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─十六章  自由都市シケットの殺戮(6)─



階段を上り終わるところで、破壊される金属の鳴らすけたたましい騒音が、レアの耳にとびこんできた。続いて流れてくるわめき声の数々。

防壁の上にたどり着く。月光を背にした塔への入り口が、黒い穴を開けているのが遠目にわかった。イノに追われている連中は、ついに逃げ場所を失ったのだ。

塔の門に近づくほどに、かつては巨大な鉄の扉だったものが、柔らかい布のように引き裂かれているのが確認できる。レアは、あらためてイノが振るう〈武器〉 のすさまじさに戦慄した。その下には、逃げ遅れた者達が無数の残骸となって転がっている。

そのとき、ぎざぎざになった鉄扉の闇の奥から、よろよろと誰かが出てくるのが視界に入った。

イノ──ではなかった。マッセとかいう、あの小太りの男だ。

すすり泣く男の小さな瞳が、接近するレアの姿に向けられる。救いを求めるように伸ばされた両手の肘から先が、かみ砕かれたようにズタズタに引き裂かれ潰れ ていた。

「あ……あんた……」

そばまで来たレアの腰に膝をついてしがみつくようにして、小太りの男は血と涙で濡れた目で見上げてきた。

「アイツを殺してくれよ……頼むから殺してくれよ……」

見下ろすレアの冷たい視線にも気づかず、男はひたすら懇願し続ける。すがりついている相手が、こんな事態になっていなかったら首領と一緒に弄んでいたはず の娘だということも忘れて。「アイツを殺してくれ」と頼みながら眺めている黒い剣が、他でもないイノのものであることも知らずに。

怯えた子供のような声。ホルから借りた衣服に染みこんでいく男の血。

(こんな連中のせいで……)

突如として突き上げた激情にまかせて、レアは剣を持ってない方の手を大きく後ろに引き、男の鼻面に思いっきり拳をたたきこんだ。

派手な悲鳴を上げて転がる男をふり返ろうともせずに、レアは再び駆け出した。相手を殴った手の皮が少しむけてヒリヒリと痛んだ。

イノは〈武器〉を使うことを嫌っていた。いくら他に並ぶ物のない強力無比なものであったとしても……いや、だからこそ、危険な目にあってもあえて使おうと はしなかった。

そしてイノは怖れていた。彼はそれを隠さずレアに告白していた。初めて〈武器〉を使ったあの夜、殺そうとしていたのは『虫』だけではなかったのだと。その 場にいたレアや、死に瀕していたサレナクまでも殺すつもりだったのだと。頭の中の「自分の囁き」と、〈武器〉をあたえてくれた巨大な存在が放つ「子供達の 声」がそれを望んでいたのだと。

そして、もしそれらを扉の奥へ押し返すことができていなかったら……。 

だから、イノは最初『楽園』へ一人で行くつもりだったのだ。いずれ『死の領域』で振るうことになる〈武器〉が、無関係な他者にまで危害をおよぼすことを何 よりも危険視していたから。

彼からその告白を聞いたとき、レアは純粋に怯えた。共に旅をしている相手の持つ理解を超えた力のすさまじさは、脳裏にはっきりと焼きついていた。それが自 分に向けられたら……そう考えると震えが走った。

でも、レアはイノのそばを離れなかった。苦々しく告白する彼の表情に見えた、自身へ対する嫌悪と怯えとがそうさせた。同じ〈力〉を人間にも『虫』にもため らいもなく振るっていた「あの男」とは決定的にちがう何かを、そこに感じてしまったから

破壊された塔の入り口に飛び込む。中の広間はしんと静まり返っていた。周囲に散らばっている死体の群れ。だが、イノの姿はどこにもなかった。

両脇にそれぞれ階段がある。上か下か……彼はどちらへ行ったのだろう。

そのとき、頭上遠くから男の声が響いてきた。レアはすぐさま上に続く階段へと向かった。塔内部にぐるぐると円を描く狭い階段を駆ける。

イノの自らの〈力〉に対する嫌悪。それは彼が弱いとか臆病だからとかじゃない。共に旅をする中で、レアはしだいにそれを深く理解していった。

つらい過去を語り、絶望に打ちのめされていた自分を元気づけようと必死で言葉をかけ、抱きしめてくれたあのときに。

かつての仲間に殺されそうになりながらも、「彼らとは戦えない」とはっきり口にしたあのときに。

ときに苛立ち、ときに嬉しくなりながら、こうして彼は自分の中で「イノ」になっていったのだとレアは思う。

敵でもなく、捕虜でもなく、アシェルの代行者でもない──ただの男の子として。

はるか頭上からのわめき声は、まだ続いてい る。やがてレアは、その声の主がズラセニとい う男であると気づいた。自分を捕らえ、痛めつけ、辱めた男の声。思い出すだけでも虫酸が走るその甲高い声は、今は泣きながら何かを訴えていた。

あの男が攻めてさえこなければ、そして自分が彼に捕まらなければ、この事態は起こらなかっただろう。ヤヘナやホル達との楽しい宴を終えて、ちゃんと別れの 挨拶をして、そして再び二人きりの旅がはじまっていたはずだった。

でも現実はちがった。楽しいひとときは無残にも砕け散り、イノはあれほど使うのを怖れていた〈武器〉を使って虐殺を行っている。しかも、クズのような連中 だとはいえ、同じ人間相手に。

虐殺はもう終わろうとしている。その後、正気を取り戻したとき、イノはどうなってしまうのだろう。いや、正気を取り戻せるのだろうか。あの夜とは比較にな らない規模の〈武器〉を解放してしまって、もう自分でも扉の奥に押し戻せなくなってしまうのではないか?

「なあ……頼むよ……許してくれよ!」

階段を上り続けるうちに、頭上から響いてくるズラセニの泣き声が、はっきりとした言葉になった。

「あの娘は返すから……これも返すよ、ほら!」

カラン、と金属の転がる音がした。

声に気を取られたせいで、階段の途中に転がる死体に気づくのが遅れ、レアは危うく転びそうになった。ぬらぬらとした血で滑りやすくなっている何段かを跳び 越え、再び駆け出す。

「なんでだよ……俺は『あんたら』と同じようにやっただけだぜ? 『あんたら』が俺の村にしたのと同じことを、他の連中にしただけじゃないか。なのに…… なんで『あんたら』は、また俺を『喰おう』とするんだよ……なあ?」

あんたら? レアは眉をひそめた。あの男は何を言っているのだろう。すすり泣きながら、幼子のように不思議そうに質問している声。すでに正気を失っている その響きに、哀れさよりもぞっとするものを感じた。

「お願いだ……もう『あんたら』の真似はしないって誓うから。だから……俺を『喰う』のだけはやめてくれよ……頼むよ!」

そして、殺戮の最後の絶叫が始まった。

まるで何百もの拷問を一度に受けているようなすさまじい叫び声に、レアは思わず身を震わせた。それは、これまで耳にした中で一番ひどい悲鳴だった。

恐怖と絶望と苦痛に苛まれる声が、塔の頂上から風に乗って夜の都市へと流れていく。きっと、この街にいるすべての人間がこの声を耳にしているだろう。そう レアは思った。

そして、殺戮の最後の絶叫は止んだ。

塔は夜本来の静けさを取り戻した。弧をえがいて伸びる階段の闇の先からは、物音一つ聞こえてこない。駈け上り続けるレア自身の足音が、冷たい石壁に反響し ているだけだ。

「イノ!」

叫んだ自分の声が、闇に吸いこまれて消えていく。

聞こえているはずなのに。この先にいるはずなのに。しかし、相手からの返事はなかった。

もう「彼」はいないんじゃないだろうか。塔の頂上で目にするのは、殺された男の死骸と、紅い瞳をして怖ろしい〈武器〉を使いたがっている「何か」ではない のだろうか。

恐怖がレアの胸を締めつける。自分が惨殺される可能性に対するものではなく、イノがもう二度と戻ってこないことに対する恐怖に。

これまで失った大切な人達の中に、イノが加わってしまったら……何よりも自分がそれを怖れていることにレアは気づいていた。

旅の目的が果たせなくなるとかの理由じゃなく、ただ単純に彼を失いたくなかった。『楽園』へたどり着くことは大事だけれど、この先も彼と一緒にいることの 方がもっと大事だった。

考えているのは本当にそれだけだった。そんな、あきれるぐらいのちっぽけな理由で、息をあえがせ必死こいて走っている自分がなんだか不思議だった。

前方の闇が少しずつ晴れていく。そして、レアは塔頂上にある展望台へと出た。

ようやく駆けるのを止め、どっと汗が噴き出した身体を、吹きつけてきた高所の強い風が一気に冷ます。すべすべした平べったい石が敷き詰められた円形の展望 台。レアが上ってきた階段はその床に口を開けていた。中央にある太い一本の支柱の上に、床と同じ面積の天井が乗っかっている。腰よりも少し高い手すり越し には、明かりのない黒々としたシケットの町並みと、その西にある湖、さらにその先にある山脈と夜空が広がっていた。

破裂しそうな鼓動と、大きく乱れた息を整えながら、レアはゆっくりと中央の支柱を回りこむように歩きはじめた。

青白く輝く月が正面に見えたと同時に、その下の手すりの前に転がっている赤い塊が目に映った。そして、そのそばに、こちらに背を向けるようにして「彼」が 立っていた。

血だまりに浮かぶ肉塊。それは、この街を襲ったならず者達の親玉のなれのはてだった。全身のいたるところをねじられて、月の優しい光の中で不可思議なポー ズを取っている様は、悲惨というよりは滑稽に見えた。

レアは「彼」に視線を移した。微動だにしない背中。髪も、服も、ズボンも、袖から出た腕も、ところどころが虐殺した者達の血で汚れていた。片手には一振り の剣を握っている。

「彼」は誰だろう。ここまで自分を駆けさせてきた彼か。それとも……。

意を決して、声をかけようとした瞬間、相手が振り返った。

紅く輝く瞳──ではなかった。

「レア?」

疲弊した声で不思議そうにつぶやいたのは、レアが求めていた相手だった。乾きはじめた血にいろどられた顔は、最後に見たときよりもげっそりとやつれてい た。瞳は見慣れた色をしていたけれど、その中にはどんよりとした重く暗いものがあった。

こみ上げてきたもののせいで、レアは言葉が出にくくなってしまった。

「これ……ちゃんと取り返したよ」

イノは片手に持った剣を上げた。それは、今は手すりの前で残骸になっている男に奪われた自分の剣だった。 

「うん」

ようやく口が開いた。

「わたしも、これを持ってきたから」

レアは手にした彼の剣と、肩にいる金色の光を見せた。

少しふらつきながら歩み寄ってきたイノが、レアの身につけているホルの上着に目を向けて言った。

「ごめん」

「ごめんって?」

「あのときオレが手を放してしまったから、さっさと探しに行かなかったから、レアはあいつに捕まって……ひどい目に遭わされてしまったんだ。 だから……ごめんよ。本当に」 

心からのすまなそうな声と顔と。殴られ傷ついた腕を優しくなでてくれる手と。それは、つらい思いをした大切な仲間への……そして、それ以上に「レアという 女の子」へ向けられた労りだとわかった。

彼が差し伸べている優しさ。それはあの「最悪の数日間」の痛みよりもずっと、レアに自分が「女」であることを意識させた。そして、それは少しも不愉快では なかった。むしろ嬉しかった。

とたんに、あの男にあたえられた痛みと、恐怖と、辱めとが一度によみがえってきて、レアは思わず声を上げて泣いてしまいそうになった。このまま彼の腕に飛 びこんで、自分がどれほど怖くて悔くて恥ずかしい思いをしたかを訴えながら、いつかの夜のように優しさの中に身をゆだねてしまいたくなった。

その衝動をぐっとこらえる。なぜなら知っているから。自分以上に傷つき、泣きたいのが誰であるかを。そして、ここで自分が泣き出してしまったら、その誰か は泣けなくなることを。

少し目をしばたき、レアは深呼吸して一気にしゃべった。

「あれは……わたしがしくじっただけよ。あんなのに捕まるなんて、恥もいいところだわ。だから、イノが謝ることはないの」

イノが自分の顔をのぞきこんでいる。本当に大丈夫? と言いたそうな顔で。

いけない。もし、それを口に出されたら、せっかく抑えているものに耐えられなくなる。

相手と同じような顔をして、レアは口を開いた。

「わたしの方こそ、ごめん」

「ごめんって?」

「イノにあれを使わせてしまった……。わたしがしくじらなければ、事情は変わっていたかもしれないのに。あなたがあれを使わずに……あの連中を倒せること だってできたかもしれない。だから謝るの」

「それはちがうよ」

イノはいった。

「あいつらの襲撃は上手くいってたよ。オレ達や残った人達の力じゃ、たぶん太刀打ちできなかったと思う。もし、オレがあれを使っていなかったら、今頃はこ の街は完全に占拠されて、レアも他のみんなも、もっとひどい目に遭わされてた」

だから、これでよかったんだよ──と彼は笑みを見せた。疲れて、悲しい笑みだった。

「この街にいた奴らは一人残らずオレが片づけた。オレが……オレが殺してやったんだ。だから、よかったんだよ。オレはオレにできる ことをしただけなんだから……何もおかしいことなんてないだろ?」

ひきつった笑顔。奥に物がつっかえたような声。自分が抑えつけていた衝動が、今、相手の方へ飛び移ったことをレアは感じた。

「それに、こうやって殺したい奴だけを殺すことができた。そして、また引っこめることもできた。あれをちゃんと使えたんだよ。もう次からも同じように使え る。やり方は覚えてる。どうせ『死の領域』で使うつもりだったんだから……これはこれでよかったんだ」

とめどないイノの訴えを、レアは黙ったまま聞いていた。しかし、それは相手にかけてあげる言葉がなかったわけではない。いつかの川辺のときとはちがい、今 の自分が彼に何をしてあげればいいのかは、ちゃんとわかっていた。

レアは静かにイノの肩に手を伸ばし、そっと自分の方へと抱き寄せた。男の子を抱きしめるなんて生まれて初めてだったけれども、それはごく当たり前のことの ようにできた。

まるで体温のすべてを抜き取られてしまったかのように、イノの身体は冷たかった。その冷えた身体を暖めるように、レアは彼の背中に腕をまわした。片手を 優しく頭の後ろに添えて、うつむいた彼の頬に自分の頬を寄せた。触れた肌に感じる乾いた血のごわごわした感触と臭いと。でも、そんなことは少しもかまわな かった。

ちくしょう、と耳もとで彼が言った。震えていた。

「許せなかったんだ……あいつがレアにしたこと……他の連中がヤヘナ達にしたこと……絶対に許せなかった。だから扉を開けた。あの輝きを呼んだ。自分で望 んでやったんだ。殺してやりたかった……どうしても殺してやりたかった」 

「うん」と、抱きしめた腕に力をこめる。

「だからやったんだ……オレがやった……引き裂いて……たたき潰して……」

ちくしょう、と耳もとで彼が言った。泣いていた。

「スカッとしてたんだ。あ、あいつらを殺しているとき。オレは、た、楽しんでた。子供達の声と一緒に、み、『みんな』で楽しんでた。あいつらをバタバタ殺 していくのが、面白くてしたがなかったんだ。お、お、オレは──」

むせび泣きわななくイノを、レアはずっと抱きしめ続けていた。強く。優しく。



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