─八章 破滅の足音(1)─
遠く離れた地に。あの子がいる地に。
近づいてくる〈力〉。
その〈力〉の持ち主を知っている。
強く。冷たく。暗く。
「彼」だ。
昔の記憶。「彼」と、「彼女」に出会った思い出。
驚いたのを覚えている。
嬉しかったのを覚えている。
二人に願いを託したのを覚えている。
でも、それはまちがいだった。
わからなかった。「彼」は、怖い人なのだと。
気づかなかった。「彼」が、みんなと似ていることに。
「彼」が近づいている。
あの子に。あの子のそばにいる二人に。
そのとき、すべてが揺らいだ。
歌っている。『樹』が歌っている。
『樹』にもわかったのだ。遠くの地に集う『子供達』のことが。
流れていく歌。
暴れている。みんなが暴れている。
『樹』の歌声に呼応するように。
優しい音色と。憎しみの叫びと。
暖かな波と。冷たいうねりと。
その揺らめきの中で、なにもできず怯えていることが。
なによりも悲しかった。
* * *
「どうした?」
サレナクの声に、アシェルは我に返った。
「いえ……なんでもないわ。続けて」
何かが聞こえたような気がした。
「ああ。兵員の配置は、いま説明した通りだ。奴らが攻め入ってくるだろう南側の洞窟を中心に六カ所。現状じゃこれが手一杯だ」
「十分よ。どのみち向こうも、すべての出入り口を抑えるだけの戦力は持ってないでしょうから」
聞こえていた何か。心の奥底に響くような何か。
シリアなのだろうか──背後のテーブルにいる小さな金色の輝きに、アシェルは少しだけ注意を向けた。しかし、『シリアの半身』からは何も感じられない。こ
れまでと同じく、彼女は沈黙したままだ。
──気のせいだったのだろうか。
「侵攻してくる方角からみて、連中がブレイエからやってきたのは間違いない。それにしても、簡単にこちらを見つけ出してくれたものだな……跡を残さないよ
う引き上げたつもりだったんだが」
「あなたがミスをしたわけじゃないわ。この場所を突き止めたのは……『彼』よ」
サレナクが驚愕の表情を浮かべた。
「シリオスだと? 馬鹿な」
「きっと〈力〉の残滓を辿ったのよ……シリアとイノの。あの人にはそれができる。ここへたどり着くための、この上ない道しるべになったことでしょうね。そ
れに──」
椅子に身を沈めた姿勢のまま相手を見上げて、アシェルは続ける。
「さっき彼から挨拶があったばかりなの。わたしと、シリアと、イノと……彼の言う『同胞達』に向けての挨拶がね」
「だが、奴がフィスルナを発ったなんて報告は……」
「わたし達の内通者が、軍に潜入していることに気づいていたんでしょう。だから裏をかいた……単純な話ね」
しかし、こうもあっさりと出し抜かれるとは思ってもみなかった。シリオスの動向には、細心の注意を払っていたつもりだったのだ。
甘くみていたのかもしれない。相手が『継承者』という立場で我が身を腐らせるような人物でないことぐらい、誰よりもよく知っていたはずだというのに。
「あの人は相変わらずだった……そういうことよ」
さきほどシリオスが送りとどけてきた〈力〉。それに年月の衰えを感じさせるものはなかった。あの頃……共に戦場で駆けていたときと変わらない力強さ。
いや、当時よりもかえって増していたように思える。〈力〉そのものの強さと、それを構成している暗いものとが。
憎悪でも敵意でもない底知れぬ冷たさ。〈繋がり〉が伝えてきたものに走った悪寒は、まだ身体の内に残っている。
「こうなってしまった以上、仕方ないわ。とにかく、住民達が退避するだけの時間は稼いでちょうだい。その後は、兵員達も速やかに撤収させるよう指示を出し
て」
「ここを棄てる……しかないか」
アシェルはうなずく。「こちらには、向こうを撃退できるだけの戦力はないわ。必要以上の抵抗は、無駄に死傷者を出すだけよ。そうなれば、わたし達の計画そ
のものにも支障が出る」
ここを放棄することにためらいはない。そうした場合はすでに想定ずみであり、『ネフィア』には第二、第三の本拠地となるべき場所が存在している。脱出した
者が路頭に迷うことはない。住み慣れた地を棄てることには、多少なりとも抵抗を感じるが、それでも命には代えられない。そのことを、住民達もあらかじめ納
得して暮らしてきたのだ。撤収自体は速やかに行うことができるだろう。
ソウナが敵の手に落ちなかったのは、不幸中の幸いだろう。もし見張りが全滅させられていたならば、土壇場まで事態に気づかず、脱出そのものも困難になっていたにちがいない。
「問題は……シリオスか」
「彼がいる以上、わたしと『シリアの半身』が、皆と行動を共にするわけにはいかないでしょうね」
シリオスがこちらを捉えているのは明白だ。いま脱出したところで、自分の動向は〈繋がり〉によって、簡単に向こうの知るところとなるだろう。そして彼の目
的は、このネフィアという組織そのものの殲滅ではない。過去に離反し、自らの目的の障害となっている『同胞』の始末なのだ。
しばしの沈黙の後。サレナクが呟いた。
「ここで決着をつけるしかないようだな」
「ええ。あなたにも付き合ってもらうわ……悪いけど」
「かまわんさ。むしろ、俺達の手の届くところに、向こうからわざわざ降りてきてくれたんだ。ここで奴を潰せば、こちらの目的の半分は達成されたことになる。それに……おまえに無理やり付き合わされるのには慣れているしな」
苦笑する彼に、同じような笑みをアシェルも返す。お互いの複雑な心境を誤魔化すように。どのみち、こうなることはわかっていたのだ。自分達が彼と決別する道を選ぶと誓ったときから。
「そういえば、あの少年はどうした?」
「あなたが来る前に部屋に戻したわ」
「話したのか?」
「すべて……というわけではないけれど」
警備の者に連れられて部屋を出て行くときのイノの顔を、アシェルは思い出す。切迫した彼の表情は、自身を押し流そうとする現実に、必死に抗っているように見えた。
無理もない。今日自分が語った話だけでも、これまで何も知らずに生きてきた彼に衝撃を与えるには、十分なものだったはずだ。ましてやこの事態である。
どのみち、今夜の会見で、イノに全部を話すつもりはなかった。もっと時間をかけながら、彼には真実を伝えていくつもりだった。
「それで、説得してみたのか? オレ達の戦いに手を貸してくれるように」
「一応ね。見事に振られちゃったけど」
「そうか……ではどうする?」
「どうする、とは?」サレナクの真剣な瞳を見返す。
「わかっているだろう。あの少年はただの兵士じゃない。お前やあいつと同じ人間だ。こちら側につく見込みがないなら……いま処分するしかない。彼がまだ自分の力をうまく扱えない今のうちに」
「あなたが、それを望んでいるとは思えないけど」
「望む、望まないじゃない。やるか、やらないかだ。まさか、このままセラーダに返すとでも言うつもりか? あの少年がシリオスの側に付いたらどうするつも
りだ」
「それはわかっているわ」
厳しく問いつめる声に。落ち着いた声で答えた。
イノもセラーダ軍の接近を知っている。この状況の中で、祖国の下へと脱走する可能性がないわけではない。そうなれば、シリオスは『同胞』として目覚めている彼を、確実に自分の側に取りこもうとするだろう。両者が結託することにでもなれば、それは最悪の展開となってしまう。
しかし。
「あの子は『彼』とはちがう……もちろん、わたしとも。もしセラーダに戻ったとしても、二人が手を組むことはないわ」
「なぜそう言い切れる」
「べつに」アシェルは肩をすくめた。「あの子との〈繋がり〉がそう感じさせてくれるだけ」
一瞬の沈黙の後、サレナクが呆れたようなあきらめたような口調でいった。
「まったく……付き合いきれないな。お前ら『樹の子供』ってのには」
「さっき、『慣れている』といったのは誰かしら?」
アシェルは笑った。
「もちろん、彼をこのままセラーダに返すつもりはないわよ」
「では『谷』まで連れて行くのか?」
『谷』とは第二の本拠地の呼び名だ。
「ええ。わたしは、あの子を口説くのをあきらめたわけじゃないし、それに……彼には、まだ話さなければならないことがあるから」
真実を──巷に伝わるものではなく、闇に葬られた本当の『楽園』の物語を。
だが、それをイノに伝えることに、迷いを感じている自分がいる。
結局、それは自身がいま背負っているものを、イノにも負わせようとしているだけなのではないか。同じ〈力〉を持つ者としての彼に重荷を分け、少しでも楽になろうとしているだけなのではないか。
そして、もし、いまだ見ぬイノの『樹の子供』としての真価が、シリオスと同等のものだとしたならば、彼の背負う荷は、自分のものよりもさらに重く過酷なものになるだろう。
しかし、いまさら善人ぶっても仕方ない。これまで自分が出してきた犠牲。「すべてを終わらせる」という言葉のために散っていった命は決して少なくはないの
だ。
終わらせたい──嘘ではない。憎しみと悲しみに彩られ、破滅へと突き進んでいる人と『虫』との戦い。それを憂いているのは事実だ。
本当にそれが自分の願いなのだろうか? ときおり、そう思ってしまうことがある。ただの私情にすぎないのではないか。そのために多くの者に真実を伏せ、さらには巻きこんで……。
自分のしている事は、シリオスのしている事と変わらないのかもしれない。
「あの少年を解放せず、『谷』まで連れて行くのだとしても、こちらの言うとおりに従ってくれるとは限らんぞ。おまえ達の〈繋がり〉とやらは、そこまで保証してくれてるわけではないだろう?」
「もちろん。そんな便利にはできていないわよ」
アシェルはうなずいた。今は感傷に浸っている場合ではない。それに、もはや自分にはその資格すらないのだ。
「それにこの状況だ。彼の護送に割ける人員はないぞ」
「レアにまかせるわ。住民達の護衛も兼ねてね」
「レアに?」彼は眉をひそめた。「あいつこそ素直に従うとは思えんな。おまえのそばに残ると言い張るに決まっている」
「でしょうね。でも、あの子を『彼』と出会わせるわけにはいかないでしょ」
「……確かにな」
「あなたは、少しでも長くセラーダ兵を押さえることだけを考えて。後のことはそれからよ」
そろそろ、レアとソウナが住民達を『館』の前に集め終わっているころだった。アシェルは椅子から腰を上げた。