─六章 静かな庭園で(4)─
「ちょっと待ちなさい」
アシェルを部屋まで送り、退出しようとしていたレアは彼女に呼び止められた。
「どうかしましたか?」
「『どうかしましたか』じゃないわ」
アシェルはあきれたように。「頭よ。あなたの頭」
「頭?」
「髪の毛よ! メチャクチャじゃないの」
レアは髪に手をやった。たしかにだいぶもつれている。適当にくくったうえに、捕虜との稽古で、あれだけ激しく動いたのだから当然だろう。
「それがどうしたんです?」
「まったくもう……」アシェルが大きくため息をついた。「ちょっとこっちへいらっしゃい」
レアは言われるままに鏡台の前に座った。鏡の中から、きょとんとした表情の自分が見返している。その上で、アシェルがたばねていた髪をほどい
て顔をしかめた。
「まあひどい有り様ね! ろくに手入れもしてないじゃない」
「ちゃんと洗ってますよ」失礼な、とばかりに返す。
「これだもの……あなたのは、ただ洗ってるだけでしょ。せっかくきれいな髪なのに」
ますますあきれ顔のアシェルは、鏡台から櫛を取り出すと、せっせとレアの髪をすきだした。
こうして彼女に髪をすいてもらうのは、ずいぶん久しぶりだ。そう思っていると──
「痛っ!」たまらず声を上げた。
「自業自得よ。がまんなさい」
しょっちゅう櫛に引っかかる髪と格闘しているアシェルに、そうたしなめられる。
「好きで伸ばしてるんじゃありません! アシェル様がそうしろっていうから──」
「しょうがないじゃない。あなたは髪の長い方が似合っているもの」
「知りませんよ、そんなの!」
鏡の中の自分が、渋い顔で頭上に訴えている。髪を伸ばしていてよかったと思ったことなんて、これっぽっちもない。邪魔だし、重いし、洗うのは
面倒だし。アシェルの『命令』でなければ、とっくにバッサリと切っているところだ。
「じゃあ、どういう髪型だったらいいの?」
「そうですね……たとえば、イジャみたいな剃り上げたのとか」
「なにバカ言ってるの!」と怒られてしまった。
「冗談ですよ」
レアは舌を出した。イジャの頭を見て「手間がなさそうで羨ましい」と思ったことは事実だが、さすがに同じ髪型にするだけの決断は持てなかった。
「あなたのは冗談に聞こえないわ……。もし勝手にそんなことをしたら、髪が伸びるまで外出禁止にするから」
アシェルは本気だ。レアは肩をすくめた。『指導者の命令』に従って、このわずわらしい髪と付き合うしかなさそうだった。
「どうして、あいつを食事に誘ったりしたんです?」
髪と櫛との折り合いが、ようやくうまくいきはじめたところで、レアは彼女にたずねた。
「あら。おかしいかしら?」
「おかしいから聞いてるんです。あいつはわたし達の敵じゃないですか」
「じゃあ、あなたがその『敵』と稽古をしていたのはどうして?」
「それは……」
「わたしは途中からしか見ていないけれど、きっと、あなたの方から彼に声をかけたのでしょう?」
言い返せない。レアは顔を伏せた。
なぜあんな真似をしたのか──それは自分でもわかっていた。
罪悪感だ。あのイノという捕虜を憎み、殺そうとしたことへの。
彼と最初に出会ったあの夜、レアは身体の内からあふれ出る憎悪に流されるまま戦った。しかしその後、捕虜となった彼と接するにつれて、しだい
にその感情を維持することが難しくなってきていた。
気づいてしまったからだ。彼は自分が殺したいと願っている相手ではないことに。セラーダの兵士というだけで、あの忌々しい黒い兵装に身をつつ
んでいたというだけで、憎しみのすべてをぶつけていただけだということに。
たんに『あの男』の姿を相手に重ねていただけだった。八つ当たりと変わらないケチな感情で、自分は一人の人
間を殺すところだったのだ。
捕虜を見るたびに、その事実を突きつけられているような気がして、レアはここ数日ずっと彼を避けるようにしてきた、しかし、同じ場所で暮らし
ているため、相手の姿は嫌でも目に入ってくる。
「黒の部隊」の装備を外した彼は、まったく普通の男の子に見えた。さらに、幼いネリイと手をつないで穏やかに散歩している様子には、砂粒ほどだ
が好感さえ抱いてしまった。
だから、今夜の予期せぬ出会いに、思わず声をかけてしまったのだろう。ひょっとしたら……自分は彼に謝ろうとしていたのかもしれない。
庭園での彼とのぎこちない会話。それでも、レアは知ってしまった。相手が自分と『同じ』だということを。大切なものを奪わ
れ、その憎しみのために戦っているという事実を。
「楽しそうに見えたわよ。彼と稽古しているときのあなた」
アシェルが優しく頭をなでてくる。
今度も言い返せなかった。それは事実なのだから。
殺したい相手でなかろうと、自分と同じものを抱えていようと、彼は『敵』であるというのに。
我ながら情けない話だと思う。これでは、なんのために周囲の反対を押し切って、死にもの狂いでサレナクから剣を学んだのかわかりゃしない。
なにより最悪だったのは、そんな自分の姿を人に見られてしまったことだ。しかも、よりによってアシェルに……。
「──わたしの質問に答えてもらってませんけど?」
焦ったようにレアは口を開いた。もうこれ以上、この話には触れられたくはない。今夜の出来事は、とっとと忘れてしまいたかった。
アシェルは微笑みながら。「ただ彼と話がしたいだけよ」
「話って……なにを話すっていうんですか?」
「まあ色々と、ね」
レアは眉をひそめた。いくらなんでも、あのイノという捕虜に対するアシェルの態度には、『いきすぎた』ものを感じ
る。
「わたしも同席します」
「いえ。悪いけど、今回は外してもらうわ。彼と二人きりにしてもらいたいの」
「そんな……危険すぎます! なにかあったらどうするんですか?」
「なにもありゃしないわよ。彼が危険な人間でないことぐらい、もうあなたにだってわかっているでしょう?」
レアはむっつりと黙りこんだ。捕虜の危険うんぬんの話よりも、アシェルに同席を断られたのがショックだった。
(いったい、あいつがなんだっていうんだろう?)
いくら「黒の部隊」といっても、しょせん彼はただの兵士にすぎず、セラーダの重要機密等を知っている可能性はないはずだった。それなのに、どうして特別
扱いする必要があるのか。もし、彼を仲間に引きこむための会見だとしても、ここまでしてそれを秘密にする理由がわからない。
なんにせよ腹が立つ。アシェルが『この自分』を外して、あの捕虜に会うということが。
口にこそ出さないが、彼女の片腕の気分でいるレアだ。正直、ちょっと傷ついている。
「……趣味なんですか?」唇をとがらせていった。
「趣味?」
「ああいうのが」
「どういうこと?」
「だから──ああいう年下の男が好きなのか、ってことですよ!」
しばしの間。やがて、アシェルが噴きだした。
レアはますます仏頂面になる。同席を断られたお返しに、彼女を困らせてやろうと口にしたものの、自分自身が困ってしまった。鏡に映っている顔が赤くなって
いる。
この手の話は苦手なのに……墓穴を掘ってしまった。
「そうね」アシェルはなおも笑いながら。「彼のことは好きよ」
「へえ! やっぱりそうだったんですね。わたし、すっごく失望しましたよ。アシェル様に」
「あら? それはすっごく残念だわ」
精いっぱいの嫌味をこめていったのに、相手がまったく余裕なのがなんだかくやしい。どうも彼女を前にすると、自分が子供のままのような気がし
てならない。もう十七だというのに。大人というにはまだまだ若いのかもしれないが、子供という段階はもう終えているはずだ。
「とにかく! 同席はダメでも、部屋の外で待機はさせてもらいますから」
レアはきっぱりといった。たんなる反発で食いさがるのではない。真剣にアシェルの身を案じているのは事実だ。彼女あっての組織であり、そして
自分なのだから。
「ええ。それはお願いするわ」
優しい笑み。髪をなでてくれるやわらかな手つき。何度それに救われたことだろう。彼女がいたからこそ、今の自分がある。
憎しみのために覚えた剣。でも、それは大切なものを守る力にもなるはずだ。
もう二度と奪われるわけにはいかない。絶対に失うわけにはいかない。
鏡の中から見返している自身に向けて、レアはそう決意をあらたにした。