前にもどるもくじへ次へすすむ



─九章  それぞれの再会と別れ(2)─



「久しぶりね、シリオス」

「黒の部隊」の四人に続いて、広間に入ってきた黒衣の男の挨拶に、アシェルがやんわりと答える。

「それとも、『セラ・シリオス』と呼んだ方がいいのかしら?」

セラ・シリオス──セラーダの英雄にして「黒の部隊」の長。レアもその名前ぐらいは知っている。では、この男が相手側の指揮官なのか。

「おや?」と彼が眉を上げる。

「しばらく会わない間に、ずいぶんと雰囲気が変わったんですね」

椅子に座っているアシェルを、黒い瞳で愉快そうに眺めていった。

「『あれから』色々あったもの。そのせいね。あなたの方こそ、そのバカ丁寧なしゃべり方はどうしたの?」

同じく愉快そうに返され、シリオスは肩をすくめた。

「ま、ご存じの通り、こちらは『継承者』というものをやってますから。とはいえ、所詮は成り上がりの身分ですから実に肩身がせまい。おかげで、腰の低さが すっかりと板についてしまいましてね」

「そう。お互いそれなりに苦労しているのね」

「そのようですね」

笑みさえ浮かべながら、親しげに会話を交わしている二人。その様子は誰が見ても、知人同士による語らい以外の何者でもなかった。

アシェルが『セラーダの英雄』と知り合い──驚きに、一瞬ではあるが警戒心すら忘れて、レアは呆然と二人を眺めていた。それは、シリオスに追従してきた 「黒の部隊」の四人も同じらしい。

一方、イノは雷に打たれたように立ちすくんでいる。彼の顔はすべての血を抜かれてしまったように色がなかった。「黒の部隊」が広間に入ってきたときから ずっとそうだ。いや、シリオスの姿を見て、よけいにひどくなったように思える。

「そういえば、サレナクの姿が見えませんね」

黒衣の男が何気なく口にした質問に、レアはさらに驚いた。

「他の者達を退避させるために出向いているわ。あなた達とちがって、弱小組織は人手が足りないのよ」

「ほう。それは残念だ。彼にも会いたかったんですがね」

「彼もそう言っていたわ。あなたに『よろしく』と」

サレナク……彼もまたこの英雄の知り合いだというのか。

いったい彼らはどういう関係なのだろう。アシェルとサレナク、長年二人に付き添っているレアでさえ知らない二人の過去。

「イノ君」とシリオスが彼を見る。

「やはり無事だったんですね。なによりです」

気づかうような優しい声音。だが、対するイノが、まるで刃を向けられたようにたじろぐのをレアは感じ取った。怯えている。巨大な『虫』を相手にしても臆さ な かった彼が。敵対している者達と共にいる現場を、仲間や上官に見られたために動揺している……のではなさそうだった。

シリオスは再びアシェルに視線を戻した。

「部下がそちらのお世話になったようで。礼を言わせてもらいますよ」

「いいえ、とんでもない。彼はとても素敵な子ね。あなたには勿体ないくらいだわ」

アシェルがうっすらと微笑む。

「さて。あなた方のことなんですが……」

気を取り直すようにシリオスがいった。彼の黒い瞳が、アシェルの脇にあるテーブル上の『金色の虫』に向けられる。反射的に剣の柄を握ったレアに対しては、 ちらと一瞬見ただけだ。まるで、相手がとるにたらない存在であるかのように。

だが、相手の瞳と自分の瞳が交差したその一瞬、レアは心の中がざわつくのを感じた。

なんだろう。この感じは? もはや相手は自分を見ていない。しかし、心のざわつきは、見えない手でかき回されているかのように、しだいに大きく なっていく。

知っている──電光のように脳裏に閃いたそれ。この男を自分は以前にも見たことがある。レアはそう確信する。だがどこで? 

『セラーダの英雄』。知識としては知っているが、実際目の当たりにするのは初めてのはずだ。初めての……。

心のざわめきは、耐え難いほど大きくなっている。まるで肩を揺さぶられ叱咤されているような気分。『なぜこんな簡単な事わからないのだ』と。

どこで会った? どこで知った?

柔和な顔つきに浮かぶ微笑。さっきの一瞬だけ、こちらに向けられた瞳。闇をまとうかのような黒い装い。腰に下げた一振りの剣。

笑み。黒い姿。剣──

──優しい笑み。たたずむ黒い姿。血に濡れた剣。

現在と過去がカチリ、と重なる音が聞こえた。

訪れた事実に、レアのすべてが揺らいだ。

(あの男だ……自分からすべてを奪い輝いていた世界から暗い世界へと突き落とし消えることのない憎しみをあたえ剣を握らせる原因になり必ず殺してやると 願ってやまなかった……あの男だ!)

あの男が目の前にいる。今この場所に。自らの手のとどく場所に。

瞬時にわきあがった全身を焼き尽くすような憎悪が、対象を見つけ牙をむき出しにした殺意が、レアの身体を前に押し出す。

「レア! やめなさい!」

アシェルの制止する叫びも届かない。すでに駆け出している我が身。何者だろうと止めることなんてできやしない。

相手の黒い瞳が、迫る自分に向けられる。「おや?」とでも言いたげに。

だがもう遅い。逃がさない。絶対に逃がさない!

こちらの動きに反応すらしない男の身体めがけて、レアは鞘から黒い刃を一気に引き抜く。これまで抱いてきたもの、積み重ねてきたものすべてを込めた、渾身 の一撃が相手の首に迫る。

殺った!──そう思った瞬間、

うなりを上げていた剣を衝撃が襲った。相手を斬り裂くものとはまったく別の手応え。それが腕に伝わってきた瞬間、レアは握っていたはずの剣が手から失われ てしまったことを知った。

沈黙の中、冷たい床に反響する金属音。自分の手からもぎとられた剣が、後ろで立ちすくんでいるイノの足下まで滑っていく音。

「え……?」かすれた声がレアの口から漏れた。

やがて追いついた思考が、全身全霊をかけた己の一撃があっさりと払いのけられたという事実をレアに教えてくれた。だが、離れた位置にいる「黒の部隊」の連 中が邪魔をしたのではない。むろん、アシェルやイノでもない。

そして……目の前の相手は身体一つ動かしていない。

では、なにが′浮払い落としたのだ?

がく然としている自分を面白そうに眺めている黒い男。一時しぼんだ憎悪の炎が、再びカッと全身に走る。

腰に差している短剣を抜こうと素早く手をやり──

突如、すさまじい力がレアを後ろから床にたたきつけた。抗う間もなかった。勢いよく石の床に激突した側頭部。兜を打ちつける振動が頭蓋を揺らし、視界にい くつもの火花が散った。

遠のきかけた意識を無理やり引き戻し、レアは慌てて起きあがろうとした。しかし、できなかった。自分の上になにか≠ェあった。床に這いつくばっている我 が身に容赦なくのしかかり、力を加えてくる何者かが。

そこに、眼に映るものは何も存在していないというのに。

みしり、と骨が軋んだ音を上げた。押し潰されそうな筋肉や内臓が、まぎれもない現実の痛みをレアに訴えてくる。それでも、こぶしを握ってレアが身体を起こ そうとした瞬間、上からの圧力が一段と増した。

そのなにか≠ヘ、もはやのしかかっているのではなかった。正体のわからない圧迫は、皮膚から体内に浸透し、全身のすみずみにまで行き渡って猛威をふるい はじめていた。肉を、骨を、自分の身体を構成しているすべてを、丹念に一つ一つすり潰そうとするかのように。

想像を絶する苦痛に耐えきれず、ついにレアは声を上げた。それは、これまでの生涯で出したことのない惨めなまでの悲鳴だった。

広間にいる者の視線すべてが、そんな情けない姿をした自分に向けられている。もちろん、目の前にいる黒衣の男も。痛みと、怒りと、そして屈辱に滲んだ涙で 視界がぼやけた。

終わらない激痛にさらなる叫びを上げそうになった口を、無理やり歯を食いしばって閉じ、レアは充血した目だけで相手を見上げる。

わからない。自分の身に何が起こっているのか、本当にわからない。

しかし、これが『目の前にいる男の仕業』であることはわかった。そして、この圧迫はまだまだ序の口にすぎず、相手がその気になれば、自分の肉体など、いと も簡単にグシャグシャに潰してしまえるのだということも。 

身体を責め苛む苦痛が、レアから抵抗する力を少しずつ奪っていく。圧倒的な力の差と、理解できないものへの恐怖が、絶望という名の感情となって心を蝕みは じめる。

必死にそれらに抗い、つぶれそうな肺で、ひゅうひゅうと惨めな呼吸を繰り返す自分を、黒衣の男が見下ろしている。

「これはまた、ずいぶんと物騒なお嬢さんですね」

そういって男は微笑んだ。

か弱き者への哀れみの笑顔。

かつて幼い自分に向けられた、あの時と同じに。



前にもどるもくじへ次へすすむ




inserted by FC2 system