─十五章 自由都市シケットの騒乱(2)─
青い空に高くそびえる藍色の細長い塔。そのてっぺんの部分は、皿を二つ重ねたような形をしている。遠目からではあったが、それがイノの最初に目にした自由都市シケットの建物だった。
「ずいぶんと高い塔なんだな」そう感想をもらすと、
「あれは、シケットが今みたいに大きくなる前からあったんだとさ」
隣でガル・ガラの手綱を手にしているホルが答えた。
「もともとシケットは、ウチらみたいな隊商が交流する町だったからさ。そのための目印ってことで建てたらしいんだ。こうして遠くからも見えるよう高くね。ま、今じゃ観光名所の役目も兼ねちゃってるけど」
ガラガラと揺れる御者台の上で、彼のとなりに座っているイノとレアは、ふんふんと耳を傾けた。もはや追っ手の気配もなくなったため、これまでのように移動中隠れることなく、最近の二人はこうして外に出ている。
「なんなら昇ってみたらどうだい? 塔の中はグルグル回ってる階段があってね。それを昇っていくんだよ。ちょっとしんどいけど、上からの眺めはすごいよ。晴れの日には、あの『楽園』が向こう側にあるっていうアラケル山脈まで見えるよ」
ホルの言葉に二人は顔を見合わせた。まだまだ距離はあるものの、『楽園』に近づいている──という実感がわいたからだ。
「せっかくだから昇ってみたいけど……」
レアが残念そうにいった。
「その時間はないと思うわ。わたし達、シケットに着いたらすぐに発つ予定だし」
「そっかあ。もうすぐ、イノとレアともお別れだもんな。寂しくなるよ」
「オレ達もさ」
ようやく『恩人さん』ではなく名前で呼んでくれるようになったホルも含め、この隊商の人々と別れるのは、レアはもちろん、イノにとってもつらい気持ちがし
た。十日にも満たない短い付き合いではあったが、まるで家族の中にいるような気分にさせてくれる人達ばかりだった。自分達の状況が状況でなかったら、この
まま彼らの故郷だという東地方の農村まで一緒に旅を続けてもよかっただろう。
だが、自分達は行かなければならない。いや、『だからこそ』行かなければならないのだ。これまでイノが大切に想っている者達に加えて、この隊商の人々が、かつてない規模で現れる『虫』達に殺されてしまうことを防ぐためにも。
『楽園』へ──
御者台には、しばらくしんみりとした空気が流れた。
やがてホルが口を開いた。
「でも、出発するなら、せめて宴が終わってからにしてくれないかい?」
「宴?」二人は同時にたずねた。
「うん。無事シケットに到着したことを祝ってね。あそこに着いた日には毎回やるんだよ。隊商宿でさ。それぐらいはいいだろ? お酒も飲み放題だよ。どうせ着いたら夕方になってるんだし、明日の朝を待ってから発った方がいいよ。ばあちゃんもそう言ってるし」
イノ達は考えこんだ。たしかに、慌ただしく出発してシケットの北に広がるという荒野で野宿するよりも、安全な場所で朝を迎えた方がいいのかもしれない。それに、何よりもホル達との別れがまだまだ名残惜しい。
ちなみに、イノとしては『お酒飲み放題』の部分はだけはどうでもよかった。
二人は再び顔を見合わせ、うなずいた。
「わかった。じゃあ出発するのは明日の朝にするよ」
「よかったよかった! ばあちゃんも喜ぶよ。特にレアのことは気に入ってるみたいだからね」
「そうかしら?」と、レアは首を傾げた。
「わたしだってヤヘナさんのことは好きだけど……でも、何かと変なちょっかい言ってくるのよ? 気に入られてるんじゃなくて、絶対に面白がられてるだけだ
と思うわ」
これまで老婆に散々からかわれてきた事を思い出したのか、彼女は少し頬をふくらませた。
「それが気に入られてるってことだよ。レアも人間観察がまだまだだね」
イノはレアを見る。彼女は渋い顔をしたまま首をひねっていた。どうやら納得がいかない様子だ。
「ま、俺はばあちゃんの孫だってのもあるけどね。だから、よくわかるんだ」
ヤヘナと同じ褐色の肌をしわくちゃにして、ホルは朗らかに笑った。
* * *
夕暮れに高くそびえる細長い塔。それはズラセニとって、もう何度も見慣れたシケットの塔だ。
しかし、こうして外から眺めるのはこれが最後になる。明日からは、あの塔の上から周囲を眺められるようになるのだから。
遠く離れた丘の上。ここからは、分厚い鉄の門と大砲を備えた外壁に囲まれた都市の景観がよく見える。中央にある塔から亀裂のように四方八方に走っている壁
が、大小様々な建物がひしめきあう街並みを迷路のように区切っていた。壁の上は幅広の通りになっており、行き交う人々の姿が豆粒のように見える。
ズラセニは、二年ほど前からあの都市に部下を潜りこませていた。何かと物騒な地方で唯一の都市だけあって、シケットの内外に対する防備はハンパではない。
外からの力押しするだけではまず打ち破れないだろう。それができるとしたら、圧倒的な物量を有する大国セラーダか、常識を無視したあのバケモノ達ぐらいな
ものだ。だが、両者とも今のところは、この地方に関心がないようだった。
シケットを「喰らう」には内側から破るしかない──ズラセニはそう判断した。
そのためには身内を潜りこませて、主要施設やら警備やらの実情を詳しくさぐる必要があった。本当は自分自身がその役をやりたかったのだが、なにせこの色白
の巨体は目立つ。それに悪い意味で有名になっていることもあって、顔がわれる可能性もあった。だから、部下の中で『それっぽくない』外見の連中をみつく
ろって、シケットの新たな住人となるべく向かわせたのである。
自由都市という名前とは裏腹に、シケットは外から入居しようとする人間に対しては厳しかった。とくに警備隊の古株達や、傭兵斡旋所にいる腕きき連中の眼力
は鋭い。まんまと住人となって潜入した部下達には、細心の注意を払って行動してもらう必要があった。周りの人間を信頼させて、少しずつ調査を進めていっ
た。
そして、それは実った。努力と忍耐の結果だ。二年……本当に長かった。
頃合いをみはからい、ズラセニは自分達が攻めるという噂をシケットに流していた。そのために、連中の目は内なる危険には気づかず、これまであった襲撃と同様に外に向けられている様子だ。
失敗は許されない。いや、ここまでがんばったのだから失敗するわけがない。
今、こうしている間にも、一つの隊商が鉄門をくぐって防壁の中に入っていくのが見えた。夜なれば門は閉ざされる。そして、無事に一日を終えたことにホッとしながら、小さな都市は眠りにつく。だが今日はそれで終わらないのだ。
シケットの水源である西に広がる湖。赤くぎらつく湖面は、これからあの都市が流すことになる大量の血を予感させた。
待ち遠しい。だが動くにはまだ早い。
ズラセニは忍耐というものを知っていた。そして、その時はそこまで迫っている。