─十一章 優しさへの追憶(1)─
「ネフィアは、どういう進路で『楽園』へ向かおうとしていたんだ?」
湖畔から離れてしばらくして、イノは前を歩くレアにたずねた。
彼女がふり返る。「このまま北へ行けば、『エナの森』が広がっているわ。それに沿うようにして北西へとずっと進むの。そのはるか先が『死の領域』よ。わたし達は西の方面から『死の領域』に侵入して、『楽園』に乗りこむことになっていたから」
「西から『楽園』に……」
「その方が『楽園』の正面から──つまりは南側から入るよりも、『虫』との戦闘が少なくなる可能性が高いらしいの。一口に『死の領域』といっても、そのすべてが『虫』で満ちているわけではないんだって、アシェル様はおっしゃっていたわ」
過去、シリオスらと共に『死の領域』へ潜入したという経験を持っていたアシェル。その彼女が言っていたのなら、それはあやふやな情報などではないのだろう。しかし──
「理由はそれだけなのか?」
イノはたずねた。いくら戦闘の数が少ないとはいえ、『死の領域』に現れる『虫』の数は並みの発生領域の比ではないはずだ。じっさいにその地で戦った経験が
あり、なおかつ自分達組織の戦力の少なさを十分承知していたアシェルが、それだけの理由で『楽園』に挑もうとするとは思えなかった。
「もちろん、理由は他にもあったらしいわ」
「あったらしい?」
「『死の領域』から『楽園』へ入りこむための具体的な手順は、アシェル様とサレナクだけが知っていたの。わたしもたずねてみたんだけれど、二人ともはっきりとしたことは教えてくれなかった。ただ『導き手』がいるから心配はいらない──って、聞いたのはそれぐらいよ」
「『導き手』って?」
レアは首を振った。
「わからないわ。でも、わたしに詳しく話してくれなかったってことは、たぶん『樹の子供』に関係した名前なのかもしれない。あなたこそ、アシェル様から何か聞いていないの?」
「さあ。オレも、彼女から『樹の子供』にまつわる話すべてを聞かされたわけじゃないんだ。あんたに話したこと以外には、何も知らないよ」
「あんた」「あなた」──ついさっき、あらためて名乗りを交わした自分達だが、さっそく名前同士で呼びあえるかといえば、まったくそうでもなかった。いまさらすぎるというか……お互いなんとなく言いづらいものがある。
「それなら、これ以上は考えても仕方ないわね。でも、アシェル様のことだもの。『導き手』って名前にも、きっと重要な意味があるんだと思うわ」
イノはうなずいた。どのみち、他に手段らしい手段はない。それに、もし『楽園』にたどり着けたとして、それからは、どうしたらいいのだろう。『樹』と接触する──といっても、具体的に何をすればいいのかなんてわからない。
いったいアシェルは『楽園』で何をしようとしていたのか? 彼女と過ごした時間は、イノにとってあまりにも少なかった。そして、その機会はもはや永遠に失われてしまったのだ。
「あんたの言う進路を進んで──」
重くなる気分をふり払おうと、イノはたずねた。
「『楽園』まではどのぐらいかかるんだ?」
「今のところ、徒歩以外の手段はないし……確実に一ヶ月近くはかかるわね。しかも、何事も起こらなければの話だけど」
「一ヶ月近くか……」
イノはしみじみとつぶやいた。そんな長距離を、しかも、歩いて旅した経験などない。うすうす見当はついていたが、あらためて他人の口から聞かされると、その長さが現実のものとなって立ちふさがってきた気がした。
「あたりまえじゃない。あなた……まさか、今日か明日には『楽園』に着くだろうとか思ってたんじゃないでしょうね?」
「そんなわけないだろ!」
心底あきれたようなレアの口調に、イノは慌ぎみに言い返した。おおまかなものではあるが、大陸全土の地図はちゃんと頭に入っている。
自分達が住んでいるこの大陸は、上を向いた犬の頭を真横から見たような形をしている。そして、『楽園』が位置するのはその鼻面に当たる北の果てだった。ちなみに、セラーダの首都フィスルナがある場所は、『楽園』からはるかに南下した中央部分である。
正確な位置こそわからないが、自分達が今いる場所は、フィスルナからずっと西の方だろうとイノは見当をつけていた。伝説の地『楽園』が、『死の領域』という危険地帯のことも含め、距離的にもおいそれと行ける場所でないことぐらいは十分に理解している。
「セラーダはまだ『楽園』への侵攻を開始していない。でも、それを計算に入れても、彼らとわたし達が同じ頃に『楽園』へたどり着いてしまう可能性は高い
わ。セラーダはフィスルナから真っ直ぐに北上する進路を取る。大軍だから進みは遅いにしても、移動距離はこちらより少ないはずよ」
「あんた達ネフィアは、そんなことまで調べていたのか?」
イノは驚いた。セラーダ軍の兵士であった自分でさえ、『聖戦』の詳細については知らないのだ。
「そういうわけじゃないけれど……。セラーダの取ろうとしている進路は、二百年前に『継承者』の祖先が『楽園』を追われ、フィスルナを建設した地まで落ち
延びてきた道筋なのよ。それを逆へとたどりながら、正面から正々堂々と故郷への帰還を果たす……。ガルナークは……あの男は絶対そう考えるに決まってる
わ」
暗く沈んだ声と表情を見せて、レアはいった。
ガルナーク──セラーダ軍の頂点に立つ将軍。もちろん、イノも彼のことは知っている。しかし、遠目にその姿を見たことはあっても。直接に謁見したことはない。
「なんだか……今の話し方だと、あんたは将軍のことをよく知ってるみたいに聞こえるな」
「それは……」
レアはそこで口を閉じた。それ以上何かを言う気配はない。
いったいなんだというんだろう?──苦々しげなレアの顔を見つめながら、イノは眉をひそめた。昨日のシリオスとのやりとり。そして、今のガルナーク将軍に対する口ぶり。それらを思い起こせば、彼女がなにか複雑な事情を抱えていることぐらいは簡単に推察できる。
しかし、相手の様子からそれ以上たずねることもできず、結局はイノも黙りこんでしまった。二人の間にぎこちない沈黙が流れた。
(こんな調子で、お互いうまくやっていけるんだろうか……)
イノはぼんやり考えた。思えば、つい昨日まで相容れぬ関係にいた自分達である。同じ目的のために共に行動することになったとはいえ、いきなり打ち解けられるはずもなかった。もちろん、そんな不安を抱えているのは彼女の方でも同じだろう。
「とりあえず、この先にある村に行きましょう」
やがて、気まずい雰囲気をごまかすようにレアがいった。
「村?」
「ええ。セラーダの管理下にない小さな村よ。その村は、ネフィアと物資の取引をしていたの。わたしの顔も知られているから、旅に必要なものはそこで手に入るわ。さすがに『楽園』へ行くとまでは言えないから、それは上手くごまかすしかないでしょうけど」
旅に必要な道具を調達する……そんな当たり前のことすら、イノの念頭にはなかった。ただ決意するだけではだめなのだ。今さらながらに、それを実感した。
イノはうなずき、先に立って歩き出したレアの後を追った。
* * *
命令する声。拒む声。
それらが耳の奥深くで幾度となく繰り返される。
血にまみれた無数の死体。その中にたたずむ一人の男の姿。
それらが脳裏の奥深くに幾度となく浮かび上がる。
暗さ。苦さ。忌まわしさ。
それらが心の奥深くから幾度となく湧きだしてくる。
あのとき。あのとき──
「スヴェン」
ドレクの声に閉じていた目を開けた。
「準備はできたのか」
自分の声があまりに低いことに、スヴェンは少し驚いた。
ああ、とドレクが大きな袋を指した。そのとなりにはカレノアがいる。二人の背後では、点在する焼け跡の中、兵士達がこの地から撤収するために、忙しなく動き回っている。
ネフィアの討伐は果たした。構成員の多くは脱走したものの、首謀者が討ち取られてしまった今となっては、もはやこの組織は消滅したも同じだった。そう判断したセラ・シリオスの命より、兵達はこの地から撤収をはじめたのだ。
英雄はフィスルナに帰還するため、一足先にこの地を発っていた。部隊長をはじめとした兵士達は、戦死者の遺品の回収がすみしだい、最寄りの砦まで出立することになっている。
ガティの遺品は、スヴェン達が回収していた。剣をふくむ『黒の部隊』の装備品は、希少な鉱物を使う等製造にも手間と金がかかるため、隊内で死者が出た場合には、できるだけ回収することが義務づけられている。個人の所有物として共に葬られることはないのだ。
もう二度とへらず口を叩くことのないガティの身体から鎧を脱がせているとき、スヴェンはどうしようもないやるせなさに胸が詰まった。口こそ悪かったが、いい青年だった。いい戦士だった。そして……いい仲間だった。こんなところで、こんな死に方をする奴ではなかった。
装備の外された遺体は、討伐軍が持ってきていた死体袋に入れ、洞窟から出た森の中に穴を掘って埋めた。その作業ために、自分達の出立が多少遅れようとかまわなかった。ひょっとしたら、少しでも遅らせたい気持ちもあったのかもしれない。
ガティはこの地で眠りについた。彼にとって縁もゆかりもないこの地に。そして、彼が持っていたセラーダの認識票は、この地で死んだ多くの者達のそれと一緒
にフィスルナに運ばれ、共同墓地の石柱にぶら下げられることになる。身よりのないガティの認識票を弔う役目は、彼のことを何も知らない者の手によって事務
的に為されてしまうのだろう。
再び、やるせない気持ちがこみ上げてきた。
「お前さん、大丈夫か?」
気遣うようなドレクの声。自分は、そんなにひどい顔をしているのだろうか。
スヴェンは腰を下ろしていた岩から立ち上がった。
「問題ないさ」
「本当にいいのか?」
「いいも悪いもないだろう」
真顔でたずねてくる彼に、同じように返す。
「まあな」とドレクは嘆息した。「残念だ。こんなことになっちまうなんてな」
スヴェンは無言だった。相手が言っているのはガティの死と、これから為さなければならない任務のことだ。
『反逆者イノの追跡とその始末』
それが、「黒の部隊」の長であるシリオスから課せられた任務だった。
反逆者イノ──スヴェンは、いまだにその言葉に馴染むことができない。ネフィアの指導者であった女性の傍らにいて、彼女を殺したシリオスに剣を突きつけ、
『虫』の襲撃のどさくさにまぎれて背を向けて逃亡し、それを追ったガティが無残な死体となって発見された今となっても……。
反逆者イノ──ネフィアの捕虜となっている間に、あいつに何があったのだろう。これまで築き上げてきたものすべてを捨てさせるほどの何が。
やはり……知ってしまったのだろうか。この自分が過去に犯した罪を。これまでひた隠しにしてきた事実を。だが、もしそうだったとして、なぜそれを知りえたのだろう。
真偽のほどはわからないが、なんにせよ、事態は起こってしまった後である。イノは反逆者という烙印を押されてしまった。もう、誰の手にもどうしようもな
い。そして反逆者に対しては、その者に関わった人間すべてに疑惑の目が向けられる。自分も、ドレクも、カレノアも、そしてクレナの一家も。『聖戦』という
大事を目前にひかえた今、その取り締まりは特に苛烈になっているのだ。
反逆者とおぼしき人間を待ち受けているのは、軍による厳しい尋問と、周囲の人間が向ける白い目である。仮に疑いが晴れたとしても、下層区に身分を落とされ、もう二度と元の生活には戻れない。
自分だけならまだ耐えられる。イノの離反の理由が、自ら犯した過去の罪に起因するものならば納得がいく。いずれ訪れるはずだった罰として、甘んじて破滅を受け入れられる。
だが……それが仲間やクレナの身に及ぶことだけは耐えられなかった。
『今ならばまだ内密に処理できる』
シリオスの穏やかな言葉。スヴェンを追いつめた言葉。
イノの破滅か。親しい者達すべての破滅か。
『了解しました』と、答えたあのときの自分の声。他人の口から出たもののように聞こえた。
ドレクに告げた通り、いいも悪いもない。やるしかないのだ。イノを追い……この手で殺すという任務を。それが、罪を罪で上塗りすることになる行為だとしても。
「出立するぞ」
自分の口から出る冷たい他人の声。これでいい。ここから先に必要なのは、隊内から出た反逆者の処分を実行する『兵士としての自分』なのだから。ためらいは許されない。
それでもスヴェンは、この運命を呪わずにはいられなかった。