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─十七章  騒乱と殺戮のあと(4)─



歩き出してしばらくしてから、イノは振り返った。遠くに見える岩陰の下にいるヤヘナとホルの人影。片手を上げると、大きな方が両手を大きく上げて応えてく れた。

自然と口元がほころぶ。月明かり。岩場。そしてあの二人。この光景を自分は一生忘れることはないだろう。彼女達のくれた荷物の重みと、そして、それ以上の 大きな暖かいものとを。

レアは振り返ることもなく前を歩いている。声こそ出していないが、鼻をならし、手でしょっちゅう顔をぬぐっている。きっとまだ泣いていたいのだろう。

ひょっとしたら、自分はこの時点で『楽園』へ行くのをやめていたかもしれない──イノはふと思った。

シケットでの騒動。その中で目にした人間の醜さ。もちろん、むごい虐殺をした自分自身が一番醜いのはわかっている。でも、その印象はぬぐいきれなかった。 『醜い世界を正す』というシリオスの言葉の意味が、今のイノには少しだけわかる気がする。

人の持つ暗い一面……それまでを守るために、命を賭けてまで戦えるのだろうか? その質問に、「はい」と素直に答えることのできない自分がいることを否定 はできない。シリオスが本当に滅ぼしたがっているものが、それら人の醜さだというのならば、彼の為すことを防ごうとしている自分の意志に迷いを感じてし まったことも確かだ。

でも、レアがいた。ヤヘナ達がいた。彼女達がくれた優しさと言葉が、目の当たりにした醜悪な影を打ち破り、自分の決意をより強固なものにしてくれたのを、 イノはしっかりと感じていた。

どんな忌々しいものであろうと、自分の〈力〉をこの先振るい続けることに、もはやためらいはなかった。それで大切な人達が救われるのならば、悪党達を皆殺 しにしたときのような重みを、どんどん背負わされてもかまわないのだと。

胸のつかえが取れたような気分。今、イノの心はかつてなく穏やかだった。

岩場が終わり、景色はしだいに荒涼としたものに変わってきた。月に照らされた見渡す限りの砂色の大地を歩いているのは自分達だけだった。

「その頭の飾りが──」

泣き止んだ様子のレアに、イノは声をかけた。彼女が振り返る。

「ヤヘナからの贈り物?」

「うん」

「へえ。その、すごくきれいだと思うよ」

「わたしもそう思う。おばあちゃんの知り合いの細工師が造ったんですって。『死の領域』に入る前に、しまわなきゃいけないのが残念だけど」

ちょっと緊張気味に口にしたレアへの感想。しかし、本人は髪飾りを誉められたのだと勘違いしてしまったらしい。

(まあ……べつにいいんだけど)

頭の横に付けた飾りに大事そうに手をやって、月の光を背にレアは顔をほころばせる。彼女のその仕草と、まだ涙で濡れている瞳と、少しだけ赤くなった目元と が、イノの鼓動を何段階か跳ね上げた。さっきまで穏やかだった心が、おかしなぐあいに乱れ始める。

こちらの様子に気づくことなく、レアは再び前を向いて歩き出した。彼女がもう何秒か振り返ったままだったら、どこまで自分の心臓は跳ね上がっていただろう ──ぼんやりした頭でイノは考えた。

再び歩みはじめた脚。

そのとき、黒い手袋をはめている左手に痙攣が走った。

ぎょっとして手を見る。震えはほんの一瞬で終わった。だが、手首から先が異様に冷たい感じがする。

なんだろう?──左手を開いたり握ったりしてみる。これまで感じたことのない違和感。思うとおりに動くけど、それでも決定的に何かがちがっている。まる で、さっきの痙攣と同時に、手先が別のものにすげ替えられてしまったかのような感覚だ。

右手で触れてみる。しっかりと握ってみる。手袋の中にあるのは、鎧のごとく異様に硬い感触だった。

じわりと不安が広がった。

イノはそっと左手の手袋を外してみた。

そして目にしたものに息をのんだ。慌てて手袋をはめ直す。

全身がじっとりと汗ばんでいる。左手を開く。握る。開く。握る。

キシリ、キシリ、という微かな音。その硬さ。その冷たさ。

手袋の中の手。さっき見たばかりの自分の手。

灰色の甲殻。関節の隙間の赤黒い肉組織。それは人の手でなかった。

やがてイノは思い出す。シリオスも、これと同じ手をしていたことを。

恐怖を抑え、前を歩くレアに気づかれぬようもう一度見てみる。

形自体はこれまでの手と同じものだった。目に見えて大きくなったわけでも、指が増えたり減ったりしているわけでもない。しかし、本来の柔らかい肌のすべて が、いびつに歪んだ甲殻に覆われていた。その灰色の表面にはいくつもの亀裂が走り、そこからのぞいている肉組織が、月の明かりにヌメヌメとした光沢を見せ て、まるでむき出しになった血管を思わせた。ペン先のように丸く尖ってしまった指先からは、爪が跡形もなく消え去っている。

子細まで観察してもなお、イノにはそれが自身のものだとは信じられなかった。だが、冷えた感触をともない意思のままに動かせる異形の物体は、まぎれもなく 自分の手だった。月光に照らされ青みがかった灰色を見せている甲殻は、手首の皮膚にまでがっつりと食いこんでいる。まるで、そこから先へとじわじわ這い進 もうとしているかのように。

胃液が口の中まで上ってきた。その苦みを飲んで押しもどし、イノは再び手袋をはめた。もう二度と見たいとは思わなかった。

そして、ふいに理解した。シリオスの手。自分の手。二人に共通するこの異質な手は、あのおぞましい〈武器〉を振るったことによる代償なのだと。腕こそなっ てはいなかったが、ひょっとしたらアシェルの身体にもその兆候があったかもしれない。

人ならぬ力を行使することの代償。一度目は払わずにすんだが、二度目からはきっちり払わされることになった。これから先、〈武器〉を使えば使うほど、その 代価は積み重なっていくのだろう。身体がどんどんと『虫』と同じ甲殻に蝕まれてていくことによって……。

戦慄が走る。だがそれでも、イノの心の奥底にある静けさは、少しも揺らぎはしなかった。

以前の自分だったら、この事実を知ったことで、ますますあの〈武器〉を使うことを怖れ怯えていただろう。しかし、今はちがった。

いいとも──

前を行くレアの後ろ姿を見つめ、強く左手を握りしめる。

キシリ、キシリ、手袋の中に響く音。

その顔に壮絶な笑みが浮かんだ。

それで目的を成し遂げられるのならば。それで彼女が守れるのならば。

いくらでも払ってやる。



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