レアは眼下を見つめたままだ。風がバタバタと服をはためかせている音がする。
無視されたものとあきらめた瞬間、彼女が口を開いた。
「ここにいるほとんどの者は、セラーダ軍に住むところを追われた人達よ」
「追われた?」
「そうよ。セラーダの体制に反発した、あるいはしたと判断された、そんな理由でね。中には村ごと焼き払われた人もいるわ」
「そんな話」イノは眉をひそめた。「聞いたことないぞ」
レアが身体ごとこちらを向いた。その表情が硬い。
「あなた軍の人間なのに、なにも知らないの?」
きつく問いつめるような口調とまなざし。イノは返す言葉につまる。事実、なにも知らないに等しかった。軍の作戦に関わった兵士は、原則としてその内容を口
外することを禁じられている。「黒の部隊」でもそれは変わらない。
「まあ、知らなくても仕方ないわ。あなたをふくむフィスルナの市民は、外の世界の人々についてなにも聞かされていないし、考えたこともないでしょうから」
「そんなことはない! 外から来る人間だっているんだ。よその村や街の話ぐらいは聞いてる」
「それ以外の人々に、セラーダが何をしているかまでは知らないでしょう?」
むきになって否定するイノに対し、レアはあくまでも冷静だ。
「セラーダが‥‥‥何をしてるっていうんだよ?」
「強制労働よ。徹底された管理の下でのね」
「強制労働? なんのために」
「フィスルナに物資を供給するために決まってるじゃない。あんな寂れた土地にある巨大な都市を養うのに、どれだけの物が必要なのか知ってる? 『虫』との
戦争でどれだけの物が消費されるか考えたことある? 生産区で作られる市民の生活品や、あなた達が使っている武具の材料がどこから来たと思ってるの? 外
から運びこまれる資材があってこそ、それらすべては成り立っているのよ?」
「物資が来るのは──」相手の言葉に押されつつも、口を開く。
「外の人達が、セラーダと『虫』との戦争に協力してくれてるからだろ?」
「協力、ね」
重々しい口調で、レアはつぶやく。
「だから、あなた達はなにも聞かされていないっていうのよ」
「なにがどうちがうんだよ?」
「さっき言ったでしょ? 強制労働だって。無理やりさせておいて『協力』だなんて、よくいえたものだわ」
彼女は淡々と続ける。
「セラーダの勢力下に入った地域は、軍によって管理される。そして住民は、農作物の生産や材木の伐採、鉱山での採掘に従事させられることになるわ。ネリイ
のような小さい子供もふくめてね。もちろん、逆らうことなんて許されない。反逆者がどうなるのかは、あなたもよく知っているでしょう?」
もちろん知っている。たとえフィスルナの市民であっても、国家への反逆行為は重罪だ。しかも、本人だけの問題におさまらず、周囲の人間にまでその疑惑が向
けられてしまうことだってある。
「じゃあ、ここで暮らしている人達は……」
「そう、犠牲者よ。『楽園』の奪還だなんて目標をかかげて、何十年も『虫』とのくだらない戦争をしているセラーダの生みだしたね」
「くだらないことなんかないだろ!」
イノは思わず声を荒げた。
「そのためになら他の人々に何をしてもいいの? 『あなた達がひどい目にあったのは、セラーダが『虫』と戦うためには仕方のないことだ』って、あなたはこ
こに暮らしているみんなに、そうやって言うつもり?」
責めるわけでもなく、蔑むわけでもなく、レアの声はあくまでも静かだった。その態度は、怒鳴りちらしていたときよりもずっとイノを圧倒した。
彼女の話が事実だという証拠はない。だが、デタラメだという証拠もない。
もし本当ならば、ひどい話だと思う。だが、それが『虫』との戦争によって引き起こされているものならば、イノには否定することができない。自分も、仲間達
も、他の兵士も、命をかけて怪物と戦っている。クレナ達フィスルナの市民だって、そのために昼夜をとわず働いている。それらは『くだらない』ことなんだろ
うか。
そうは思えない。思ってはいけない。『虫』との戦いで死んでいった多くの者達を、父を、『くだらない』と言うことだけは絶対に許されない。
それでも心の動揺はおさまりそうになかった。なにをどう言い返していいのかわからず、イノは沈黙したまま眼下の景色に身体を向けた。レアも無言で同じよう
にしていた。
しばらくのあいだ静寂がその場をつつんだ。夕暮れの赤い薄闇のなか、風の吹く音だけが聞こえた。
「ここの人間は……セラーダを恨んでいるのか?」
まぬけな質問だと思ったが、イノはそう聞かずにはいられなかった。今日出会ったネフィアの人達には、悲惨な過去を匂わせる感じがしなかった。
「心の底では恨んでいるでしょうね。でも、ほとんどの人達はそれを口に出したりはしない。目の前の生活に打ちこむことで、つらい出来事を忘れようと懸命に
努力してる」
「あんたは、どうなんだ?」
ふと思い、たずねた。
レアの瞳は遠くに広がる闇を見つめている。やがてつぶやくようにいった。
「過去を忘れることが……どうしてもできない人間だっているわ」
その口振りだけで十分だった。イノはそれ以上たずねなかった。いままで自分が彼女から目の仇にされていたわけが、ようやくわかった気がした。
同じだ。それを理解した。彼女が自分──セラーダに対して抱いているものは、自分が『虫』に対して抱いているものと同じなのだと。
暗く、重く、決して消え去ることなく心の内に潜み、ときにすべてを忘れさせるほどに激しく荒れ狂うもの。イノはそれを知りすぎるほどに知っている。
大切なものを奪った相手への憎しみ。
腹の立つ女──レアに対して抱いていた印象が、イノの中で急激に薄れていった。彼女が腰に差した剣を振るっている理由。その憎しみの対象がセラーダだとい
うのならば、そこに所属している自分が忌み嫌われるのも仕方のないことだと、受け止められる気がした。
「戻りましょう」
三度目の沈黙の後、やがてレアがいった。
* * *
その頃、ブレイエの砦では、駐留していたネフィア討伐軍がセラ・シリオスの指揮の下、ついに進軍を開始していた。