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─八章  破滅の足音(3)─



甲高い鐘の音が鳴り響いたとき、幼い子供をのぞいて、その意味を理解しない者はネフィアにいなかった。

夕食後の穏やかなひとときを引き裂くような音色にうろたえながらも、男達は武器を手に取り、女や老人達は手早く荷物をまとめ、あらかじめ指定されている場 所へとそれぞれ向かっていく。これらはすべて、決められた手順の下に定められた行動だった。急かすように打ち鳴らされる早鐘の意味……『敵襲』に対して の。

敵──セラーダ。ネフィアという組織に属し、この地で暮らす者達にとっては、あたりまえの事実。忌まわしい過去を、平穏な日々で埋め合わせるように過ご して きた彼らに、鐘の音は改めてその現実をたたきつけた。

目に見えて取り乱す者はいない。だが、内面の動揺を押し隠せる者もいない。いつかこのような日の来ることを想像していたとはいえ、これまでの静かな暮らしが終わりを告げようとしているのだから。


*  *  *


『館』の前に集まった住民達を、レアは兜の奥からじっと眺めていた。

青ざめた顔の人々。そんな大人達の隠しきれない不安は、事態を把握していない子供達にも確実に伝わっている様子だった。

アシェルの部屋を出たあと、彼女から受けた指示を手早くこなしたレアは、自身の装備を整えると、住民達が『館』へと移動するのに手を貸した。耳障りな警鐘が響き渡る中、『館』への先導は、たいした支障もなく迅速に行うことができた。

鐘の音はもう止んでいた。集まった人々のざわめきだけが、静かな夜気に流れていく。そろそろアシェルが皆の前に現れる頃だ。

レアの横にはソウナがいる。住民達を『館』まで先導している間も、そして今も、彼はじっと黙りこくったままだった。ビズが目の前で殺された衝撃から抜けきれないのだろう。

レア自身にとっても、ビズの死は深刻なものだった。彼のことはよく知っていた。悲惨な過去にもかかわらず、底抜けに陽気な男だった。ときにはそれが苦手になることもあったが、決して嫌いになれる人物ではなかった。そしてなによりも、彼はネリイの父親だった。

当然、ネリイはまだその事実を知らないだろう。だが、いずれは知ることになる。父親が最悪の形で失われてしまったことを。

それを知ったとき、あの子はどうなってしまうのだろう。

小さなネリイ。

花を育てるのが大好きなネリイ。

容赦ない現実は、そんな彼女に暗い影を投げかけようとしている。

その影は、幼い少女を変えてしまうのだろうか。

この自分自身がそうであったように。

レアにとって、ネリイは『輝き』だった。幼かったあの頃、なにもかもが美しく輝いていた世界の中にいた自分を、彼女の小さな姿に重ねていた。奪われてしまった未来を、失われてしまった希望を、成長していくネリイの中に、ほんの少しだけ夢見ていた。

そのわずかな夢でさえも奪い去ろうとしている現実……まるで飢えにかられた獣のように。しかし、この出来事で一番つらい思いをするのはネリイだ。レアにはそれが苦しいほどわかる。

この位置からでは、集まっている人々の中にネリイの姿を見つけることができなかった。でも、今はそれでいいのかもしれない。父親が殺されたことを知らずにいる幼い子に、どんな顔をして、どんな言葉を投げかけてやればいいのか、まだわからないから。

「セラーダの奴ら……あいつら……」

憎しみのこもったソウナの声が、横から聞こえた。

レアは彼の方を一度見たきりで、何もいわなかった。セラーダ──怒りと痛みをともなった複雑な感情が、胸の内にあふれる。

ソウナのように、純粋にあの国を憎めたらどんなに楽だろう。しかし、レアにはできなかった。ネリイから父親を奪ったことに激怒していながらもなお、心の底からセラーダを憎悪することができなかった。

ポケットの中にある硬い感触。肌身はなさず持ち歩いている指輪。それがあの国への憎しみをさえぎり、目の前にいる人々と自分との間に、越えられない壁を造る原因なのはわかっている。それでも、指輪を捨て去ることはできなかった。

だけど──レアは腰に下げた剣の柄を握りしめた。覚悟はできているはずだ。「相手が何者であれ戦う」という覚悟は。もう二度と、大切なものを奪われるわけにはいかない。

そして、いつか、あの男をこの手で……。

そのとき、『館』の入り口から人影が出てきた。

アシェルだった。レアは思考を中断した。群衆もざわめくのを止め、一斉に彼女に注目する。

この場にいるすべての人間の視線をあびながら、ネフィアの指導者は口を開いた。落ち着いたよく通る声で、彼女はセラーダ軍が奇襲してきた現状を簡潔に告げ た。余計な説明はしない。警鐘が鳴らされた時点で、人々には自らが立たされている状況が理解できている。セラーダ軍の詳細については、今さら語るまでもな いことだった。

「皆にはこれから『谷』へと移動してもらいます。手順に関しては、ムレイに一任してあるので、彼の指示にはよく従って行動するように。ネフィアは、この地を放棄します」

頭ではうすうすわかっていた事とはいえ、演説の終わりの言葉で、群衆の間にどよめきが走った。だが、指導者の決定に反対の声を上げる者はいない。ここの住人達は、セラーダ軍の怖さと強大さを、身をもってよく知っているからだ。

だが、突如として、住み慣れた土地を離れることに抵抗を感じていない者もいない。レアもその気持ちは同じだった。ここは第二の故郷ともいえる場所だ。アシェルとの初めての出会い──そんな思い出が沢山ある。

しかし、踏みとどまり死ぬまで抵抗を続けることは、愚かな選択でしかない。そもそもネフィアの目的は、真っ向からセラーダと戦うことではないのだから。「この土地を死守することにこだわる必要はない」というアシェルの判断は正しい。

レアは群衆から目を離した。連なる家々のはるか先、南側の洞窟では、もうすでにサレナク達が戦闘を開始しているにちがいない。

住民達が退去するまでの時間を稼ぐ戦い。アシェルからはまだ指示されていないが、これから自分もそれに加わることになるだろう。

指導者の話は終わった。退路めがけてぞろぞろと動き始めた人々の間をぬって、レアは彼女の下へと進んだ。ソウナがその後に続く。

「レア」

こちらの姿に気づいたアシェルが、口を開いた。

「あなたには──」

「わかっています。これから洞窟の防衛に向かいます」

「いいえ。あなたとソウナは、皆と一緒に『谷』まで向かってもらうわ。その警護を任せたいの」

一瞬、言われたことの意味がわからなかった。

「あとイノも──彼も連れて行ってもらいたいの。いま自室に待機させているわ。迎えにいってあげてちょうだい」

「それは……何なんですか、それは!」

理解すると同時にカッとなって、レアは声を上げた。

こちら側の戦力は十分承知している。時間稼ぎだけでいいとはいえ、複数の洞窟から侵攻してくるセラーダ軍を防ぐには、まだまだ人手が足りないだろう。当然、自分も戦うことになると思っていた。それなのに……。

「お断りします。わたしはサレナク達のところへ行きますから」

きっぱり言い切った。この後におよんで自分が戦闘から外されることに、心底から腹が立った。しょせん若い娘だと、アテにされていないのだろうか。

しかも……『あの捕虜』の護送ときた。

「レア、時間がないのよ?」

アシェルはあくまでも落ち着いている。だが、そこにいつものような穏やかさはない。一切の拒否を許さない、上に立つ者としての厳しさがあっ た。

だからといって、素直に「はい」とは言えない。

「そんなの納得できませんよ! だいたい……あいつが何だっていうんですか?」

「彼はわたし達に必要な人間なの。だからこそ、あなたに任せたいのよ」

レアは黙った。納得したわけではない。だが、毅然としたアシェルの瞳に、いくら噛みついても時間の無駄だと苦々しく悟った。それに、これ以上は状況が許してくれない。

必死に思考を切り替える。腰に下げた剣。自らの力。敵と戦うために振るえないのならば、大切なものを守るために振るえばいいのだと。

大切なもの。

「ならば、アシェル様はソウナと先に『谷』へ向かっててください。わたしは捕虜を連れて後から追いつきます」

「いえ。わたしはあなた達とは行かない。後で合流するわ」

「後でって……」驚きに声がつまった。「ここに残るっていうんですか?」

第二の本拠地である『谷』へと退去し始めている人々。その中にアシェルも含まれているものだと、レアは当たり前のように考えていた。自分達にとって、彼女はなくてはならない存在なのだから。

その当人は、静かにうなずいていった。

「サレナクと一緒に少しやらなきゃいけないことがあるの。それに敵の狙いはわたしよ。皆と行動するわけにはいかない」

「そんな……だからってここに残るのは危険すぎます!」

「べつにこの場所と心中しようなんて思ってやしないわ。サレナクもいるんだし、心配は無用よ」

「嫌です! わたし、アシェル様を置いてなんて行けません!」

駄々をこねる子供のような自分に、ソウナや、移動している他の人々が視線を向けているのがわかる。それでもかまわない。今度こそ本当に引き下がるわけにはいかなかった。

もうじきこの土地は戦火に巻きこまれる。その中に残るというアシェル。そして、その彼女を置いて先に安全圏へと発つ自分……。

そんなの、絶対に認められるわけがない。

「お願いです。バカな真似はやめて、わたし達と一緒に来てください。アシェル様のことは、命に代えても御守りしますから!」

もはや組織の人間としてではなく、自分個人の感情からレアはそう叫んでいた。

「どうしても残るとおっしゃるなら、わたしも残ります!」

相手は無言だった。聞き分けのない自分に失望しているのかもしれず、もしかしたら、ひっぱたかれるかもしれなかった。それでも、レアは譲りたくなかった。

しかし……沈黙の後、顔を伏せたのは自分自身だった。太刀打ちできないほどの強い意志を。アシェルの瞳に読み取ってしまったから。

腰の剣の重みが虚しいものに感じられる。敵と戦うことも、大切なものを守ることもできない力に意味なんてない。結局、自分にはなにもできないのだろうか。

うなだれているレアの肩に、アシェルがそっと手を乗せた。失望もしていなければ、怒ってもいない、柔らかで優しい感触。

「レアリエル」

はっ、とレアは顔を上げた。遠い昔の名前。今では呼ぶ者のない、だが決して忘れることのできない名前。アシェルがそれを口にしたのは初めてだ。

「わたしは大丈夫。だからお願い。みんなを守ってあげて」

『みんな』という言葉に、ネリイの姿を思い浮かべる。父親を奪われたばかりの小さな女の子。

あの日のレアリエルと同じに。

目の前で微笑んでいるのは、いつものアシェルだった。組織の指導者ではなく、絶望に壊れそうになっていた自分に優しく声をかけてきてくれたあの時から、レアがずっと見つめ続けてきた、一人の女性としての彼女だった。

誰よりも大切な人からの言葉。それは『命令』ではなく、『頼み』なのだと感じ取った。

「わかりました」レアはうなずいた。

背後で黙って成り行きをながめていたソウナに目で合図すると、レアは『館』の中へと足を踏み出した。

見守るようなアシェルの視線を背中に感じた。だが振り返らない。

振り返れば、彼女を見てしまえば、また一緒に残ると駄々をこねてしまいそうだから。

なにもこれがアシェルとの今生の別れというわけではない。自分達の本当の戦いは、これから先にある。今の状況は、大事の前の小事にすぎないのだ──そう自分に言い聞かせながら、レアは捕虜のいる部屋へ向かった。

しかし、漠然とした不安はいつまでも捨てきれなかった。



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