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─九章  それぞれの再会と別れ(3)─



嘘だ嘘だ嘘だ──イノの脳裏にあるのは、その言葉の連なりだけだった。

これほど、目の前の現実を否定したいと思ったことはない。たちの悪い冗談だと笑いとばしてしまいたかったことはない。

スヴェン達がいる。でも、待ち望んでいた再会が果たされたというのに、自分達の間には、いまだ一つの言葉も交わされていない。アシェルの側にいる自分と、シリオスの側にいる彼らと、お互いに『そこでなにをやっているんだ?』という視線で見つめ合うことしかできていない。

こんなのではなかった。思い描いていた仲間達との再会は、絶対にこんなのではなかった。彼らに伝えるべき喜びや感動。それらすべては、相手に届く前に、互いの立ち位置の間にできた見えない大きな溝に落ちこんでいく。

今ならまだ間にあう。アシェルの側を離れて、シリオスの側に立つ。それだけで何もかもが丸く収まるのだ。だが、足が動いてくれない。ほんのちょっとの距離 を移動するだけだというのに。彼らを敵にまわす気なんて微塵もないのに。仲間達のいる場所は、はるか遠くにあるように思える。

シリオスがアシェルに話しかけている。その黒い英雄から感じるもの。否定しようもない〈力〉。これまで自分を怯えさせていた、冷酷な印象を持った〈繋がり〉……その相手は彼だったのだ。

「黒の部隊」の指揮官でもある男が、『セラーダの英雄』として、自分を含む大勢の人間の尊敬を勝ち得ている男が。

『樹の子供』だなんて……世界を滅ぼそうとしている男だなんて……。

(こんなバカげた話があるものか!)

だが、どれほど罵ったところで、目の前の光景に何一つ変化はない。シリオスはシリオスのまま存在し、イノの〈力〉は相手の持つそれを忌々しいぐらい感知している。

シリオスとアシェル。懐かしげに談笑する二人を、呆然と見つめているスヴェン達とレア。だがイノだけは、親しそうに見える様子のその裏で、二人の〈力〉が 獣のように牙を研ぎすまし、互いに食らいつく機会をうかがっているのを知っていた。自分達三人の間にのみ存在している〈繋がり〉が、それを正確に伝えてく れていた。

シリオスとアシェル。それぞれが内に秘める二頭の獣。しかし、両者の〈力〉の差があまりに大きすぎることも、イノにはわかっている。

「イノ君」

不意にシリオスに声を向けられ、びくりと身体が反応する。

「やはり無事だったんですね。なによりです」

以前ならその声に高揚したであろう自分。だが、今は冷水を浴びせられたように鳥肌がたった。シリオスの優しげな声と表情が隠していたもの。知りたくもなかった『それ』を、本人の口からじかに告げられるよりもはっきりと知ってしまった今は。

うろたえている自分から視線を外し、シリオスは再びアシェルに話しかけると、一歩足を踏み出した。

そのとき、視界に白い影が現れた。

レアだった。あまりにも突然のことだったのと、シリオスとアシェルの和やかな雰囲気に気を取られていたため、彼の背後に控えているスヴェン達も、彼女の動きに反応できなかった。

「レア! やめなさい!」

アシェルの制止する声にもかかわらず、彼女は彼に迫り斬りかかる。黒い刃のえがく軌跡が、たたずむ黒い姿の首めがけてうなりを上げる。

そしてイノは視た>氛气Vリオスの〈力〉が瞬時に発現するのを。

彼の前に現れた黒い輝き。それはハエでも払うように、レアの渾身の一撃を難なく退けた。かつて自分と激闘を交わした彼女の剣が、あっけなく主の手から引きはがされて、こちらの足下まで滑ってきて止まった。

一瞬の沈黙。やがて再度の反撃に出ようとしたレアの背後に、黒い輝きが素早く音もなく回りこむ。その存在にすら気づかない彼女の身体が、輝きによってと鈍い音と共に床にたたきつけられた。

シリオスの黒い輝きが、まるで見えない巨人の足のように、レアを床に踏みつけているのをイノは視て≠「た。アシェルがグラスを割ったとき呼び出したものと同じ輝き──しかし、その大きさは、下敷きにしているレアの身体の倍以上はある。

なんとか抗おうとするレアに、さらに加えられるシリオスの〈力〉。その具現たる黒い輝きが、さらに大きさを増す。異質な光に捉えられている彼女の身体が、みしりと音を立てるのが聞こえるような気がした。 

そして、広間に流れる苦痛の悲鳴。

「これはまた、ずいぶんと物騒なお嬢さんですね」

シリオスの声に、一連の出来事に呆気にとられていたスヴェン達が、我に返ったようにクロスボウを構えた。しかし、彼らには黒い輝きが見えていない。瞳にはあきらかな動揺を示す光が浮かんでいた。

英雄はスヴェン達を目で制し、レアから視線を外した。だが、彼女を抑えつけている黒い輝きはそのままだ。

「その子を放してやって」アシェルが厳しい声で言った。

「それは難しいですね」

彼は淡々とこたえる。

「『これ』を解放するのは、実に久しぶりなんですよ。はたして、私の言うことに素直に従ってくれるかどうか……」

「放してやって」

みしり、再びレアが苦悶の悲鳴を上げた。あとほんの少し〈力〉を加えるだけで、彼女の全身の骨や臓器が砕けるだろうことをイノは疑わなかった。

レアの白い姿に霧のように覆い被さっている黒い輝き。対象にじわじわと苦痛をあたえ弄ぶような光のうねりが、イノに伝えてくる殺意。 

このままでは、彼女は殺される。なんとかしなくては……。

だが何を? 何ができる? 『英雄』。『継承者』。そして〈力〉。シリオスに備わってるすべてが、自分の置かれている立場が、イノの意志と身体を縛りつけ動かすことを許さない。

しだいに命を削り取られていくレアと。聞くに堪えない彼女の悲鳴と。

何をしようとするのかもわからないまま、イノが無意識に足を踏み出そうとしたそのとき──

「わたしは『放してやれ』と言ってるんだぞ。シリオス」

静かな、だが怒気をはらんだ恫喝の声音が、すぐそばから聞こえた。

イノはぎょっとしてそちらを見る。

アシェルだった。厳しいという言葉を超越した、殺意さえ感じさせる鳶色の瞳が黒衣の男を見据えていた。

「これはこれは……」シリオスは嬉しそうに眉を上げた。

「前言を撤回しますよ。あなたは少しも変わっていないじゃないですか。アシェル」

「そのために、こんなくだらないことをしているんだろう? 満足したのなら、その子を解放してやれ」

さっきとは別の意味でイノは硬直していた。アシェルから放たれる刃のようなぎらついた気配に。これは……本当に彼女のものなのか。

「それとも、しばらく会わないうちに、子供をいたぶる趣味でも覚えたのか。お前は?」

侮蔑するアシェルの声。『ネフィア』の指導者でもなく、イノが『母』を重ねた女性でもなく、凛とした佇まいで椅子に腰かけているのは、幾度も死線をくぐり 抜けた人間の姿だった。肌で感じるその迫力は、自分だけでなく、自分以上に戦士としての経験をつんでいるスヴェン達をもたじろがせるほど、すさまじいもの だった。

「相変わらず、ひどいことを言うんですね。あなたは」

そんなアシェルの気配にも動ぜず、むしろ懐かしそうな様子でシリオスはいった。

レアにかかっていた〈力〉が緩む。とたんに彼女は激しく咳きこんだ。外傷こそないものの、人知を超えた拷問にさらされ続けた身体のところどころが、見るのも痛ましいぐらい痙攣していた。だが、彼女を押さえつけている黒い輝きは以前としてそこに存在したままだ。

「ここまでにさせてもらいますよ。この血気盛んなお嬢さんを自由にすると、あなたとゆっくり話すこともできそうにありませんからね」

「それは自業自得だ」アシェルは冷たくいった。

「お前に対する憎しみの芽を、その子に植えつけたのは、お前自身なんだからな」

「私が?」

シリオスがレアに視線を移す。兜の奥にある彼女の青い瞳を見つめる。

やがて彼の表情が変化した。何かを思い出したような顔つき。

いまだ動くことのできないレアの前にかがみこむと、シリオスは銀色の兜に手をかけ無造作にそれを引きはがした。そのはずみで、束ねていた彼女の髪が勢いよく解けて散らばる。

「これは……驚いたな。まさか、『生きていらっしゃった』とは」

明るい栗色の髪につつまれた、汗と涙にまみれたレアの素顔をまじまじと見て、シリオスは感嘆したような声を上げアシェルに目を向けた。

「この方が生存していたこと自体もそうですが……あなたに保護されているなんて、思ってもみませんでしたよ」

「その子がわたしの前に現れたのはただの偶然だ。素性を知って驚いたのは、こっちだって同じだよ」

「ほう。では、彼女を利用しようと匿ったわけではないと?」

アシェルは鼻を鳴らした。「その子の存在を公にしたところで、今さら引っこむお前やガルナークじゃないだろう? できれば、すべてを忘れて静かに暮らして欲しかったんだが……結果はごらんの通りだ」

彼女は、イノの足下に転がっているレアの剣を重々しげに見た。

「原因はもちろんお前にある。だが、半分はわたしの責任だろうな」

「なるほど。たしかに自業自得といわれるのも、仕方ありませんね」

再びレアを見下ろして、シリオスは納得したように肩をすくめた。

「……殺してやる」

咳きの止まったレアが、弱々しい声を吐いた。圧倒的な力の前に消え去ろうとしている意志をかきあつめるように、血走った瞳で、眼前にかがんでいる黒衣の男を見上げる。

「おまえを……殺してやる……」

剣もなく、身体も動かせず、それでも懸命に、せめて言葉だけでも相手に傷を負わせようとするかのようだった。

「恐縮ですが──」

その相手は微笑む。

「あなたには不可能です」 

レアの心がざっくりとえぐり取られる音を、イノは聞いた気がした。子供をさとすような優しい言葉が、圧倒的な〈力〉よりも何よりも、彼女にとどめの一撃をあたえたのを感じた。

「容赦というものを知らないのは、変わらないな」

もはや完全に抵抗する意志を失ったレアの姿を痛ましそうに見て、アシェルが吐きすてるようにいった。

「事実を事実として申し上げたまでですよ。この方の正体を知った今となっては、私としてもこれ以上狼藉を働きたくはないですからね」

「よく言うよ」彼女の唇の端がつり上がる。

「わたしには、お前がその子を生かしておくとは思えんのだが?」

笑みを浮かべたまま、シリオスはその問いに答えなかった。

「ま、彼女のことは置いておくとして」

黒い英雄が立ち上がり、アシェルの方へと進み出る。もはやレアには興味を失ったように目もくれない。嫌味でもなく、悪意でもなく、本当に『どうでもいいこと』といった様子だった。好きなときに、好きなようにできるのだ、と。

シリオスは、テーブルの上にある金色の輝きを見た。

「それが、あなたを補佐するための、シリアの〈力〉の具現なわけですか」

「まあ、そうだな。それともう一つ、わたしやお前以外の『力ある者』を探す役割も担っていた。もっとも、そっちは二年ほど前に断念したみたいだが」

「なるほど、たしかにあなたの資質では、『楽園』での役目を果たすのに十分とはいえないでしょうからね。しかし、皮肉なものだとは思いませんか。彼女が探索を止めた後で、わたしが、もう一人の『力ある者』を見いだしてしまったのですから」

シリオスがちらとイノを見た。「同感だな」とアシェルが肩をすくめる。

「それにしても、シリアもずいぶんと健気なことだ。これを造り出した負荷で、さらに多くの苦痛を抱えることになるというのに」

「純粋なんだよ彼女は。わたしやお前と違ってな」

「その純粋さが、世界を混沌としたものにしているんですよ。彼女の存在が、この永きに渡る無意味な戦争の一因であることは、あなただって承知のはずだ」

「知っているよ。そして、その戦いを終わりにしたいと誰よりも願っているのは、他ならぬシリア自身だということもな」

「むろん、幕引きはしますよ。この私がね」

「自分達以外のすべてを排してか?」

「あるべき世界の姿。真の『楽園』の姿。その創造のために『私達』はここに存在しているんですよ、アシェル?」

「それが、さも唯一の真理であるかのような言い方は相変わらずだな」

彼女は鼻で笑った。

「だが、結局はお前自身の在り方を示しているだけにすぎない。それを、わたしに押しつけられても困るんだが?」

「では……」と、シリオスの笑みが深くなる。「あなたは、自身の在り方をどう示すと?」

「今さら聞くまでもないことだろう?」

小首を傾げながら、アシェルが同様の笑みを返す。

シリオスとアシェル。二人の意志と言葉が織りなす緊迫した空気。それは、何者であろうと侵すことのできない対立の場だった。周囲にいるイノ達は、まるで決闘場の観客であるかのように、かたずを飲んで見守ることしかできない。

「やはり──」黒衣の男が音もなく剣を抜く。

「私の取るべき行動は一つしかないようだ」 

漆黒の剣先が、ぴたりとアシェルの胸元に据えられる。それと同時に、レアを捕らえているものとは別の新たな黒い輝きが、シリオスの脇に音もなく現れた。

「どちらがいいですか? 戦士にふさわしく剣で死を迎えるのと、『樹の子供』にふさわしく〈力〉で死を迎えるのと」

「ずいぶん気前がいいんだな」

「あなたへの敬意を、私なりに表しているだけなんですがね」

「それは光栄だ。『セラーダの英雄』殿」

自身に向けられた黒い刃と黒い輝き。そのどちらにも臆した様子を見せず、顎に手を当てアシェルはいった。

「しかし、わたしとしては……」

彼女の鳶色の瞳が光る。  

「お前が剣で死を迎えるのがいいな」

シリオスが怪訝そうな顔をした瞬間、彼の横手にあった石壁が忽然と姿を消した。

壁に生まれた暗闇から、すさまじい勢いで現れたのはサレナクだった。彼の手に握られた剣は、すでに必殺の一撃のためのうなりを上げている。

即座に、シリオスが刺客を迎え撃とうと反応する。アシェルを狙っていた黒い輝きが、サレナクに向かって飛びかかる。

しかし、アシェルが瞬時に呼び出した同じ輝きが、シリオスのそれに食らいつくようにして動きを封じた。異質な光同士は、牙をたてる獣そのままに互いに宙でもつれあいながら、壁際にあった椅子に激突して粉々にふっばした。

それら一部始終を視ている<Cノの耳に、ドレクが驚愕の声を上げるのが聞こえた。

今もなお、床の上で暴れあっている二つの黒い輝き──事態を察したシリオスの顔から笑みが消えた。アシェルに向けたままの剣を動かすにも、彼女に抑えつけられた輝きとは別の輝きを呼び出すにも、すでに遅い。サレナクの刃は、黒衣をまとう身体を両断する勢いで迫りつつある。

しかし、サレナクの剣の軌道が鈍った。突如、空を裂きながら飛来し、彼の二の腕に深々と突き刺さった一本の矢──それが、必殺だった一撃の狙いと勢いを殺す。

はっ、と矢の飛んできた方向を見たイノの瞳に、クロスボウを構えたスヴェンの冷たい表情が映った。

わずかに鈍ったサレナクの一閃を、シリオスはきわどいところで身を引いてかわす。狙いのそれた切っ先は、身を庇うようにかざされた彼の黒い手袋の甲をかすめるだけに終わった。そのとき、硬質な何かを削るような、がきっ、という妙な音がした。

シリオスの顔に笑みが戻る。アシェルの縛めをはじき飛ばした彼の黒い輝きが、一斉に刺客に襲いかかり、猛烈な勢いでその身体をつかみ石壁にたたきつけた。

ちっ、とアシェルが忌々しげに舌打ちした。

「なるほど……」

斬りつけられた左腕をマントで庇うようにして、シリオスが彼女を見た。

「これが、あなたの『手段』だったわけだ。子供だましもいいところだ──と言いたいところですが、それだけに危うく引っかかるとこでしたよ」

彼はそのままスヴェンに視線をよこす。

「助かりました。念のため、あなた方を連れてきたのは正解でしたね」

構えたクロスボウに新たな矢をつがえながら、スヴェンは目礼した。

「残念だったなサレナク。君がここにいない、というアシェルの話を信じたわけではなかったんだが、そんな場所にいたとは正直気づかなかったよ。相変わらず隠れるのが上手いんだな」

抑えつける黒い輝きによって、レアが味わったものと同等の苦痛を受けているにもかかわらず、うめき声一つ上げないサレナクに向かって、シリオスが懐かしげに話しかけた。肩書きをかなぐりすてた彼の口調は、親しい友人に話しかけるそれへと変わっていた。

「さて──」と、苦悶に耐えながらも睨んでくるサレナクから目を外し、シリオスは再びアシェルに向きなおる。

「打つ手なし、といった様子かな? シリアもそんな弱々しい状態では、こちらへ介入するのは難しいだろう。そんなことをすれば、この地に死が溢れることになるのだから」

シリオスとアシェル。睨みあう二人。

「最後のあがきに剣を交えて戦ってみるか? もっとも、その脚じゃ昔のようにはいかないだろうがね」

ぶつかりあう意志と。互いの〈繋がり〉と。

そして──

「そのようだな」

ふっ、とアシェルが肩の力をぬいた。何かを理解したような光が、彼女の瞳に浮かんでいた。

「さすがだ。君のその潔さと口の悪さだけには、昔から勝てる気がしなかったよ」

すっと持ち上がる漆黒の刃。

「最後に一つ聞かせてもらいたい」シリオスがたずねる。

「なんなりと」

「ネフィア……解放≠意味する『楽園』の言葉を、君の組織に名づけたその理由を」

そんなことか、と拍子ぬけしたように、彼女は小さく笑った。

「文字通りの意味だよ。解き放ってやりたい……そう思っただけさ。つまらん理由だろ?」

「ほう。何を何から?」

「質問は一つだけのはずじゃないのか?」

どこか寂しげに彼女は微笑んだ。

それもそうだな、とシリオスは笑みを返した。

「残念だよ。すべてが正され、あるべき姿を取り戻した世界を、君と共に見られないことがね」

「気にしなくていい。わたしは、お前がこれから成そうしている世界とやらよりも──」

サレナクへ、レアへ、そしてイノへとアシェルは瞳を移す。優しく、穏やかな、いつもの眼差しのままに。そして、はっきりと言った。

「お前が嫌っているこの醜い世界の方が、ずっと好きだからな」

「やはり……」剣先がすっと彼女の心臓の位置へと動く。「君はどこまでも君だったな」

「さようなら、アシェル」

黒い刃が、そっと優しく彼女の胸を刺し貫いた。

広間にレアの絶叫が響き渡った。それにかぶさるように、テーブルの上にいる金色の輝きから、悲痛な少女の声がしたのをイノは聞いた。

アシェルの血に濡れた刃が、彼女の胸から抜かれる。紫色の衣に静かに溢れる鮮血。どんどん広がっていく。

いままで自分と触れ合っていた暖かなものが、名残惜しそうにするりと離れていくのをイノは感じた。遠く、遠く、二度と触れることのできない遠くへ。

(行ってしまう。彼女が行ってしまう。彼女が……)

そして、〈繋がり〉は消えた。

椅子に腰かけたままのアシェル。眠っているような穏やかな表情。胸元を濡らしている鮮血以外は何一つ普段のままの姿。もう彼女からは何も感じない。何一つ。

「シリオス……きさま!」

不可視の力で壁に押しつけられているサレナクが、血走った目で叫ぶ。

「仕方ないだろう?」アシェルを貫いた剣を下げたままシリオスがいった。

「どちらかが、こういう結末をむかえるのは決まっていたんだよ。私達が対立することになったその瞬間からね。それに──」

と、彼は呆然としているイノを見た。

「彼女を失った痛みを感じているのは『私達』だって同じだとも。いや、君らよりもずっと強くそれを感じている」

今イノの中に満ちている、手足を失ったかのような喪失感。それは『虫』を倒したあの時に感じたものとよく似ていた。だが、それよりもひどい。ずっとずっとひどい。

「まあ、君との話は後だ。私はその前にやることがある」

黒い瞳がレアを見る。今の彼女は、輝きの拘束から完全に解放されていた。

だが、身体を起こし床にへたり込んだ姿勢のままレアは動こうとはしなかった。声もなく、涙で頬を濡らしたまま、椅子に座ったアシェルの亡骸を放心したように見つめているだけだ。

「待て! その子は……もう関係ないだろう!」

「彼女が生きていたことを知ってしまった以上、そうはいかないよ。これは私のミスだからね。自分の不始末は自分でつける──私がそういう人間だということぐらい、君だってよく知っているだろう?」

異質な光の縛めに必死で抗い、なんとか抜けだそうとしているサレナクの怒声に背を向けて、シリオスは剣先をレアの首筋へ向ける。

突きつけられた刃にも、彼女はなんの反応も示そうとはしなかった。まるで抜け殻のように、ただアシェルを見つめている。

「申し訳ありませんね。レアリエル様」

優しいその声。ようやく気づいたように、レアが黒衣の男を見上げる。砕かれた力。大切にしていた者の死。自らに突きつけられた死。恐怖と絶望に、完膚なきまでに打ちのめされた表情。

青い瞳に新たな涙が溢れ、こぼれた。

漆黒の刃が動く。



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