─六章 静かな庭園で(3)─
静かな回廊に、金属のぶつかり合う音が響きわたった。月明かりの庭園で、交差する白刃のきらめきが踊る。めまぐるしく動く互いの靴底が、白い敷石の上でこ
すれた音を立てた。
剣を手渡されたときも、まだ困惑気味のイノだったが、レアと剣を交えるうちにしだいにそれを忘れていった。
使い慣れた自分のものではなくても、久々に剣を握る感触は心地よかった。その剣は稽古目的のために刃をつぶしてある。よほどのことでもない限り、相手が重
傷を負う心配はない。
二人とも、最初はどこかぎこちなく剣を合わせていたが、やがて身体が本来の動きになっていき、ついには本気でぶつかるようになった。
お互いに相手を打ち負かそうと必死に攻め、防ぐ。それは純粋な勝負だった。最初に戦ったときのような殺伐とした空気はまったくなかった。
あの夜とちがって今度は果敢に攻めているイノは、心からこの稽古を楽しんでいた。そして、あらためてレアの剣を扱う技量に舌を巻いた。自分よりよほど「黒
の部隊」に似つかわしいのではないか? とさえ思ってしまったほどだ。
「すこし休まないか?」
お互いの息が上がってきたところで、イノは声をかけた。
レアは黙ってうなずいた。彼女も自分も汗だくだ。
「いい腕してるよ。あんた」
冷たい水で顔を洗いながら、イノが言うと。
「お互いさまでしょ」
と、口をゆすいだレアが返す。
「やっぱり、あなた本気じゃなかったのね。あの夜わたしと戦ったとき」
「本気じゃなかった……ってことはないんだけどな」
「そうかしら? そのあと『虫』と戦ってたときは、まるで動きがちがってたわ」
「それは──」
これまでに経験したことのないあの異様な戦いを、どう相手に説明したらよいのかは、イノにもわからなかった。
「わたしのときは、女だからってことで手を抜いたの?」
「ちがう」と首を振った。「オレにとって倒すべき相手は『虫』で、あんた達はそうじゃない。それだけだよ」
「へえ。ずいぶんお人好しなのね」
あいかわらず愛想なしの、人をバカにした物言いだ。でも、これまで耳にした彼女の声で、一番柔らかなものに聞こえた。
「さ、はじめましょうか」
気を取り直すようにいって、レアは剣を構えた。
「言っておくけど、あなたが大ケガしたって、わたしは責任取らないから」
「わかってる。オレだって、あんたをケガさせた責任なんて取るつもりないからな」
イノも剣を構えてやりかえす。もっとも、自分も彼女も大ケガにつながるような場所を狙うのは避けている。それは単純な勝負事として、自然と二人の間にでき
た暗黙のルールのようなものだった。だからこそ、心から楽しいと思えるのだろう。
同時に踏みこむ二人。再び庭園に満たされる刃の音ときらめき。
やがて。
互いに一歩もゆずらない攻防の中、レアの剣を受け流し反撃に出ようとしたイノは、庭園の入り口にたたずんでいる人影に気づいた。
銀色の髪、そして紫色の長衣──
瞬間、レアの剣に肩を激しく打たれてしまった。稽古用とはいえ、ものすごく痛い。しかも本気の一撃だ。思わずうめき声がでた。
「アシェル様!」
そこでようやく、レアも彼女が見ていることに気づいたらしい。
「ごめんなさい」
申し訳なさそうに口にしながら、アシェルは庭園へ入ってきた。
「邪魔をするつもりは、なかったのだけれど……」
「どうしたんですか? こんな時間に」
レアが彼女に駆け寄る。もちろん、痛そうな顔をして肩を押さえているイノはそっちのけだ。しかし『ケガの責任は取らない』と、ついさっきお互いが口にして
しまっため、その態度に文句は言えない。
「ただの散歩よ。そしたら、あなた達が仲良くしてるのが見えたものだから」
「べつに仲良くなんかしてません!」すかさずレアが声を上げた。
「ところで彼、大丈夫なの?」
アシェルが心配げにイノを見た。
彼女につられて、レアも顔を向けてきた。
「死にはしませんよ」と、あっさり顔を戻した。
「そんなことより、はやく部屋に戻りましょう。わたしが送っていきますから」
「あら。どうして?」
「どうしてって……その、こんな夜更けに起きてたら、お体にさわるからです」
「それはそれは、ご親切にどうも。でも心配いらないわよ。わたしにかまわず、二人で楽しんでなさいな」
「だから、楽しんでなんかいませんってば!」
「あらあらあら。そんなに照れなくてもいいじゃないの」
「いい加減にしてください! なんでそんなこと言うんですか!」
からかうアシェルと、いつものようにわめきはじめたレアを、イノは肩をなでながら交互にながめていた。痛みはひいてきた(痣にはなっているだろう)が、と
ても口をはさめるような雰囲気ではない。
それに──またあの不思議な〈繋がり〉を、イノはアシェルとの間に感じていた。ここしばらくはその感覚から遠ざかっていたが、こうして彼女を間近にする
と、それは当たり前のように存在していた。
指先同士で触れあうような、ほのかな暖かさを通して伝わってくる印象。胸の内に去来する、自分のものではない『想い』。
楽しさと、懐かしさと、そして悲しさと。
これは今、目の前の女性が抱いているものなのだ。なぜだかそれがわかった。
「イノ」
ふいにそのアシェルから名前を呼ばれて、イノはどきっとした。鳶色をした優しい眼差しと、月の光そのままに見える銀色の髪が自分の方を向いている。わけも
わからず顔が熱くなった。
「よかったら、明日一緒に夕食でもどう?」
「夕食?」
「ちょっと──いきなり、なにを言いだすんですか!」
レアの抗議にかまわず、アシェルはにこやかにイノを見つめている。
いずれ彼女から呼び出される日がくる……とは予想していたが、こんな形で本人からじかに言われるとは思ってなかった。しかも、クレナ以外の女性から食事に
誘われたのは生まれて初めてだ。
イノは返す言葉すら思いつけず、エサをついばむ鳥のように何度もうなずくしかできなかった。
「決まりね。じゃあ明日、夕刻の鐘が鳴ったら、わたしの部屋にいらっしゃい」
「さあ、もういいですか? いいですよね?」
イライラした様子のレアが、アシェルの背中を強引に押しはじめた。
「まあこの子ったら、彼はどうするのよ?」
「ほっといたって、死んだりはしませんから!」
「そうじゃないでしょ? あなたね──」
離れていく二人のやりとりを、イノはぼさっと突っ立って聞いていた。その瞳はアシェルだけを見ていた。その心は彼女との〈繋がり〉だけに向けられていた。
レアが思いついたように途中で引き返してきて、自分の手から稽古用の剣をひったくっていったのが、どこか遠くの出来事のように感じられた。
はっ、とイノが我に返ったときには、庭園に一人きりで取り残されていた。
聞こえるのは噴水の静かな水音だけ。
オレは何をしにここへ来たんだっけ?──ふと思った。