─六章 静かな庭園で(2)─
闇に浮かぶ血みどろの死者達。
虚ろな瞳が。語ることのない口が。幼いわたしに訴えている。
怒りを。恨みを。失望を。
『ごめんなさい』
わたしの口から出てきた言葉。これまで数えきれないほどくり返してきた言葉。
死者達は応えない。
『ごめんなさい』
あやまり続けた。小さな身体から出てくる弱々しい声で。
『ごめんなさい』
ずっとずっとあやまり続けた。許してもらえないのはわかっているのに。でも、他に何が言えるのだろう。
ふと、後ろに人の気配がした。
誰かがいる。そして、わたしはそれが誰かを知っている。
振り返ってはいけない。見てはいけない。
いつもそう呼びかけるのに、それでも、小さな姿をしたわたしは後ろを向いてしまう。
男がいた。全身を闇でつつんだ若い男だ。
彼の片手にある剣。漆黒の刃からしたたっている滴。
赤い……赤い……。
『こんばんわ』と男が微笑む。
忘れることのできない顔で。忘れることのできない声で。
幼いわたしをいたわるように。
無力なわたしを哀れむように。
* * *
レアは目を覚ました。
ベッドから身体を起こす。激しく胸を打つ動悸。汗にまみれた全身。
周りを見る。窓から差しこむ月明かり。外で鳴いている虫達の声。
ここは自分の部屋だ。あの闇の中ではない。
レアは大きく息を吐きだした。額にかかった前髪をかき上げる。また、いつもの夢を見たのだ。
血みどろの死者達。彼らはときおり夢の中へと現れる。幼い頃からずっとそうだった。
なにもできなかった℃ゥ分への戒め。
そう理解しているのに。ちゃんと受けとめているのに。彼らが訪れるたびに味わう心の苦痛は、やわらぐことがなかった。
でも当然のことなのだ。死者達の痛みや苦しさは、自分のものよりも、もっとずっとつらいものだったのだから。
いつか彼らに許される日はくるだろうか。死者としてではなく、かつて愛したその姿で、夢の中に訪れてくれるだろうか。
あの男を。優しげな笑みを向けてきたあの男を。自らの手で葬り去ったそのときに。
レアは小さく息をつく。もう今夜は眠れない。あの夢を見た後はいつもそうだ。
昔の自分だったら、このまま朝がくるまで泣いていただろう。
ベッドの脇に立てかけてある剣を手に取った。
鞘から静かに刃をぬく。月の光が黒い刀身の上をすっと滑る。
黒──それはレアにとって、この世で最も嫌いな色だ。最上の金属というのでなければ、こんな色をした剣など使いたくはなかった。
だが、その色は自分の力の象徴でもあった。もう無力な女の子はいないのだと、黒い刃は教えてくれる。
レアは剣をおさめる。ベッドをおりて、窓の脇にある机の引き出しから小さな木箱を取り出した。
箱の中には、銀色をした美しい指輪が収まっていた。正面に花をあしらった細やかな彫刻のほどこされたそれは、自分と過去とをつなぐ大切な物だ。
忘れられない。忘れてはいけない。そして、忘れさせてはくれない過去を。
指輪をズボンのポケットにしのばせた。装身具として指にはめることはないものの、寝るとき以外は肌身はなさず持っている。あの日からずっとそうしてきた。
机の上に置いてある紐で、長い髪を一つにたばねると、レアは剣を手に部屋を出ていった。
* * *
イノは目を覚ました。
あの後、ネリイは菜園の手伝いをしに帰ってしまった。一人暇になってしまったイノは、イジャが家の屋根を修繕するというので、その手伝いをすることになっ
た。
慣れない大工仕事に四苦八苦しながらも、なんとか夕方には作業は終わった。そのままイジャの作った夕飯(意外にうまかった)を食べて、彼の趣味であるガラ
クタ道具の数々を見物してから、『館』までもどった。
イノは窓を見た。外はすっかり夜である。満腹だったせいか、横になったとたん寝入ってしまったらしい。
ひどく喉が渇いていた。水を飲もうと、ベッドをおりて水差しを取る。あいにく中身はほとんど入ってない。新しく汲みに行かなければならなかった。
水を汲む場所は、『館』内にある庭園の噴水だ。少々面倒だが、どのみち今夜は眠れそうもないからかまわない。はやくから寝てしまったせいで、頭はすっきり
と冴えている。
水差しを片手に、イノは部屋を出た。
いまではすっかり見慣れてしまった石造りの回廊は、人気もなくしんと静まり返っていた。冷えた空気の中に、自分の立てる靴音だけが響く。脱走するには絶好
の機会である。もちろん、自分の装備と、『金色の虫』が手もとにあればの話だが。
やがて回廊の先に、目指す庭園からもれている月明かりが見えてきたとき、イノの耳はそこから聞こえてくるかすかな音をとらえた。
ひゅん、ひゅん、と風を切る耳慣れた音。
剣だ。誰かがこの先で剣を振るっている。こんな時間に稽古でもしているのだろうか。
首をかしげながら庭園の入り口までやってくると、噴水の前にいる人物の姿がはっきりと見えた。
レアだった。
イノは思わず中へ入るのをためらった。この地を案内された日以後、レアとは一度も会話をしていない。彼女の部屋も『館』の中にあるらしく、たまに回廊です
れちがうことはあっても、お互い視線すら交わしていなかった。
レアはあきらかに自分を避けていた。だが、イノは相手の態度にいままでのような悪感情を抱くことができなかった。むしろ、その方が自分達のためにはいいの
だと思っていた。
ほんの少しだが知ってしまったからだ。相手の心の内にあるものを。そして、それが自分自身の心の内にあるものとよく似ていることを。
不思議なことに、レアはイノだけでなく、ここで暮らしている人々にも一歩引いて接しているようだった。同年代の女の子達や、大人達が楽しそうにおしゃべり
している輪の中に、彼女の姿を見かけたことは一度もない。どうやら、ネリイに見せていた和やかな表情が、他の人間に向けられることはないらしかった。
そんな彼女の様子がなんとなく気になって、屋根の修繕を手伝っているとき、イジャにそれとなくレアの素性をたずねてみた。だが、子供の頃からネフィアにい
るということ以外、イジャも彼女のことはよく知らないみたいだった。
この組織では、行き場を失った孤児を引き取るようなこともやっているのだという。おそらく、レアもそういった子供達の一人だったのだろうと、イジャは言っ
ていた。
余談だが、会話の終わりに「惚れたんだろ?」とからかわれ、イノは心底からむっとして否定した。冗談ではない。世の中には言っていいことと悪いことがある
のだ。
ともかく、そのレアが今イノの目の前にいた。相手はまだこっちに気づいていない。どうせ会ったところでお互い気まずいだけだから、このまま黙って引き返す
のが無難だと思った。水は外にある小川で汲めばいい。
しかし、頭ではそう考えているにもかかわらず、イノはその場を動こうとはしなかった。
いや、動けなかった。優しい月の光が満ちる庭園から、その中で一心不乱に剣を振る彼女から、視線をそらせることができなかった。
袖のない上着からのびた白い腕に。
いっさいの無駄がない脚さばきに。
身体の一部のごとく、鮮やかに振るわれる漆黒の剣に。
優雅に跳ねている、たばねた長い髪に。
きれいに整った顔に光る汗に。
真剣そのものの青い瞳に。
呆けたように彼女を見ていた。引き返すことも、相手とのこれまでのいきさつも、自分に対して抱かれている感情も、なにもかもを忘れていた。
そのとき、レアの顔が一瞬だけイノの方を向いた。
交わる視線。気づかれた──と思ったときには、もうおそかった。
流れるような彼女の動きが、ぴたりと止まった。
二人の間に流れる沈黙。聞こえるのは噴水の静かな水音だけ。
「どうかしたの?」
やがてレアが口を開いた。とうぜん愛想はない。だが敵意もなかった。突っ立っているこちらを不思議に思って、たずねてきただけのようだ。
「いや……」
ことばを濁らせながら、イノは片手の水差しをひょいと上げた。べつに着替えるところを見ていたわけでもないのに、それに似た気まずさを覚えた。
「そう」
水差しを見て納得したようにうなずくと、レアは何事もなかったように噴水が流れこんでいるプールの淵に剣を立て、顔を洗いはじめた。
イノはぎこちない動作で庭園に入った。なんだって、こんなことぐらいでうろたえなければならないのか。そんな自分に、少しイライラしながら。
「こんな時間に稽古か?」
水を汲んでから、となりで顔をふいているレアに声をかけた。べつに相手の返事を期待していたわけではない。ただ、わけのわからない内心の動揺をごまかした
かった。
ところが、すこし間をおいて返事がきた。
「べつに稽古ってほどのものじゃないわ。寝つけないから身体を動かしていただけ」
「そっか。オレもよくやってたよ」
ついつい返してしまった。父や『虫』のことが頭に浮かんで眠れそうもないとき、なにも考えられなくなるぐらいヘトヘトになるまで剣を振って寝る……昔は
しょっちゅうそんな夜を過ごしていた。今でもたまにある。
レアは黙ったままプールの淵に腰かけた。こちらを見ることもなく、深く考え事をしているような顔つきだった。
もう、これ以上話すこともないだろう。イノはその場を立ち去ろうとした。
「あなたは、どうしてセラーダ軍に入ったの?」
いきなり質問された。
「それは……『虫』と戦いたかったからさ」
驚きながらも、正直に答えた。
「『虫』と?」
イノはうなずきながら、なんとなく彼女と同じようにプールの淵に腰をおろした。
「オレの父さんは、あいつらに殺された」
水差しの中でゆれている水を見つめながら口にした。「父」という言葉にレアがぴくりと動くのが、視界のすみに見えたような気がした。
「だから軍に入ったんだ。『虫』と戦うことで……父さんの仇が取れるかもしれないと思ったから」
「他に家族はいるの?」
「いないよ」と肩をすくめる。「父さんは独り身だったし、オレは拾われた子供だから」
「そう」
それで、とレアは少し遠慮がちに口にした。
「お父さんの仇は取れたの? 『虫』と戦って……倒したことで」
イノはしばらく考えた。そして首をふった。
「オレはいままでたくさんあいつらを殺してきた。でも、『仇を取った』って感じたことは一度もないんだ」
「どうして?」
「わからない。いや、ちがうな──」
戦いが終わった後に訪れる虚しさ。その一番の原因。
「結局……オレは自分の憎しみのために戦ってるんだと思う。仇を取りたいとか、みんなを守りたいって気持ちは確かにあるけど、それ以上に、父さんが死んで
からずっと心の中にある暗いものを何とかしたいだけなのかもしれない」
「それまで、あなたは『虫』と戦い続けるつもりなの?」
イノはうなずいた。
「他にどうすればいいかなんて、オレにはわからないから」
心に巣くう憎しみ。それがいつか消え去るものと信じたかった。『聖戦』が終わり、戦争が終わり、バケモノ達がこの世界から一匹残らず消え去ったそのとき
に。
ふと、いまさらのようにイノは不思議に思った。こんな話はスヴェンやクレナにだってしたことがない。聞き手は敵対している組織の人間で、その中でも一番自
分を嫌っている相手と知っているのに。
そのレアはずっと横顔を見せたままだ。それでも、彼女がこちらの話を真剣に聞いていたのはわかった。
お互い、どうも調子が狂っている気がする。そんなもやもやした雰囲気をふっきろうと、イノは相手に顔を向けた。
「あんたは、なんでネフィアに入ったんだ?」
レアはしばらく答えなかった。考えこむような眼差しは、庭園に散りばめられた敷石に向けられたままだ。袖なしの白い上着とズボンを身につけただけの彼女の
身体は、あまりにも華奢に見えた。この体格のどこに、あのすさまじい剣技を振るえる力があるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、レアの姿をながめているうちに、相手の上着の胸が膨らんでいるのが目に入ってしまった。
イノはぎょっとして彼女から視線を外す。相手が『女』だということを、あらためて思い知らされてしまった。
若干うろたえたイノの様子に気づくこともなく、やがてレアは静かにいった。
「わたしがここへ来たのは、あなたと同じでただの成り行きよ。剣を取ったのは……それも、あなたと同じような理由かしらね」
「同じような理由?」
「殺したい相手がいる。ただそれだけよ。でも、あなたが言ったように、自分の心の中にある暗いものを、何とかしたいだけなのかもしれない。わたしも……戦
う以外にどうすればいいかなんてわからないから」
落ち着いてはいるが、力のこもった口調だった。
レアはそれ以上語ろうとはしない。あまり詳しいことには触れられたくないのだろう。それがわかったから、イノも深くたずねることはしなかった。
当然、そこで会話は途切れてしまった。
プールの淵に腰かけた二人に、再び沈黙がおとずれた。
水差しの中でユラユラしている水を見つめながら、イノは途方にくれていた。立ち去ろうかと思っているものの、こうして腰を落ち着けてしまったため、なんと
なくその「きっかけ」がつかめない。かといって、この相手にどんな話を振っていいのかもわからない。
イノには気のせいか、レアも自分と同じ心境をしているように見えた。お互いに動く気配のないまま、時間だけが流れていった。
聞こえるのは噴水の静かな水音だけ。
「ねえ」だしぬけにレアがいった。「あなた今からどうするの?」
「どうするって?」
相手の質問の意味がわからなかった。
「だから……この後すぐ寝るのかどうか、ってことを聞いてるのよ」
「さあ。もう目は覚めちゃってるし、すぐには寝れないと思うけど……」
「だったら、その、しばらくわたしに、付き合って、もらえないかしら?」
「え?」
たどたどしい口調と動作で、レアは立てかけている剣を指さす。つまり、『稽古の相手に付き合え』ということだ。
「ただ──聞いてみただけよ。べつに嫌ならいいわ」
まごついているイノを見て、レアはぶっきらぼうに言った。
「嫌ってわけじゃないけど……オレの剣はどうするんだよ?」
「稽古用のを二本取ってくるわ。お互いそれなら文句ないでしょ?」
早口でそう決めてしまうと、こちらの返事も聞かず、レアは剣を手にさっさと庭園を出て行った。イノは唖然として、彼女の後ろ姿を見つめていた。
いったいどういうつもりなのだろう? 彼女がこんなことを申し出てきた胸の内が、イノにはさっぱりわからなかった。何よりも、言いだしっぺの本人が、こち
ら以上にうろたえているように思える。
(まあいいか……)
どのみち今夜は眠れそうもなかった。単純に稽古だけというのなら、付き合ってもかまわない。それに心のどこかでは、一介の剣士として彼女と再び戦ってみた
くなってきた。
『レアとどっちが強いの?』
イノは小さく微笑んだ。ネリイのあどけない質問。その答えをはっきりさせるのも、悪くはないと思った。