─八章 破滅の足音(7)─
イノは草地を駆けていた。目指しているのは菜園だ。ネリイはそこにいるような気がしていた。
セラーダの兵士と接触することのないよう、土地を囲む岩壁に沿うように移動していた。岩壁と反対の方に視線を向ければ、遠くに拡がる炎が見える。セラーダ
軍の手は、まだ菜園の方まで伸びてはいなさそうだった。ネリイを連れて、イジャの待っている脱出口まで戻る時間は十分にある。彼女が菜園にいれば、の話だ
が。
もし少女が菜園にいなかったら……その場合は、町の方へ向かったレア達が捜しだしてくれることを期待するしかない。他の場所へと向かう時間はないだろう。
どちらの結果でも、イノはイジャの待つ洞窟までもどる気でいた。自分を行かせてくれた彼の信頼を裏切りたくはなかったし、なによりも、この戦いから逃れたかった。
できることなら、今すぐにでもこの地から去りたかった。いや、この地だけではなく、すべてから去ってしまいたかった。セラーダ、ネフィア、『樹の子供』といった現実から。ただネリイを見捨てたくない、という想いだけが今のイノを突き動かしていた。
やがて菜園が目の前に迫ってきた。イノがいる位置からでは、背の高いオオアカトウの茂みが邪魔で全体がよく見えない。
はたして、ネリイはいるのだろうか。
囲いの入り口から菜園の中へ入ると、夜風にそよぐ緑の中を突っ切る。やがて開けた視界の先に、地面にしゃがみこんでいる少女の姿が見えた。
いた!──イノは心底からほっと息をついた。
「ネリイ」
いつものように穏やかな声で呼びかけると、少女がこちらを向いた。
「イノ」
「なにやってんだい?」
「お花の種。あたらしいお家にも、植えなきゃとおもって」
ネリイが差しだした手。小さな掌に乗った小さな種。なぜかそれがイノの胸を締めつけた。
「そっか」努めて明るくいった。「さあ行こう。みんな心配してるよ」
「みんなネリイのことおこってる?」少女は不安げにたずねた。
「怒ってはいないよ」
イノは笑った。
「でも、帰ったら、ちゃんと謝らなきゃな」
「うん。お母さんも、お父さんも、おこると怖いんだもん」
安心したようなネリイの笑顔と言葉が、イノを凍りつかせた。
お父さん──安堵のあまり忘れていた。
この少女の父親が殺された≠ニいうことを。
「イノ?」
ネリイが首をかしげる。今、彼女に父親の死を悟られるわけにはいかない。一刻もはやくこの地から連れ出すのが、自分の為すべきことなのだから。そのためには……。
『なんでもないよ』と笑えばいい。たったそれだけのことだ。でも、たったそれだけのことなのに、口から声が出ない。表情が動かない。
不思議そうな顔をしてこちらを見上げている幼い子供。見下ろしている自分。
知っている。この光景を知っている。
(そうか。オレじゃないか……)
イノは理解した。目の前にいる子供は、あの雨の日、父の死を報せに来たスヴェンを見上げている小さな自分なのだと。
そうか。つらかったんだなスヴェン──何も知らない幼い子に、親の死を伝える役目。きっと、彼はそれを自分から買って出たのだろう。親しい者として、自身に課した義務として。
もちろん、スヴェンがその役目を簡単に引き受けたのだと思ったことはない。だけど、こんなにつらいものだとは想像もしていなかった。こんなにもつらいものだなんて……それだけは確かだ。
「なんでもないよ」
イノは笑った。
そう。嘘をつくことぐらいなんでもない。
瞳の奥が熱いのも、声が詰まりそうになるのも。
スヴェンが自分にしてくれたことに比べたら、なんでもないことだ。
なんだか無性に彼に会いたくなった。
風にゆれる菜園の草花。その頭上に広がる円い星空。そして、その空の下のどこかで、今も戦っているだろうスヴェン。今度会ったら、会えることができたら、ちゃんと礼を言おう。「いまさら、なに言ってんだ」と笑われるかもしれないけれど。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
抱きかかえたネリイの身体。小さくて軽い身体。いずれ、それが父の死という深い悲しみに包まれることになるのだとしても、今は必ず守り通してみせる。目をしばたき、イノは強く決意した。
菜園の入り口まで引き返したイノの耳に、こちらへ駆けてくる足音が聞こえた。はっとして、ネリイを抱えたまま緑の茂みに姿を隠す。
セラーダの兵士だろうか? イジャからもらった威嚇玉が入れてある、ズボンのポケットに手を伸ばす。
そして、足音の主が菜園の入り口に駆けこんできた。
「レア!」
腕の中の少女が声を上げる。
「ネリイ!」
茂みの影から姿を現した二人を見て、レアは驚きと安堵の声をもらした。しかし──
「あなた……!」
ネリイを抱きかかえているイノに、すぐさま険しい視線と声とが向けられた。
「なぜ、あなたがここにいるの! その子をどうするつもり?」
「あんたと同じだよ。ネリイを連れ戻しに来たんだ」
「わたしは、そんな事を頼んだ覚えはないわ! 『余計な真似はするな』と言ったはずよ?」
なじるように言葉を放つレア。兜の奥にある鋭い眼光。そして、イノはその光の中に、これまで彼女に見たことがない、どんよりとした暗さがあるのを感じとった。
「レア……ごめんなさい」
ネリイの怯えた声に、白い姿がたじろいだように見えた。
「だから、イノをおこらないであげて」
レアの雰囲気がただならないものだと、この幼い少女にもわかるのだろう。抱きかかえるイノの首に回されている小さな手に、すがりつくような力がこめられた。
「ううん……わたしの方こそ……怖がらせちゃってごめんね、ネリイ」
動揺しつつも、柔らかな口調でレアが謝る。その声に潜んでいる傷ついたような悲痛な響き。彼女も、ネリイの父親がもうこの世にいないことを知っているせいか。でも、それだけではないような様子に見える。いったい何があったのだろう。
「でも、後でちゃんとみんなに謝らなきゃだめよ? お母さん、すごく心配してたんだから」
「うん。イノにもいわれたよ」
こちらに近づきながら、レアはネリイに笑いかけた。彼女を撫でようと伸ばされた腕が、ぎくりとしたように止まり、そのまま引っこめられる。まるで、自分の手が少女に触れることを怖れているように。
「さあ。急いで戻りましょう」
その態度をごまかすように、さっと二人に背を向けてレアはいった。
菜園を穏やかな夜風が通りすぎる。そして、イノは彼女から微かに漂ってくる臭いに気づいた。周囲でそよぐ草花のものとは、あきらかに異なる臭い。これまで幾多の戦場で嗅いできた臭い。
血……人の血の臭い。
彼女の身に何があったのか、イノにはわかった気がした。
それに──
「なあ……ソウナって奴はどうしたんだ?」
レアは答えなかった。無言の彼女の背中。それで十分だった。
* * *
『館』の中にある広間の窓から、アシェルは外の光景を眺めていた。
洞窟の防衛から戻ってきたサレナクとの打ち合わせは終わった。後は待つだけだった。
シリオス。かつての仲間を討つために。
外に広がる闇を、燃えさかる家々の炎の明かりが照らしだしている。もうじき、この『館』の中にまでセラーダの兵士達が入りこんでくることは、誰が見てもわかりきったことだ。
だが、シリオスはそうさせないだろうことを、アシェルは知っている。
こちらがこの場を動かない限り、彼は部外者を排し、必ず自らの手で決着をつけようと姿を現すにちがいない。彼がそういう人物なのだということを、かつての仲間として十分すぎるほど理解している。
それが自分達の付け目だった。もちろん、向こうもこちらの思惑を承知の上でやってくるだろう。
はたして、彼を討つことができるだろうか。可能性は高いとはいえない。かつて自分とサレナクは、シリオスを討つことに失敗している。結果、二人とも傷を負い辺境に身を潜めねばならなくなった。
そして時はめぐり、再び決着の場を自分達にあたえている。今度は、両者とも「痛み分け」という結末にはならないだろう。シリオスか、自分達か……どちらかが必ず滅びることになる。
どうしてこんなことになったのだろう。
三人で戦場を駆け回っていたあの頃。誰一人、自分達の未来が今のようなものになるなんて、想像してもいなかったはずだ。
永遠に失われた日々。
『虫』との戦争という凄惨な現実の中でも、何かが輝いていた日々。
回想するアシェルの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。もし、レアが当時の自分を見たら、きっと卒倒してしまうほど驚くにちがいない。
あれから、ずいぶんと遠いところへ来てしまった。
自分達は、いったい何を間違えてしまったんだろう。
いや。間違いなどないのだろう。互いに真実を追い求めた結果、両者のそれが交わらないものだった……それだけの話なのだ。
そう理解していても、過去を懐かしみ戻りたいと願うのは、人としての弱さなのだろうか。
アシェルは視線を下に向ける。窓際の小さなテーブルに置かれた金色の輝き。
シリアもこの戦いを感じている……自身の〈力〉で彼女を感じ取れなくても、それがわかった。宝石のような小さな緑色の瞳は、嘆きの色を映しているように見えた。
彼女の介入はあるだろうか。それはわからない。
ふいに背筋に走る寒気。そして生まれた〈繋がり〉。自分にとってすっかり馴染みのあるその感覚は、その繋がりの相手──シリオスがこの地に足を踏み入れたことを意味していた。
正々堂々ともいえる〈力〉による邂逅。さきほどのように、軽く触れるといった程度のものではない。アシェルは自身の存在が、相手の存在にがっちりと掴まれているのを感じた。
〈繋がり〉が伝えてくるもの。五感を超越した感覚に働きかけてくる相手の意志。やはり、彼は自らの手で、自分達のこの関係に終止符を打つつもりのようだ。
決着。それはもうそこまで迫っている。
(望む、望まないじゃない。やるか、やらないかだ)
サレナクが自分に言い放った言葉。
「まったく……その通りだな」
窓の外に目を向け、アシェルは不敵な笑みを浮かべた。