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─九章  それぞれの再会と別れ(1)─



「君はあまり驚いてないんだね」

その少年は不思議そうにいった。

血に濡れた黒髪の奥から、同じ色をした瞳をこちらに向けて。

そうでもない、と返事をすると、そうなんだ、と「彼」は答えた。短い会話はそこで終わった。眩しいぐらいの夕日が、人と人ならざる怪物達の屍が散乱する辺 りの光景に投げかけられていた。生きているのは自分達二人だけだった。

あのときは、周囲の死体に対する不快感も、自分が生き残ったという感慨もなかった。記憶に深く焼きついたのは、夕日を背にたたずんでいた「彼」の姿だけ だ。

それが「彼」との最初の出会いだった……というわけではない。セラーダの首都フィスルナへと向かう隊商に、同じくセラーダへと向かう旅を続けていた自分が 加えてもらったとき、「彼」の姿はすでにその中に混じっていた。

端正な顔だち以外には、これといって彼に強い印象を抱かなかったのを覚えている。歳は同じぐらいだが、身体つきは自分に比べてずいぶん脆弱に見えた。腰に 下げた大きめの剣が、そんな「彼」の外見に対する感想をさらに強めていた。

「彼」と言葉を交わしたことはなかった。移動しているときも、そうでないときも、「彼」は人々の輪の中に入ってこようとはしなかった。だからといって、そ れが隊商の中で目立っていたわけではない、自分自身も含め、何かを抱え孤独を好む者の姿は他にもいたからだ。とはいえ、あの頃の自分の胸にあったのは、己 の力をもっと広い世界で発揮したいという、いかにも若者らしい陳腐なものでしかなかったのだが。

狩猟民としての静かな生活。狩人としても、戦士としても、部族の中で頂点に達したと思っていた自分は、そんな閉ざされた日々が続くことに耐えきれず村を飛 び出した。大勢の人間が集まり、怪物と大きな戦争を繰り広げているセラーダ。自身の力をそこで試してみたかったのだ。

『虫』──人外の怪物達のことは常識として知っていた。だが自分の腕を過信していたあの頃は、怪物のことを、猛獣と大差ないものだろうとたかをくくってい た。

彼 らが実際に襲ってくるまでは。

運が悪かったとしかいいようがない。『虫』が現れたその場所に、たまたま自分達がいたというだけの話だ。残酷で不条理な話。容赦なく襲い来る大勢の怪物達 に、警護の者も役に立つことなく、次々と無残な姿の屍が作り出されていった。

虐殺の中を、死に物狂いで戦っていた自分。初めて目にする『虫』の姿は、これまで目にしてきた動物とはまったく次元のちがう存在だった。すべての生き物が 持っているであろう生存への本能すら持たず、ひたすらに殺戮を行う生命……。彼らの内にあるのは、生けとし生ける者すべてに対する憎悪だけだった。森の民 として並の人間よりも研ぎすまされた自分の感覚はすぐにそれを悟った。怖かった。心の底から怯えた。

生への欲求。死への恐怖。ほんの少しの運。それらが他の者よりもほんの少し強かったために、自分はバケモノ達に殺される順番が後回しになっただけなのだ ──と今でも思っている。そして、あの場に「彼」がいなければ、自分の存在はとうにこの世界から消えていただろう。

『虫』の一匹にとどめをさした瞬間、別の『虫』が襲いかかってくるのが視界の隅に見えた。死ぬ、と思ったその瞬間。背後からすさまじい剣速で突き出された 刃が、正確に怪物の胴の中央を貫いていた。

「彼」だった。

向こうとしては、たまたま標的にした『虫』が、こちらを襲おうとしていたというだけの話だったのだろう。死骸となった怪物と、命を救われた格好になった自 分には目もくれず、彼は次の『虫』へと刃を振りかざしていた。

実になんでもないこと──といった様子で。

驚いた。真っ先に『虫』の餌食にされていそうだった印象の少年が、まだ生き残っているとは想像すらしていなかった。しかも彼は戦っていた。こちらが抱いているような必死さのカケラも見せず、ただ淡々と戦っていた。

戦慄が走ったのを覚えている。目の前にいる怪物達以上に。

人からかけはなれた身体から繰り出される予測のつかない攻撃を難なくかわし、一撃の下に怪物達を屠っていく少年。彼と『虫』が織りなす戦闘は、まるで高度 に洗練された演武でも見ているかのようだった。

そして、自分は見たのだ。「彼」が剣以外の〈武器〉を行使するのを。それは、もはや人の理解を超えるものだった。

気づけば、その場にいるのは自分達二人だけだった。周りの人間も『虫』も、すべて死んでいた。

小さく一息ついて、夕日の中にたたずんでいた血みどろの「彼」と、その姿に見とれてしまった自分と……。まさか男に目を奪われるとは思ってもみなかった。 もちろんそんな趣味はないが、それでも「見とれていた」という印象は強く心に残っている。

その戦いぶりに抱いた戦慄も忘れ、まるで絵画でも見るかのように、「彼」の姿を表情もなくぼんやりと眺めていた自分。だからこそ、相手は不思議そうに口 にしたのだろう。

「君はあまり驚いていないんだね」と。

その直後、この場所を通りかかった別の隊商に拾われ、自分達は彼らと共にセラーダに向かうことになった。凄惨な現場を生き残った二人の少年に、人々 はずいぶんと親切にしてくれた。ガル・ガラに引かせた荷車の荷物をわざわざどかせて、そこに乗せてくれるまでしてもらった。そんな彼らの中の誰一人とし て、自分達が手厚く保護してあげたみすぼらしい少年が、後に『英雄』として名をはせることになるなんて、想像もしていなかっただろう。

「ありがとう。お前のおかげで助かったよ」

ガラガラと揺れる荷車の上で、初めて自分から「彼」に向かって口を開いた。そして、他人に対して心から感謝を言ったのも初めてだった。

「僕のおかげ?」相手はまた不思議そうな顔をした。

こちらがうなずくと、ようやく彼は意味を理解したようだった。

「ああ。ごめん。べつに君を助けるとか……ぜんぜん考えてなかったんだ。だからお礼なんて言わなくていいよ」

バカ正直にそう答えると、「彼」は申し訳なさそうな顔をした。あれほどの戦いぶりを見せつけておきながら、不釣り合いなぐらい情けない表情だった。 少しおかしかった。

「それでも、お前がいなきゃ俺は死んでたんだから。やっぱり礼は言っておくよ」

彼はどうしていいかわからない困ったような顔つきになった。そしていった。

「君は怖くないの?」

「怖いってなにが?」

「見ただろ? 僕がアレを使うのを」

人知を超えた〈武器〉──彼がそれを使うところは、はっきりと脳裏に刻まれていた。

「まあ、俺はあんなの初めて見たし、怖くないといえば嘘になるが、それでも命を救われたことに変わりはないんだから、お前には感謝してるよ」

それでも、彼はまだ困惑していた。感謝という言葉を初めて聞いたような顔だった。

「君は変わってるんだね」

「変わってるのは、どう考えたってお前の方だろ」

すぐさまそう返して笑った。このとき、自分が目の前の相手をすっかり気に入っていることに気づいた。

「俺はサレナク。お前は?」

相手がきょとんとした顔をした。

「名前だよ。お前の名前」

「ああ」と少年は慌てたように頭をかいた。髪の毛の隙間に、大きな古い傷跡があるのがちらっと見えた。

「僕はシリオス」

「セラーダに行ったら軍に入るつもりなのか?」

彼はうなずいた。

「俺もそうなんだ。お互い、一緒のところで戦えたらいいな」

べつに彼の力にあやかろうなんて下心で言ったことではない。まじりっけなくの本心からだ。その気持ちは、このどこか抜けたような相手にも伝 わったらしい。

「そうだね」

戸惑いながらも、照れたような笑みが浮かんだ。ほんのわずかなものだったが、それでも自分が彼に見た最初の笑顔だった。

「そうだといいね」


*  *  *


闇の中、小さな隙間から差しこむ光に目を細めながら、サレナクは広間に入ってきたシリオスを見つめていた。

「お久しぶりですね、アシェル」

そう言いつつ姿を現したシリオス。年月と、そしてそれ以上の心境の変化を経た彼の姿に、かつて照れ笑いを浮かべた少年の面影はどこにもない。サレナクが目 にしているのは、揺らぐことのない信念と、絶対的な自信を持った一人の男だった。

それでもなお、かつての面影を相手に探そうとしている自分に気づいて、サレナクはそんな己の弱さをなじった。自らの頬を走るむごい傷跡。それは、かつてそ の弱さのために彼を討ち損じた代償だというのに。

今度こそしくじるわけにはいかない。その想いは、いま彼と相対しているアシェルも同じだ。相手はかつての友ではなく『敵』なのだから。

サレナクがいまいる場所は、広間の奥にある壁の中に設えられた小さな通路の中だ。この隠し通路は、自分達がここを本拠地と定める以前からすでに『館』に備 わっていたものだった。まさか使うことになるとは思っていなかった。

身を隠し、隙を突いてシリオスを討つ──それがサレナクの役割だった。作戦としては陳腐すぎるのも、戦士として恥ずべき手段であることも知っている。だ が、これ以外の良策は、今の状況では思いつけなかった。

むろん、アシェルの役割は相手の注意を引きつけることだ。そして万が一に備えて、彼女はシリオスを『抑える』役目も負っている。それは並の人間である自分 にはできないことだ。

もし、シリオスが自らの〈力〉を現出させてしまえば、そのときは自分達に為す術はない。彼が言うところの『内なる扉』が開かれ、あの〈武器〉が現れること になればすべてが手遅れだ。

かつて自分を救い、そして、殺しかけたシリオスの〈武器〉──その前には、戦士としての技術も経験も、武具の性能さえも無意味なものとなる。

壁に偽装された扉の隙間から、サレナクはシリオスを見る。彼はこちらの存在に気づいていない。その点だけは、自分が『樹の子供』でないことを感謝せねばな るまい。彼らの〈繋がり〉が感知できるのは、同質の〈力〉のみに限られている。警戒こそしているだろうが、こうして気配を消している限りは、向こうに自分 の位置が突き止められることはない。

だが〈力〉の発動は早い。斬りかかるタイミングを誤れば、さらに一撃で勝負が決まらねば……シリオスに殺されるのは自分だ。アシェルの〈力〉では、彼の動 きをほんの一瞬だけ抑えて遅らせる程度のことしかできない。同じ『樹の子供』でも、両者にはそれほどの差があるのだ。

高鳴りそうになる鼓動を抑え、ひたすらその機会を窺う。シリオスと、彼の背後に控えている「黒の部隊」の四人。彼らの動きにも注意を払わねばならない。

そして……アシェルの両脇に位置しているレアと、あの少年。

二人が広間に飛びこんできたことは、サレナクにとっても予想外の出来事だった。なんとかアシェルを思い止まらせ、助けようとするその懸命さには、胸を打た れるもの(かつての自分達も、そういったものを持っていたはずだった)を感じたものの、同時に不安の影がきざしていた。

サレナクの位置からは、今の二人の様子もうかがえる。少年はさきほどアシェルに詰め寄っていたときの勢いをすっかり削がれ、呆然自失な視線を、シリオスと 「黒の部隊」とに向けている。無理もない。おそらく、あの黒姿の四人は彼と同じ隊の仲間なのだろう。

そしてなによりも、自分達の指揮官であり祖国の英雄でもあるシリオスの正体を、少年は今このとき知ってしまったはずだ。人にはない〈繋がり〉によって。

レアは……彼女は。

「黒の部隊」が入ってきたときから見せているレアの険しい表情は、シリオスが現れた後でも変わってはいない。それはただ単純に、敵対する相手に向けての視 線だった。

(そのままでいい)

サレナクは強く願った。『レアがそのまま気づかないでいてくれ』と。

しかし、アシェルへと歩み出すシリオスの姿に、兜の中のレアの表情がしだいに驚愕のそれに変わっていくのが、手に取るようにわかった。

まずい──そんな自分の焦りと同じものを、今アシェルも感じていることをサレナクは疑わなかった。ここでレアがうかつな動きを見せれば、すべてが水泡に帰 してしまうかもしれない。

『何があっても動くな』

レアが今度こそアシェルの言いつけを守ってくれることを、サレナクは心の中で祈った。

そして……その祈りが届くことはなかった。



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