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─九章  それぞれの再会と別れ(7)─



『館』から出た後、この地に現れた『虫』を迎撃するために指揮を執っていたシリオスの動きが止まった。

一瞬のことであったのと、騒乱の最中でもあったため、彼の挙動を見た者はいなかった。その瞳が目の前の戦場とは関係のない、ある一つの方向を凝視したこと にも。

しかし、もし他者が彼と同じ方向に目を向けたところで、そこには薄暗い闇が広がっているのが見えただけだったろう。

闇の奥を見透かすようなシリオスの視線。その英雄の表情は、討伐軍がブレイエの砦から進行して以来、初めて見せた緊迫の色に彩られていた。


*  *  *


瞬時に潰され血しぶきを上げた『虫』。間をおかず、そのとなりにいたもう一匹がズタズタに切り刻まれ、洞窟の壁面を朱に染める。

絶叫。『虫』の上げる子供達の絶叫。

軽快な音すら立てほとばしる血潮。

イノはそのただ中で、ぼんやりしたように突っ立っていた。もはや戦うのに指一本動かす必要すらない。すべては〈武器〉が為してくれるのだから。

(戦う?……ちがうな。殺すんだ。こいつらを全部殺してやるんだよ)

頭の中で囁く自分。憎悪をはらんだ低い声。

一匹の『虫』がとびかかってくる。瞬間、その甲殻に四方からいくつもの穴が穿たれる。盛大に血をまき散らし転がっていく死骸に、イノは目を向けようともし ない。

自分の内なる扉から呼び出した黒い輝き。そして、その異質な光が成す〈武器〉。他者には知覚することすら叶わないそれは、明確な形というものを持たない粘 土のような存在だった。

定まった形がない故に、〈武器〉はありとあらゆる凶器の姿を取ることができる。斬り裂く剣。貫く槍。粉砕する鎚。あるいは、どんな獣よりも凶暴な牙や爪な ど。それら一つ一つが、最高の強度をほこる金属ですら断ち切れない『虫』の甲殻を、紙のように引き裂くだけの威力を持っていた。

逃れることも、防ぐこともできない不可視の〈武器〉。イノはそれを自在に扱うことができた。

想う……ただそれだけで。

片手に握ったままの剣など、この〈武器〉に比べれば子供の玩具にすぎなかった。いままでこんなものを振り回して、あくせく戦っていたことがバカバカしく思 える。

自分が呼び出した黒い輝きを〈武器〉だと認識した瞬間から、イノはその使い方を理解していた。それは、ごく他愛もないことを思い出すのに似ていた。

ふいに名前を呼ばれたような気がして、イノは内なる扉に意識を向けた。〈武器〉の現れた扉の奥……その彼方に存在している、途方もなく大きな〈力〉を持っ た何者か。それが、ぼんやりとだが感じられる。

〈繋がり〉を。その者との懐かしさにも似た結びつきを。

誰なんだ?──呼びかけてくる相手の正体に思いをはせたとき、背後から『虫』がとびかかってきた。

知覚したとたん、〈武器〉が瞬時に反応した。黒い輝きが巨大な獣の顎のような形を成す。それは宙で『虫』をくわえこむと地面にたたきつけ、なおかつ、かみ 砕きはじめた。見えない存在に音もなく襲われているバケモノが、もがき、のたうちながら細切れにされていく。

悲鳴。苦痛に叫ぶ子供の悲鳴。

背後で展開されている異常そのものの光景を、イノは振り返る必要すらなかった。すべての『虫』の動きは、〈繋がり〉によって感知している。

イノの脳裏一面に広がっている印象の数々。バケモノ達の意志が記された書物。それら一枚一枚を、いくつもの眼≠ナ同時に見て読み取っているような感覚。 そこから得た情報は、まばたきするよりも速く〈武器〉に伝わる。

たとえ複数の『虫』が同時に襲いかかってこようが、まったく問題はなかった。現出させる〈武器〉の数に制限はない。望めば望むだけの黒い輝きを呼び出し、 むかえ撃つことができる。

しかし、イノは怪物達を一挙に殲滅させようとは思わなかった。楽しんでいたからだ。一匹ずつに応じて〈武器〉の形を変え、試すように行使することを。一つ 一つの苦痛が伝えてくる感触を。なぶり殺しを。

(面白いだろう?)

暗い声が囁く。脳髄から溢れる悦び。〈武器〉を振るえば振るうほど、血肉が飛び散れば飛び散るほど、悲鳴が上がれば上がるほど、見る者をぞっとさせる陶酔 した笑みが、血みどろのイノの顔に浮かんだ。

『虫』達の上げる絶叫。ほとばしる鮮血の甘美さ。ガティに貫かれた左腕の痛みの疼きさえ、今は心地いい。

(殺してやれ。もっともっと殺してやれ)

うろたえていた一匹を、真っ二つに引きちぎり。

がむしゃらに向かってきた一匹を、もとの形がわからなくなるまで、何度も何度もたたき潰し。

自分の思うがままに形を変える絶対無比の〈武器〉を、イノは心から楽しみながらかたっぱしから振るっていった。

気づけば、残る相手は一匹になっていた。いや、獲物というべきか。

(それもちがうな。オレの好きなように殺せる『玩具』だよ)

その『玩具』が背を向け、洞窟の入り口へ続く闇の中へと姿を消した。

イノは唇をなめた。死に物狂いで遠ざかろうとしている『虫』。相手がこちらへ抱いている恐怖が〈繋がり〉を通して伝わってきた。ぞくぞくとした興奮が身体 中を駆けめぐる。それに感応した黒い輝きが、形のない存在を揺らめかせ、まるで猟犬のごとく闇の奥へと追っていく。

やがて、黒い輝きが『虫』を捕まえるのを感じた。瞬時に無数の小さな刃となった〈武器〉により、対象が容赦なく切り刻まれていく。生温かい臓器が光のない 闇にばらまかれていく。その一部始終が、イノには手に取るようにわかる。 

(足りないな)

最後の『虫』が放った断末魔の悲鳴を堪能した後、暗い思考が不満げな声を上げた。まだまだこの『武器』を使いたい。試したい。それには、もっと多くの『玩 具』が必要だ。

(そうだ。まだそこに残ってるじゃないか)

暗い思考の囁きが示す通りに、イノは視線をめぐらせる。

麻痺したように固まっているレアと、彼女が抱えているサレナクがいた。

(あいつらも殺してやれ)

瞬間──イノはぶん殴られたように我に返った。自分自身から引きはがされたような感じだった。

だめだ。二人は敵じゃない。殺すべき相手じゃない!──

(本当にそうか? あいつらがいなきゃ、みんなを裏切ることもなく、ガティが死ぬこともなく、オレがここまで苦しむことはなかったんじゃないのか? 全部 あいつらのせいなんじゃないのか? あいつらの罪なんじゃないのか? だから罰を与えよう。好きなだけの罰を。オレにはそれができる)

囁き続ける暗い声。離別したイノの意志に反して、黒い輝きがゆっくりと二人へ向かって動きはじめた。

(さあ。こいつらをどう殺す? めった斬りか? くし刺しにしてやるか? ねじ切るか? 粉々に砕いてしまうか? 男の方は、もう死にかけだからつまらな いだろうな。でも、女の方はピンピンしてる。そっちはじっくり楽しもう。バケモノなんかで遊ぶよりも、きっと満足できるだろうぜ)

黒い輝きが待っている。首をかしげる犬のように。主が〈武器〉としての形をあたえ、使役してくれるのを待っている。

(みんなみんな殺してしまえよ。オレを怒らせ、悲しませ、苦しませる者すべてを……)

止むことのない暗い声。

これは自分なのか? 本当に自分が考えていることなのか?──

とつぜん襲いかかった恐慌に、イノは頭を抱え、『虫』達の死骸と血だまりの中に膝をついた。いまさらながらに、自分が振るってしまった武器の強大さと、残 酷な悦びに満ちる思考に鳥肌が立った。

どさり、とそばで音がした。たたき潰され、天井に張りついていた『虫』の死骸が落ちる音だった。

《やろうよ。きっときっと楽しいよ》

いまだ囁いている暗い思考とは別に、無邪気な声がした。〈繋がり〉からの声……これは、開け放たれた扉の彼方にいる何者かの声だ。まるで幾万もの子供が発 しているかのような、頭にわんわんと響く声。

(殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ)

《やろうよやろうよやろうよやろうよやろうよやろうよやろうよやろうよ》

飲まれていく。染められていく。抗う自身の存在が、暗い思考の囁きと、幾万もの子供達の声というふるいにかけられて、ボロボロと少しずつ落ちていく。

レア達の前で待機していた黒い輝きが、ゆっくりと〈武器〉の形を取りはじめている。

扉を……この扉を閉めなければならない。

イノは、消えそうになる小さな意識に必死でしがみついた。

たのむ! もう消えてくれ!──

硬く目を閉じ、歯を食いしばりながら、暗い囁きと、子供達の声に向かって心の中で絶叫した。

ふいに肩に乗せられた手。

イノは、はっとなって振り返った。

意識を取り戻したサレナクの、血の気を失った顔がそこにあった。

サレナクは無言だった。命を失いゆく身体で、膝をついたイノにかがみこむようにしながら、じっと見つめてきた。優しく、そして……すべてを理解しているか のような悲しげな眼差しで。

潮が引いていくように、黒い輝きが消え、ゆっくりと自らの中へと戻っていくのを感じた。

そして、すべてを飲みこむようにして、心の奥底にある扉は閉じた。

イノは静寂の中にいた。あらゆるものを使い果たしたような脱力感だけが、身体を支配していた。

嵐が過ぎ去ったような気分。だが安堵の気持ちはない。それどころか、いかなる感情も湧いてはこなかった。ガティの遺体。『虫』達の死骸。なにもかもが虚し かった。

「……行こう」サレナクがいった。


*  *  *


洞窟を抜けた先には、静かな森林が広がっていた。

ひんやりとした空気の中に、ときおり夜鳥の鳴き声が響いた。再びサレナクを支えながら歩ているイノには、その静けさがありがたかった。

「すまないが。そこに降ろして……くれるか?」

木々の間をしばらく進んだところでサレナクがいった。その言葉に従い、イノとレアは近くにあった木の根元へと彼を座らせた。

「少し休む?」

彼のそばで、レアが気遣うようにいった。

浅く呼吸しながら、サレナクが彼女に顔を向け微笑した。もうわかっているだろう?──そんな笑みだった。

「後は……お前達だけで行け」

「そんな……嫌よ!」

瞳に涙を浮かべながら、レアが首を振った。

「手当すれば、ちゃんと助かるわ。だから──」

サレナクはゆっくりとかぶりを振った。そして少しの間息を整えると、二人の様子を黙って見下ろしているイノに視線を向けた。

「この先に、小屋が隠してある。俺達が備品をしまうのに使っている小屋だ。くわしい場所は、レアが知っている。そこに……お前から没収した装備がある」

「オレの……」

「アシェルは……あいつはお前に返すつもりだった。お前が俺達に手を貸してくれても、くれなくても」

アシェル──その名にイノの胸が詰まった。

だが、装備が戻ってくることに対しては、なんの感慨も湧かなかった。それどころか、その存在すら忘れていた。あれほど取り返そうと思っていた「黒の部隊」 の自分は、もう帰ってくることのない遠くへ行ってしまった。

「それで……あんたはオレに何をしろって言うんだ?」

イノは静かにたずねた。サレナクはそれには答えず黙っていた。

「オレはもう、何をしていいのかわからないし……何もしたくないんだ」

それは本音だった。ありとあらゆる出来事が自分を襲い、傷つけ、苦しめ、打ちのめす。もうたくさんだった。うんざりしていた。疲れ切っていた。

「俺は、ただアシェルが渡そうとしていたものをお前に渡したかった……それだけだ。自分達の仇を討ってくれだの、意志を継げだのと、野暮なことをいうつも りはない」

ただ、とサレナクは続けた。

「『彼女』は……この世界の誰よりも、お前を必要としている。お前達のような力がなくても、それぐらいはわかる」

震える彼の指さす先。激闘の中にあっても、虐殺の中にあっても、いまだイノの肩に止まっている小さな金色の輝き。

なぜ、こいつを連れてきてしまったんだろう?──イノはぼんやりと小さな輝きを見つめた。 こいつと出会ってから、すべてがおかしくなったというのに。こ いつさえいなければ、自分がこんな場所にいることはなかったのに。

「『彼女』に応えるかどうかは、自分で決めろ。あたえられた力を生かすも殺すも……お前しだいだ。たが、どちらを選ぶにしろ……それはお前にとってつら く、悲しいものになるだろう。俺はずっとそれを見てきた。お前と同じ力を持った……あの二人のそばで」

傷だらけの男が大きく息をはき出すのを、イノは黙って見つめていた。彼の瞳が少しずつ光を失っていくのがわかった。

「こんな形になってしまったことを……本当にすまないと思っている。レア、お前にもな」

「お願いだから立ち上がって。こんなの、少しもあなたらしくないじゃない!」

必死で抱き起こそうとするレアの頬に、サレナクが血で汚れていない方の手をそっと伸ばした。

「それは……俺が決めることだ。レア」

レアがぐったりと力を失った。優しく手を添えられている頬に涙が伝った。

「ごめんなさい……サレナク。わたしが、わたしが……」

「お前は、悪くないさ」

傷だらけの顔が笑みを見せた。

「お前は……よくできた教え子、だからな。俺の誇りで……そして……」

サレナクの瞳が静かに閉じられた。レアに添えていた手が地面に落ちた。

彼も遠くへと行ってしまった。

むせび泣いているレアの震える背中を、イノはじっと静かに眺めていた。もう心も身体も擦り切れていた。それでも、まだ自分というものが存在しているのが不 思議だった。

これまで戦の後に感じ続けてきた以上に、何もかもが虚しかった。そして、その虚ろさを埋めることは永遠にできない気がした。 

静寂の森に流れるレアの悲痛な泣き声。イノは彼女から視線を外した。その瞳は、自身への救いを求めるかのように、遠くへ去っていった者達を探すかのよう に、ただあてもなくさ迷っていた。



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