─七章 ゆらぎだす運命(3)─
「わたし達を取り巻いている世界──」
アシェルは静かに語りはじめた。
「今、この大陸は悲しみと憎しみにおおわれている。『虫』とセラーダ。この両者がくりひろげている戦争によって。『虫』がもたらしている悲劇については、その戦いに身を置いているあなた自身がよく知っていると思う」
イノは黙ってうなずいた。
「そして、セラーダがフィスルナの外の人々にもたらしている悲劇。これについても、今のあなたなら理解してくれていると思うわ」
うなずきこそしなかったが、イノは内心苦々しい思いで、アシェルの言葉を認める。この数日間をネフィアで過ごし、少なからず組織の人々との接触を重ねたことで、祖国が外の人間に対して行っている悲惨な現実の一部を知ってしまった。
「この戦争は、今このときも拡がり続けている……多くのものを巻きこみながらね。わたし達は、それを終わらせたいと願っているの。そのためには、『楽園』
へ行
かなくてはならない。あそこは、すべてのはじまりであると同時に、終わりの地でもあるのだから」
「あんたの言うとおりだってのはわかる」
イノはいった。
「だけど、『虫』との戦いを終わらせようとしているのは、オレ達セラーダだって同じだよ。あんたのことだから、とっくに知っているとは思うけど、もう少ししたら大規模な作戦だって始まるんだ」
「ええ、知っているわ。セラーダ軍が総力をあげて行う、『聖戦』という名の侵攻計画のことはね」
「それなら、あんた達がわざわざ『楽園』に行くことはないだろ? いくらなんでも無理に決まってる。だいいち、あんた達だけで『死の領域』を突破できるわけがないじゃないか」
『楽園』の周辺地域は「死の領域」と呼ばれている。伝説の地を目指すならば、避けて通ることのできない場所だ。
「死の領域」は他の「領域」とちがい、本格的な『虫』の縄張りだといわれている。その地では、何万ものバケモノ達が、我が物顔で大地を闊歩しているのだと……。
もし仮に「死の領域」を突破したとしても、『楽園』そのものが怪物達の中枢である。だからこそ、大陸で最大の戦力を保持しているセラーダでさえ、すべてを賭けて望もうとしているのだ。ネフィアのような小規模の組織が挑むのは、イノには自殺行為とか思えなかった。
「わかっているわ。でもわたし達は、なにもセラーダのように正面から力づく『死の領域』を越えようと考えているわけじゃない。彼らとはちがう進路で、『楽園』に侵入するつもりよ。まあ、それでも危険なことには変わりないでしょうけどね」
「どうして、そこまでする必要があるんだよ? あんた達ネフィアと、オレ達セラーダの目的は、同じものじゃないのか」
「たしかに戦争の終結という意味では、お互いの目的は変わらないわ。でも、その行為がもたらす結果まで同じということはないの……残念ながらね」
アシェルの言葉に、イノは眉をひそめる。
「『虫』との戦いを終わらせる。それには『虫』の存在そのものを、この世界から消滅させるしかないわ。両者の共存は不可能。人か『虫』か……どちらか一方が滅びなければ、この戦争の結末は訪れない」
誰もが知っている当たり前の事実。だが、それを語るアシェルの表情は、どこか悲しげだった。
「セラーダは武力をもって『虫』を根絶させようとしている。でも、それでは無理なの。どれほど大量の兵士や兵器を投入したところで、『虫』そのものをこの世界から消し去ことはできないわ」
「どういうことだ?」
「『虫』達は、普通の生き物とはまったく異なる方法で、この世界に生みだされているの……『樹』という存在によってね」
「『樹』?」
「あなたがシリアと出会ったときに目にしたという大樹のことよ」
山にも等しい大きさと、外見以上の圧倒的な存在感を放っていた大木の姿を、イノは思い出した。
「あれはこの世界の理を外れた存在……とでも言うべきものなの。人の理解を超えた絶大なる力を秘めたね。その〈力〉は『虫』という異質な生命を創りだし、そして、わたし達『樹の子供』の〈力〉の源泉にもなっている」
「ちょっと待ってくれよ。それって、つまり……」
「そう。『虫』と『樹の子供』──発現の形こそちがうけれど、『樹』という存在を介している以上、両者の持つ〈力〉は同質のものよ。だからこそ、わたし達は『虫』の存在をも〈繋がり〉によって感知することができる」
ぞくり、とイノの背筋に寒いものが走った。同じ……憎むべきあのバケモノ達と自分とが。得体の知れない力を共有していることで。
「『樹』そのものが持つ〈力〉は、途方もなく大きいわ。最初にわたしが言った通り、世界を飲みこんでしまえるぐらいにね。そして、その〈力〉が生み出す
『虫』には、数の制限なんてないに等しい。いくら数を減らしたところで、それは新たな『虫』が誕生するための呼び水にしかならないの」
「じゃあ……どうすれば、奴らを滅ぼせるっていうんだ?」
「『虫』の存在そのものを消滅させるには、彼らを生み出している『樹』に接触して働きかけるしかないわ。同じ〈力〉を扱える者……つまり、わたし達のような『樹の子供』がね」
「あのバカでかい樹が『虫』を生んでるって言うのなら、そいつを破壊すればいいだけなんじゃないのか? 切り倒すなり、燃やすなりすれば」
「いいえ。あれは人の力では傷一つ付けられないわ。現行の兵器はもちろん、『楽園』の伝説で語られているような兵器でさえもね。この世界の理を外れた存在と言ったのには、そういう意味もあるの」
イノは言葉を失う。何もかもが素直には信じがたい話だった。
「なんで……」かすれた声が出た。
「なんで、あんたはそんなことを知っているんだ? オレだって『楽園』の昔語りは小さな頃から聞いてきたけど、そんなわけのわからない『樹』や『樹の子供』だとかがてくる話なんて、一つもなかったぞ」
「無理もないわ。わたし自身も、シリアと出会い、彼女からその話を聞くまでは、そんな言葉があることすら知らなかったのだから」
アシェルの表情がわずかに曇った。
「『樹』も、『樹の子供』も忘れ去られた存在。いいえ、抹消されたというべきかしら。『楽園』を追われた民──つまりは『継承者』の祖先達によってね」
「『継承者』の祖先?」
「彼らは『樹』と『樹の子供』に関する事実を、後世に語り継ぐことなく封印した。血を分けた子孫にさえも伝えることはなかった。だから、フィスルナの市民はもちろん、現在セラーダを動かしている『継承者』達の中にも、このことを知る者はいないわ」
なぜ?──とイノがたずねようとする前に、アシェルは口を開いた。
「セラーダの起こす『聖戦』がもたらすもの……それは破滅よ。『虫』を倒せば倒すほど、それを生み出す『樹』の力は増していく。『聖戦』のようなかつてな
い規模の大戦は、その流れを一気に加速させてしまうわ。そうなれば、さらに多くの『虫』がこの世界に溢れることになる。セラーダの首都フィスルナも、その
他の街や村も、この大陸すべてを飲みこんで……やがてはその外にまで」
イノは息をのんだ。
「想像してみてちょうだい。何千、何万もの『虫』の大群が、一斉に人々に襲いかかる光景を。そうなっては、もう誰にもどうすることもできないわ。それは、二百年前の『赤い一日』の再現……しかも、当時とは比較にならない規模でのね」
「『赤い一日』……」
イノはつぶやいた。『虫』が初めてこの大陸に現れ、『楽園』を襲った悲劇はそう名づけられていた。栄華を誇った大都市が、怪物達の瞳の輝きと、犠牲者達の流した血の色で、たった一日にして真っ赤に染まってしまったからというのが、名称の由来だった。
「もし、仮に『聖戦』を取り止めたとしても、それは変わらない。世界が『虫』で満たされるのが、そのぶん遅れるだけ。終わることのない戦争そのものが、新
たな『虫』を生み出しているのだから。どのみち、滅びの時は迫っているの……わたし達がこうしている間にもね。大げさに聞こえてるのはわかっているわ。で
も、これはまぎれもない事実なの」
部屋に沈黙が流れる。イノはしばらく口を開こうとしなかった。世界が滅びる……いきなりそう告げられて、「はいそうですか」と実感が持てるわけがなかった。これは、砦が攻め落とされるとか、村が襲われるとかいった日常の次元をはるかに超えた話なのだ。
しかし、それがどういうものであるかを想像することはできる。みんな殺されてしまう。自分にとって身近な者も、そうでない者も、あの情け容赦ないバケモノ
達に。これまで戦場だけで目にしてきた光景が、フィスルナでも、ネフィアの本拠地でも、ありとあらゆる場所で起きてしまうのだ。
「つまり……あんたの言ってるのは、セラーダが『聖戦』を起こそうが起こさまいが、『虫』が世界を滅ぼすのは避けられないって……そういうことか?」
「ええ」
「そして、それを止められるのは、オレ達のような人間だけだと」
「残念ながら他に手段はないわ。だからこそ、わたし達はどんな危険を冒してでも、『楽園』へ行かなければならないの」
「それなら──」イノは勢いこんでいった。
「オレがセラーダに戻って、あんたがやろうとしていることをやればいいじゃないか。どのみち『聖戦』には参加するんだ。少なくとも、あんた達ネフィアよりは、確実に『楽園』に到達できる。その『樹』に接触する方法ってやつさえ教えてくれれば──」
「無理よ。あなたがセラーダに戻っても」
アシェルはきっぱりと否定した。
「どうしてだよ?」
イノは思わず声を荒げた。
「セラーダは、あんた達みたいな組織とは比べものならないほどの戦力をこの戦いに投入するんだぞ? 『虫』を滅ぼすのが無理でも、『楽園』への道を切り開
くぐらいはできる。それに、この戦いを終わらせたいと願っているのは、オレや仲間達だって同じなんだ。このわけのわからない力でそれができるなら──」
「わかっているわ」と静かな答えが返ってきた。
「セラーダの力も、あなたや他の兵達の気持ちも……それを疑うわけじゃない」
アシェルの眼差しが、優しいものへと変わる。
「わたし達の中にある〈力〉と〈力〉の結びつき。その〈繋がり〉が伝えあっているのは、相手の位置や〈力〉の強さだけじゃない。相手が心の内に抱えている
もの……心とか、精神とかいった名前で呼ばれているものも含まれているの。『心を読む』というほど明瞭じゃないけれど、それはどんな言葉や仕草よりも雄弁
に、相手の存在を語ってくれる。それがあったからこそ、わたしは、初めて会ったあなたを、信用に価する人間だと即座に判断することができた。こうして、二
人きりで会おうとしたのもそのためよ。まあ、あなたの方に、わたしの事がどう伝わっているのかは、わからないけれどね」
そういって微笑むアシェル。その彼女を『同じ人間』なのだと、敵ではないのだと、自分の中にある〈力〉がそう教えてくれているのが、イノにはわかっていた。だからこそ、こんな途方もない話に、こうして真剣に耳をかたむけ続けることができている。
「じゃあ……なぜ、オレがセラーダに戻っても無理だなんていうんだ?」
アシェルの顔から笑みが消える。「もう一人」
「わたし達と同じ〈力〉を持った人間が、もう一人いるの……セラーダ軍に」
「セラーダに?」
「あの人──彼はわたし達とはちがう目的で、『樹』と接触しようとしている。おそらは……『虫』を世界に解き放つために」
「なんだって?」
イノは声を上げた。自軍に同じ〈力〉を持った人間がいることよりも、その男が抱いている目的の方に衝撃を受けた。
「なんで──なんだって、そいつはそんなことをしようとしているんだ?」
『虫』を世界に解き放つ。それは世界を滅ぼそうとしているに等しい。まもな人間が考えることではない。
「彼の中にある深い闇がそうさせているのだと……言えばいいのかしらね」
彼女の口ぶりに、イノは眉をひそめた。
「ずいぶんと、そいつの事を知ってるみたいだな」
「ええ。彼とわたしとサレナクと……共に戦場を戦った仲間ですもの」
その意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「かつて、わたしもセラーダ軍の兵士だったの。今のあなたと同じようにね」
正直、これまでの話で一番驚いたかもしれない。
唖然とした表情のイノを前に、「あら、そんなに意外だったかしら?」とアシェルはうっすら笑みを浮かべた。優しげで、穏やかで……その彼女が剣を振るって戦ってる姿なんて、どんなに想像力をたましくしても思い浮かべることはできない。
「もう過去のことよ。今では剣を振るうのはおろか、歩くのだって不自由な有り様よ。情けない話だけれど」
「じゃあ……そいつとは軍で出会ったのか?」
そうよ、とアシェルは語りだす。暗い、だがどこか懐かしげな表情で。
「あなたとちがって、わたしは、幼い頃から自分の〈力〉を自覚していたわ。でも、その意味も、理由もわからなかったのは同じ。なぜこんなことが自分にでき
るのか……ずっとそれに悩まされ、他人に隠し、そして自分自身に怯えてきたわ。『虫』達と戦い続け、しだいに〈力〉を扱うことに慣れていった後でも、その
恐怖が消えることはなかった。人の常識や理解を超えているという点では、自分の〈力〉は、自らが殺し続けている怪物達と変わらないものに思えたから……ま
あ、ある意味では、それは事実だったのだけれど」
イノには、その気持ちがよくわかった。〈力〉が目覚めてからアシェルと出会うまでの間、自分も同じものを抱えていたからだ。もし彼女に会うことがなければ、この先ずっと誰も打ち明けることなく、悩み苦しみ続けていたことだろう。
「彼に出会うその時までは、まさか自分と同じような人間が他にもいるなんて夢にも思っていなかった。でも、会った瞬間にそれとわかったわ。あなたとわたしがそうだったように……」