─十三章 動きはじめた『獣』(4)─
「とりあえず、水を飲んだ方がいいわ」
レアの言葉に、イノはうなずいて上体を起こそうとした。とたん、頭に鈍痛が走り顔をしかめる。意識を失う前よりはだいぶマシになっているが、それでも思う
ように身体が動かなかった。
レアが膝をついて背中を支えてくれた。彼女が差し出してきた器に入った水を一口ずつ飲む。乾いた砂のような喉に、冷たい水が浸透していく感触が心地よかっ
た。
一息ついたイノの傍に座りこんで、レアが説明を始めた。
「わたし達は今、助けた隊商の人達と行動を共にしているの。いえ、助けてくれた¢熄、の人達ね。誰かさん≠ェ倒れちゃったのを介抱してもらったから」
トゲのある口調だ。やはり怒っている。
イノが意識を失ってしまった後、残った『虫』は、レアと混乱から立ち直った隊商の人々の手ですべて撃退できたらしい。最初に犠牲となった警護の者以外、小
さな怪我人だけで被害はすんだようだ。
再度の『虫』の襲撃を考慮して、隊商は慌ただしくその場を後にした。もちろん動けない誰かさん≠ニ、付き添いのレアもその中に含まれていた。
休息と死者の弔いのため、現在、隊商はこの場で夜営をしているらしい。それまでずっと移動を続けていたのだという。隊商には医者がいて、その人がイノの容
態を診てくれたそうだ。
やはり、原因は左腕の傷がひどくなったことによるものだった。ここまでイノが施してきた処置だけでは足りなかったらしい。そこからの発熱。さらに、ここ数
日の無茶が拍車をかけて、倒れるまでに至ったとのことだ。
「もうちょっとで腕か……命をも失ってたかもしれない、って言われたわ」
レアの重々しい口調に息を呑んだ。清潔な布にくるまれ、膏薬の臭いをさせている自分の左腕を見る。まさか、そこまで危険な状態だとは思わなかった。
「ちゃんと手当してもらったからもうひどくなることはないけど、しばらくは安静にしていなきゃだめだそうよ。だから、しばらくここの人達のお世話になるこ
とにしたわ。ヤヘナさんもそう勧めてくれたし」
「ヤヘナ?」
「この隊商を取り仕切っている人よ。すごく元気なお婆さんだけど。さっき出て行った男の人はお孫さんのホル」
レアと話していた男の姿を、イノは思い出した。
「そのヤヘナって人には、オレ達の事情は話したのか?」
「まだよ。あなたが動けるようになってから改めて話し合いたいって言われているから。まあ……こっちがワケありなのは、とっくに見抜かれているでしょうけ
どね」
こちらの事情に他人を巻きこみたくはない、という気持ちに変わりはない。だが、今の自分の状態ではそれも叶わないだろう。レアの言葉通り、しばらくはこの
隊商の厄介になるより他はなさそうだった。
「ごめん」
イノは苦々しくいった。
「またオレが足を引っぱっちゃったな」
追っ手への煮え切らない態度。失ってしまった荷物。そして今回の出来事。この旅において、自分はレアに迷惑をかけてばかりいる。彼女が怒るのも無理もな
かった。
しかし、「それはかまわないわ」とレアはいった。
「わたし達の状況はひどいものだったし、こうしてちゃんと休める場所を得られたのは、むしろ幸運と考えるべきね。ここの人達は、わたし達のことを恩人だと
いって事情もたずねずに親切にしてくれてるし、この隊商は北へ向かっているみたいだから、進路も大きく外れたわけじゃない」
「それに──」レアは自らの着ている蒼色の服を指した。
「着ていた服だってきちんと洗ってもらえてるから。その、だいぶ……ひどかったもの」
これまでは、小さな川や泉などで身体や服を洗っていたものの、追っ手と出会ってからの数日は、当然、身ぎれいにしている余裕なんてなかった。何だかんだで
レアは女の子なのだ。こちら以上に、そのことを気にしていたにちがいない。
いま気づけば、イノの服も彼女の着ているのと似た服に変わっていた。寝ている間に取り替えられたのだろう。視線をめぐらせると、狭い天幕内の隅に、自分の
剣と防具が置かれていた。
それならば──と、イノはレアを見る。どうして、彼女はここまで怒っているのだろう。
相手もこちらを見据えた。青い瞳。咎めるような視線。
やがて彼女はいった。
「どうして身体のことをわたしに言ってくれなかったの? まさか、倒れるまで自分でもわからなかったってことはないはずよ」
それは、追っ手を振り切ることに専念していたせいもある。だが、何よりもレアに面倒をかけさせたくなかった。これ以上、厄介事の種になるわけにはいかな
かった──イノはそう説明した。
「そんな気づかいが、より大きな面倒を招いたんじゃない! もし、ここの人達がいなかったら、あなた今頃どうなってたと思うのよ?」
鋭い口調に、返す言葉がなかった。
「たしかに、わたしにはちゃんとした医術なんてできないわ。それでも、怪我や病気に効く草だとか、苔だとかの知識はある。煎じ方だって知ってる。それら
は、わたし達が旅してきた環境でも十分調達できたものよ。あなたがちゃんと言ってさえくれれば、症状を和らげることぐらいはできたわ。それなのに──」
レアはひどく怒っていて……それでいて泣いてるように見えた。
「あなたはこの旅の『要』よ。万が一のことがあったら、困るどころじゃないのよ。だから……もう少しそのことを自覚してちょうだい」
そして、彼女は口を閉ざした。
イノはレアの姿を見つめた。服こそ新しくなっているが、顔色は最後に見たときと同じに憔悴の色が濃い。きっとろくに休むことなく、こちらの看病をしてくれ
たのだろう。それがわかった。彼女に迷惑をかけまいという気持ちが、結局、それ以上の迷惑を彼女にかけてしまったことを、痛烈に思い知った。
「……ごめん」
イノは心の底から反省した。これまで信頼こそしていたが、まだ相手に対して遠慮していた部分があったと思う。『かつての仲間』の思い出を引きずっていたせ
いもあるかもしれない。そして、自分が足を引っぱっているという自覚が、それらに拍車をかけていたのだろう。その結果が今の事態なのだ。
「オレが間違ってた。本当にごめん」
しばらく沈黙が流れた。
「もういいわ。言いたいことは言ったから」
ふっと肩の力を抜き、レアが表情を和らげた。
「今後は、お互い隠し事なしよ」
真摯な言葉と献身と。今の自分にとって、レアはたった一人の仲間なのだ。運命を預けるに値するかけがえのない相棒。その彼女に応えることこそ何よりも尊ぶ
べきことなのだと、イノは改めて意識した。
「わかった」強くうなずいた。
「あなたはまだ眠らないとダメね。わたしも少し休むわ。何かあったら起こしてくれてかまわないから」
優しい口調でそう言うと、レアは天幕の隅にある夜具を持ち出し、イノのとなりに敷き始めた。
しばらく彼女の姿を眺めていたイノは、ふとあることに気づいた。
自分が寝ている間に取り替えられたという服。そのズボンのポケットに、いつもの感触がない。
ぎょっとした。「まずい! シリアが──」
ああ、と振り返ったレアが、ポケットから金色の輝きを取り出してイノに渡した。
「あなたから服を脱がせたときに、ちゃんと抜き取っておいたわよ」
再び手に返った小さな感触に、イノはほっと胸をなで下ろした。ここ数日はポケットの中に入れっぱなしで、ほとんど出してやることがなかったが、特に異常は
見当たらない。なりは小さくとも、そこはやはり頑強な『虫』である。
複雑な模様の刻まれた金色の身体を見つめていると、相手も小さな瞳で見返してきた。アシェルが『シリアの半身』と名づけていたそれを、イノは今ではただ
『シリア』と呼ぶことにしていた。声もなく、もちろん姿も見えないが、この小さな『虫』は、あの少女の心とか意思とかいったものを、その身に宿しているの
だと理解していたからだ。
「なんだか、それを眺めているときのあなたって、一番くつろいでるように見えるわね」
「そうかな?」
「なんだか、友達か兄弟にでも会ってるような顔してるもの」
彼女の口ぶりが、心なしか少しつまらなそうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
手の内の輝き。その輝きと自分との結びつきがもたらす不思議な落ち着き。こればかりは、どれほど言葉を尽くそうときちんと説明しきれない。
いったいどういう関係なのだろう? 自分とこのシリアという少女とは。これまで『樹の子供』同士という意味で以外で考えたことはなかった。たしかに他人で
はあるけれど、この〈繋がり〉は少しもそれを感じさせない。肉親、友人、もしくは恋人……そのどれでもあるような気もするし、違うような気もする。はっき
りしているのは、自分は『彼女』を手放すことができないだろうという思いだけだ。
そう。ネフィアが崩壊したあの悪夢のような夜。仲間にさえ背を向けて逃げた自分が、『彼女』をしっかりと胸の内にかかえていたように。
今は沈黙しているこの小さな『シリア』が、この先一体どのような役割を果たすのかは、まだイノにはわからない。だが、自分達の目的を果たす上で必ずや必要
になるだろうという確信だけはあった。なんにせよ、服を脱がせてくれたさい、ちゃんと取り出しておいてくれたレアの機転には感謝せねばならない。
そう思って彼女に礼を言おうとしたイノは。
まてよ……と、はっとなった。
「どうしたの?」
「いや、その、さっき『服を脱がせたとき』にって言ってたけどさ……」
おずおずとたずねる。
少し間があいた。そして。
レアの顔が一気に加熱した。
「しょうがないじゃない!」
また怒り出した。
「付き添いはわたしだったんだし、『それ』を他の人に見られるわけにもいかないでしょ? 『虫』に襲われた直後なんだし、そんなもの持ってるって知れた
ら、下手すりゃ追い出されてたのかもしれないのよ?」
「いや……」
「なんなの? 感謝されるならまだしも、そんなことぐらいでピーピー文句言って。わたしだって脱がせたくて脱がせたんじゃないし──いちいち女々しすぎる
わよ!」
とんでもない勢いでまくしたてられる言葉の数々に、今度も返す言葉がなかった。
(言わなきゃよかった……)
疑問をつい口にしてしまったことを、イノはものすごく後悔した。
「やってらんないわ! もう知らないから。今度から、その『大切なシリア』に、世話から何から何まで全部まとめて見てもらいなさいよね!」
彼女から指を突きつけられたシリアは、さっきまでイノを見ていたはずのつぶらな瞳を、両人とは関係のない方向に向けておとなしくしている。
「だから、あの、文句とかじゃないって。本当だって」
耳まで赤くなってそっぽを向いてしまったレアに、イノは恐る恐る声をかけた。とはいえ、やっぱり寝ている間に彼女に素っ裸にされたと考えると気恥ずかし
い。とりあえず、意識のないときでよかったと思うべきだ。そして、これが『逆』の立場でなかったことにも……。
「とにかく、わたしは寝るから。起こさないでちょうだい」
そうぴしゃりと言い放つと、レアは赤い顔のままランプの灯りを消し、背を向けて横になってしまった。どうやら、『何かあったら起こして』という約束は反故
にされたらしい。
光の消えた狭い天幕の中に沈黙が流れた。幕がバサバサとはためく音と、外からの虫の鳴き声だけが聞こえてくる。
「レア」
彼女の寝姿をしばらく眺めていたイノは、静かに口を開いた。
「ありがとう。色々と」
まだ怒っているだろうけど、これだけはちゃんと言っておきたかった。
相手の反応はなかった。そうとう疲れていただろうし、ひょっとしたらもう眠ったのかもしれない。そう思ってイノは横になろうとした。
「あのとき」
ぽつり、と声がした。
「『レアは何もできなくなんてない。だから一緒に来て欲しい』って、あなたはわたしにそう言ってくれた。すごく……嬉しかった」
こちらに背を向けたまま、彼女は静かに続けた。
「その言葉で、わたしはまたがんばろうって気になった。自分に出来る限りのことを一生懸命やろうって思った。今も、この先も、その思いだけは絶対に変わら
ない」
だから──と顔がこっちを向いた。
薄闇に見える明るい栗色の髪。青い瞳。
「もっと頼りにして。わたしを」
レアは微笑んでいた。
イノも笑みを浮かべた。そしてうなずいた。
『おやすみ』と。
互いの声が交わった。