─十章 交わる剣 ・ 重なる意志(3)─
目の前に広がる巨大な湖は、曇り空の色を映して一面の鉛色をしていた。
今の自分達の心の中をのぞけば、こんな色をしているのだろうか……離れた場所で膝を抱えているレアを見て、イノはぼんやりと思った。湖の先にはなだらかな
緑の丘が連なり、はるか彼方には巨大な山脈が連なっている。
もうどれぐらいここに座りこんでいるのだろう。わからなかった。
サレナクの死後、二人は彼の遺体を残してその場を去った。お互い言葉を交わすこともなく、ただ黙々と足をすすめた。何者にも妨げられることなく、ネフィア
の隠し小屋までたどり着くと、そこで一夜を明かした。
せまく、ろくな明かりもなく、一声すらもなく、小屋の中で互いが壁に寄りかかって過ごしていた時間。薄闇の中で腕の傷を手当てしたこと以外、イノは具体的
なことはおぼろげにしか覚えていなかった。眠れない頭で何を考えていたのかさえも。
夜が明けて、「移動しよう」と口を開いたのはイノだった。セラーダの追撃や、『虫』に発見される可能性を意識してこそいたが、一番の理由は、ただ少しでも
動いていたかっただけだ。時間が過ぎていくほどに、落ち着きを取り戻しはじめてきた思考。それを追いかけてくる昨晩の記憶すべてから逃れたかっただけなの
だと思う。いずれ必ず追いつかれてしまうと知ってはいても。
イノの提案に、レアは黙って同意した。サレナクの死に涙を流した後、彼女の顔からは、使い果たしたように一切の感情が消えていた。
しかし、小屋から出たものの行くあてなんてなかった。しばらく歩き、この大きな湖の畔までたどり着くと、二人は相談するでもなくそこへ腰を下ろした。そし
て今もずっと動くことなくそのままでいる。
湖畔には、自分達以外誰もいない。動くものといえば、ときおり吹くゆるやかな風にそよぐ草花だけだ。それを除けば、まるで絵画のように静止した風景だっ
た。
ふと、その中に一羽の大きな鳥が湖へと舞い降りてきた。薄青い羽毛をしたその鳥が、長い脚でちょこちょこと動くたびに、鏡のような水面に波紋が広がる。の
んびりと周囲を見渡すつぶらな瞳には、岸辺に座っている二人の人間は映っていないかのようだった。
その鳥の何気ない様子に、イノは世界から置き去りにされたような気持ちをおぼえた。あまりにも多くのものを失い、憔悴しきった自分達とは関係なく動いてい
く
世界。冷たくて理不尽で残酷な世界。唯一、同調してくれているのは、暗く重たげな鉛色の空だけ。
なんで、こんなことになってしまったんだろう──
動くのをやめ腰を下ろした瞬間、追いついてきた昨晩の記憶に肩をたたかれ、否応なしに現実と向き合わざるをえなくなったイノの頭に浮かぶのは、その一言だ
けだった。何がいけなかったのか。どこで間違えたのか。ひたすら問いかけ。ひたすら答えを探していた。
もちろん、答えなんてわからなかった。あるのは『すべてを失った自分』という、容赦のない現実だけだ。どれだけ怒ろうが、泣きわめこうが、それを変えるこ
とはできない。その痛烈なまでの自覚に身もだえしそうになった。あまりの悲しみと苦しさに、死んでしまうかもしれないと本気で思った。そして、死ぬことで
すべてが楽になるなら、それでもかまわないとも。
今その苦痛はなりを潜め、受け入れたくない現実は、心と身体の双方に深く浸透している。失われたものに対するあきらめの気持ちが、自分でも不思議なぐらい
の落ち着きをイノに取り戻させていた。
これからどうするのか。
まだ自分は生きている。目の前にいる鳥のように動き、ものを考え、まだこの世界で生きていかなければならない自分は、いったい何をすればいいのか?
考えていた。ずっとずっと必死に考えていた。散っていた者、生きている者、失ったもの、今あるもの……それらを、一つ一つ思い起こして。
やがて──イノは立ち上がった。
傍らに置いてある袋の紐を解く。小屋から持ってきたその中に入っているのは、漆黒の鎧と剣だった。没収された「黒の部隊」の装備。小屋で目にしたときは、
とくに何も感じなかった。もはや二度と身につけることはないと思っていた。ここまで持ってきたのは、それを自分に返してくれるつもりだったという『彼女』
の姿を思い浮かべたからだ。もしかしたら、戻ることのできない過去への未練もあったかもしれない。
ずっと肩に乗っかったままの『金色の虫』をそばに置き、手当てしたばかりの腕の痛みにときどき顔をしかめながら、イノは袋から取り出した装備を、静かに身
につけていった。
ふと、初めてそれを身にまとった日のことを思い出した。真新しく黒光りする鎧に目を輝かせていた自分。スヴェンとクレナにからかわれながら、興奮した手つ
きをしていた自分。
遠く……本当に遠くへ行ってしまった。イノは悲しく微笑した。こんな未来を想像すらしていなかったあの頃の自分が羨ましかった。
そして、これからの自分はさらに遠くへ行こうとしている。正気とはいえない決意を胸に。
兜を頭に乗せ、最後に剣を取り出した。亡き父の剣。今の自分を見たら、父はなんて言っただろうか。怒るだろうか。悲しむだろうか。
誉める──のはないだろう。もう二度と墓参りもできなくなったのだから。
不意にのしかかってきた悲しみをため息と共に吐き出し、イノはそばに置いていた『金色の虫』を手に取ると右肩に乗せた。その場所がすっかり定位置になって
しまったかのように、小さな輝きはピタリと黒い肩当てに張りついた。
装備を整え終わると、イノはレアに目をやった。彼女はこちらを見ることもなく、ずっと膝を抱えたまま湖に顔を向けていた。しかし、青い瞳にはなんの景色も
映っていないように見えた。
「オレはもう行くよ。あんたとは……ここでお別れだ」
こちらへ関心を持つとは思えなかったが、それでも近寄って声をかけた。相手の姿があまりにも小さく見えたからかもしれない。今のレアは、子供と喧嘩しても
負けそうなぐらいに弱々しかった。
「イジャ達はきっと無事でいるよ。だから、あんたもみんなの所に行ったほうがいい」
反応のない相手にイノは続けた。このままだと彼女は死ぬまでここに座っているような気がして、なんだか放っておけなかった。
ようやく。「……セラーダに戻るの?」
顔は湖を向いたまま、レアがぽつりとたずねてきた。
「オレは──」
イノは一瞬ためらった。心の内に宿した決意。それを口に出すことは、引き返すことができない道への一歩を踏みだしてしまう気がした。あまりにもバカバカし
く愚かな道へ。
だが、きっぱりといった。
「『楽園』へ行く」
その言葉に、レアが初めてイノの方を向いた。
「もうセラーダには戻れない。オレは……反逆者だから。帰ったところで死刑になるだけだ」
「それなら、あなたもわたしと一緒に『谷』へ来ればいいわ」
だめだ、とイノは首を振った。
「あんたには、信じられない話だろうけど──」
いぶかしそうな表情をしているレアに、イノは語りだした。昨晩、アシェルから伝え聞いた話のすべてを。
アシェル──その名を口に出すたびに、彼女がもういない現実を認めるような気がしてつらかった。そして、そんな自分以上に、レアもその苦しさを感じている
ようだった。
『手を貸して欲しい』と彼女に言われたあのとき、もし自分が首を縦に振っていたのなら、その後に起こった悲劇のいくつかは、なかったものになっただろう
か……。
「もうすぐ、セラーダは『聖戦』をはじめる。それは誰にも止められやしない。そしてセラーダが……いや、シリオスが『楽園』に着いてしまえば、『虫』がこ
の大陸すべてに溢れることになるんだ。たぶん、昨日奴らがいきなり目の前に現れたような出来事が、フィスルナや他の村や街でも起こるんだと思う。そうなれ
ば、みんな『虫』に殺される。フィスルナにいるオレの知り合いも、新しい本拠地にいるイジャやネリイも。それだけは……どうしても止めなきゃならない」
何もかもを忘れて、どこか遠くでひっそりと暮らすことも考えた。『聖戦』が失敗に終わり、シリオスが目的を遂げられない可能性もないわけではない。だが、
イノはそうは思っていなかった。それに、あの男が手を下さずとも、いずれ『虫』は世界に解き放たれるだろうとアシェルはいっていた。早いか遅いかの小さな
差だけで、破滅は必ずやってくるのだ。
このまま──自分が何もしないのならば。
「それを止めるには、シリオスがやろうとしているように『楽園』へ行って、『樹』に接触しなきゃならない。彼女が……アシェルがそうしようとしてたみたい
に。そして、オレにはそれができるかもしれないんだ」
話の内容が内容なだけに、『樹の子供』について何も知らないレアは困惑した表情で沈黙していた。だが、少なくとも、頭ごなしにイノの話を否定しようとはし
なかった。
「……だから」やがて彼女はいった。
「あなたは『楽園』へ行こうとしているの?」
イノはうなずいた。
「一人で?」
「一人……ってわけじゃないけど」と、肩にある金色の輝きを指した。
「正気じゃないわ。絶対に無理に決まってる」
「わかってる」
レアは正しい。大軍を擁するセラーダでさえ、『楽園』への侵攻には総力を傾けようとしているというのに、そこに一人で挑もうとするのは狂気の沙汰だ。まと
もな人間のすることではない。
そうだな、とイノは内心で苦笑した。
たしかに『まともな人間』のすることじゃない。
「でも、あんたも見ただろ? 昨日、オレが洞窟で『虫』達を……皆殺しにしたのを」
レアが息をのんだ。常識を外れた殺戮の光景を思い出したのだろう。
「ああいうことが……オレにはできてしまうんだ。だから、それを使えば、ひょっとしたら『死の領域』を突破して、『楽園』まで行くことができるかもしれな
い」
「だからって……一人で行くなんてバカげてるわ。もし、あなたがその気なら、わたしや『谷』へ脱出したみんなも手を貸せるかもしれないし」
イノは首を振った。指導者であるアシェルでさえ伏せていた事実を自分が話したところで、ネフィアの人達がすぐに信じるとは思えない。それに、彼女とサレナ
クという柱を失ったネフィアという組織は、もう瓦解しているといってもいい。彼らを説得し、戦力を立て直して『楽園』へ向かう時間はないだろう。『聖戦』
はもう間近なのだ。そして、あらゆる人々が『虫』の手で殺されてしまうのも。
そしてなにより。
「オレは、これに誰も巻きこむ気はないよ」
イノは強くいった。『楽園』を目指す以上、『虫』との戦いは避けられない。そして、単独で大量のバケモノ達と互角に渡り合うためには、あの〈武器〉が必要
となるのはあきらかだった。
もし、そのときに誰かがそばにいたら……イノはそれを怖れていた。
レアは何も言わなかった。再び湖の方を向いて、考えこんでいる顔つきをしていた。
「それじゃあオレは行くよ。向こうへ着いたら、イジャとネリイによろしく伝えてほしい。あんたも、その……がんばれよ」
自分と同じように多くを失った相手に、つたないながらも励ましを送り、イノは背を向けた。
「待って」
後ろの声に振り返った。立ち上がり、こちらへ身体を向けたレアがいた。
「わたしも一緒に行く」
きっぱりとした口調。予想外の言葉に、イノはしばらく反応できなかった。
「ちょっと待てよ──」
慌てていった。
「正気じゃないし、絶対に無理だって、さっき自分で言ってたじゃないか?」
「わかってるわ」
「バカげてる」
「そんなこと、あなたに言われたくない」
突き放すように返された。
「オレは誰も巻きこむ気はない、って言ったろ?」
「あなたはそう言うけど、これは他人事じゃないわ。もし、わたしだけ『谷』へ行ったところで、あなたが『楽園』へ行くのに失敗すれば、わたしも含むみんな
が『虫』に殺されることになるのよ?」
彼女の言うことはもっともだった。イノにも、自分が為そうとしていることの重大さはわかっている。そして、それが成功する可能性がいかに小さいものである
かも。だが少なくとも、やり遂げようとする決意は本心からだ。
「それに……」
レアは悲痛な顔で続けた。
「あなたのやろうとしていることは、アシェル様や、サレナクの意志を継ぐことにもなるわ。わたしには、それを助けて見届ける義務がある。二人が死んだの
は……わたしのせいなんだから」
「べつに……あんただけに責任があるわけじゃないよ」
レアはうつむいたきり答えなかった。悔恨しているようにも、泣こうとしているのを必死で耐えているようにも見えた。イノもそれ以上なにも言えなかった。
だからといって、同行させるわけにはいかない。再び〈武器〉を呼び出したときに彼女がそばにいたら。そして、あのおぞましい殺意を向けてしまうようなこと
があれば。それは自分が死ぬことよりも怖ろしい結果だ。
レアに告げるべきだろうか。昨夜、巨大な〈力〉に取り憑かれた自分が、彼女を殺そうとしていたという苦々しい事実を。
イノが躊躇していると、先に彼女が口を開いた。
「『楽園』へ行くとは言うけど、あなた具体的にどう行くつもりなの?」
「どうって……」思いがけぬ質問に戸惑った。
「そこらの街や村に行くのとは、わけがちがうのぐらいわかってるでしょ。長旅になるんだから、そのための準備を整えてちゃんとした進路をとらないと、『死
の領域』へたどり着く以前に犬死にすることになりかねないわ。まさか、このままぶらぶら歩いていけばいつか着けるだろう、なんて考えてないでしょうね?」
見事なまでに筋の通った話に、イノは返す言葉がなかった。決意はあるものの、それを現実のものとする案なんて、正直な話、彼女に言われるまで考えもていな
かった。よくよく思えば、これまでに一人で長距離を旅した経験というのもない。
「じゃあ……あんたには、それがあるって言うのか?」
レアはうなずいた。
「『樹の子供』とかの事柄に関しては、アシェル様はわたしに話してくれなかったけど、『楽園』を目指すための具体的な進路については詳細まで聞いている
わ。そして、そのすべてをわたしは記憶している。あなたにはそれが必要なはずよ」
自分達はセラーダとは違う経路で『楽園』へ入る──というアシェルの言葉を、イノは思い出した。レアの言っているのはそのことだろう。そして、それをこち
らに教える条件として、『自分を連れて行け』と彼女は言っているのだ。きっと、それを飲まないことには、泣いて土下座したって教えてくれないに決まってい
る。
イノ沈黙したまま、目の前に立っている相手を眺めた。
決然とした態度のレア。でも彼女の姿は、必死で何かにすがりつこうとしているように見えた。大切なものを失った先も、まだ命ある者として生きていかなけれ
ばならない意味……。それを、『楽園への旅』という行為の中に見出したかのように。
そう。この自分自身と同じに。
「わかった」
イノは真剣な顔でいった。
「でも、本当にいいんだな?」
「ええ」
「何が起こるかわからない。二人とも死ぬ可能性は十分にある。あんたを残して、オレだけ死ぬこともあるかもしれない」
「そうはさせないわ」
強い言葉が返ってきた。
「あなただけが『樹』に接触することができる。つまり、あなたが死ねば、この旅のすべてが無意味になってしまう。わたしには特別な力なんて何もないけど、
それで
もあなたを……アシェル様の意志を、命を賭けて守ることを誓うわ」
レアは腰の剣を握った。それは、今朝イノが彼女へと返したものだった。
再び主の手に戻った剣が、鞘から引き抜かれる小さな音が湖畔に流れる。
「だから、あなたも誓ってほしい。決して、この旅を途中で投げ出したりしないって」
目の前に突きつけられたレアの黒い刃。初めて彼女と出会ったとき、同じように剣を向けられたことを、イノは思い出す。
あのときの刃の交わりは、争い以外のなんでもなかった。
それが今では、互いの決意を求めて交わろうとしている。
奇妙な縁だと思った。そして、それは不思議と心地よかった。
イノはうなずき、自らも剣を抜いた。
静かな音を立てて、二つの黒い刃が合わさった。
「誓う。オレは途中で投げ出さない。絶対に『楽園』までたどり着いて、すべてを終わりにしてみせる」
交わる剣と。重なる意志と。
「そうだ」
ふと、小さな笑いを浮かべてイノはいった。
「これからは、オレのことはイノでいいよ」
思えば、お互い名前で呼んだことなんてなかった。立場や抱えているものから、二人の間にはいつも目に見えない壁があった。だが今それは、ほんの少しだけ薄
くなっているような気がする。互いに多くを失った傷の痛みと、共通の目的を達するという誓いに。
だからこそ、イノはあらためて彼女に告げようと思った。
運命を同じくする者としての名乗りを。
でも、よほど意外な言葉だったのだろう。相手はしばらくきょとんとした顔をしていた。
やがて、ためらいがちに彼女はいった。
「わたしのことは……レアでいいわ」
岸辺で剣を交わす黒と白の人影に気づいたのか、さっきの水鳥が、湖の中から不思議そうに二人を眺めていた。