─十五章 自由都市シケットの騒乱(3)─
「どうぞ」
かわいらしい声と共に、イノの目の前に魚と野菜が盛りつけられた皿が差し出された。
「あれ? ココナじゃないか」
見上げると、ヤヘナの隊商で知り合った少女の褐色の顔があった。てっきり、この隊商宿の給仕かと思っていたイノはちょっと驚いた。
「なんでお皿なんか運んだりしてるのさ。みんなと一緒に食べないの?」
周りではホル達が陽気にはしゃいでいる。これから酒がすすめば、さらに大騒ぎになるだろう。
「はい。これから食べようと思ってます」
「そうしなよ。ココナもここに来るのは初めてなんだろ? バフ・バフの肉ってのが、けっこう美味しいよ」
運ばれた料理にさっそく手をつけながら、イノはいった。相手は自分よりも二つ年下だ。さほど差があるわけではないが、ネリイと同じく『妹』みたいな感覚で
気軽に話すことができた。
「あの……」遠慮がちに少女はいった。「イノさん達は、明日出発されるんですよね?」
喉に詰まらせないよう、イノはゆっくりと料理を飲みこんだ。話すのは気軽なココナではあるが、彼女から『さん』づけで呼ばれるのだけは慣れることができな
い。
「そう。みんなとはここでお別れだけど、ココナも元気でね」
「はい! イノさんもお元気で。あの、出発のとき見送らせてもらってもいいですか?」
「大げさだなあ。でも、そうしてもらえるなら、すごくうれしいよ」
そう笑いかけると、ココナもにっこりと返した。その顔がほんのりと赤くなっている。まわりに漂う酒気のせいだろう。はた迷惑な飲み物だ。
少しの間、少女は何か言いたそうにしていたが、やがて肩まで切りそろえた黒髪の頭をペコリと下げると、喧噪の中へと足早に去っていった。
イノがぼんやりとその後ろ姿を見つめていると
「どうせなら彼女と一緒に食事してあげたら? イノさん=v
横で低い声がした。
「ああ。そっか」と、うなずく。
「それもそうだな。席だって空いてるし……」
ブスッ!──と細かく切ったバフ・バフの肉めがけて、だしぬけにレアがフォークを突き立てた。
ぎょっとして、イノは彼女を見た。
「どうしたのさ?」
「どうもしないわよ。ただ肉を取っただけじゃない」
「それなら、そんな勢いでフォークを刺したりしないだろ?」
「わたしがどんな勢いでフォークを刺そうが、わたしの勝手でしょ?」
ブスッ!
「ほら、またやった。だから、どうしたのさ?」
「だから、どうもしないって言ってるじゃない」
「『どうもしない』って顔してないじゃないか」
「『どうもしない』顔してない顔ってどういう顔なのよ?」
「そりゃあ……」
(なんの会話だよ。これ?)
イノはレアの横顔を見た。普段はぱっちりとした目をやけに細めて、むっつりと料理をほおばっている彼女の顔。この顔が「どうもしない顔してない顔以外のどんな顔」だというのだろう。
相手に聞こえないよう、イノは小さな小さなため息をついた。
真面目なレアは『浮ついた』ことが大嫌いなのだ。口説いてきた(触ってきた)男を肘でぶん殴ったり、自分達が恋仲だとヤヘナにからかわれるたび果敢に反撃する彼女の勇姿をさんざん見てきたイノは、もはや十分すぎるほどそれを理解していた。
そして、そんなレアの真面目さはとどまることを知らず、とうとう最近ではイノがココナや他の女の子と話すだけで、やたらと不機嫌になるようになってしまっ
た。きっと彼女の目には、親しげに女の子と話しているこちらの姿が、『浮ついた』不真面目な人間に映ってしまっているからなのだろう。
(だけど、いくらなんでも厳しすぎやしないか?)
彼女がふてくされるのを見るたび、イノはそう思ってしまう。自分としては、そんな『浮ついた』気持ちで、ココナや他の女の子達と話をしているわけではな
い。親しく話しかけられたから親しく返す、という当たり前のことをしているだけだ。レアと同様、こちらだって果たさなければならない目的を胸に、ちゃんと
この旅にのぞんでいるというのに……。
そう考えれば考えるほど、なんだか悔しくなってきたイノだ。
「レアだって──」
ついに反撃に出た。
「さっき街の男と話してたじゃないか」
「話してたんじゃないわ。話しかけられてたのよ」
「同じようなもんだろ」
ブスッ!
「全然ちがうわよ。わたしは、イノさん≠ンたいにヘラヘラしてなかったもの」
「オレがいつヘラヘラしてたって言うんだよ?」
「女の子と口きくたびに、ヘラヘラしてるじゃない」
「オレはヘラヘラなんかしてない」
「ヘラヘラしてたからそう言ってるんですけどね? イノさん=v
「してなかったね。ヘラヘラなんて」
「だったら、もう一度あの子と話してみなさいよ。鏡を持ってきて見せてあげるわ」
「ああ、わかった。じゃあココナを呼んでくるからな」
ブスッ! ブスッ!
「だからさ──」
もうやめよう……イノは口を閉ざした。なんだかバカバカしくなってきた。
そして、お互い黙ったまま料理を食べることに専念した。周りではどんちゃん騒ぎがますます加速している。酒の大波にどっぷりさらわれている男達は、そのう
ち離れ小島のこっちにまで流れ着くかもしれない。そうなると困る。酔った人間の相手は苦手なイノだ。
それに、今は『となり』が危険な状態でもある。下手に彼女を刺激するようなことにはなってほしくなかった。せっかくの別れの宴を、乱闘騒ぎで終わらせるわ
けにはいかない。
気でもまぎらわそうと、イノは目の前の騒ぎと『となり』から視線を外し、頭上高くにある食堂の窓を見た。もっとも、そこからは建物の壁と夕焼けの光ぐらい
しか目にすることはできなかったが。
ホルの言葉通り、隊商がシケットへ到着したときは夕暮れだった。上が通路になってる高い防壁で縦横無尽に区切られた自由都市の町並みは、フィスルナとはず
いぶんちがう景観をしていて、イノの目には新鮮だった。
遠くから見えていた都市の中央にそびえる塔は、間近で見ると、藍色の石を加工して整然と積み重ね建てられているのだとわかった。頭を真上に向けるほどの大
きさ高さは圧巻の一言だった。
塔と並んで都市の名物である大市場はもうすぐ閉まる時間だったらしく、一行は真っ直ぐ隊商宿へと向かった。登録だのなんだのと色々手続きがあるようで、ヤ
ヘナ達は目的の交易を明日の朝から行うとのことだ。
さすがに色んな地方からの隊商が集まる宿だけあって、大きな建物の中は大勢の人間で賑わっていた。そして、イノがこれまで目にしてきた中で一番の広さを誇
る大食堂の一角を借りて、一行の宴がはじまったのである。
イノとレアは、別れを惜しむ人々から肩や背中をたたかれたり、抱かれたりのすったもんだから解放された後、ようやく一番離れたテーブルに腰を落ち着けて食事をはじめたのだった。ちなみに、ヤヘナはこの都市にいる知人をたずねているため、後から来るのだそうだ。
「セラーダ軍は、今頃どの辺まで進んでいると思う?」
料理を一通り食べ終わったところで、イノはレアに身を寄せてたずねた。
『聖戦』はもうはじまっているだろう。軍はすでにフィスルナを発ってるはずだ。だが、今の自分達に彼らの動向を詳しく知る術はない。その噂が、首都からは
るか遠く離れたこの地に伝聞として届くには、まだまだ時間がかかる。宿泊している他の隊商達が交わす言葉に、注意ぶかく耳を傾けたりもしていたが、それら
しい話はなかった。
「そうね……」
レアは考えこんだ。どうやら機嫌は直ったらしい
「何事もなければ、必要な行程の半分以上は進んでいるかもしれないわ」
「そんなに?」
レアはうなずく。
「ガルナークが取ろうとしている進路には、地理的な障害はほとんどないもの。危険と呼べるのは、『虫』の発生領域を通過するときぐらいね。わたし達とは比較にならない数を相手にするでしょうけど、でも、それも障害とは呼べないのかもしれない」
「大軍だからってこと?」
「それもあるけど……」
彼女は少し間を置いてから、つぶやくようにいった。
「彼らには『ギ・ガノア』がある」
「ギ・ガノア?」
イノは眉をひそめた。聞いたことのない言葉だ。
「わたし達『継承者』の──つまり『楽園』で使われていた言葉で、『裁きの獣』という意味よ。父とガルナークとの口論の中でよく耳にしたの。切り札とか……そんなふうに言っていたわ」
神妙な口調でレアは続ける。周囲が騒がしいため、二人が密かに交わす会話が誰かに聞こえる心配はない。
「おそらく、何らかの兵器の名前なんだと思う。それも『楽園』の技術を使った……わたし達には想像もつかない威力を持った兵器よ。でなきゃ、切り札なんて
言い方はしないわ。それが『聖戦』に投入されているのは確実でしょうね。だから、『虫』や『死の領域』は彼らにとってたいした脅威じゃないのかもしれな
い」
「そんな兵器があるのを知ってたから──」イノは真顔でいった。
「シリオスはセラーダ軍に居続けたのか。その方が確実に『楽園』へたどり着けると思って」
「たぶんね。でも、セラーダ軍の誰も彼の正体に気づいてはいない。ガルナークでさえもそう。結局、ただの道具として利用されているだけよ。『ギ・ガノア』でも『虫』でもない。一番怖ろしいのは……あの男なのかもしれないわ」
理想としては、セラーダ軍……いや、シリオスが『楽園』へたどり着く前に、こちらが先に乗りこむことだ。だが、向こうの歩みはイノが思ってた以上に速い。下手をすると『楽園』でかち合うことにもなりかねなかった。
そして、一番最悪なのは、向こうが先に『楽園』に着いてしまうことだ。それだけは絶対に防がねばならない。
「オレ達は、あとどのぐらいで『楽園』に着ける?」
「進路は少し変わったけど、もう三分の一ほどよ。十日もかからないかもしれない。でも、『楽園』の前には『死の領域』があるわ」
「アシェルが言ってた『導き手』っていうのも、いまだにわからないな」
『死の領域』から『楽園』まで導いてくれるという存在──『導き手』。はたして何者なんだろう。どうやれば会えるというのだろう。
シリアならその正体を知っているにちがいなかった。しかし、ポケットの中の彼女はずっと沈黙している。いつか、彼女と再び会話できるようになるのだろうか。隊商と行動を共にしている間、イノは何度かあの少女に〈力〉で呼びかけてみたが、結果はダメだった。
「わたし……怖くなってきたわ」
不安もあらわなレアの顔つき。それはイノも変わらない。
先行きも不透明なまま旅を続けている自分達。それは晴れることのない霧の中を進むのに似ていた。それでも、遠くおぼろげに浮かび上がる目的地が、しだいに近づいてくるのはわかる。さらには、行く手に待ち受ける大きな危険でさえも。
「なんとかしてみせるさ」
イノは静かにいった。
「こっちにだって切り札はあるんだ」
自らの〈力〉の扉が。そして、その奥に眠る強大な〈武器〉が。
しかし、それを聞いたレアは顔を伏せた。
「……ごめん」
「どうしたのさ? いきなり謝ったりして」
「イノは……」
上げた表情はつらそうだった。
「本当はあれを使いたくないんでしょ?」
今度はイノが視線をそらせる番だった。
そう。たしかに使いたくない。内なる扉の奥から来る怒りと憎しみに満ちた巨大な力。それが自身の中にある同じものと混じり形として現れる──イノは、あの〈武器〉のことをそう理解していた。
虐殺の中に唱和していた自身の囁きと、幾万もの子供達の声。そのおぞましさ。後味の悪さ。思い出すたびに寒気がしてしまう。
そして、自分が目にしてしまったシリオスの手のことがある。『虫』と同じ外皮をした異形の手。あの男もこちらと同じ〈武器〉を使うことができる。ならば、
その二つは何か関連があるのではないかと考えてしまうのが自然だ。もちろん、そのことにはっきりとした証拠はない。レアにも打ち明けてはいなかった。
だが、もしそうなら──
「でも、他に方法はないんだ。覚悟はできてるよ」
忍びよる不安を払いのけるよう、イノは明るくいった。事実、大軍も兵器も持たない自分達が『死の領域』に挑むには、あの〈武器〉をアテにするより他ないのだ。どこまで通用するかわからないが、もはや剣だけで戦い抜くのは問題外だった。
「それがわかってるからこそ……イノには謝りたいの」
レアは苦しそうな顔をしたまま続けた。
「もう、これから先、わたしの力なんて何の役にも立たないわ。悔しいけれど、それがわたしの限界だもの。イノがどれほど自分の〈力〉を嫌っていても、それに頼るしかないのは知ってる。あなたを守るって誓ったけど、これからは逆に守られることになると思う。だから……」
イノは黙ってレアを見つめる。彼女の表情と言葉。それは、自分へ対する優しさの裏返しなのだとすぐにわかった。こちらを理解し労ってくれているからこそ、彼女は自らの限界に顔を曇らせているのだ。
わきあがる嬉しさが、胸の内の不安や恐怖を静めてくれた気がした。それらがいずれまた訪れるのことになると知っていても、それでも心地よかった。
「いいんじゃないか。それで?」
自然と落ち着いた声が出た。
「いいって?」
「前にレアが言ってたじゃないか、『自分にできることを一生懸命やろうと思った』って。オレだって同じだよ。ただ、その『できること』ってのがお互い違うだけでさ」
不思議そうにしている彼女の青い瞳をのぞきこんで、イノは続けた。
「レアは自分にできることでオレを助けてくれた。だったら、オレが自分にできることでレアを助けたって、少しもおかしくないじゃないか。謝ることなんてないよ。だから──」
彼女の肩に片手をのせ微笑んだ。
「そのときは頼ってよ。オレを」
少しの間が空いた。
やがて、レアは喜ばしげな笑みを返してきた。「うん」と小さくうなずいた顔が、ほんのりと赤くなっている。おそらく、さらに白熱しているホル達がまき散らす酒気のせいだろう。人が真剣な話をしているというのに、どこまでも迷惑な飲み物だ。
レアの肩から手を離し、イノは水の入ったグラスを取る。陶器の冷たい感触。でも、自分の手は、袖のない上着から出た彼女の素肌に置かれていたときのことを、まだ覚えていたがってるように思えた。
白い肌の滑らかだったのと。柔らかかったのと。暖かかったのと。
もう少し乗せておいてもよかったかな?──ついそんなふうに考え、イノは慌ててそれを頭のすみに追いやった。これこそ、彼女の大嫌いな『浮ついた』ことだというのに。もっとも、こんなことを思ってしまったのは、辺りにぷんぷん臭ってる酒のせいなのだろう。
目の前で繰り広げられるホル達のどんちゃん騒ぎ。そこから少し離れたテーブルで、家族と楽しそうに食事しているココナ。なんだか急にしおらしくなって、皿
に残ったバフ・バフの肉を突っついてるレア。そして、もやっとした気分を冷まそうと、イノがまっとうな飲み物を一気にあおったとき。
すさまじい爆音と振動とが、大食堂の壁を振るわせた。