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─十一章  優しさへの追憶(6)─



「これまで何ひとつ不自由なく暮らしてきた『継承者』のお嬢様が、たった一人で外に放り出されて、どうして生きていくことができたのか……不思議に思っているでしょう?」

レアは焚き火の向こうにいるイノを見ながらいった。彼は答えなかった。

「もちろん、わたしには何をしていいのかすらわからなかった。逃げなきゃいけない。死にたくない。考えていたのはそれだけだったわ」

外の世界を、首都の居住区の中を、誰にも見つからないように隠れながらさ迷っていた。食べ物を得ることもできず。身体をきれいにすることもできず。用を足すことすら建物の影で為さなければならなかった。

日に日にうす汚れていく我が身をかえりみる余裕すらなかったあのときの自分。空腹をかかえ、人のいない地区へと流されるように移動しているうちにたどり着いたのは、第十二層の地区だった。

「『ごみだめ』……」イノがぽつりとつぶやいた。

「そう。市民が『ごみだめ』と呼んでいる、最下級の人間が暮らしている地区よ。餓死しそうになっていたわたしは、そこの人達に拾われたの。最上層から最下層へ……まさに絵に描いたような転落劇よね」

レアは薄い笑いをはりつけた顔をイノに向けた。彼は笑わなかった。

「でも、『ごみだめ』は言われているほど悪い場所じゃなかった。たしかに環境はひどかったけれど、そこにいる人達は、よその地区にいる人達となんら変わり がなかった。もちろん、悪党と呼ばれる人間もいたけれど、それはごく一部の話。『ごみだめ』には『ごみだめ』なりのルールがちゃんと存在していて、みんな それに従って生きていたの」

汚れた路地の隅で、ひざをかかえたまま動けなくなっていた自分を拾ってくれたのは、『ごみだめ』に暮らす孤児達の集団だった。年上の子はもちろん、自分より年下の子もいた。みんな、それぞれの理由で親を失い、住むところを追われた過去を持っていた。

「みんなは、よその地区から出た廃品を広い集めて、『ごみだめ』にいる大人達に渡すのを仕事にしていた。廃品はそこで修繕されるなりして、フィスルナの商 業区や、外からきた行商人に取引される……そういう仕組みになっていたの。当然、わたしも廃品を集める仕事を手伝わされたわ」

色々なことを覚えていくうちに、自分でも意外なほど『ごみだめ』での暮らしに順応していった。孤児のみんなといるのは楽しかった。『継承者』の学校でのように特別扱いもされず、なにか失敗をしたときは当たり前のように怒られるのがすごく新鮮だった。

やがて、自分がみんなよりもずっと読み書きや計算ができるということがわかり、それが頼られるようにもなった。誰かから頼られるなんて初めてだった。おと ぎ話もよく知っていたため、小さい子からせがまれることもあった。自分の能力が他人のためになるということが、素直に嬉しかった。

もちろん、我が身に襲った悲劇を忘れたわけではない。忌々しい記憶は、つねに自分を打ちのめそうと隙をうかがっていた。だが、あくせく働き、みんなと過ごす日々の中に、入りこむ隙間をなかなか見つけられないようだった。それがなによりもありがたかった。

『ごみだめ』にいた数ヶ月。『継承者』として暮らしていたころよりは、はるかに惨めな生活だったけれども、それでも何かが輝いていた。すべてを失ったと絶望していたけれども、それでも何か大切なものを得ていた。

「でも、破局はすぐにやってきたわ」

悲劇はなんの警告もなく突然やってくる……。嫌というほど知っていたはずなのに。

その夜、『ごみだめ』は軍の急襲を受けた。

最下層区に降りかかったかつてない災い。それは、亡き父に代わって議会を掌握しようと画策するガルナークが掲げた『反組織撲滅』の一環だった。彼は、『ご みだめ』が、兄サリエウスを亡き者にした人間達を生みだす土壌となっていると提唱したのだ。もっとも、レアがその事実を知ったのはずっと後になってから だ。

反組織に兄を殺された無念の弟≠演じていたあの頃の叔父……その兄を、父を殺したのは自分自身だというのに。人々の同情と共感を集めるための政治の道 具に、『ごみだめ』の住人は利用されたのだ。もちろん、その中に殺したはずの姪がいることなど、彼は知るよしもなかったろう。

「みんな捕まったわ。そして……わたしはまた一人になった。仲のよかった女の子に隠れるように言われた場所から、一歩も動かずにいたの。父や母のときと同じで、また何もしなかった。怖くて……また何もできなかった」

このまま死んでしまおう──夜の騒動が嘘のように静まり返ってしまった『ごみだめ』の廃墟でうずくまったまま、あのときの自分はそう考えていた。壊れた屋根からもれる朝日の輝きは、もう永遠に身体も心も照らすことはなさそうに見えた。

そのとき、外から足音が聞こえた。近づいてくる二つの話し声。みんなを連れ去った兵士だと思った。

迫る二つの足音、そのうちの一つが、廃墟の前でぴたりと止まった。まるで、その中で身をすくませている自分に気づいたかのように。そして、目の前にある閉めた扉がガタガタとゆれだした。

頂点に達した恐怖が、このまま死ぬはずだった身体を動かした。逃げるために。生きるために。でもその逃走は、赤ん坊のように四つ足で這って、ヒイヒイいいながら、通りぬけられそうもない穴に潜りこもうとしていただけの陳腐なものだった。

そして扉が開いた。しかし、入ってきたのは軍の兵士ではなく、顔に大きな傷をもった一人の男だった。

「それが……サレナクとの出会いだったわ」

「どうして彼がそこに?」

「そのときサレナクは、セラーダ軍の動向を探るためにフィスルナに潜伏していたの。そして、軍が『ごみだめ』の徹底駆除をしようとしていることを知った。 もちろん阻止することなんてできなかったけど、捕縛の手を逃れた人間を少しでも逃がそうとしていたらしいわ。そして、彼に保護されたわたしは、ネフィアの 本拠地に連れて行かれることになった」

隊商に偽装したサレナク達の荷車に乗せられ出発したあのとき、レアは一度だけフィスルナを振り返った。自分のすべてがあった場所。自分のすべてが失われた場所。最後に見た故郷の姿は、朝日に美しく輝いていた。

「こうして、わたしはネフィアに来たの。そして……あの人に出会った──」


*  *  *


「お前が会ったところで、どうかなるとは思えんがな」

「それはわからないだろう?」

扉の外で声がする。一人はサレナク。もう一人は初めて聞く声だ。

女の人? でも、なんだか男の人みたいな話し方だ。

「もう四日も飲まず食わずらしいじゃないか。わたしだって気になるよ」

「ああ。正直お手上げだ。会ってから今まで一言も口を聞いてくれないしな。生まれつきしゃべれない、というわけではなさそうだが……」

ネフィアという反組織の本拠地へと連れてこられたわたしは、ありとあらゆるものを拒み、あたえられた部屋に一人で閉じこもっていた。新しい環境がもたらそうとする希望の光は、ことごとく絶望という闇に飲みこまれ消えていった。

その頃からだ。死者達が訪れてくる夢を見はじめたのは。

無惨な姿となった父と母が、わたしを見つめている夢。なにもしてやれず、のうのうと生きているわたしを無言で責める夢。

昼も夜も地獄でしかなかった。食事も取れず、眠ることもできず、わたしは日を追うごとに衰弱していった。死が肩に手を乗せているのが、肌で感じ取れるぐらいに。

「それだけ、その子はつらい目にあったということなんだろ。まあ、わたしに何ができるかはわからないが……会ってみるぐらいかまわないじゃないか? 女同士なんだし、お前のように『ごつく』はないからな。わたしは」

「おい。頼むから、そんなしゃべり方で話しかけてやるなよ? あの子がよけいに怖がるだけだからな」

女の人が噴き出すのが聞こえた。

「しかし、あのサレナクがこんなにうろたえるのを見るなんてな。それも、小さな女の子相手に」

「くそ……言ってろよ」

扉を開き、サレナクと、その女の人が入ってきた。

見たことのない銀色の髪をした、すごくきれいな人だった。心も身体も衰弱していたわたしでも、ちょっと見とれてしまうぐらいの。

わたしのうずくまっているベッドの側までくると、女の人は腰をおろした。

「こんにちわ。わたしはアシェル」

小さく首を傾げて、わたしの顔をのぞきこみながら彼女はいった。扉の外で聞こえた声とは全然ちがう、優しくて柔らかい声だった。そばにいたサレナクが驚愕の表情で彼女を見た。

「あなたのお名前は?」

鳶色の瞳が微笑んでいた。なんだか母さまに話しかけられてるみたいだった。母さまより若いし、きれいな人だけど。

「まあ。ひどい頭ね。あとでちゃんと手入れしなきゃ」

優しく髪を撫でられる。父さまがしてくれたみたいに。

一切の光を拒んでいた心の闇が、少しずつ晴れていく気がした。初めて会ったばかりの、この不思議な人が持つ輝きによって。

ずっと閉じていた口が、ひとりでに開いた。ひさしぶりに声を出したため、最初はかすれた音しかでなかった。

「ん?」

「……レア」

「あなたの名前?」

わたしはうなずいた。本当の名前じゃないけど、父さまが呼んでくれてた大切な名前だ。 

「そう」と、彼女はわたしの手にそっと手を乗せた。

「よろしくね。レア」

彼女は笑った。ほんのちょっとだけ心に差した光。その輝きを、ひょっとしたらまた大きくできるかもしれない。そんなふうに思わせる、すてきな笑顔だった。

脇で見ているサレナクの口を開けたままの顔が、すこしおかしかった。



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