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─七章  ゆらぎだす運命(5)─



(長い……長すぎる)

扉の脇で、腕を組んで待機しているレアは苛立っていた。

あの捕虜がアシェルの部屋に入ってから、ずいぶんと時間がたった。もうとっくに食事は終わっている頃だ。それでも、彼が出てくる気配はない。

どれほど耳をすまそうが、分厚い扉の中からは、二人の声はおろか物音一つ聞こえてこなかった。アシェルの警護を預かる身として、中の状況がまったくわから ないのは困る。あの捕虜が何かよからぬことを企てない、という保証はないのだから。

適当な理由を作って部屋に踏みこんでみようか、と何度も考えた。そのたびに思いとどまったのは、あの捕虜と二人きりで話したいというアシェルの言葉を尊重 したからだ。

結局、レアはこうして扉の脇で突っ立っているだけである。他にやることはないし、周囲に人の姿はない。はっきりいって退屈だった。やはり、じっと待つのは 性にあわない。

それにしても、なにを話し合っているんだろう──昨夜アシェルに質問したが、はぐらかされてしまったのを思い出す。でも、こうして二人きりで会おうとする からには、重要な話には違いない。たまたまの成り行きで捕虜となった彼だけにしか話せない内容の話……さっぱり見当がつかない。

大人げないと思いながらも、アシェルがそんなふうに特別扱いするあのイノという少年に対して、レアは嫉妬のようなものを感じてしまう。そして、そんな相手 に少しでも気を許し、昨晩夢中で稽古をしてしまった自分に腹が立つ。

ため息が出た。何度目になるかわからない視線を扉によこしてみても、それが応えてくれる様子はまったくない。

まさか、本当にアシェルは「趣味」であの捕虜を呼んだのではないだろうか……こんないかがわしい考えがポンと浮かんで、レアは慌ててそれを振り払った。

(バカみたい)

それでも少し気になって、レアは腕組みしたまま扉の前へ行き、そっと片耳を押し当てみた。中からアシェルの声らしきものが聞こえる気がする。でも、どれほ ど耳をすまてみても、それ以上のことはわからなかった。なんだか余計にイライラしてきた。

やっぱり、じっと待ってるのはよくない。もう少しだけ待ったら、今度こそ部屋に踏みこもう。そう決心したとき、階下で誰かが叫んでいるのが聞こえた。

レアは慌てて扉から離れた。通路の先にある階段に目をやる。なにやら下が騒がしくなっている。

誰か酒でも飲んで騒いでいるのか──そんな思いはすぐに打ち消された。冷たい石壁に反響しながら聞こえてくる喧噪の中に、胸騒ぎを起こさせる不穏なものを 感じたからだ。そして、何者かが慌ただしく階段を駆け上がってくる音。

「ソウナ?」

通路に現れた人影を見て、レアは眉をひそめる。彼はこの時間、外の見張りをしているはずだった。そのソウナが一直線にこちらへと駆けてくる。歪んだ表情、 乱闘でも起こしたように髪も服も乱れ放題だ。遠目から見ても、彼の様子がただごとではないのがわかる。

レアの全身に緊張が走った。さっきまで感じていた苛立ちは、もう忘れていた。


*  *  *


沈黙が部屋を支配していた。

イノはあらためて目の前の女性を見つめた。彼女が語った過去、セラーダの戦士であり、禁忌の地といわれる『死の領域』へ潜入したという話。とてもではない が、すぐには飲みこめない内容だった。

そして、彼女の話に出てきた男。自分達と同じ〈力〉を持つ、もう一人の『樹の子供』。

「どうなったんだ?……その後」ようやく声が出た。

「シリアは、わたし達にすべてを語ったわ。『楽園』の物語……巷に伝わっているものとはちがう、時の彼方に追いやられてしまったもう一つの物語をね。そし て、彼女はわたし達に願いを託した。破滅へと歩み続けている世界を変えるための願いを」

アシェルは悲しげな面持ちで続けた。

「シリアのおかげで、わたし達は『死の領域』から生還することができた。彼女の願いを叶えるため、再びこの地に戻ってくることを誓って。帰還後、わたし達 はそのために行動するはずだった。でも……あの人は違った。彼の目的がシリアの願い──『虫』の消滅を叶えることではなく、別のものであると気づいたの は、ずっと後になってからだけど」

「『虫』を世界に解き放つ……」

アシェルが重々しくうなずく。

「『世界をあるべき姿に戻す』のだと、彼は言っていたわ」 

おや?──とその言葉に、イノはひっかかるものを感じた。最近、どこかでそれと同じ言葉を聞いたような気がする。しかし、思い出せなかった。気のせいかも しれない。

「仲間だったんだろ。そいつを止められなかったのか?」

「もちろん、止めようとしたわ。言葉と……最後には力でね。でも失敗に終わった。わたしとサレナクはセラーダを追われ、辺境に身を潜めるしかなかった。そ の間にも、彼はセラーダ内で自らの地位を着実に築いていったわ。もはや、わたし達が直接手を出すことのできない高い場所までね。そして、今のセラーダは、 彼の思惑通りの道へと足を踏み出そうとしている。『聖戦』という名の破滅への道を。もう誰にも、その流れを止めることはできない」

「だから、あんたはこのネフィアを造ったのか? もう一度『死の領域』を突破して、その男とセラーダより先に『楽園』へたどり着くために」

「そのとおりよ。もちろん、戦力的に十分といえたものでないことはわかっている。それでもやるしかないの。あなたもすでに気づいているでしょうけど、わた しとサレナク以外の者は、『樹の子供』や彼について何も知らないわ。だけど、みんなこの無謀な計画に力を合わせ挑もうとしている。それぞれが抱えているも のは違うけれど、これ以上の悲劇を増やしくないという想いだけは、誰しも変わらないのだから」

アシェルは真摯な眼差しをイノに向けた。そして、はっきりといった。

「イノ。あなたの力をわたし達に貸して欲しい」

「なんだって?」

「あなたもわたしと同じ『樹の子供』よ。しかも、わたしよりもずっと強い〈力〉を、あなたは持っている」

人間には持ちえない能力を持った人間。それが自分なのだということを、もはや否定する気はイノにはなかった。そして、その〈力〉が迫り来る世界の滅びを回 避できる可能性を持つ、唯一の手段かもしれないということも。

しかし。

「ちょっと待てよ。そんな……それこそ無理だ!」

アシェル達に手を貸す──それはすなわち祖国であるセラーダに背を向けるという事実に他ならない。裏切り者。反逆者。そうなれば自分一人の問題ではなくな る。スヴン達「黒の部隊」の仲間や、クレナや彼女の両親にも害がおよぶことになってしまう。いや、それ以前に、家族同然といってもいい彼らからの離反など 考えられない。

「無理なお願いをしているのはわかっている。なにも、今この場で決断しろとはいわない。ただ、わたし達が……いえ、わたしがあなたを必要としているのは本 心よ。今は沈黙こそしているけれど、シリアもそれを強く望んでいると思う」

「それはわかるけど……」

『あの人に力を貸してあげて』──あのときの少女がかけてきた言葉の意味を、ようやくイノは理解した。

この世界を『虫』に蹂躙させる気はない。そして、わざわざそれを招こうとしている、セラーダ軍にいるというもう一人の『樹の子供』も放ってはおけない。ア シェル達の目的が、間違ったものだとは思っていない。

しかし。

「できないものはできない!」

イノは、初めてアシェルに強い視線を向けた。

「シリアも望んでるって……いったい、なんなんだよあの子は?」

謎の少女──シリアもまた、自分達と同じ『樹の子供』なのだとアシェルは口にしていた。だが、それと照らし合わせてみても、あの少女のやっていることは普 通とは思えない。たった一人で『死の領域』に現れ、年月の隔たりに関係なく子供の姿のままで存在し、『金色の虫』を創りだし……。

(正真正銘のバケモノじゃないか)

イノの強い問いかけに、アシェルはしばらく答えなかった。自身の苦い過去を語るときでさえ落ち着きを放っていた瞳が、一瞬だけ揺らぐのを見たような気がし た。

「彼女は──」

その時、背後で大きな物音がした。

勢いよく開いた部屋の扉から、なだれこむように二つの人影が入ってきた。一人は部屋の外で待機していたレアだ。もう一人はイノと歳の変わらない少年だっ た。どこか見覚えがある顔だ。

「どうしたというの?」

突然の闖入者二人に目を向け、アシェルが静かにたずねた。

「知りませんよ! ソウナが強引に……」

膝を折って息をあえがせている少年を指差して、レアが声を上げる。その名前を聞いて、イノは相手が誰だかを思い出した。ここに連れてこられたときに、洞窟 で見張りをしていた少年だった。

「アシェル様……」

ソウナが切れ切れに言葉を吐き出す。よほどの距離を一気に駆けてきたのだろう。しばらくは二の句がつげない様子だった。ぜい、ぜい、という音のみが沈黙し た部屋に流れる。

「……セラーダが……セラーダ軍が来ています。すぐそこまで」

やがて放たれた彼の言葉に、全員が凍りついたように固まった。

「ちょっと──どういうことなの!」激しく問いつめたのはレアだ。

「知るかよ! 見張りをしてたら、いきなりあいつらが襲ってきて……ビズが……ビズが殺されて」

「レア」すぐさまアシェルが呼びかける。

「今すぐ、サレナクにここへ来るように伝えて。その後、みなに非常召集をかける手配してちょうだい」

「わかりました」

張りつめた顔でうなずくと、レアは部屋を出て行こうとした。

「待って……」ソウナが声をかける。「オレも行くよ」

「あなたは、少し休んだほうがいいわ」

「大丈夫です、アシェル様。それに……休んでいられる場合じゃないですから」

力なく答え、立ち上がろうとしたソウナは、そこで初めてこの部屋にイノがいることに気づいた。

「おまえ……」

彼の見開かれた瞳に浮かぶ怒りと敵意。そして、怯えの色。

イノになにか言いかけようとしたソウナの口は、「行くわよ」というレアの声に閉ざされた。彼女自身はイノに視線を向けることすらなく、足早に部屋を出て いった。

ソウナも退出し、部屋は静寂に満たされた。ただ、彼のもたらした事実に緊迫した空気のみが、残り香のように漂っていた。

流れるような一連の出来事に、イノはただ呆然としていた。

セラーダ──その名前が、慣れ親しんだ祖国の名が、打ち鳴らされる鐘の音のように頭の中で響き渡っていた。

当然、自軍の接近に喜んでいいはずだった。ここは敵地で、自分は捕虜なのだから。ようやく待ち望んだ解放が、訪れるかもしれないのだ。

しかし、そんな感情はまったくわいてこない。それどころか、心を大きくかき乱されていた。ついさっき、祖国に対する裏切りなどできないと叫んでいたばかり なのに。

なぜだろう。その理由を考えることすらできず。イノはただ麻痺したように椅子に座ているだけだった。

アシェルも沈黙している。セラーダ軍の接近に衝撃を受けたのは彼女とて同じだろうが、思案しているような表情からは、内心の動揺はうかがえなかった。

そして。それ≠ヘいきなりやってきた。

背後から全身にのしかかってきた圧力に、イノはぎょっとしてふり返った。しかし、後ろには何も見あたらない。もちろん、自分の身体そのものに異変が起こっ たわけでもない。

しかし、まるで後ろから抱きすくめられているように、イノは、はっきりとそれ≠フ存在を感じていた。肉体を通りぬけ、心の奥底まで染みこんでくるような 冷たさ……まるで刃のような印象。

アシェルに目を向ける。無言の表情は、セラーダの接近を告げられたとき以上の厳しさを見せて、強く張りつめている。

今、彼女も自分と『同じもの』を感じているのだ──イノはそう確信した。

やがて、現れたときと同様、唐突にそれ≠ヘ去っていった。

再び部屋を支配する静けさ。内装が乱れたわけでもなく、見た目には何事も変わった様子はない。だが、イノ自身は、まるで嵐が吹き荒れた後のような気分を感 じていた。

まだ身体の内に寒気を覚えながらも、イノはようやく口を開いた。

「今のは……」

アシェルにたずねてみたものの、答えはすでにわかっていた。

そう……わかるのだ。『自分と彼女』には。

『樹の子供』と呼ばれる人間のみが持ち、感じ取ることのできる〈力〉。今さっき訪れたものは、まさにその〈力〉だった。これまで感じてきたものと同じに。

だが、あれはアシェルのものでも、彼女の背後にある『金色の虫』──シリアと呼ばれる少女のものでもなかった。彼女達とはまったく別物の〈力〉だ。色を見 分けるのと同じぐらい、イノにはそれを判別することができた。

アシェルの回想に出てきた男。セラーダ軍にいるという、もう一人の『樹の子供』。そして現在、そのセラーダ軍がこの地に接近してきているという事実……。

訪れた〈力〉。それが意味するものは、あまりにも明白だった。

「噂をすれば……ね」

イノの耳に、アシェルが呟くのが聞こえた。



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