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─十六章  自由都市シケットの殺戮(2)─



遠く何かが聞こえた。

まだ薄いままの意識が拾ってくる音の数々。

胸のむかつく音。男の悲鳴。女。子供。また男の悲鳴。ドタドタという足音。さらに悲鳴。

(……うるさい)

耳障りな騒音から逃れるように、さっきまでいた闇の中に再び意識をうずめようと身をよじった。そして──

みぞおちに走る鈍い痛み。同時に、脳裏によみがえってくる記憶。

引きちぎられた上着。ひんやりとした外気にさらされた己の裸の胸。欲望むきだしにそれを眺めているのは、異様に白い顔に浮かんだ薄笑い。

レアは、はっと目を見開いた。

横になった視界が、避難所の奥で身を寄せ合っている人の群れを捉える。そして、その前に横たわっているいくつもの死体……。

ちがう。もやは死体ではなく残骸だ。裂かれ、砕かれ、ちぎられ、血と臓物と汚物をまき散らした人のなれの果てだ。

慌てて手をついて立ち上がろうとして、その手が後ろで縛られていることにレアは気づいた。膝を立て上半身を起こす。再びみぞおちに鈍い痛みが走った。

破壊された避難所の入り口から忍びこんでくる冷たい夜風が、むきだしになった肌をなでていく。ぞくり、と身が震えた。そばに落ちている上着の切れっ端を見て、自分が靴とズボン以外は何も身につけていない事実を、あらためて思い出した。

レアは辺りを見渡した。いくつもの群れになっている人々。彼らを一様に怯えさせ悲鳴を上げさせているのは、そこかしこに転がっている血みどろの残骸だった。もはや、床は血の海といってもよいぐらいだ。

避難所の広い空間を埋めつくすかのような血臭。かろうじてまともな部分を残している死骸を見れば、それらがシケットを襲ってきた薄汚い男達であるとわかる。

あれから何が起こったのだろう。

あのズラセニという男への奇襲が失敗に終わって、仕返しに服を裂かれ、腹を殴られたのまでは覚えている。しかし、そこでレアの記憶は途切れてしまってい た。

まさか、自分はすでにあの男に『汚されて』しまったのではないか? 

そう考えたとたん、恐怖と絶望が頭のてっぺんまで襲いかかってくる。でも、身体にそれらしい異常はなく、あるのは殴られた腹の痛みだけだ。それにズボンだって履いたままだった。そして、あの男と小太り男の姿はこの場に見当たらない。

あれから何が起こったのだろう。

レアの目が最後に覚えているのは、見たことのない激怒の表情をして、こちらへ駆け寄ろうとしていた「彼」の姿だ。

(彼──イノは?)

相手を探すレアの瞳が、避難所の一隅にいるヤヘナ達の姿を捉えた。みんな他の人々と同じく、凍りついたように呆然と立ち尽くしている。だが、その中に彼の姿はなかった。

(まさか……)

ある一つの不安が、レアの胸の奥で少しずつ形を成そうとしていた。よろよろと立ち上がり歩き出す。裸の胸を隠すものはないが、そんなことはどうでもよかった。

周囲に漂う吐き気をもよおす臭い。それを放つ、めちゃくちゃに壊された男達の残骸。

知っている。これと同じような光景を自分は知っている。

「お嬢ちゃん!」

こちらが近づくのに気づいたヤヘナが声を上げた。

「レア!」ホルと隊商の傭兵達が駆け寄ってくる。

「わたしが気を失った後、何が……何があったんですか?」

さるぐつわを外してもらい、後ろに回ったホルに縄を解かれながら、レアはヤヘナにたずねた。しかし、もう自分にはわかっている。この場にいる誰よりも。それでも聞かずにはいられなかった。

「……わからないよ」老婆は静かに答えた。

「お嬢ちゃんが気絶させられちゃった後、あのデカブツは外に出て行っちまったんだ。まだこの街の中で逃げ回っている者達を、捕まえるか殺すかするためにね。そして……ここに残されたロクデナシ共が好き勝手しはじめたんだよ」

「最低の連中だよ」

レアの縄をほどいたホルが怒りを滲ませた。

「あいつら……ココナみたいな子供にまで手を出そうとしやがったんだ」

自由になった両手で胸を覆って、レアはホルの視線の先を追った。すすり泣く両親に抱かれた少女が、離れた場所に転がる死骸を見ている。かつてイノに声をか けられ嬉しそうに赤らんでいた顔からは、一切の表情が消え、衣服のあちこちが血で染まっていた。しかし、それは彼女の流したものではない。

「もちろん俺達は抵抗したんだ。でも押さえつけられて……そしたら……」

「……何が起こったの?」できれば、もう聞きたくはなかった。

「わからないんだよ!」

ホルはうめくようにいった。   

「俺達の目の前で、イノを押さえてた奴の手足が、いきなりちぎれてすっ飛んでいったんだ。次にココナにのしかかってた奴が引きはがされて、頭から真っ二つ になった。そして、みんなを襲ってた連中がどんどんグシャグシャにされてって……。でも、わからないんだよ。何が……何がそれをやってるのかがさ!」

目に見えず、音も聞こえず、使い手の思うがままに形を変え、防ぐことも避けることもできない〈武器〉。

イノは──あの扉を開けてしまったのだ。

「彼はどこへ行ったの?」

「彼?」

「イノに決まってるでしょ! お願い、どこへ行ったのか教えて!」

両手でホルを揺さぶるようにして、レアは叫んだ。

「び、ビビって逃げちゃった連中の後を追っていったよ。止めたんだけど、なんかフラフラしてて全然聞こえてないみたいだった。ご、ごめん。俺達……怖くて、わけわかんなくて、それ以上動けなかったんだ」  

揺れているホルの瞳。そこに浮かんでいる疑惑。

あれはイノがやったのか?──そう言っていた。

彼から視線を外し、レアは避難所の入り口を見た。外に広がる黒々とした夜。風に流れ遠くから聞こえてくる絶叫。この殺戮は、まだはじまったばかりなのだ。

ふと、レアはすぐ近くに剣が落ちているのに気づいた。

イノの剣だった。そして、そのそばには、悪党達の死骸の中で輝く小さな光がある。

レアはつかつかと歩み寄り、血だまりの中から剣と輝きを拾い上げた。初めて握った彼の剣。それは亡き父の大事な形見なのだと聞いていた。置き去りにされて、ろくでもない人間の血で汚れてしまって、なんだか泣いてるみたいに見えた。

もう片方の手にある小さな輝きを、レアは見つめる。イノがシリアと呼んでいた金色の光を。

相手も自分を見つめていた。イノと同じ色をした瞳で。

彼女も泣いている──それがわかった。特別な繋がりなんて自分達にはないけれど、ちゃんと感じ取れた。

(わたしと一緒に行こう)

心の内でシリアに語りかけ、レアは唇を引き結んだ。剣の汚れを払い落とすように、ビュッと振るった。彼がそうしていたように、小さなシリアを肩に乗せる。

「イノのところに行ってくる」

ホル達を振り返って、はっきりと告げた。

「一人でって……あのズラセニってのにまた捕まったらどうするんだよ? それに、今はもっと怖ろしいことが起こっているんだ。それはたぶん……」

「うん」

続く彼の言葉を、レアは途中でさえぎった。

「だから行くの。わたしが」

こうなってしまった原因は自分にもある。彼があの〈武器〉を使うことをどれほど怖れ、忌み嫌っていたか知っていたのに。『オレを頼ってよ』と優しく笑ってくれたその裏に、消すことのできない不安を抱えていたことも知っていたのに。

自分だけは、誰よりもちゃんと知っていたのに。

決意に満ちたレアの顔を見て。何か聞きだそうとしていたホルの口が閉じた。

やがて、彼は白い歯を見せていった。

「やれやれだ。イノといい、レアといい『一人で行く、一人で行く』ってさ」

「イノが?」

「そうだよ。ばあちゃんと一緒にここに避難してきたとき、レアが戻ってきてないの見てさ。『一人で探しに行く』って言い張ってたんだ。まあ、その後すぐ連 中が攻めこんできちゃったんだけど」

夕暮れの見知らぬ街に一人でいたときの心細さ。あのとき、どれほど「彼」の声と姿を求めていたかをレアは思い出した。

(そっか。ちゃんと迎えに来てくれようとしてたんだ)

周りには無残な死体があるのに、胸のむかつく臭いが漂ってるのに、これからもっとひどいものを目にするかもしれないというのに、それでも心が暖まる気がし た。 

行かなきゃいけない。何がなんでも行かなきゃいけない。何ができるかわからないけど──それでも。

「おしゃべりはそこまでにしときなね」

それまで黙っていたヤヘナがホルにいった。

「ほら。お前は、はやく上着を脱ぎなよ」

「えっ? 上着って?」

「どこまでもバカだね。女の子にいつまでそんな格好させとく気なんだい?」

あっ! とホルが派手な声を上げると同時に、レアは自分が上半身裸だったのを思い出した。うっかり、このまま飛び出すところだった。

手渡され、身にまとったホルの橙色の上着は、だいぶ大きくて少し汗臭かった。

「行くならとっとと行っといで」

パッシン! と、枯れ枝のようなヤヘナの手に景気よく尻をたたかれた。

意外に痛い。

「今度は、いい加減二人そろって戻っておいで。恋人同士入れ違いばかりで中々出会えないって筋の色話は、あたしはあんまり好きじゃないからね。イライラす るんだよ」

渋い顔をして尻をさすっているレアに、ニヤリと老婆は唇を歪めた。

(こんな状況なのに……)

呆れた気分。しかし、不思議と今までのようにムキになれなかった。

そう。もう自分でもわかりかけているのかもしれない。

気づけば、レアも相手と同じような笑いを浮かべていた。

そして元気よくいった。

「行ってきます!」



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