─八章 破滅の足音(4)─
(これは……なんだろう?)
窓の外にある景色をながめながら、イノは眉をひそめた。
それは音のようだった。しかし、直接耳に届いているものではない。さっきまで、窓の外でうるさく鳴り響いていた鐘の音は、今はもう止んでいる。
音ならぬ音。心の奥底にあるものを揺さぶられるような気分。一定の調子を刻んで届いてくるそれは、初めて聞くにもかかわらず、奇妙な懐かしさを感じさせ
た。
音楽……いや、歌だろうか。声ならぬ声による歌声。
この奇妙な歌は、イノがアシェルの部屋を出て自室に謹慎されたときから、鐘の音に混じって流れてきていた。そして、鐘が鳴り止んだ今もずっと続いている。歌声の主も、その意図もわから
ぬままに。
これも『普通の人間』には聞こえていないのだろう。もはや考えるまでもなく、イノにはそれがわかった。
歌から注意をそらし、イノは、今夜アシェルが語った話の一つ一つを思い出していった。自分が持ちえてしまった謎の力の正体。『樹』、そして『樹の子
供』……信じが
たい話の数々。
できれば、それらすべてを作り話だと否定したいところだった。だが、この数日で、さんざん日常を超えた体験をしてきたのだ。おまけに今も流れているこの
歌……。それでも認めようとしないほど、イノも意固地では
なかった。
だからといって、気分がすっきりと晴れたわけでもない、それどころか頭の中は、〈力〉の正体がわからなかった頃よりますます混迷している。おまけに、状
況がそれを整理する余裕すらあたえてくれない。
もうすぐ、この場所は戦場になるのだ。人と人。セラーダとネフィアとの。
複雑な思いに、イノは胸を締めつけられそうになる。どちらも、自分にとっての『敵』ではないのだから。
この地で過ごした日々、そこで暮らす人々との少なくない出会い。立場上は敵であるかもしれないが、彼らは自分となんら変わりのない人間だっ
た。みんな過去にひどい心の傷を負いながらも、懸命に生きている人達だった。しかも、その傷を負わせたのは他でもない祖国だ。そして、今もまた同じことを
繰
り返そうとしている。
やりきれない思いがした。だがそれに対し、自分がどう動いていいかわからない。どちらかに味方して、もう一方と戦うなんてことはできないし、したくもな
い。
おまけに、現在この地に侵攻してきているセラーダ軍には、アシェルの話に登場した男がいる。彼女と敵対し、世界を破滅に導こうとしている、自分達と同じ〈力〉を持つ人間
が。
アシェルの部屋で感じたもの。あれはまぎれもなく〈繋がり〉だった。『樹の子供』と呼ばれる者だけが持つ感応の力。わずかな間では
あったが、それが触れてきたときに感じた悪寒は、はっきりと身体の内に記憶されている。
シリアやアシェルの〈力〉とは、あきらかに似て非なるものだった。彼女達との間にあった感覚を〈繋がり〉というな
らば、あれにはまるで『飲み込まれそう』な印象を受けた。
相手の存在を喰らい尽くすような底知れぬ冷たさ。それと似たものを、イノは以前にも感じたことがあるような気がしていた。
そう──『虫』だ。あの怪物が襲撃してくる前に感じたものとそっくりだったのだ。
(いったい何者なのだろう……)
その男の正体をアシェルに聞きそびれてしまった。彼女の話を聞いた限りでは、軍の中でも上の立場にいる人物のよう
だった。一介の兵士である自分との面識はないだろうが、名前ぐらいは知っているかもしれない。
そこまで考えると、イノは大きく息をはき出した。あまりにも多くの出来事が起こりすぎている。そして、激流のように押し寄せるそれらに、ただ翻弄され流さ
れていくだけの自分。
目の前にある現在。その先にある未来。
今なにをすべきか。これからなにを為せばいいのか。
わからない……。ただ、焦る気持ちだけが空回りしていく。
一つだけわかっているのは、過去の自分には戻れないということだけだ。
がむしゃらに『虫』と戦い続けていた日々。それは、もう手の届かないところへと去っていった。取り返すことは……二度とできないだろう。
悲しくなると同時に、イノは内心で嘲笑ってしまった。人にはない力を持っているといいながら、気持ちだけを動かして、ただこうして座っているだけの自分
を。
そのとき、部屋の扉が開いた。
光の中にたたずんでいる人影。見慣れた白い装いの彼女。
「出て」
厳しい口調でレアはそういった。銀色の兜の奥にある青い瞳が、射るような視線を放っている。兜をつけた彼女を見るのは、久しぶりな気がした。
イノは黙って立ち上がった。質問はしない。レアにそういう雰囲気はないし、自身もその気がなかった。とりあえず動いていられるのなら、考えずにいられるの
なら……なんでもかまわない。
部屋の外へ出ると、レアの他にもう一人いた。ソウナという名の少年だ。彼もまた武装している。二人の姿を見て、この地が戦火に巻きこまれるのが現実の出来事なのだと、イノはあらためて思い知らされた。
「これから、あなたはわたし達と一緒に行動してもらう。余計な真似は一切許さない。いいわね?」
イノはうなずいた。
余計な真似──それは、こちらが教えて欲しいぐらいだった。
「なんだって、こんな奴を……」
「アシェル様の指示よ。あなたも無駄口をたたかないで」
不満げにつぶやくソウナに厳しい一瞥をくれると、レアは先に立って歩き出した。その様子は、今の行動に打ちこむことで、懸命に何かを振り払おうと
しているように見えた。
それはイノも同じだった。自身を悩ませ、迷わせ、苦しめている現実。それらすべてをあの小さな部屋──もう戻ることはないような気がした──に置き
去りにするようにして、レア達に従うことのみに意識を集中させた。
気づけば、あの奇妙な歌は止んでいた。なぜか寂しい思いがした。
* * *
閃光が瞬き、轟音が洞窟の外にまで響き渡る。仕掛けた側でさえ、思わず怯んでしまうほどの光と音に、洞窟内部から侵攻してきたセラーダの兵士
達が悲鳴に近い声を上げた。すかさずネフィアの男達が、洞窟の前に張り巡らせたバリケード越しにクロスボウを撃つ。鋼鉄の矢が洞窟の中へと吸いこまれ
るように消えた後、闇の奥からこだましてきた怒声が、部下に指示を出しているサレナクの耳に聞こえてきた。
サレナクが今いるこの場所と同じような攻防が、他の洞窟の前でも行われている。今のところ、相手に突破されたという報告はない。こちらは積極的
に攻めることなく、ひたすら相手を迎撃することに専念している。洞窟のせまい空間と、出口での抵抗に阻まれ、思うように攻めることのできないセラーダ兵達
の苛立ちが、手に取るように
伝わってきた。
だが、このままでいるほど敵も甘くはないはずだ。数の上でも、兵の質でも、勝っているのは相手の方なのだから。
こうしている間にも、相手側は他の洞窟
からの侵入を試みているはずだった。それほどに、本拠地を囲む岩盤には、無数の穴が開いているのだ。残念ながら、それらすべてを防ぐことのできる人員は
こちらにはない。
以前、洞窟のいくつかを爆薬で塞いでしまおうという案が出たが却下された。爆破の衝撃が、網の目のように入り組んでいる穴の数々にどのような
影響を及ぼすかわからなったためだ。自分達が使うものまで塞がってしまっては話にならない。
再び、光と音とが弾ける。それは、ブレイエの砦で使用し『虫』との戦いでも使った、イジャの発明した威嚇玉だ。
サレナクは洞窟の闇へと目を向けた。その奥にいるセラーダの兵士達。そして、その先にいるシリオスへと。彼も自分と同じように事の成り行きを
眺めているのだろう。静かに……おそらく笑みさえ浮かべながら。人ならぬ〈力〉がなくとも、それぐらいは察しがつく。
『君はあまり驚いてないんだね』──人の血と、『虫』の血とにまみれた少年の不思議そうな顔。まだ英雄でもなく、セラーダの人間ですらなかったシリオス
との初
めての出会い。サレナクにとっては、あのとき彼が放った第一声からすべてが始まったといってよかった。
そして今、それは決着を迎えようとしている。あのときは想像すらしていなかった形で。
蘇りそうになる過去の記憶を、サレナクが脳裏の奥へ押しやったとき、後方から使者が走ってくるのが見えた。
そばまでやってくると、使者は息を切らせながら、住民達の退避が完了したと報告した。サレナクはすぐさま、ボウガンに矢をつがえている男達に声をかける。
「退き際だ。撤収の準備を始めろ」
「もうですか? まだまだやれますよ!」
若い一人が気勢を張る。他の者達も熱気に満ちた目で、サレナクに注目した。現在の自分達の優位と、今ま
で内に秘めていたセラーダへの憎しみが、必要以上に彼らを奮い立たせていた。
「もう十分だ。住民の退避は終わった。オレ達の役目はその時間を稼ぐことだけだ。この地を守ることでも、相手を全滅させることでもない」
「ですが──」
「奴らが攻めあぐねている今を逃せば、退くのは難しくなる。無駄な戦いで命を散らせる必要はない。オレ達の本当の戦いは、この先にあることを忘れ
るな」
戦闘の熱に浮かれている者達へ、サレナクは容赦なく言葉をたたきつけた。そして、彼らの中から年長の男を呼び寄せていった。
「後はお前に任せる。撤退は手順通り行えよ」
「サレナクさんはどうするんです?」
「オレには一仕事残っている。それが片付いたらお前達の後を追うさ」
そう告げた後、再び洞窟を見る。闇の奥へ。その先へ。
立ち去るサレナクの背後で、光と音とが弾けた。