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─九章  それぞれの再会と別れ(4)─



からん、と乾いた音が静寂の広間に響く。

「これは……」

シリオスがつぶやく。床に転がった自分の剣と、そして自分の首に突きつけられた黒い刃を見て彼はいった。

「どういうことですか、イノ君?」

どういうこと──イノの脳裏にその言葉が反芻する。

目の前にいるシリオス。その彼に向けられたレアの剣。それを握っているのは……この自分だ。

(オレはなにをしているんだ?)

アシェルが死んで……彼女との〈繋がり〉がなくなって……シリオスがレアを殺そうと剣を向けて……彼女の白い頬に涙が落ちるのが見えて……足下に転がってた剣を拾って……シリオスの手から剣をたたき落として……。

(オレは何でこんなことをしているんだ?)

「イノ君?」

はっ、となってシリオスを見た。不思議そうな顔でこちらを見ている彼。怖れも怒りも不審もない。ただ「どうしたのだろう?」といった表情。

「バカ野郎! なにやってんだ、てめえは!」

ガティが怒鳴るのが聞こえた。本気で怒っている声だった。

大変だ……大変なことをしてしまってる……『継承者』に剣を向けてるなんて、『セラーダの英雄』に剣を向けてるなんて、死に値する大罪じゃないか!

だが、剣を握っているイノの腕は下がらない。こうして向けているのが精一杯なぐらい震えているというのに、シリオスの喉もとに狙いを定めたまま離れてくれない。

今、剣を引いてはいけない。向けている理由すらわからないのに、それだけははっきりとわかる。胸の内でうずまいている感情が、身体の外に溢れそうになっている想いが、イノを支配し動かしている。

「彼女を、かばおうとしているのですか?」

無言のままでいるイノに、シリオスがたずねてきた。その脇で動こうともせず、放心したように床にへたりこんでいるレアの姿。

かばう……。恋人でもなければ、親しい友人でもなく、ましてや一度は殺されそうになったこともある……そんな娘を自分はかばおうとしているのか?

そうだ、とイノの中で声がする。自分と似たものを心の内に抱え生きてきたレア。ネリイに優しい笑顔を向け、彼女を助けるために、自らの手を人の血で汚して しまったレア。これまで築いてきたもの、支えてきたものすべてを打ち砕かれ、抵抗する意志も失い殺されようとしているレア。みすみす放ってはおけない。だ から救おうとしている。

でも、理由はそれだけじゃない。この剣を握る意味は。

シリオスに突きつけた切っ先。それは彼に対してだけではなく、スヴェンにも、ガティにも、ドレクにも、カレノアにも、そして、フィスルナにいるクレナ達にも向いていることになる。これまで自分を支えていたものすべてに。

重い剣。それを握っている時間が長ければ長いほど、自分がどうしようもない泥沼に深く沈んでいくのをイノは感じていた。そして、今ならまだそこから抜け出すことができるのも理解していた。

それでも腕は下がらない。胸の鼓動が、これ以上ないほど速くなっているというのに。呼吸が苦しくて仕方ないのに。

「おそらく、君は知らないと思いますが。このお嬢さんには、少々厄介な事情がありましてね。これがただの娘というのならば、君の好きなように処置してもいいんですが──」

「どうして……」

つぶやきにも似たイノの声が、シリオスの言葉をさえぎった。

「どうして殺したりしたんですか?」

「アシェルのことを言っているのですか?」

「あの人を……殺すことなかったじゃないですか!」

自分でも驚くほどの大きな声が口から飛びだした。ようやく、イノは自分が英雄に剣を向けている理由がわかった。

怒りだ。アシェルを殺したこの男に対しての激しい怒りだ。

「それは、彼女が我々の『敵』だったからですよ」

対するシリオスは、落ち着いて答える。 

敵……ちがう。アシェルは決して『敵』なんかじゃなかった。誰よりも、誰よりも、敵なんかじゃなかった。それは、目の前の男だって知っていたはずなのに。きっとわかっていたはずなのに。彼女が去っていったときの痛みと悲しみを、この男だって感じていたはずなのに。

「落ち着きなさい。今の君は、彼女との〈繋がり〉を失ったことに対してただ動揺しているだけです。そのことを咎める気はありませんよ。同胞の死がもたらす痛みに、君はまだ慣れていないのですから」

洪水のようにあふれる思考。その中身が多すぎて言葉に出すこともできず、ひたすら剣を突きつけているだけのイノに対して向けられるシリオスの言葉。

向けられているのは言葉だけではない。シリオスの内にある〈力〉もまた、静かに自分を視ている≠フをイノは感じていた。明確な意志もない存在が。ただ底なしの暗い闇を湛えているだけの存在が。

「君には、これから話さなければならないことが沢山あります。人と『虫』との戦争、醜く不毛なこの争いの要因となった出来事……『楽園』という至福の地に まつわる真実の物語。おそらく、アシェルはそのすべてを君に話したわけではないでしょう。そして、我々の存在する意味と、これから成さなければならない使 命についても」 

「使命……?」

「そうです。私達のような人間が生まれ、存在していることには理由がある。この戦争を終わらせ、汚れきった世界を浄化し、本来あるべきであった姿を取り戻させる、という理由がね」

「それはあの人だって──」

「アシェルは、その意味を取り違えてしまったのですよ。彼女のやろうとしていたこと……それは、たしかにこの戦争を終わらせることになったでしょう。しか し、それは根本的な解決とは言えない方法でした。彼女は選択を誤ったのです。だからこそ、私達は対立することになってしまった。君が目にしているのは、そ れ故の結果なんですよ」

アシェルが間違っていた。あの微笑みや、あの暖かな〈繋がり〉が、道を踏み外した人間のものだったというのだろうか。「手を貸してほしい」と言った彼女の切実な言葉は、自分を誤った道に引きこむための詭弁だったのだろうか。

「イノ」

と、冷たい声がした。スヴェンだった。イノが瞳だけを向けると、そこにはクロスボウを構えた仲間達の姿があった。

「いますぐ剣を捨てろ。でなければお前を撃つ」

スヴェン達の放つ眼光。彼らが構え、容赦なくこちらに狙いを定めている矢の先端が放つ銀光。

彼らの表情は冷酷なほどに硬く険しい。それは、いつもの「仲間」としての顔ではなかった。

もちろん、みんな内心ではこの状況に困惑し動揺しているのだろう。それでも、シリオスを警護するという「黒の部隊」の職務を忠実に果たそうとしている。殺されることはないにしろ、いざとなれば、彼らの矢が自分の腕か足を射抜くだろうことをイノは疑わなかった。

そんな仲間達の視線が、イノの心をえぐる。彼らだって、好きでこちらに矢を向けているのではないのがわかっているからこそ、なおさらに。すべては自分自身のせいなのだ。

だが、スヴェン達にはわからない。自分がいま感じている怒りと悲しみが、この英雄に秘められた怖ろしい闇が。どれだけ説明したってわかりっこない。信じてはくれない。こんなにもどかしい思いがするのは、生まれて初めてだった。

「剣を収めなさい、イノ君」

シリオスが穏やかに促す。

「もはや、この場で君にできることはありませんよ。それとも、本当に我々と敵対するつもり なんですか?」

「それは……」

「一時の感情に身をゆだね、すべてを失うのは愚か者のすることです。君はそうではないはずだ」

すべてを失う──その言葉が、あらためて自らの置かれた状況をイノに知らしめる。

そんなのはごめんだ。だが、このままレアとサレナクが殺されるのを黙って見過ごすのもごめんだ。

(ちくしょう。じゃあ、どうすりゃいいっていうんだよ!)

たしかにシリオスの言うとおり、自分の振る舞いは一時の感情がもたらしている愚かなものにすぎないのかもしれない。しかし、イノにはその感情が筋違いのも のであるとは思えなかった。後で振り返って「あのときはバカなことをしたな」と笑い話にできるような……そんな底の浅いものだとは、どうしても思えなかっ た。

そして何よりも、イノは怖ろしかった。自らが剣を突きつけている相手が。かつて憧れを抱いていた英雄であるこの男が。その強大な〈力〉と、過去に仲間であったはずの者の命をためらいもなく奪った冷酷さが。たった一人の人間に対して、ここまで怯えたことはなかった。

動かない事態。張りつめた空気。イノの耳に聞こえるのは、切迫した自分の荒い息づかいの音だけだ。

「イノ君」静かすぎるほどの黒い瞳。

「剣を下げなさい。これが最後ですよ」

その言葉を裏づけるかのように、これまで静観していたシリオスの〈力〉が、ゆっくりと動きはじめたのをイノは感じた。

黒い輝きがイノのすぐそばに生まれる。音もなくゆっくりと、まるで獲物に忍び寄るヘビのように。このままの状態が続けば、それは容赦なく牙をむき襲いかかってくるだろう。しかし、相手と同じ〈力〉を持ってはいても、イノにはその攻撃を防ぐすべなんて知らない。

誰も助けにはなってくれない。アシェルは永遠にこの世界から去り、サレナクは黒い輝きによっていまだ壁に抑えつけられている。レアは抜け殻そのままに、こ の事態をぼんやり眺めているだけだ。そして「仲間」であるはずのスヴェン達は、自分に向けてボウガンの狙いを定めている。

(どうする。どうする。どうする。どうする)

応える者のない問いかけ。

その答えを虚しく求めるイノの心に、

《逃げて!》

少女の声が、はっきりと聞こえた。

イノの瞳と、シリオスの瞳が同時に動いた。アシェルの亡骸の脇にあるテーブル。その上に存在している金色の輝きへと。

「シリアか。いまさら何を──」

シリオスの呟きにかぶさるように、

《ここから逃げて!》

これまで微弱なものでしかなかった『金色の虫』との〈繋がり〉が強まるのを、イノはしっかりと感じた。初めて出会ったあのときと同じぐらいに。

そして、その〈繋がり〉に呼応するかのように、広間の中へ目に見えないなにか≠ェ満ちていった。悪意をはらんだなにか≠ェ。溢れでるそれが広間の壁を通り抜け、氾濫した河のようにこの地一帯を浸食していくのを、イノは捉えていた。

シリオスが小さく舌打ちするのが聞こえる。彼もまた自分と同じものを感じているのだ。

やがて、不可視のなにか≠ェゆっくりと形を取りはじめた。

そこに生まれた黒い輝きと共に。


*  *  *


「なんだってんだ?」

イノに向かってクロスボウを構えていたドレクが声を上げた。スヴェンらも不審げに広間に視線を走らせている。室内に満ちた異様な空気。目には見えなくとも、彼らもそれに気づいている。

ぼんっ、と何かが弾けるような音が、広間のいたるところで鳴り響いた。そして音と同時に、何もない空間に忽然と現れていく赤黒い塊の群れ。

事態が飲みこめず唖然とするイノ達の目の前で、現れた肉塊達が、瞬く間に変化し始める。子供ぐらいの大きさの脈動するそれから、ネチネチと音を立てて伸びてくる何本もの突起。内部から滲み出てくるように形成される灰色の甲殻が、それらすべてを覆っていく。

これまで自分達がさんざん目にし、戦ってきた異形のバケモノ。

『虫』が……『虫』が生まれている。

イノは、初めて『虫』がこの世に現れる瞬間を見た。そして、いつかのスラの砦で、怪物達が見張りに発見されることなく内部から奇襲をかけることができたわけを、ようやく理解した。

形を成し終えた怪物の群れ。

憎悪に満ちた無数の紅い瞳が、室内にいるすべての人間に向けられた。

そして笑い声。イノに聞こえる、クスクスという子供達の笑い声。

「……無茶な真似をしてくれるものだな」

無邪気に笑う灰色の『虫』達から、金色の輝きに視線を走らせ、シリオスが忌々しげにつぶやく。

それを合図としたかのように、二十匹以上はいるだろう怪物達が、一斉に動いた。

カレノアの矢が、手近で飛びかかってこようとしていた一匹を撃ち落とす。

「ちくしょう! 何がどうなってやがんだよ!」

同様にバケモノに矢を撃ちこみながら、ガティが片手で剣を抜いて叫んだ。スヴェンとドレクもすかさず応戦する。皆、突如として現れた怪物の群れに困惑を隠しきれない様子だ。

縦横無尽に広間を駆けめぐっている『虫』達。そして、それぞれにかぶさるような黒い輝き。それら全部からイノの頭に流れこんでくる印象の数々。まるで多くの書物を同時に読み、それぞれを明瞭に理解しているような感覚。

あふれる殺意の一つが自分に向けられたのを読み取り、イノはすぐさまその場を飛び退いた。もはや、シリオスに剣を突きつけている場合ではない。

そのシリオスも、襲いかかってきた『虫』の迎撃に注意を向けている。さっきまでイノを狙っていた彼の黒い輝きが、飛びかかってきた灰色の怪物の一匹をつかみ、容赦なく床にたたき落とすのが見えた。

『虫』の鋭い爪がイノそばをかすめる。そいつがそのまま攻撃の狙いを、すぐ近くにいるレアに変えるのがわかった。

着地した『虫』が彼女に向きを変えた瞬間、飛びかかったイノの刃が相手の脚の幾本かを薙ぎ払った。バランスを失い、のたうちまわる怪物が、アシェルの脇にあるテーブルの支柱に激突する。倒れこむテーブルと一緒に、卓上にいた『金色の虫』が床に転がり落ちた。

「大丈夫か?」

いまだ床に座りこんだ体勢のままでいるレアに、イノは声をかけた。

「なんなの……?」

ぼそり、とレアが口にする。まるで、今の状況がよその世界の出来事であるかのようだった。その表情に、イノが知っている戦士としての彼女の面影はカケラもない。このまま『虫』に殺されてもかまわない──そんな様子だ。

しっかりしろよ! と怒鳴りつけようとしたイノが読み取った印象。レアを押し倒すよう、とっさに床に伏せた身体の上を『虫』の爪が薙ぐ。

「くそっ!」毒づいて身を起こそうとしたイノ。その脳裏が再び読み取った印象。自分達に向けられた二つの殺意。

いま襲ってきた奴に加えて、別の『虫』がこちらに狙いを定めている。

まずい、レアがこんな状態ではかばいきれない。

左右に展開した二匹の『虫』が、ほとんど同時に飛びかかってきた。

と、横手から現れた黒い刃が、襲ってきた片方の『虫』を正確に刺し貫いた。子供の声をした悲鳴が聞こえる中、イノは即座に剣をもう一方の怪物に向ける。

正面に立てた剣に、『虫』が勢いよくぶつかってきた。硬質の爪と刃がこすれ合う音が耳に響く。長い脚を使ってそのまま身体に取りつこうとしてきた相手の頭を、イノは片手で素早くつかむと、自身も倒れこむようにして床にたたきつけた。

起き上がろうとする『虫』。イノはその胴体を膝で押さえつける。目の前で揺らめいている黒い輝き。その中心に向けて刃の切っ先を繰りだす。子供の絶叫。肉を貫く手応え。同時に、心の内をえぐるかのような痛み。

それらを払いのけ、自分達を救ってくれた人物にイノは視線を向けた。

サレナクだった。どうやら、シリオスの『縛め』から解放されたらしい。だが表情に出していないとはいえ、彼の様子が心身ともに凄惨なものであることが、イ ノには容易にわかった。人外の〈力〉による責めと、スヴェンの矢に貫かれた右腕の傷、そして……アシェルを目の前で失った現実によって。

「ここから逃げるぞ」

それら悲痛さを感じさせない声で、サレナクがいった。さきほどの静寂が嘘のように混沌としている広間。そして今、自分達を狙っている『虫』はいない。彼の言うとおり、逃げ出すならこのときしかない。

だが、イノは躊躇した。

『虫』と戦っているスヴェン達。みんなを置いて逃げ出していいわけがない。自分も彼らと共に戦うべきなのだ。「黒の部隊」の仲間なのだから。これまでずっ とそうしてきたのだから。さっき矢を向けられたのだって、ほんの誤解にすぎない。自分達が敵対する理由なんてこれっぽっちもない。

そのとき、シリオスが襲い来る『虫』の一匹を仕留める姿が、イノの目に入った。再び手に取り戻した剣と、他者には不可視の黒い輝きを使っていともあっさり と。怪物達もその脅威に気づいたのか、狙いを彼一人にしぼりはじめている。イノ達への攻撃が手薄になっているのは、そのせいもあるだろう。

黒衣の英雄のまわりに群がっていく灰色の姿達。しかし、彼の戦い振りはそれらを圧倒するものだった。人混みをすり抜けるような悠然さで猛攻をかわし続け、 手にした剣で相手の「核」を正確無比に貫いていく。剣の及ばない場所から襲いかかろうとする怪物は、彼の使役する黒い輝きによって、見えない障壁に弾かれ るがごとく払いのけられた。

淡々と。ただ淡々と。眉一つ動かさず。戦っているというよりは、作業をこなしているかのように。そんなシリオスの姿は、憎悪と悪意をむきだしにしている怪物よりも、はるかにイノを戦慄させた。

そして、唖然とその様子を見つめているイノの目に、シリオスのマントの下に隠れていた左腕が一瞬だけ映った。サレナクの剣によって引き裂かれた手袋。その半分がもげて、手袋に包まれていた英雄の手の先があらわになっていた。

瞬間、イノは呼吸を止めた。

(なんだ……なんなんだあれは?)

それは人間の手ではなかった。形こそ人のものだが、柔らかな皮膚ではなく、灰色の硬質な外殻に覆われていた。指の関節に当たる箇所には、赤黒い筋組織がのぞいていた。

『虫』だった。英雄の手は、彼が今相手にしている怪物達の姿とまったく同質のもので構成されていた。

シリオスの黒い瞳が動く。愕然としているイノに気づく。

そして、意味ありげにうっすらと笑った。

《お願い……逃げて!》

少女の悲痛な声に、弾かれたようにイノは振り返った。床の上にいる『金色の虫』が目に入る。その相手との〈繋がり〉が、再び小さくなりはじめているのを感じた。

我知らず、イノは駆けだした。床から小さな輝きを拾い上げ、片手にしっかりと握った。

仲間達の戦う姿。シリオスの微笑。少女の言葉。それらが、イノの心の秤を揺れ動かす。

「行くぞ、レア」

すぐそばで、サレナクが彼女の腕をつかんで無理矢理立たせた。

「嫌よ! アシェル様を置いてなんか行かない!」

「あいつは……」彼の顔が苦痛に歪んだ。「もういない」

否定しようのない事実を告げる声に、抵抗していたレアの動きがとまった。再びアシェルの亡骸に目をやった青い瞳から、とめどなく涙が溢れた。

ついてこい、そう目線でイノに促すと、サレナクはレアを引きずるようにして、シリオスを奇襲したときに開いた壁の隠し扉へと急ぐ。

イノはアシェルへと目を向けた。血にそまった彼女。眠っているかのような彼女。もう何一つ感じることのできない彼女。

そして、『虫』と応戦しているスヴェンを見た。彼もまたそれに気づいたようにイノを見た。その表情は、さっきボウガンで狙いをつけていたときのような「黒の部隊」としてのものではなかった。

お前、いったいどうしたっていうんだ?──そういっていた。

オレは──自分でもなにを言おうとしているのかわからないまま口を開きかけたとき、イノは『虫』の数匹が自分を捉えているのを読み取った。

《お願い……》

手の中にある輝きが伝えてきた声。

揺れていた心の秤が、一方に傾く音が聞こえた気がした。

出かかった言葉を飲みこみ、イノは背を向けた。

『虫』に。シリオスに。そして、スヴェン達に。

サレナクとレアが消えた隠し扉の闇の中へ、イノは逃げるように飛びこんだ。すがりつくように胸に抱いた、小さな金色の輝きと共に。

「イノ! 待ちやがれ、てめえ!」

ガティの怒りの叫び声が、最後に背中に突き刺さった。 



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