─八章 破滅の足音(9)─
『館』の周辺に人影はない。
イノは不審に思った。それはレアも同じらしい。もはや、この土地はセラーダ軍の思うがままである。一番大きくて目立つこの建物に、いまだ手がつけられてな
いのは、どう考えても不自然だった。
事情はわからないが、セラーダの兵士達と一戦交える不安を抱えていた自分達にとって、これは『館』の中へ入る絶好の機会だった。
「地下から向かいましょう」
離れた場所に身を潜めながら、『館』の様子を眺めていたイノの隣で、レアが決意したようにいった。
二人は『館』の裏手から地下へと続く階段を下り内部へと侵入した。暗がりに並んでいる大きな樽。湿っぽい臭い。イノが初めてこの地に連れてこられてきたと
きに、一夜を明かした場所だった。
『館』の中にも、セラーダの兵がいる気配はない。自分達の立てる靴音だけが、冷たい石壁に反響する。悠久の時を感じさせる『館』の内部。それはまるで、こ
こだけが外の世界とは切り離されているような錯覚を受ける。
だが、イノは知っていた。その外の世界から、冷たい石壁の向こうから、こちらへと迫りつつある存在があることを。
「待て。こっちだ!」
噴水のある庭園を横切り、アシェルの部屋へ向かう階段を上ろうとしていたレアを、イノは呼び止めた。
アシェルはこの階にいる。イノにはすぐさまそれがわかった。彼女はすぐ近くだ。だが、相変わらず向こうは、こちらの存在に気づいていないようだった。おそ
らく、外から迫る存在に気を取られているのだろう。
レアは口を開きかけたが、黙って着いてきた。彼女も薄々理解しはじめている……とその表情を見てイノは思った。こちらが得体の知れない何かを持っているこ
とに。
静かに流れる噴水の音を後にする。思えば、ここでレアと剣の稽古をし、アシェルから食事に誘われたのは昨日のことだった。なんだかずいぶんと遠い昔のよう
な気がした。
長い回廊の奥に扉が見える。アシェルはその先にいる。最初にレアに案内されたときの一度しか足を踏み入れてないが、そこは広間だったと記憶している。
古く大きな木の扉に手をかけ、イノは一気に開け放った。
使われることのないがらんとした広間。外側の壁には、人の背丈ほどの大きな窓が整然と並び、床には古ぼけた大きな敷物が敷かれていた。奥は少しだけ床が高
くなっており、長い間使われた様子のない椅子が壁際にいくつか寄せられていた。その中から手前に引きだされた椅子の一つに、紫色の長衣をまとった見慣れた
姿が座っていた。彼女の脇にある小さなテーブルの上には金色の輝きがある。
「あなた達……!」
こちらの足音を、セラーダの兵だと思っていたのだろう。アシェルは心底驚いた顔をした。だが、その表情がたちまち硬く険しいものに変わる。
「何をしに来たの?」
鎮座した女王のごとき威厳をかもしだし、そばまできたイノ達へ交互に向けられる鳶色の瞳。咎めるような視線が、これまで彼女が見せたことのない鋭い光を
放っていた。となりいるレアがたじろぐ気配がした。
「レア。あなたには、彼を連れて『谷』まで行くよう頼んだはずだけど?」
「それは……」
静かな、だが、かつてない彼女の厳しい声に、ここまで駆けてきた気勢をそがれたレアが言葉につまる。そんな彼女をかばうように、イノは口を開いた。
「オレが、無理を言って付き合わせただけだ」
「あなたが?」
イノはうなずいた。
「あんたのやろうとしてることは、オレにはわかってる」
沈黙が流れた。
「そうね」
やがて、アシェルは力を抜いたようにいった。
「あなたには……わかってしまうわね」
椅子から見上げる瞳から険しさが消えていた。
「オレはそれを止めに来たんだ。こんな無茶なことはやめて、はやく逃げた方がいい」
「それは叶わぬ願いだわ。彼はわたしを『捉えて』いるもの。こうなった以上、姿を隠すことに意味なんてないわ」
「だからって……一人で戦うことなんてないだろ!」
あくまでも落ち着いているアシェルに、イノは声を荒げた。となりではレアが、意味のわからない会話を為す二人に、口をはさむこともできず戸惑いの目を向け
ている。
「戦って……絶対に勝てるのか?」
アシェルは答えなかった。
「もし勝てなかったらどうするんだ?」
なおも彼女は答えなかった。
「あんたとシリアって子は、この先やらなきゃいけないことがあるんだろ? もし負けたらそれはどうなるんだ?」
こちらにじっと注がれている鳶色の眼差しに、ランプの明かりに輝く銀色の髪に、そしてなによりも、今、彼女との間にある〈繋がり〉にイノは言葉を紡いだ。
「あんたはオレが必要だって言ってくれたけど、そのあんたを必要としてる人はたくさんいるんだぞ。オレなんかよりもっとずっとたくさんの人が、あんたにい
てもらわなきゃ困るって思ってるんだ。それなのに、勝てるかどうかもわからない戦いを一人でしかけるなんてバカげてるじゃないか。もし、それであんたがや
られたりしたら、残された人達はどうするんだよ!」
こんなふうに必死でしゃべるのは、生まれて初めてだった。それでも、胸の内でうずまいてるものすべてを伝えるには、全然足りなかった。
不思議だった。たった数日間の、たったわずかな時間しか会ったことのない女性に、こうまで一生懸命になっている自分が。
足下からじわじわと這い上がるような悪寒。『あいつ』が近づいている。
「逃げよう。あんたはオレよりもずっと〈力〉の使い方を知っているんだし、そのためにオレの〈力〉が役に立つっていうなら、手を貸す。セラーダを裏切れな
い気持ちは変わらないけど、今のあんたを助けるためなら力になる。オレは──」
なんだろう。親しみとか、〈繋がり〉とか、その他一切をふくめて、自分が彼女に対して抱いているものは。
「オレは……あんたに死んでほしくない」
最後にそういった。それでも言い足りない気がした。情けないぐらい平凡な言葉しか出ない舌よりも、彼女との間に存在してる〈繋がり〉の方が、まだ自分の気
持ちを伝えてくれていることがわかっていても、それでも言い足りない気がした。
「アシェル様!」
椅子に腰かけている彼女の膝にすがるようにして、レアが口を開いた。
「彼の言うとおりです。踏みとどまって戦うなんてバカな真似はやめてください。一緒にここを出ましょう。もし……もし……アシェル様がいなくなったら、わ
たしは──」
レアは顔を伏せた。それ以上は言葉が出てこないようだった。
しばらくの間があった。
「まったく……」アシェルがふっと息をはき出した。「仕方のない子達ね」
頭を椅子にもたれさせながら、彼女は微笑んだ。
「人に向かって、バカだとか死ぬだとか。失礼にもほどがあるわよ。本当に仕方のない……優しい子達ね」
二人を交互に見やる暖かい眼差し。穏やかな声音。膝に置かれたレアの手をなでる柔らかい手つき。
(ああ。そうだったのか)
このとき、イノは自分がアシェルに対して抱いていたものを理解した。
母──これまで一度も使ったことのない言葉。これから先も使うことのない言葉。記憶すらなく、幼い頃に友達の母親を眺めて、おぼろげに羨望を抱き、思い描
いていただけの存在。自分はそれをこのアシェルという女性にうっすらと重ねていたのだ。人にはない不思議な結びつきと一緒に。
カツン、と音がした。
開け放たれた広間の扉、その先に広がる闇のずっとずっと奥で。
冷たい石の床をたたく靴音。『あいつ』だ。とうとう来てしまった。頭のてっぺんにまで達した悪寒がそれを悟らせる。
やがて無人の『館』に響きはじめる複数の靴音。遠く不明瞭な聞き取れない声。それらが迷うことなくこの広間を目指していることに、イノは確信を抱いてい
た。
「あなた達は後ろに下がってなさい」
再び厳しい顔つきに戻ったアシェルが、二人を見ていった。
「いい? 『何があっても』決して動いちゃだめよ」
彼女の警告は、自分よりもレアに向けて言ったもののように、イノの耳には聞こえた。
しかし、疑問を口にしている時間はなかった。二人は緊迫した面持ちで、椅子に座っているアシェルを挟みこむように、少し下がった位置に立った。
カツン、カツン──
訪れている〈力〉のせいだろうか。他の靴音の中でも、その主の立てている靴音だけが、やけにイノの耳に響く。
もはや避けられない対決。こうなったらやるしかない。どのような展開になろうと。目の前に座る女性を守るためには仕方がない。
しだいに高まるイノの緊張。その中には、いかに怖ろしい目的と〈力〉の持ち主であっても、同じセラーダの人間と相対せねばならないのだ、という気持ちが含
まれていた。
それでも決意を固める。どうせ相手もこっちの顔を知らないのだ。かまうものか。
カツン、カツン──
無言のまま、広間の入り口を見つめている三人。その視線の中に、入り口の闇から人影が姿を現した。
闇がそのまま形を成したかのような四つの人影。
え?
思わず上げそうになった声。イノは我が目を疑った。
四人。黒い鎧姿の四人。忘れようにも忘れられない四人。再び会いたいと願ってやまなかった四人。
四人の──スヴェンと、ガティと、ドレクと、カレノアの視線が、広間の奥にいる三人に向けられた。毅然とした態度で椅子に腰かけている女性に、そのとなり
で敵意鋭くにらみつけている白い装いの少女に。
そして……その反対の位置で呆然と立ちすくんでいるイノに。
カツン、カツン──
「ずいぶんと素敵な場所じゃないですか」
仲間達の背後にある闇から聞こえたのんびりとした声。それが、イノにさらなる衝撃をあたえた。
声が。聞き知ったその声が。
戦慄をもたらす〈力〉の主。狂気じみた願望を持つセラーダの『樹の子供』。
(嘘だ。そんなバカなこと……)
入り口の闇が再び形を取りはじめる。現れたのは漆黒の外套で身をつつんだ、イノのよく知っている一人の男。
カツン──
「お久しぶりですね、アシェル」
広間に入ってきたセラ・シリオスは、そう言ってにこやかに笑った。