─九章 それぞれの再会と別れ(6)─
サレナクがよろめいた。彼を支えるレアが持つ松明の明かりが、激しく揺れる。
「……すまん」
「口を開かない方がいい」
そう声をかけると、サレナクの唇が笑みの形を刻むのが見えた。我が身の情けなさに苦笑しているのだろう、とイノは思った。相手の蒼白な顔に浮かぶ大粒の汗が、松明の光を受けてギラギラと輝いていた。今の彼には、ただ歩くことですら相当の苦痛のはずだった。
イノは肩ごしに背後を振り返った。この洞窟に入ってからずいぶんと時間がたったような気がするものの、距離としてはさほど進んでいない。重傷を負った人間を連れているのだから、それも当然だった。
再びサレナクがよろめいた。大柄な体格のため、両脇から彼を支えているイノ達の負担も少なくはない。服を裂かれ深々と肉をえぐりとられた無残な箇所が、嫌でも二人の目に入ってくる。
それでも、サレナクが一度たりとも気を失ったりせずにいるのは、彼が持っている常人を超えた精神力のなせる技なのだろう。だが、それもそう長くは持ちこたえられそうにない。
急がねばならなかった。サレナクの手当てはもちろん、『虫』が後方から迫ってこないという保証はないのだから。
洞窟は、イノ達三人が並んでいてもまだ余裕のある広さだった。レアが手にしている松明の光──あらかじめ洞窟の入り口に設置してあったものだ──のおかげで視界は十分とれている。しかし、この中で怪物達と戦うのを避けたいことに変わりはない。
サレナクはもちろん、レアも戦力としてはアテになりそうもなかった。彼女は一言もしゃべることなく、支えている相手と同じぐらい青白い顔をして、ただ黙々
と歩いている。怯えた子供のような表情は、『虫』の脅威よりも、重傷のサレナクを失う可能性の方を怖れているように見えた。
イノが今も手にしているレアの剣。彼女はそれを奪い返そうともしない。というよりは、剣の存在すら忘れてしまったかのようだった。
『虫』と出くわすことになれば、この二人をかばいながらの戦闘になる。一匹ならともかく多数となれば、ろくな装備も身につけていない今、イノには自分の命すら守りきる自信はなかった。
だが……。
あの黒い輝きがあれば──アシェルやシリオスのような〈力〉の使い方が自分にもできたなら、多数の『虫』に囲まれても対等、いや、それ以上に戦えることが
できるかもしれない。しかし、どうやったらそれができるようになるのか、イノには見当もつかなかった。今の自分にできることといえば、せいぜい同質の
〈力〉を持った存在を探り当てることぐらいだ。
だが……。
我が身にあたえられた能力を、自由に使うことができないのをもどかしく思う反面、そうなることを怖れている自分がいた。
レアやサレナク、そして『虫』に対して容赦なく〈力〉を行使していたシリオス。彼の姿は、もはや人間とは呼べない存在のように、イノの目には映っていた。
だからこそ、彼を怖れたのかもしれない。自分自身が、いずれ彼と同じような存在に変貌してしまう可能性を、その姿に見てしまった気がして。
記憶に焼きついた英雄の腕。あの異形の腕も、『樹の子供』に関係するものなのだろうか──
そのとき、サレナクがイノへ大きく寄りかかった。ここまで持ちこたえてきたものの、ついに気を失ったのだ。考え事に気を奪われていたイノは、相手の身体の重みを支えきることができず、二人はもつれあうようにして洞窟の壁面に倒れこんだ。
サレナクを抱え起こそうと、レアが慌てて膝をついたときだった
「ずいぶん大変そうじゃねえか」
後方の闇で声がした。
洞窟の壁に背中をぶつけた痛みに顔をしかめていたイノは、聞き知った声にぎょっとなってそちらを見た。
闇の中から、松明の光の中へと歩み出てきた人物。
「ガティ……」驚愕にかすれる声がもれた。
どうしてここに? と続けようとした言葉をイノは飲みこんだ。わかりきったことだった。ガティは自分達を追ってきたのだ。『反逆者』である自分を。
『虫』を警戒するあまり、それ以外の誰かに追われている可能性を、イノはまったく考えていなかった。いや、考えたくなかった。
「驚いたぜ。『虫』バカのお前が、『虫』をほったらかして逃げるのなんて初めて見たからな」
ガティ。漆黒の兜の下にあるいつものニヤけた表情。茶化すようないつもの口調。だが、その内にあるのは激しい怒りと敵意だ。片手には抜き身の剣をぶら下げている。クロスボウは見あたらない。『虫』との戦いで撃ち尽くしたのだろう。
「これでも心配してたんだぜ? お前が、ネフィアの連中にとっ捕まったのがわかったときはさ──」
彼の細い瞳に、ぎらついた光が走る。
「まさか、その連中とツルんでるなんて考えもしなかったからな」
「ちがう……」
ひからびた口の中から出る否定の声は、自分でも情けないぐらい弱々しく虚しかった。
「じゃあ、なんでシリオス様に剣を向けた! なんで今そいつらと逃げてんだ! それが裏切り以外のなんだっていうんだよ!」
隠すこともなくむきだしの怒りをのせたガティの怒声に、イノはたたかれたようにびくりと身体を震わせた。
(ちがうちがうちがう……)
「それでも裏切ってないってシラを切る気なら、チャンスをくれてやる」
「チャンス?」
「そこの『くたばりぞこない』と女を殺せ。お前の手でな」
イノは凍りついた。そして、洞窟の壁にもたれるように気を失っているサレナクと、彼に寄りそっているレアとを見た。
「そいつらの首を差し出して土下座でもすりゃ、シリオス様も大目にみてくれるかもしれんぜ。なんだかわからんが、お前はずいぶんと気に入られてるみたいだからな。やりたかねえが、オレ達も一緒に謝ってやるよ。どうだ?」
抑えきれない憤激を抱えながらも、ガティの言葉が悪意から出たものでないことが、イノにはわかってしまった。『仲間』としての自分に向けた言葉であるのだと。戻ってこいと。
身もだえしそうな心の苦しみ。しかし、それでも答えはわかっていた。
はっきりと告げた。
「オレには……できない」
終わった──そう思った。
ガティの表情が消えた。
「……ならしゃあねえな」抑揚のない冷たい声。
「俺が三人まとめてぶっ殺してやる!」
全身を怒りの塊と化して、ガティがイノめがけ突っこんできた。
漆黒の刃の激突する音が洞窟に反響した。『闇の金属』同士が生みだし、飛び散った白い光の粒が、殺意に満ちたガティの顔と、色を失ったイノの顔とを淡く照らす。
「やめろ! オレは──」
「まだほざく気かよ、てめえは!」
もはや、ガティにイノの言葉は届きそうにもなかった。何一つ。
これまで、仲間として共に『虫』へと振り下ろしてきたガティの剣。それが今は自分に向かって迫っている。こんなバカなことが……。
悪い夢だと思いたかった。しかし、相手の刃を受けるたびに起こる金属音と衝撃が、そんなイノに容赦なく現実を知らしめる。
裏切り者。裏切り者。裏切り者──シリオスに剣を向けていたときよりもはるかに強く、仲間の刃が糾弾してくる。その重さにつぶされそうになる。気力をくじかれそうになる。
危うく喉を裂かれそうになったイノは、大きく後ろに退いて距離をとった。よろめきそうになるのを、かろうじてこらえる。どうしようもないほど足が震えていた。
だめだ。彼とは戦えない。だけどこの状況じゃ逃げることもできない。
ガティの黒い鎧姿が迫ってくる。うなりを上げて襲いかかる一撃、一撃をイノはかろうじて受け止め続ける。
がきん、と鈍い音を立てて両者の刃が組み合わさった。
「残念だぜ……」じりじりと押し込む刃の奥から、ガティが顔を突き出していった。怒りを現すかのような熱い息がイノの顔にかかる。
「お前のことは、わりと気に入ってたんだけどな!」
ガティがさっと身を引いた、と思った瞬間、強烈な蹴りがイノの腹部を直撃した。さらに、その反動で背中を壁面に激しくぶつける。
「おっと。そうだ」
苦痛に顔を歪めながら体勢を立て直したイノを見て、ガティが思い出したように口を開いた。
「面白いことを教えてやるよ」
呼吸を整えていたイノは眉をひそめた。面白いこと? 急にどうしたというのだろう。
「お前の親父さんのことさ」
続く彼の言葉に、ますます困惑する。
なんだ。なんで父がこんなところで出てくるんだ?
「正確には、親父さんを殺した相手のことだな」
ガティはヘラヘラした笑いを浮かべている。それはタチの悪い冗談や皮肉を口にするときの、彼のいつもの表情だ。殺気を宿した瞳以外は。
「それが……どうしたんだ?」
父を殺したのは『虫』だ。そんなの今さら教えてもらうまでもない。だからこそ、自分はこれまで奴らと戦い続けてきたのだから。
だがガティの表情には、胸をざわつかせるものがあった。
そんなイノの様子を面白げに観察しながら、ガティがゆっくりと口にする
「お前の親父を殺したのは『虫』じゃねえ」
松明の光に照らされた彼の唇が、さらにつり上がった。
「スヴェン隊長殿さ」
イノは絶句した。
「その顔だとやっぱり知らなかったみてえだな。ひょっとしたら、それが理由で裏切ったんじゃねえかとも思ったんだが……。じゃあ、やっぱあれか? その肩
でピカピカ光ってる奴とデキちまったのか? お前ならそっちの方がありえそうだもんなぁ。そこの女とデキたってより、よっぽど説得力があるぜ」
ガティの顔はまだ笑っている。自分の言葉が、『裏切り者』に期待通りの衝撃を与えたことに満足しているようだった。
「で……」イノは叫んだ。「デタラメを言うな!」
「嘘じゃねえさ」
余裕すら見せて相手は肩をすくめる。
「ちゃんと本人の口から聞いたんだからな。ま、そうとう酔っぱらってたときだけどよ」
本人の口から──スヴェンが。彼が。父を殺した。
自身の鼓動が、わんわんと耳に鳴り響いている。身体中を駆けめぐる血液の音さえも聞こえてくる気がする。だが、その血はどこまでも冷たかった。
嘘だ。嘘に決まっている。これはガティの作り話だ。そうやってこちらを動揺させて、その隙に殺してしまおうとする卑怯な策略だ。
「オレは……そんなの信じない」
きっぱりと口にしたつもりの言葉。弱々しかった。
「ああ。別にかまわないぜ」
ガティは再び肩をすくめる。
「とりあえず教えておきたかっただけだ。あとは──」
その顔から笑いがかき消えた。
「とっとと死んじまえ!」
横殴りの一撃。受け止めたイノの身体が大きくよろけた。
力が入らない。整えたはずの呼吸はもう乱れている。『裏切り者』という言葉への罪悪感と迷いが、そしてガティが語った事柄が、彼の振るう剣以上に、自分をじわじわと殺し始めているのをイノは感じていた。
突き出される漆黒の切っ先。イノは受け流そうと剣をかざす。だが遅かった。左腕に凄まじい痛みが走った。
金属の刃が二の腕の肉を貫き、骨をかすめ、反対側の皮膚を突き破って、外へ飛びだすぞっとする感触。
引き抜かれる刃。逆の順序で繰りかえされる感触。たまらず苦悶の声を上げて、イノはその場に尻もちをついた。傷口から流れる血が、瞬く間に服へと染みこんでいくのを、頭の片隅で意識していた。
「あばよ……『虫』バカ」
見下ろすガティが、とどめの一撃を加えるため剣を構えぽつりとつぶやく。
瞬間、イノの全身が総毛立った。傷の痛みにではなく。訪れる死にでもなく。突然、脳裏に浮かんだ印象に。剣を構えたガティを視ている&。数の殺意に。
「伏せろ、ガティ!」
自分を殺そうとしている者にではなく、かつての仲間に向かって、イノは叫んでいた。
「なに?」
ガティが怪訝そうに眉をひそめたとたん、背後の闇から飛び出した『虫』が彼の背中に取りつき、胴めがけ硬質の爪を突き立てた。
鈍い音がした。そして、イノの目の前に現れたのは、ガティの黒い鎧の隙間を貫いた血に濡れた灰色の爪だった。
絶叫が洞窟内に響き渡った。血走った目で『虫』をにらみ、背中に手を回そうとするガティ。しかし、闇の奥から新たに現れた『虫』が、剣を持っている彼の腕に襲いかかった。肉を裂き骨を砕く音と共に、黒い刃を握ったままの腕が地面に落ちる。
ぼとり、という音。からん、という音。暗がりからさらに現れた灰色の塊が、彼の片足を太ももからばっさりと切断する。炎の照らす光の中で、自らの血潮の中で、『虫』達を身体に貼りつけたままのガティは踊るよう回った後、イノの前に倒れこんだ。
すべては一瞬の出来事だった。
片腕と片足を失った血まみれのガティの身体から、『虫』達が離れる。そのままイノに襲いかかってくるわけでもない。まるで自分達の『成果』を見てほしいと言わんばかりに。
「くそったれどもが……」
上体を起こそうとしたガティが、自らの身体を見下ろす。その顔に、面白そうなものを見つけたような薄ら笑いが浮かんだ。再び倒れた彼の頭が、ごとん、と地面にぶつかる音がイノの耳にとどいた。
(こんな……こんなことが)
イノは這うようにガティの側へ寄った。闇の中から続々と現れる『虫』達には目もくれない。頭に流れこんでくる印象の数々も。その印象の一つ一つに、自分や、レアや、サレナクへの殺意がえがかれていることにも。
「ガ……ティ」
「ああ? なんだよ……」
言葉にならない声をかけたイノを見上げて、ガティがいった。血みどろの顔にある瞳からは、さっきまでの激情の一切がなくなっていた。それらが鮮血と共に流れ出していったようだった。
光を失いかすんでいくガティの瞳。それはかつてイノをからかい、怒らせたりして笑っていた彼のものだ。
「ったく……さっきから、どうしようもねえ顔だな」
力のない笑い。
「ちったぁ、反逆者らしい顔、できねえのかよ。この……」
そして、ガティの一切が動かなくなった。
「ガティ?」イノは震える指先を彼にかけた。
(うそだろ? これもいつもの冗談なんだろ? オレなんかより全然強いくせして、こんなふうに死ぬわけないだろ?)
どんよりとした瞳。開いたままの口。ガティは動かない。もう動かない。
イノの口から嗚咽がもれた。だが涙は流れない。瞳の奥がこんなにも熱いのに。なぜなら、彼の死を悼む資格なんて、自分にはないのだから。
(オレだ、オレのせいだ。シリオスに剣を向けたから。みんなに背を向けたから。だから、ガティは死んだ。ここまで追いかけてきて、『虫』に殺されてしまっ
た。オレが殺したんだ……オレが。でも、どうすればよかったんだ。何をすればよかったんだ。どう上手くやれば誰も死なずにすんだんだ?)
はち切れんばかりに溢れ出す思考に、イノの頭が割れそうに痛んだ。苦しい。アシェルの死が、ガティの死が、胸を締めつけ心を責め苛む。自らのとった行動のすべてが、それらを招く愚かなものでしかなかったのだという想いに、気が狂いそうになる。
(誰か教えてくれよ。どうすればよかったのか教えてくれよ)
──ふと。
苦しみもだえるイノの耳に聞こえる音。
声。クスクスという声。
イノは憔悴しきった顔を、声のする方に向けた。
ゆらゆらと揺れている怪物の群れ。
楽しそうに瞬く深紅の瞳。瞳。瞳。瞳。瞳。
彼らは笑っている……イノの嘆きを。ガティの死を。ここで起こったすべての出来事を。自分達がこの世界にもたらしてきた痛みを、死を、悲しみを、憎しみを。
笑っている。心から楽しそうに笑っている。
(こいつら……こいつらは……)
どくん、と鼓動とは別の何かが、イノの中で脈打った。
身体の奥で、心の彼方で、その何かが形を成していくのを感じた。
「……おまえらは……」ぞっとするほど低い声が自分の口からもれた。
揺らめき形を現したもの。扉──これは扉だ。
「……いったい……」イノはゆっくりと立ち上がった。
自らの深奥に生まれた扉。開きかかったその向こうから流れてくるどす黒いものが、静かにイノの心と身体を満たしていく。
苦悩を、悲しみを、すべてを飲みこんで。
傷ついた左腕をだらりと下げ、右手に剣を握り締めたまま、イノは目の前で笑う怪物達へ、一歩ずつ踏み出していく。
「……なんだって……」
扉。しだいに開いていく。奥に何かがある。途方もなく巨大な何かが。それが出てこようとしている。出たがっている。
「……いうんだよ……」
つぶやきながら、よろよろと迫っていく自分の姿に、バケモノ達がたじろいだように見えた。
《だめ──いけない!》
どこか遠くで、誰かが叫んだのが聞こえた気がした。
怯えた様子の群れの中から、やがて意を決したように一匹が飛びかかってきた。
「おまえらはぁぁぁぁぁぁっ!」
かっと目を見開き、腹の底から絶叫を上げると、イノは向かってくる『虫』目がけて剣を振り下ろした。
狙いもつけず放たれた力任せの一撃。それは、怪物の甲殻にあたって弾かれるだけになるはずだった。
しかし、黒い刃が『虫』の顔面にたたきつけられた直後。まるで大砲でも撃ちこまれたように、バケモノの身体がごっそりと吹き飛んだ。大量の体液と肉片とを周囲にばらまかれる。
剣のなせる技でも、ましてや人の力でなせる技でもない。
黒い輝き。それがイノの目の前にあった。『虫』達が持つものよりもはるかに大きく、力強い揺らめきを見せて存在する、自分が呼び出した輝きが。
武器だ──心の奥底に生まれた扉。その扉から現れた黒い輝きを、イノはそう理解した。これは、自らにあたえられた強大な〈武器〉なのだと。
『虫』達を見る。脳裏に流れこんでくる怪物達の意志を視る。
もう奴らは笑っていない。怯えている。怖れている。
(殺してやる。全部、全部、殺してやる)
すべてを満たす暗い想い。もう誰の声もとどかない。
殺戮がはじまった。