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─六章  静かな庭園で(1)─



「組織の新入り」という仮の身分をあたえられたイノが、ネフィアの本拠地で生活をはじめてから五日が経った。それは、捕虜として連れてこられたときには考えもしなかった、穏やかな日々の連続だった。

もちろん、その間ただボサッとしていたわけではない。いずれ脱出するために、と二日目には一人で歩きまわって、自分なりにこの土地を調べてみた。しかし、 それでイノにわかったのは、逃げ出すのが容易でないということだけだ。

外の世界へ出るには、来たときと同じように洞窟を通り抜けなければならない。しかし、そんな洞窟は何十と存在しており、そのすべてが外に通じているわけで はなく、内部は迷路のようになっているらしかった。

もちろん、ネフィアの人間はどの洞窟が外に通じるものであるかを把握している。しかし、その洞窟の前には、いつも武装した男達が見張りに立っていた。さす がに、彼らにはイノの正体が知らされているようで、近くを通るだけで警戒の視線を向けてきた。言うまでもないが、土地全体をぐるりと囲っている高い岩壁を よじのぼるなんてのは問題外だ。

没収された装備もどこに保管されているのかわからず、『金色の虫』もアシェルの部屋にあるために手が出せない。組織で一番重要な人物だけあって、彼女の部 屋には普段から厳重な警備がしかれている。イノのような人間が、気軽にたずねられるような雰囲気ではない。最初のように向こうから呼び出してくれるのでも ないかぎりは、とても会えそうになかった。

生活そのものに不自由はないが、逃げ出すには不利なことだらけだ。やはり、アシェルという人物はただのお人好しではなかった。やることに抜け目がない。

そのネフィアの指導者の印象は、自分でも驚くほど強くイノの心に刻まれていた。たった一度、わずかな時間会ったにすぎないというのに。美しい外見、やわら かな物腰、そして、彼女と自分との間にあった不思議な感覚。それら一つ一つを思い起こすたびに、浮き立つような妙な気分にさせられる。

『また会いましょうね』──彼女の言葉がいずれ現実のものになると、イノは確信していた。そして、脱走も困難とわかった以上、そのときまでおとなしくして いるしかないと判断した。

だからといって、『館』の部屋に閉じこもっているのは退屈すぎた。もともと、じっとしているのは性にあわない。だが調べることを調べてしまった今では、特 別やることもないため、結局は外をぶらぶら歩く他なかった。もはや、ただの散歩である。

イノは歩きまわるとき、ここに暮らしている住人達との接触はなるべく避けるようにしていた。彼らがセラーダによって悲惨な過去を負わされているとレアから 聞いた後では、自分がセラーダの兵士としての身分を隠してこの地にいることに、若干のうしろめたさを感じていたからだ。

五日目となる今日も、イノは行くあてのない散歩をはじめた。身につけているのは、初日にレアに渡されたブカブカのうっとうしい服ではなく、「黒の部隊」で 使っている自分自身の服だ。服自体にはなんの特徴もないため、これだけなら素性がばれることはないと判断してくれたのか、わざわざ洗濯までされて返ってき た。見知らぬ土地で軟禁同然の生活を強いられている身には、たかが服であっても、自分の所持品がもどってきたことはうれしいものだ。

早朝に降った雨はもう止んでいた。岩壁に切り取られた円い青空から降りそそぐ日の光が、まだ濡れている草地や家々の屋根をまばゆくきらめかせていた。その 光景のあちこちに、自らの生活にせっせといそしんでいる住民達の姿が見える。

まさに平穏そのもの。ここにあるのは、なんの脅威もなく居心地のよい日常だ。

しかし、イノは遠くからそれらを眺めているだけだった。もちろん、住人達との接触を避けるようにしているためもある。だがそれ以前に、心の奥底で、自分が この落ち着いた世界に溶けこむことを拒絶していた。

今この瞬間にも、外の世界では大勢の兵士が『虫』と戦っているのを、イノは知っているからだ。心と身体がその場にもどることを欲している。死ととなりあわ せの生活に帰りたいと叫んでいる。ここでのんびりとしている自分に歯がゆささえ感じていた。

ネフィアがブレイエの砦が襲撃してから、もう十日以上が過ぎ去っている。セラーダ軍による追跡がどうなっているかはわからないが、なんにせよ、スヴェン達 はもうブレイエから引き上げているだろう。反組織の調査などは「黒の部隊」の仕事ではない。イノは行方不明……あるいは死んだものとみなされて、彼らはま たいつものように、『虫』と戦う日々を送っているにちがいなかった。

そして、もうじき『聖戦』がはじまる。セラーダと『虫』との最後の戦いが。亡き父や自分自身の悲願でもあるこの作戦に、このままでは参加できるかどうかも 怪しい。

あの英雄シリオスに、「期待している」とまで言われたのに……。

「どうしたの?」

ふいに、そばから聞こえた小さな声。

「いや。なんでもないよ、ネリイ」

考えごとをやめ、イノは心配げに見上げている少女に笑いかけた。

「イノ、こわい顔してたよ」

「そう?」

「うん。また病気がわるくなったの?」

「えっ? ああ……あれはもう治ってるから。大丈夫」

イノは慌てて手をふった。レアに吹きこまれたくだらないデタラメを、この幼い女の子は素直に信じきっていた。むろん、きっぱりと否定したいところだが、そ の辺の事情を小さな子にどう説明してよいやらわからず、仕方なくそのデタラメに話をあわせてしまっている。

あてのないイノの散歩に、小さなネリイが加わるようになったのは二日前からである。たまたま菜園の近くを通りかかったときに、彼女から声をかけられたの だ。どうやら、「病気のお兄ちゃん」のことを覚えていてくれたらしい。前回のように邪魔者がいなかったため、今度はちゃんと、こちらの名前を少女に教える こ とができた。

しかし、去りぎわにネリイから「イノについていく」と言われたときは、正直に困ってしまった。幼い子のおもりなんてしたことがない上に、自分の立場を考え ると、連れまわしていいとは思えなかったからだ。でも、こちらの正体を知らない周囲の娘達は止めようともしなかったし、なによりも、ニコニコしている若い 娘 達が見てる前で、ニコニコしている小さな女の子に対して「来るな」と突っぱねる度胸など、イノにあるわけがなかった。

結局、散歩は二人連れになってしまった。そして、あれやこれやと心配して一人ハラハラしているイノに、当のネリイは楽しそうに話しかけ、笑いかけてきた。

輝くような少女の無邪気さ。聞けば、彼女はここで生まれ育ったのだという。大人達が背負っているつらい過去や、それが投げかける影といったものは、この少 女には無縁のものだった。

自分でも意外なことに、そんなネリイと一緒にいるのは、少しも悪い気分ではなかった。その幸せそうな笑顔を向けられ、温もりのある小さな手をにぎっている 間は、自身を取りまいている複雑な状況を、少しだけ忘れることができた。

フワフワした巻き毛と、クルクル動く大きな瞳をしたネリイは、ただでさえかわいらしい。知りあってまだ間もないが、妹がいたらこんなだったかもしれない と、イノはつい想像してしまう。自分にとっての兄姉といった存在は、なにかあれば頭をどつくスヴェンと、なにかあれば頭をどつくクレナの年長者二人だけ だった。『妹』というのはすごく新鮮だ。

「もうちょっとしたら、ロレシアの花がさくよ」

「ロレシアの花?」

「うん。ネリイとみんなで育ててるの。どんな花か知ってる?」

イノは首をふった。ネリイや他の女の子達が、菜園で農作物とは別に花を育てているという話は、昨日聞いたばかりだ。

「小さくて白くてきれいな花だよ。さいたらイノにも見せてあげるね」

「わかった」

満面の笑みを浮かべているネリイにそう返事する。その花がさく頃には、自分はもうここを逃げだしているかもしれないという考えが、ちらと頭をかすめた。

そうなれば、この幼い少女は悲しむだろうか? 思うと少し胸が痛む。

でも仕方のないことなのだ。敵側の人間という立場以上に、お互い住む世界がちがいすぎるのだから。花を育てる少女の無垢な手をにぎっている自分の手は、醜 いバケモノ達の血で汚れきっている。これから先もずっとそうだ。

アシェル達が『金色の虫』を使って、これから何をしようとしているかはわからない。だが、それは戦いとは無縁のものではないはずだ。一応は組織の人間であ るネリイが、そんな大人達の争いごとに巻きこまれることになってほしくはなかった。大きくなればいずれは外の世界の悲惨な現実を知ることになるとしても、 それまでは無邪気に花を育てる女の子であってほしいと、イノは本心から思った。

この自分のように、幼い頃から重く暗いものを心の内にかかえて生きるのではなく……。

「おーい!」

小川にかかる橋を渡っていたところで、だれかの呼ぶ声がした。

「あ。イジャだ!」

ネリイの指さす方向に一件の小さな家があり、剃った頭のひょろひょろした男が立っているのが見えた。

「よう」そばへやってきた二人に、イジャが片手をあげた。

「よう!」ネリイが元気よく真似をした。

「なにか用か?」イノはたずねた。

「へえ」と、イジャは手をつないでいる二人を見てニヤリと笑った。

「お前さん、意外と手がはやいんだな」

「行こうか、ネリイ」

「おいおい、怒るなよ! 冗談のわかんない奴だな」

「それぐらいはわかるよ」

慌てて呼び止められ、立ち去るふりをしていたイノは、小さく笑って彼に向き直った。

「そういや、ここに来てからあんたを見かけてなかったけど?」

「ヤボ用で出かけてたのさ。下っ端はいそがしくてね」

「イジャはね。ネリイよりもシタッパなんだよ!」

小さな少女が得意げに説明しながら、イノの手を引いてきた。

「そうだなあ。お前のほうが、俺よりも長くここにいるもんな」

笑いながらネリイに話しかけているイジャを見て、イノは安心した。『虫』に襲われて以来だいぶ沈んでいたようだが、この様子だとすでに立ち直ったらしい。 捕虜である自分にまともに話しかけてくれた相手というだけあって、気にはしていたのだ。

「で、オレになんの用なのさ?」

「まあ、なんだ。つまりアレだ。こないだの礼を言っておこうと思ってさ。ほら、お前さんがぶっ倒した例のアレだよ」

「ああ」

ちらちらとネリイを見るイジャの様子で、彼が言わんとしていることがわかった。

「気にしなくていいよ。べつにあんた達のためにやったわけじゃないから」

サレナク、アシェル、と続いてこれで三度目のやりとりだ。律儀なのはいいことだが、少しはこっちの立場も考えてほしい。むずがゆい気分になってしまう。

「ねえねえ。なんのお話?」

あんのじょう、ネリイが二人を交互に見てたずねてきた。

さて困った。まさか『虫』のことを話すわけにもいかない。

「このイノに──」

すかさずイジャがいった。

「危ないところを助けてもらったって話さ」

「あぶないところ?」

「そうとも。怖い動物を追っぱらってもらったんだ」

「ほんと?」

ネリイが驚きの声でイノを見上げる。いつも以上にその瞳がまぶしい。まるで、おとぎ話の世界からやってきた勇者でも発見したかのようだ。

「イノ、強いんだ!」

「まあ……どうかな……」

キラキラした瞳に、なんと返事していいやらわからないイノだ。

「病気なのにすごいね!」

「ネリイ……それはもういいから」

「レアとどっちが強いの?」

「え?」

思いもよらない名前が出てきて戸惑った。バカ正直に「もうちょっとで殺されるとこだったんだよ」なんて言えやしない。

「レアもすごく強いんだよ」

「うん」

それは認める。イジャも腕を組んでうなずいている。

「すごくきれいだし。すごくやさしいし」

「うーん」

前者は認める。でも後者は認めがたい。イジャも首をひねっている。

「ネリイも大きくなったら、レアみたいになるの」

『それはやめたほうがいいぞ』

言葉の内容よりも、イノとイジャの声がピタリと重なったのがよほどおかしかったらしい。小さな少女はお腹をかかえて笑った。



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