─七章 ゆらぎだす運命(1)─
シリオスは目を閉じた。精神を集中させる。しだいに肉体がとらえている情報が、ゆっくりと遠のいていく。
やがて、自らの内に触れてくるものがあった。
それは輝きであり。囁きであり。蠢きであり。
他者には捉えることのできないもの。永遠に理解することのできないもの。大いなる存在の子供のみが知覚できる、この世界の理を外れた〈力〉。
正確にいうならば、シリオスがいま感じているのは、その残滓ともいうべきものだった。それはブレイエの砦からずっと、道しるべのように行く手に刻まれてい
る。だからこそ、討伐軍の進路を定めるのに何のためらいもなかった。
この即断に不思議がる者もいただろうが、誰も異論を唱えることはなかった。「英雄」だの『継承者』だのといった絶対者にも等しい肩書きは、こういう場合に
も役に立ってくれる。
読み取れた痕跡は二つ。その一つはシリア──奪われた『金色の虫』──のものだとわかる。彼女と最後に会ってからずいぶんと時が経ったが、一度でも〈繋が
り〉を持った相手を忘れることはない。それは、人が歩き方や呼吸の仕方を忘れてしまうのと同等に、不可能なことなのだ。
初めて触れたもう一つは、あのイノという少年のものだろう。本質こそ変わらないが、まったく同じ人物が二人といないように、〈力〉もまた持ち主によって強
弱等の明確な差異がある。それぞれを区別するのはたやすい。
以前の少年には感じられなかった〈力〉。予想していた通り、シリアは彼に接触したようだ。
必死な彼女のことだ。彼を同胞として目覚めさせるため無理をしたのにちがいない。その結果が、ここまでの道中で目にした、あのヘビのような『虫』の死骸
だ。
怪物を倒したのが少年だということは、すぐに察しがついた。シリアが彼に手を貸したのかどうかまではわからないが、〈力〉を得てから初めての戦いにもかか
わらず、その手際は見事というより他はない。この先、彼に会うのも楽しみの一つになってきた。
シリオスは目を開けた。とたんに、外界の情報が身体に流れ込んでくる。グリー・グルの騎乗にいる我が身。その周囲で鎧をかすかに鳴らせながら行軍している
兵士達。
周囲の光景が変わりはじめていた。広大な森林はそのままだが、星空の下にある木々の中に、巨大な石柱の群れがそびえ立っているのが見える。
もう痕跡をたどる必要はない、と判断した。このまま接近し続ければ、いずれは〈力〉の持ち主そのものを感知できるようになる。そのときは、ちょっとした
『挨拶』でもするべきだろう。
高まる予感。目指す場所が、再会の時が近づいている。
アシェル。サレナク。そしてシリア。
今度こそ逃がしはしない。
* * *
「さて」
お互いに料理を食べ終えると、アシェルが口を開いた。
「まず先に、あなたの話から聞かせてもらいたいわ」
「オレの話?」
「ええ。あなたがこれまでに体験した、不思議な出来事のすべてをね」
いよいよか──イノはうなずいた。これまで自分を悩ませ続けてきた奇妙な現象。思えば、そのことを他人に話すのは初めてだった。いざ言葉にするとなると、
ところどころでその表現に困った。
「それですべて?」
ようやく話し終えると、彼女がたずねてきた。
「ああ。これで全部だ」
「まだ、他にもあるんじゃないかしら?」
イノは怪訝な顔をした。『金色の虫』との出会いから、あの夜の『虫』との戦いまで……つつみ隠さずに話したはずだ。
「例えば──」
アシェルは静かに続ける。
「二年前のアルビナでの事とか」
イノは返す言葉を失った。忌まわしい記憶と共に刻まれているその名が、この場で出てくるとは予想していなかった。
「公式には、アルビナの砦は、二年前に戦略上放棄されたことになっている。けれど一部では、『虫』の襲撃によって陥落したという噂が囁かれていたわ。配属
されたばかりの新兵一人を残して壊滅させられたのだ……とね」
こちらに向けられている鳶色の瞳。すべてを見透かすような光。
「その噂だけは、わたしの耳にも届いていたわ。もちろん真偽の確かめようはなかったし、こちらにとって重要な情報と判断したわけじゃなかったから、すっか
り忘れていたけれど……。思い出したのはつい最近よ。あなたに出会ってからね」
「そのたった一人生き残った新兵が、オレだと?」
「ちがうかしら?」
沈黙。やがてイノは観念したように息をついた。
「あんたの言うとおりだよ。オレはアルビナにいた。攻めてきた『虫』を防ぎきれなくて、みんなが次々と殺されていって、オレも殺されそうになって……」
あのときが初めての『虫』との戦いだった。いや、戦いではなかった。一方的な虐殺だ。そして、自分はその中を逃げまどっていた。容赦なく人間を殺していく
怪物達の姿に、父の仇を討つことも忘れ、ただ恐怖し怯えていた。
「でも、それから先は何も覚えていないんだ。他の砦から救援にきた部隊に起こされるまで、オレはずっと気を失っていた」
たった一人生き残ったことに喜びなんてなかった。むしろ、戦うことさえせず逃げていただけの自分に、罪の意識を感じていた。情けなさのあまり、軍を辞めよ
うかと本気で考えていた。消すことのできない憎しみを抱えたまま、みじめに生きていくのだと。そんなときに、英雄シリオスから「黒の部隊」へと呼ばれたの
だ。驚くのと同時に、これは自分にあたえられた最後の機会だと思った。
それ以後はがむしゃらに戦ってきた。度重なる命令違反にもかまわず、心の中の憎しみを、過去の不名誉な自分を打ち消すために、死にもの狂いで怪物達を殺し
続けてきた。
「あなたを襲ってきた『虫』達は、どうなったの?」
「わからない。援軍が到着したときには、もう奴らは姿を消していたらしいから」
「そう。でも、おかしいわね。あなたを追いつめておきながら、そのあなたを放っておいて『虫』達が姿を消したというのは。彼らにそんな慈悲はない。それ
は、あなたもよく知っているでしょう?」
たしかに、そのことはずっと疑問に思っていた。相手を全滅させるか、自分達が全滅させられるかするまで戦い続けるのが、『虫』という怪物なのだ。
「まさか、オレがこのわけのわからない力で、『虫』を倒したとでも?」
「あなたを見逃して『虫』が退却した──と解釈するよりは、よほど説得力があるように、わたしには思えるのだけれど」
イノは沈黙した。記憶がとぎれて以降、何があったのかはわからない。もちろん、『虫』が自分を見逃してくれたということは有りえない。しかし、自分が得体
の知れない力で怪物達を撃退したなんて話も、素直には受け入れがたかった。
「まあ、今のはあくまでもわたしの推測よ。あなた自身が覚えていない以上、本当のところはわからないけどね」
「つまり……あんたが言いたいのは、オレにはずっと前からこんな力があったってことなのか?」
「ええ。あなたがこの世界に生まれたそのときからね」
「生まれたときからって……」
「あなたには、人が持ちえることのできない〈力〉がある。『そういう人間』として生まれついているの。このわたしと同じに」
「ちょっと待ってくれよ!」
思わず声を上げた。
「だったら、どうして今までオレの身には、何も起こっていなかったんだ? 小さい頃だってなんともなかったし、もし、あんたの言ったとおりに、オレがアル
ビナでその〈力〉を使っていたとしても、その後は何もおかしなことなんてなかった。みんなと同じように『虫』と戦っていたんだ。生まれつき特殊な人間だっ
ていうのなら、そんなのおかしいだろ。これまでの出来事は……全部あいつが引き起こしたことじゃないのか?」
イノは部屋の奥を指した。そこには小さな輝きが、机の上にちょこんと乗っかっている。あの『金色の虫』と出会ってから、この奇妙な現象は始まったのだ。当
然、原因は相手の方にあるものだと思っていた。
「これも推測でしかないけれど、あなたの〈力〉はずっと眠っていたんじゃないかしら。アルビナでのときは、無理やり起こされたような形だったのかもしれな
い。そして、〈力〉は再び眠りについた……ブレイエの砦で、『シリアの半身』と出会うそのときまでね」
「シリアの半身?」
「あなたが、『金色の虫』と呼んでいるもののことよ」
アシェルも部屋の奥に顔を向ける。
「シリアというのは、あなたが幻の中で出会ったという少女の名前。彼女も、わたし達と同じ〈力〉を持った人間よ」
シリア──イノは心の中でつぶやいた。それがあの女の子の名前なのだ。すべての発端となった出会いを自分にもたらし、忘れることのできない悲しげな笑顔を
記憶に刻みつけた彼女の。
「いったい……オレや、あんたや、そのシリアって子が、何者だっていうんだよ?」
アシェルは再びイノを見つめ、やがてつぶやくようにいった。
「ラフスルエン」
聞き覚えのある言葉……思い出した。謎の少女──シリアとの出会いの終わりに、彼女が口にした言葉だ。
「かつて『楽園』で使われていた言葉で、『樹の子供』という意味よ。普通の人間にはない異質な力を持ちえた存在……それがわたし達なの」
淡々と語るアシェル。彼女に質問すればするほど、こちらを当惑させるような答えばかりが返ってくる。
これ以上たずねたくないという気分に、しだいに重くなっていく口。
「これまでオレに起こった出来事や……今、あんたから感じているものは、その異質な力ってやつなのか?」
「『樹の子供』は、互いの持つ〈力〉を感じ取ることができる。今のわたし達がそうであるようにね。〈繋がり〉と呼ばれる感応の力──それがあったからこ
そ、あなたはブレイエの砦から『シリアの半身』を持ち去ったレアを、たやすく追跡することができた」
たしかに、彼女の言うとおりのことを自分はやっている。否定はできなかった。
「『虫』に襲われる前に、それがわかったのも、その〈繋がり〉に関係しているのか?」
「その通りよ。そして、わたし達にあたえられた力には、それ以外にも使い道があるの」
「他にも?」
それには答えず、アシェルは自分の脇にある空のグラスに視線をうつした。イノも、つられるようにグラスを見る。
ふいに背筋が寒くなった。彼女から感じているものに加えて、別の何かが自分達の間に現れようとしている。それがわかった。
やがて、まるで手品でも見ているかのように、食卓の上に忽然と光が現れた。窓から差しこむ月明かりや、燭台に灯る炎の明かりとは、あきらかに異なる類の光
だ。
──黒い輝き。
イノは息をのんだ。手のひらほどの大きさをして、アシェルの目の前に揺らめいているそれは、『虫』との戦いで目にした奇妙な光と同じものだった。
その黒い輝きが、いきなり意志を持ったように、音もなくグラスに向かって動いた。いや、飛びかかったといった方がいいかもしれない。
瞬間、渇いた音とともに、グラスが縦に真っ二つに割れた。
凍りついたままのイノの眼前で、異質な輝きが溶けるように消え去った後、残されたのは剣の達人に両断されたかのごとく、きれいな切り口を見せて転がってい
るグラスだった。
「あとで片付けなきゃね」
グラスからイノに視線を戻し、アシェルは小さく息をついた。
「これが〈力〉のもう一つの使い道。もっとも、あの光を呼び出すには相応の資格──つまりは、強い〈力〉とやらが必要らしいけど。わたしはギリギリでその
及第点に達してるのだそうよ。喜んでいいのかどうかは微妙だけどね」
「まさか……あんたが今やったみたいなことが、オレにもできるって言うんじゃないだろうな?」
「残念だけど、ご明察よ」彼女は、はっきりといった。
「同じことが、あなたにもできるの。いえ、わたしがしてみせた以上のことが」
「そんな……」
まだグラスに目を向けたまま、イノはそうつぶやくのがやっとだった。こんなのでたらめだ。まやかしだ。そう続けるはずだった言葉が出てこない。
わかっていた。アシェルがやったのは手品などではないと。現れた黒い輝き。切断されたグラス。その一部始終を、はっきりとした現実の出来事として、イノは
視て≠オまったのだ。
『同じことが、あなたにもできるの』──信じがたい言葉。バカバカしい言葉。だが笑えない。少しも笑えない。
自分はいったい何に巻きこまれてしまったというのか……。
揺らいでいく。これまでの自分が。これまで身を置いていた世界が。二度と手のとどかない場所へ、遠のいていこうとしている。そして、それと入れちがいに現
れるのは、人の理解や常識を超えたバケモノじみた世界だ。
「あんたは……あんた達ネフィアは、いったい何をしようとしているんだ? このとんでもない〈力〉と、あの『金色の虫』を使って」
イノは震える声で、逃げるように質問の矛先を変えた。自分が持ってしまった力。あれほど知りたがっていたのに、今は少しも聞きたいとは思わなかった。
アシェルはしばらく黙ったままだった。こちらを気づかうような眼差し。優しげで、悲しげだった。
やがて。「わたし達は、『楽園』へ向かう準備を進めているわ」
「『楽園』へ?」
イノは眉をひそめた。
「目的はなんだ? 『楽園』を手に入れて、セラーダを倒すつもりなのか」
「いいえ。すべてを終わらせる……そのためよ」