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─十一章  優しさへの追憶(3)─



《ごめんなさい》

声がする。知っている女の子の声。

(シリアなのか?)

《ごめんなさい。わたしのせいで、あなたをひどい目にあわせてしまった》

(じゃあ、あのとき『虫』達が現れたのは、やっぱりお前の仕業だったんだな?)

《ああする以外、どうしていいかわからなかったの。そうしなきゃ……あなたはあの人に殺されると思ったから》

(それだけのことで……大勢の人間が、サレナクやガティが死ぬことになったんだぞ? お前が『虫』を呼んだりなんかしたから!)

《……ごめんなさい》

消え入りそうな声。痛ましい声。泣き出しそうな悲しさに溢れた声。

激情が水をかけられたように冷めた。わかっている。数々の悲劇の責任を、彼女一人だけに負わせられやしないことぐらい……わかっている。

ここ数日の間存在していなかった。彼女との〈繋がり〉。それが今では感じられる。意識したとたん、不思議と安堵したような落ち着いた気持ちになった。

(決めたよ。オレは『楽園』へ行く。あんたのところへ)

《来て……くれるの?》

(他に手はないんだろ? あいつが、シリオスが『楽園』でやろうとしていることを止めるには)

《あの人は今よりもさらに『樹』と強く繋がろうとしている。『樹』が持っている本当の力を解き放つために。そうなれば、みんな≠ヘ好きなときに好きな場所へ出られるようになるわ。そして、たくさんの人達を終わらせる。それだけは絶対に止めなきゃだめなの》

(本当に……オレにそれができるのか?)

《できるわ。あなたも、あの人のように、『樹』と強く繋がることのできる人だから……》

(どうやればいい?)

《そのときがくれば教える。あなたが『樹』のそばまで来たときに。そこならば、わたしもちゃんと手助けができる。今はこの子を通してでしか、あなたを──れないけれど──》

寄せては引く波のように、だんだんと遠くなったり、近くなったりしてきはじめたシリアの声。

(まってくれ! あんたには、まだ聞きたいことが山ほどあるんだ!)

《これが──あなたと話す──最後に──でも──わたしはここで待ってる──あなたを──》


*  *  *


イノは目を覚ました。とたんに、風にざわめく草の音が耳に入ってきた。

ひんやりとした空気の中、夜具をまとった身体を起こす。朝焼け前の薄暗い視界一面に広がっている草原。その上空を、紫がかった雲の一群がゆるやか流れていた。

「どうかしたの?」頭上からレアの声がした。

イノ達がいるのは、広大な草地に一つだけぽつんとある大きな岩の上だった。そのなだらかな岩のてっぺんに座って、レアは見張りをしていた。一人が寝ている間は、もう一人が起きて見張りをすることになっているのだ。

「いや……ただ目が覚めただけだよ」

シリアと話したことを相手に言うべきかどうか迷ったが、イノは言わないことにした。ただの夢でもないことも、レアが信じてくれるのもわかっていたが、 『樹の子供』ではない彼女とっては、ただ困惑するだけの話だろう。それに、これからの自分達に役立つ情報が得られたわけでもない。

イノは、夜具の脇に置いた金色の輝きを手に取ってみた。手のひらで感じる小さな『虫』の冷たい感触。しかし、肉体で捉らえるものとはちがう暖かさと柔らかさが、そこにはしっかりと感じられた。

「まだ寝るならかまわないわよ。日の出にはまだ少し時間があるから」

レアの声に顔を上げた。

「もう十分寝たよ。そっちこそ少し休んだら?」

「わたしはいいわ。それなら出発しましょう」

抑揚のない声でそう言うなり、レアは立ち上がった。平原の彼方を見つめる彼女の瞳は、少しずつ明るくなっていく周りの景色とは無関係に、どんよりとした暗さをたたえたままだった。

イノ達が、旅の道具を調達した小さな村を出発してから幾日が経っていた。

日中はひたすら歩き続け、夜は適当な場所を見つけて寝る。基本はその繰り返しだ。

今のところ、まだ問題らしい問題は起きていない。天候は穏やかだし、何かに襲われるということもなかった。だが、旅はまだはじまったばかりである。この平穏がこれから先も続く保証はどこにもない。

こんな形で旅をするのは、イノにとって初めての経験に近かった。セラーダ軍にいた頃に、長距離を移動したことは度々あるが、そのほとんどが高速で走るグ リー・グルに騎乗してのものだった。しかも、進路上に点在する砦や駐屯地を経由するため、寝る場所や食事に困ることはなかった。つまりは、厳密に野宿なん てしたことがなかったのだ。いつでもどこでも寝られると自分では思っていたが、最初の何日かは、地べたに夜具を敷いて眠ることになかなか慣れることがで きなかった。

正直、旅というものの勝手を知っているレアがいなければ、二、三日でお手上げだったろう。よく「一人で行く」などと言えたものだとつくづく反省すると同時に、彼女の存在には深いありがたみを覚えている。

しかし──イノは、となりを歩くレアを見る。

「なあ。大丈夫か?」

「どうして?」

「顔色がよくないよ」

「べつに体調は問題ないわ。よけいな心配はしなくていいから」

相手を気づかった会話は、突き放すように打ちきられてしまった。

レアは日が経つほどに無口になっていた。小さな村での一件のときは、少し調子を取りもどしたかに見えたのだが、それも長くは続かなかった。必要なこと以外 しゃべろうとする気配もなく、いまではイノが話しかけても反応のない場合が多い。食欲もなさげだし、夜もあまり眠れていないようだった。

やがて、朝日が横手からさっとまぶしく差しこんできた。彼方へと続いている平原が青々とした輝きに満ちていく。

イノは日の光が照らすレアの横顔を眺めた。本人は問題ないと言っているが、顔は青白くやつれている。瞳の中にある暗さが滲み出でしまったかのように、目の 下には隈だってできていた。そんな彼女の様子は、肩に担いでいる荷物よりもさらに重い何かに押し潰されているように見えた。

イノには、今のレアを苦しめているものが何であるかがわかっていた。あの夜ネフィアに降りかかった悲劇……。それが重い鎖となって、彼女を締め上げているのだ。

もちろん、その鎖に捕らわれているのはイノも同じだった。一連の出来事は、消えることのないしこりとなって心の奥底に残っている。そして、何かのはずみで泡のように表面に浮かび上がってくる。どうにもならない後悔と、罪悪感とを一緒に引き連れて。

それでも、イノは必死に進もうとしていた。『楽園』へ行き、シリオスの目的を防ぎ、『虫』と人との戦いを終わらせることは、今この世界に生きている大切な者達のためだけでなく、この世界を去った者達への……彼らの死に責任を負う者としての贖罪の意味もあった。

もちろん、それで死者が戻ってくるわけではない。責任が消えるわけでもない。だが今は過去にとらわれ立ちすくんでいるわけにはいかないと、イノは強く自身に言い聞かせていた。

おそらく、レアも自分と同じような気持ちでこの旅にのぞんでいるはずだった。しかし、今の彼女は過去にとらわれている。身体は前に進んでいても、心はあの悪夢のような夜に引き戻されてしまっている。

これから先のことよりも、今のレアの状態の方がイノには不安だった。見て見ぬふりなんてできないし、何とかしてやりたいと心から思っていた。

だが、何ができるのだろうか? 相手のことをろくに知りもせず、今だにお互いを名前で呼び合うことすらできないこの自分に。

わからなかった。そして、そんな自身が歯がゆかった。

このままだと、彼女は『楽園』までもたない──あるのはその確信だけだ。

イノの焦りをよそに、レアは陰鬱な顔のまま黙々と歩いて行く。聞こえるのは自分達の立てる足音と、担いだ袋が揺れる音と、風になびく草のこすれ合う音だけだった。


*  *  *


「あんたら……」

その男が背後から呼びかけてきたのは、スヴェンとドレクが村を出て、しばらくしてからのことだった。

反逆者達の足取りを追ううちに、スヴェン達は湖の先にある小さな村へとたどり着いた。彼らがそこへ立ち寄った可能性もあるだろうと、村人に聞きこみをしてみたものの、たいした情報は得られなかった。カレノアは別行動で周囲を調べているところだ。

「俺達になにか用か?」

スヴェンは男にたずねた。たしか、村の宿場のテーブルで飲み食いしていた泊まり客の一人だったと記憶している。  

「いや……さっき、あんた達が、宿場の親父と話をしてたのを聞いたんだけどよ」

夕闇にたたずむ「黒の部隊」の二人の視線を交互に眺めながら、男はおずおずと口を開いた。つい最近喧嘩でもしたのか、鼻の腫れたなんとも無残なご面相である。

「あんたら人を追っているんだろ? 若い男と娘を」

「それがどうかしたのか?」

「娘の方なら……オレは見たぜ」

「本当か?」ドレクが鋭い視線を放った。「でまかせなら承知しねえぞ」

「嘘じゃねえよ!」と男はたじろぎながら、

「白い格好をしたべっぴんの娘だろ? 女のくせにいっちょまえに剣なんか下げてよ。そいつなら、何日か前にあの村に来たぜ」

スヴェンはドレクと視線を交わした。それが本当なら、男が見たというのはあのネフィアの娘に間違いないだろう。ここまでの追跡で、彼女は今のところ反逆者と行動を共にしていることがわかっている。

「詳しく話してもらおうか」

まだ疑いを持ったまま、スヴェンが促す。

「ああ……っても、オレが知っているのは、あの娘が宿場の親父と話をしているのを見てたってだけだ。二人ともヒソヒソやってたから、なにを言ってたかはわかんねえけど……」

ビクついてはいるが、男に嘘をついてる様子はない。

こちらの質問に「なにも知らんです」と答えていた宿場の主の顔を、スヴェンは思い出した。警戒と怯えの入り交じった表情。てっきり、こちらの「黒の部隊」の身分に対するものだと受け取っていた。

あの娘と接触していたということは、宿場の主はネフィアの協力者か何かだったのだろう。この男がいなければ見過ごしてしまうところだった。追跡という任務に、いかに自分達が慣れていないかが痛感できる。

「見たのは娘だけか? もう一人、同じ歳ぐらいの少年がいたはずだが」

「そっちは知らねえ。来たのは女だけだ。ただ村を出てったときに、でかい荷を二つ抱えてたのは覚えてる」

二つ──ということは、あの二人は、しばらく行動を共にしようとしているということだろうか。

「なあ……宿場の親父には、オレから聞いたって話はしないでくれよ。この村はちょくちょく利用させてもらってるからな」

「それなら、なぜ俺達に話す気になったんだ? 悪いが、恩賞なら期待するだけ無駄だぞ」

「そんなんじゃねえよ」と、男はふてくされたように返した。

「オレはただ……あの女に借りを返してやりたかっただけだ。ちょっとお遊びで手を出したぐらいで、ぶん殴りやがって。おかげで、商売仲間や村の連中にいい笑いものにされちまった。あんたらが追ってるってことは、どうせ罪人か何かなんだろ? ったくとんでもねえアマだ」

恨みをふくんだ口調でまくしたてる男の腫れた鼻は、骨が折れたらしく倍の大きさに腫れあがっていた。よほど手ひどく殴られたのだろう。

「わかった。お前から聞いたということは主には黙っておく」

断ち切るようなスヴェンの口調と視線に、なおも『とんでもねえアマ』についての愚痴をこぼそうとしていた男は、そそくさと退散していった。

やれやれ、とドレクが肩をすくめた。

「なんとも情けない話だな」

「だが、その情けなさに感謝だ」スヴェンは苦笑した。

「村に戻ろう」

「あの宿場の親父を締め上げるのか?」

「素直に答えないのなら、そうするしかないだろう」

「ったく、ろくでもねえ仕事だな」

ぼそりと口にしたドレクの言葉。

スヴェンは黙ったまま答えなかった。



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