─十七章 騒乱と殺戮のあと(3)─
遠く彼方に見える山あいに消えゆこうとしている大きな月。その冷たい光が照らしだす岩の群れの中を、風が寂しげに吹きすさぶ音が聞こえてくる。
ろくに舗装すらされていない小道を進みながら、レアはようやく後ろを振り返った。自分達をずっと監視していたような都市の姿は、大地に点在する岩石の影に隠れて見えなくなっていた。
そのとき、イノが大きく息をはき出したのが耳に聞こえた。
「ここで休む?」
手を握っている相手の疲弊した顔を見てたずねた。
「もう少し先へ行こう。そしたら──」
顔を前に向けたまま、イノの言葉と歩みが止まった。レアは怪訝そうに彼の視線を追った。道の先にある大きな岩の影に、大小二人の人物がいるのが見えた。
「ほれ、言ったとおりじゃないか」小さい方が言った。
「ほんとだ。さすがばあちゃんだ」大きい方が笑った。
「ヤヘナに……ホルじゃないか」イノが呆然とつぶやいた。
別れも告げずに後にしたと思っていた二人がこの場にいることの現実がまだ飲みこめず、立ちすくんでいるイノとレアを見て、ヤヘナが面白げに口を開いた。
「仲良く手なんか繋いで、駆け落ちの続きかい?」
いつものからかうような口調に、レアはついつい反射的にイノの手をパッと放してしまった。
「ヤヘナさん達こそ……こんなところで何をしてるんですか?」
気を取り直してたずねる。目の前の二人が、月明かりと岩とが見せる幻ではないかと、心のどこかではまだ疑っていた。
老婆がこちらへと歩いてきた。そして、レアの前まで来ると少し背を伸ばして、手のひらでピシャリとおでこをぶった。
──痛い。幻じゃない。
「あんたらを待っとったに決まってるじゃないか。どうせ、挨拶もなしに街を出て行こうとするだろうと思ってたからね」
「イノ達に貸した服はどうでもいいんだけどさ。黙って行っちゃうのは、あんまりすぎやしないかい?」ホルが言った。
返す言葉もなく、額をさすりながらうつむいたレアに代わって、イノが口をひらいた。
「一言もなく出て行こうとしたのは悪いと思ってるよ。でも、二人ともオレのやったことを見ただろ? 街の人達はオレを怖がってる。たぶん……あの悪党達よりもずっと。そんな人間と一緒のところを見られたら、そっちだって面倒なことになる。だから、会わないようにしたんだ」
イノの瞳は、ヤヘナとホルの顔にじっと注がれている。二人の表情に、他の人間達が向けてきたものと同じ感情がないかを探すように。そして、それを見つけることに怯えているように。
「ま、坊やの言うことは正しいよ。残念だけどね」
ヤヘナはいった。
「だから、あたしらもこんな街外れで待ってたんだけどさ」
「二人は……オレが怖くないのか?」
「そりゃあ、おっかないに決まってるさ」老婆はイノを見据えた。
「生まれてこのかた、あたしは、あんなものは見たことも聞いたこともないよ。もう二度と出くわしたいとは思わないね」
でも、と相手は続けた。
「それは坊やの持ってる妙ちきりんな技の話であって、坊やそのものじゃないよ」
「オレそのもの?」
「あたしらは坊やを知ってるってことだよ。街の連中とちがって、少しはね。病気で自分がぶったおれそうだってのに、人助けでバケモンと戦ったり、ココナを
妹のようにかわいがってたり、そこのお嬢ちゃんがひどい目に遭わされてるのを見て怒ったり……それはちっとも怖いことじゃないだろう?」
そうそう、とホルが笑う。
「俺もイノのやったことには正直ビビってるけどさ、でも、ばあちゃんの言うとおり、イノにビビってるわけじゃないんだ。だからこうして俺とばあちゃんと
で、二人が来るのを待ち構えてたんだよ。カミさんや他のみんなも来たがってたけど、あんまり大勢じゃ動けないからさ。ま、つまりそういうことだよ。『恩人
さん』」
二人の言葉。理解と労りの優しい言葉。
イノがこれまで頑なに上げ続けていた頭をついに伏せた。
「その呼び方は……」声が詰まっていた。
「やめてくれって言ったじゃないか」
そうだっけ、と笑うホルとヤヘナとが、レアの目にも滲んで見えた。
「ほれ。荷物もちゃんと持ってきておいたからさ」
ヤヘナは、岩陰に置いてある二つの荷袋を指した。
「約束だからね。『楽園』まではあれで十分もつと思うよ」
「知ってたんですか?」
レアは驚いてたずねた。
「わたし達が『楽園』を目指してるって」
「知るもなにも……」彼女はニヤリと笑った。「最初からわかってたよ。坊やと嬢ちゃんとあたしとで、初めて話をしたときにね」
「わたし達……『楽園』なんてひとことも言わなかったはずですけど?」
「あのとき『理由は言えないけど北を目指してる』って坊やは言ってたね。でも、その後あたしが出したシケットの名前にも、その先のカビンの名前にも、あんたらはたいして反応しなかったからね。そっからさらに北となれば、残るはもうあの伝説の都市しかないじゃあないか」
言われてみれば、たしかにその通りである。でも、まさかあの段階で見抜かれていたとは思わなかった。
「だったら、どうしてそれをオレ達に聞いてこなかったんだ?」
「たずねたら素直に答えてくれたかい?」
イノは沈黙した。
「あんたらに興味があるって言った本当の理由はそれだよ。『楽園』へ行こうとするなんざ、バケモンと戦争してるあの国の軍隊か、命知らずを通りこした変人ぐらいなものだからね。でも、あんたらはどっちにも見えなかった。坊やの黒い格好はともかくとしてね」
「今……それをたずねようとは思わないんですか?」
「実のところ、あんな騒動がなかったら、宴の後にでも聞いてみるつもりだったんだよ。わずかな付き合いだけど、ここまで来たら少しは口を開いてくれるだろ
うと思ってね。そして、理由はなんであれ、二人っきりで『楽園』に行くなんてムチャクチャもいいところだから、止められるものなら止めようと思ってさ。だ
けど、坊やが今晩やってのけたことを見て、その考えは変わったよ」
そしてヤヘナは、レアとイノを交互に見た。
「あんたらが『楽園』へ行くのは、あの怖ろしい力と関係のあることなんだね?」
二人はうなずいた。
「そして、それはセラーダが今やってる大戦と同じぐらい、世の中変えちまうような大きな戦いなんだね?」
二人は少しためらった後、うなずいた。
「それだけ聞けば十分だよ。どのみちあたしらにできるのは、こうして荷物をあげることぐらいが関の山だからね」
「ま、俺らはバカだからさ。世の中ってやつを心配できるほどの頭なんて持っちゃいないんだ。だから、イノとレアの心配だけで、いっぱいいっぱいってわけ」
白い歯を見せているホルに、「バカはお前だけだよ」と老婆は冷たく言った。「ひでえよ、ばあちゃん!」と声を上げる彼の姿がおかしくて、レアは思わず噴き出してしまった。となりのイノも同じように笑っている。
そして「二人とも笑うことないだろ」と言ったホル自身が笑い出し、ヤヘナもホッホッと笑い始めた。
殺風景な岩場に満ちる四人の笑い声。
冷たい月明かりと。寂しげに吹きすさぶ風と。
でも、そこは暖かかった。どこよりもどこよりも暖かかった。
「じゃ、イノはちょっと来てくれよ。いまさらだけど荷物の点検をしよう。なにせ急いでこしらえたもんだからさ」
ひとしきり笑った後、ホルが言った。そのとき、彼がヤヘナにちらっと目配せしたのをレアは見逃さなかった。
イノとホルが連れ立って荷物の置いてあるところへ歩いて行った後、しばらくしてヤヘナが口を開いた。
「実はさ、お嬢ちゃんに渡すものがあってね」
「わたしに?」
老婆がふところから取り出したものをレアに手渡す。それは、布でくるんだ小さな包みだった。どこかで見たことがある包みだ。
「開けてみてもいいですか?」
戸惑いながらもたずねると、相手はうなずいた。
布の中から出てきたのは髪飾りだった。滑らかに磨かれた目の覚めるような青い石と、その周りを覆っている蔓のような銀細工が月の光に輝いた。
「ま、たいして値打ちもんじゃないんだけどさ。知り合いに腕のいい細工師がいてね」
「じゃあ、シケットの知り合いを訪ねてたのって……」
あの騒動の最中、戻ってこないヤヘナを市場に探しにイノと向かったとき、彼女がこの小さな包みを持っていたのを、レアはようやく思い出した。
「あたしは、ずっと娘がほしくってね」
呆然としているレアに老婆は語り出す。
「ところがどっこい、子供も、孫も、ひ孫までもが見事に男だったわけだよ。でも、あたしはその夢が捨てきれずにね。そのうちそれが、村の娘っこがいい年頃になったとき贈り物を買ってやるって習慣になっちまってさ。今年は、ココナとお嬢ちゃんの二人分だね」
「どうして……わたしに?」
たまたま数日間旅を一緒にしただけの人間なのに──という続きが出てこなかった。さっきのイノみたく、すっかり声が詰まっていた。
「あんたが真っすぐな娘さんだからさ。あたしはそういう子が大好きだよ」
ちがう──そう言おうとした。憎しみのために剣を取り、人を殺め、イノのことだって最初は傷つけた。少しも真っすぐなんかじゃない、と。
言えなかった。頬をつたう熱いものを手でぬぐうのと、喉の奥から出てくる泣き声を押し止めるのに必死だったから。
「付けてみてもいいですか?」
ようやくして、震える声でたずねた。ヤヘナはうなずいた。
髪飾りを付けるのは初めてだった。ぎこちない手つきで耳の上あたりにそれを留めた。
「よく似合ってるね。さすがあたしだね。鏡を持ってくりゃよかったよ」
ホッホッと嬉しげに笑う老婆の顔。衝動を抑えきれず、レアは彼女の身体に抱きついた。
やせた相手の肩に顔をうずめ、声を上げて泣いた。そんな自分の背中を、子供をあやすように優しくたたいてくれる手。
「これこれ。抱きつく相手がちがうんじゃないかい?」
「そっちは……」
泣き顔のまま笑ってみせた。
「ちゃんと先にすませてますから」
彼を追いかけたあのときに。塔の上で出会えたあのときに。
「ほ。そりゃけっこう!」
ヤヘナは笑う。心から嬉しそうに。
また涙があふれてしまった。どういうわけだろう。この旅をはじめてからの自分は、強く逞しくなるどころか泣いてばかりいる気がする。
「ま、その飾りはしばらくしまっとくんだね。あんた達が旅を終えるまでさ。もし、戦いの最中になくしたりでもしたら、あたしがバチ喰らわすからね」
老婆から身体を離し、レアはうなずいた。でも、もう少しだけ付けておこうと思った。初めての髪飾りを。自分を「大好き」だと言ってくれた、大好きな人からの贈り物を。
「さ、もうこのぐらいでいいだろうね」
ホルとの荷物の点検が終わり、袋を肩にかついでこちらの様子を見守っているイノを見て、ヤヘナはいった。
「お行き、レア。あんた達の無事を何よりも願っているよ」
笑顔の相手に、レアは晴れやかな顔と声で返す。
「ありがとう。おばあちゃん」