─八章 破滅の足音(5)─
無言のまま急ぎ足で、イノ達は『館』の回廊を進んでいく。建物内に人の気配はない。皆戦いに駆りだされているか、逃げだすかしたのだろう。
しかし、『館』の出口までさしかかったとき、イノはそこでふとアシェルの〈力〉を感じた。
まちがえようのない〈繋がり〉──彼女はまだこの建物の中にいるのだ。
イノは驚くと同時に不審に思った。これまで本人を前にしているときにしか捉えることのできなかった相手の〈力〉が、今でははっきりと知覚できているのだ。
しかし、アシェルがこの〈繋がり〉に気づいた様子はない。どうやら、自分だけが一方的に、彼女の存在を感じているみたいだった。
今度は何が我が身に起こったというのだろう。
研がれていくことで輝きを増す刃のように、自分の中にある〈力〉がしだいに鋭いものになっていく気がする。心の奥底であやふやな霧のように存在していたものが、何かの形を取ろうとしているのが意識できた。それは、あの不思議な歌が聞こえなくなってからはじまっている。
(……アシェルもあれを聞いたのだろうか?)
そこで考えるのをやめ、イノは注意を前にいる二人にもどした。今は何も考えたくない。
『館』から外へと出た三人は、目に映った光景に息をのんだ。
目の前に軒を連ねている家々、そのはるか先に点在している施設の一つが明々と燃えている。侵入したセラーダ軍が火を放っているのだ。この場所から見るだけ
では、ロウソク程度の小さな灯りでしかないが、実際その場では、すさまじい勢いで熱と炎とが荒れ狂っているにちがいない。
やがて、その炎はこの地すべてに拡がるのだろう。「戦火」という文字通りの意味で。
「急ぐわよ」
遠く光る炎をにらみつけながら、感情を押し殺した声でレアがいった。
三人は『館』の背後にまわり、そこに広がる草地を進んだ。行く手にはこの土地を囲む巨大な岩壁と、その下に口を空けている洞窟とが見える。洞窟の前に数人の人だかりができているのが、薄闇の中でも確認できた。おそらく脱出する住民達だろう。
「様子がおかしいわね」
レアが眉をひそめた。遠目からでも、洞窟の前にいる彼らが何か騒いでいるのがわかる。
「ああ。姫さん!」
近くまで行くと、人だかりの中から声が上がった。イジャだった。
「こんなところで何をグズグズしているの? もうセラーダはそこまで──」
「いなくなっちまったんだよ。ネリイのやつが!」
イジャの切迫した言葉に、三人は凍りついたように固まった。
「いなくなったってどういうことなのよ!」
「知らねえよ! 気づいたのはさっきなんだ!」
怒鳴るレアに対し、イジャも声を張り上げる。
「ナリヤが──」
イジャは人だかりに目をやる。その中心で泣き崩れている女性。イノの知っている人物だった。ネリイの母親だ。何度か言葉を交わしたことがある。
「ちょっと目を離した間にいなくなっちまったらしいんだ。こんな状況だから、誰もそれに気づかなかった……。探しに戻るって取り乱したナリヤを、ようやく落ち着かせたところなんだよ」
「そんな……どこに行ったっていうのよ?」
動揺をにじませた声で、レアは背後を振り返った。
「まさか……ビズの事を知ったんじゃ……」
それまで黙っていたソウナが、震える声でいった。
「それはねえ。まだ……みんなには報せてないからな」
イジャが声を落としていった。
ビズ──イノは思い出す。ソウナが、セラーダ軍の来襲を告げたときに聞いた名前だ。殺されたのだ、と言っていた。
「他のみんなは?」
しばらく唇を噛みしめていたレアがたずねた。
「もう『谷』へと移動し始めてる。そっちはムレイが指揮してるから大丈夫だ」
「じゃあ、あなた達もすぐに向かって。ネリイはわたしが連れ戻してくる」
「そんなの危険だ!」ソウナが声を上げた。
「もうセラーダの奴らは入りこんでるんだぞ? 戦ってるみんなだって、撤退をはじめてるだろうし」
「その危険の中にネリイはいるのよ? あなた、このままあの子を見捨てて行けって言う気なの?」
鋭い視線と言葉を返され、ソウナは口を閉ざした。
レアはイジャに向き直った。そして、「彼も連れて行ってちょうだい」とイノを指した。
「『谷』へと連行するよう、アシェル様から指示を受けているわ。もし妙な真似をしたら、たたきのめしてかまわないから」
周囲に聞こえないよう小声で彼女に告げられて、イジャは初めてイノの姿に気づいたようだった。
「ネリイは必ず連れて帰るわ。だから心配しないで」
この場にいる者達全員に向けて強く言い放つと、レアは遠く背後に見える家々の連なりへと駆け出していった。「くそっ!」と叫んで、ソウナが彼女の後を追う。
夜闇に浮かぶ小さな町の影。その先にある炎の光は、イノがさっき見たときよりも数を増していた。
* * *
他の者に支えられながら、ネリイの母親が洞窟の中へと入っていった。
力を失い、呆けたような彼女の姿が視界から消えると、イノは瞳を夜の闇へと向けた。こうしている間にも、彼方で明滅している炎はどんどん拡がっていく。セラーダ軍は、徹底的にこの地を蹂躙するつもりだ。
「さあ……オレ達もいこうぜ」イジャの声がした。
イノは動けなかった。だが、再び捕虜として連行されるということを知り、そのことに抵抗しているわけではなかった。
このままここを立ち去っていいのか?──その想いが身体を動かさない。あの小さな部屋に置き去りにしてきたはずの葛藤が、再びイノの全身を支配していた。
何かしなくてはならない、という焦りの気持ち。だが、セラーダとネフィア、どちらの陣営にも組する気のない半端な立場の自分に、何ができるというのだろう。
彼方に拡がりつつある炎が、そんなイノのもどかしさを嘲笑うように瞬いている。
あの中にネリイがいる……そう考えると胸を刺されるような気分になる。レアが「連れ戻す」と駆けていったとき、できれば一緒に行きたかった。むろん、連行される捕虜の身である自分に許されることではない。
「そういえば、ビズって誰なんだ?」
ふと思い、イノはイジャにたずねた。幾度か耳にした名。殺された男の名。さっきのレア達の会話を聞いていた限りでは、その男はネリイと関わりがある人間のように思えた。
「ビズは……」
イジャの顔が苦しそうに歪んだ。
「ネリイの親父さんだよ」
瞬間、イノは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「じゃあ……」かすれた声の先は続かなかった。
ネリイは父親を殺されたのだ。この自分と同じように。
だが、殺したのは『虫』ではない。
その事実は、いま自分を苦しめているどんな現実よりも、イノの心に重く響いた。
イノは手を握り締めた。
手の中に蘇る記憶。小さく柔らかく暖かい感触。
脳裏に浮かぶ記憶。無邪気な笑顔と声。
ずっと空回りしていた気持ち。しかし、今この時だけは。
自分の為すべき行動がはっきりとわかった。
「オレも行ってくる」
彼方の炎をにらみつけて、イノはそう硬く口にした。
「行くって……お前さん、なにを言ってんだ?」
「ネリイを探して連れ戻す」
「おいおい、無茶言うもんじゃないぜ! 姫さんの話を聞いてなかったのかよ?」
「聞いてたよ。だけど、どこにいるのかわからないなら、探す人手は少しでも多い方がいいだろ?」
「そりゃあ、そうだが」
「それに……」イノは苦しげに続けた。
「あの子の父親を殺したのは、『オレ達』なんだ」
イジャが息を呑んだ。「お前さんに……責任があるわけじゃないさ」
慰めの言葉。だがイノは受け入れることができない。
セラーダとネフィアの戦い。それは組織と組織の戦いだ。ネリイの父親はその中で殺された。彼の命を奪ったのは一人の兵士という「個」ではなく、セラーダという巨大な「個」だ。それが戦争というものだろう。
そしてイノは、そのセラーダという「個」に属している人間だった。その気持ちは今でも変わらない。だからこそ、ネリイの父親の死に対し、まったく関係ないと突っぱねることができなかった。
「頼む、行かせてくれ! あんたに迷惑はかけない!」
イジャに懇願した。自身の行為が、ネリイの身に起こった悲劇を取り消すことにならないのはわかっている。ただ、これ以上、彼女を大人達の争いの中に巻きこみたくはない。それだけだった。
もし、あの小さな少女が、この戦の中で命を落とすか、捕虜になるようなことがあれば……そんなことは断じてあってはならない。絶対に許さない。
沈黙が二人の間に流れた。
「しゃあねえな……」
やがてイジャが疲れたようにいった。
「とんでもなく迷惑な話だが、お前さんには命を救われた借りがあるからな。それに、どうせ止めたって無駄だろ? 誰かさんと同じで」
「ごめん」イノは頭を下げた。
「よしてくれや。あの子の事を死ぬほど心配してるのは、オレだって同じなんだ。ただ、姫さんやお前さんみたく、戦のまっただ中に飛びこむ度胸も腕もないだけでな」
自嘲気味に嗤ってイジャは続けた。
「だから……行くならとっとと行って、とっととあの子を連れて帰ってきてくれよ」
「わかってる」イノは強くうなずいた。「あの二人が、ここに戻るより先に帰ってくるよ」
「そう願ってるぜ。でなきゃ、オレ達二人とも姫さんにたたきのめされちまうからな」
「それ≠ヘもう経験してるから」
小さく笑って背を向けたイノは、「ちょっと待ってくれ」というイジャの声にふり返った。
「これ、持ってくか?」
差し出されたのは、イジャの剣だった。
「貸してやるよ。オレ本人がついて行くよりも役に立つと思うぜ」
目の前の剣。それが意味する「信頼」という言葉。セラーダもネフィアも関係なく、イノという一人の人間に対しての。
こちらがこのまま脱走するかもしれない可能性──イジャだって、それを考慮していないわけではないだろう。でも、彼はそのことを一切口にしなかった。
嬉しかった。
そして、イノはゆっくりと首を振った。
「ありがとう」と、心からいった。
「でも、オレは戦いに行くわけじゃないよ。あの子を連れ戻しに行くだけだから」
「まあ……それもそうだな」
剣を下げ、イジャはそれ以上何も言わなかった。
「行ってくる」彼に背を向けて、イノは駆け出した。
「ちょっと待て!」と、再び呼び止められた。
イジャが放り投げてよこしてきた物を片手で受ける。
鈍色の小さな玉。大きな音と光を出すあの玉だ。
「念のためだ。そいつだけでも持ってけよ!」
「わかった!」
玉を受け取った手を上げて応えると、イノは再び駆け出した。