─十八章 最果ての小さな村にて(2)─
ゆるやかな起伏をえがく砂色の荒涼とした大地と、雲一つない青い空に二分されかのような景色の中、遠く彼方に巨大な山々が連なっているのがはっきりとイノ
の目に見えてきた。その向こう側に『楽園』があるというアラケル山脈だ。まるで大量の小麦粉をまぶしたように、山の頂から中腹までを覆っている白い色は
「雪」というものだろう。話には聞いたことがあるが、目にしたのはこれが初めてだった。
土埃を伴い吹きつける風が外套をはためかせる。イノの知らない動物の深い茶色をした短い毛皮で作られているその外套は、ヤヘナ達がくれた荷物の中に含まれ
ていたものだ。今のところ天候は穏やかだが、自分達のいる場所はもはや大陸の北端にあたる地だけに、気温はずいぶんと寒い。彼女達と別れてからしばらくし
て、二人はありがたくその暖かみを身にまとうことにしていた。
やがて、しだいに高さを増していく太陽の輝きの下に、ぽつんと小さな家々が寄り集まっているのが視界に映った。あれがカビンという村なのだろう。
イノもレアも、別名『最果ての村』と呼ばれるカビンに立ち寄る気はなかった。休息は少し前にすませたばかりだし、肩に担いだ荷袋には十分すぎるほど
食糧等が詰まっていた。それに、『死の領域』へと向かおうとする自分達は、きっと村の人々の目にとんでもなく奇異な人間として映ることだろう。わざわざそ
れを見せつける意味などはない。だから、このまま村を避けて行くつもりだった。
その小さなまぶしさが、瞳に入ってくるまでは。
「何かしら? あれ」
となりを歩いているレアが目を細めた。
遠くに見える村の中で、何かがピカピカと一定の間隔で光を放っている。
彼女と同じように目を細め、イノは首をかしげた。
「近くまで行ってみようか」
その光が、なんとなく気になって言った。
多少岩が取りのけられているといった程度の道を、二人は村へ向かって歩き続けた。周囲には他に人の姿はない。カビンの村人がシケットに来ることはあって
も、その逆はないのだとヤヘナ達から聞かされていた。怪物達が日夜闊歩しているという『死の領域』に一番近い村だけあって、シケットの人間がずっと昔から
避難するように勧めてきたらしいが、彼らは自分達の住む場所を離れる気配すらみせず、諦めと呆れと共に、今ではすっかり放置されているとのことだ。
イノは歩きながら、外套の中にある左手をゆっくり開いたり握ったりしていた。異形に変わってしまった己の手は、初めて目にしたとき以来二度と見ていない。
手袋をはめているのと、動かしていないときは冷たさ以外の違和感を感じないため、あのとき月明かりの下で見たものが幻ではなかったのかと、つい錯覚してし
まいそうになる。
もちろん、このことはレアには話していない。『隠し事はなし』だという約束だが、こればかりは破るしかない。もし、この不気味な手を見せてしまえば、彼女
が強い衝撃を受けるのはまちがいなかった。さらに、それが〈武器〉を使うことの代償だと言えば、もっとひどい衝撃をあたえることになる。
お互い、これから先は〈武器〉をあてにして進むしかないとわかっている。それを行使することの引き換えがどのようなものであるかを知れば、レアは今よりも
さらに自分の無力さを責めるだろう。イノは彼女にそんな思いをさせたくなかった。
そして何よりも──
この手を見せることで、レアの態度に、こちらを気味悪がるような反応を少しでも目にしてしまう可能性が怖いせいもあるかもしれない。シケットの住民達が向
けてきたような表情と同じものを。見知らぬ人間達の多くの視線と、彼女一人の視線と……。そのどちらが自分を打ちのめしてしまうのに十分な力を持っている
かは、今さら比べるまでもなかった。
再び、村の方からのまぶしさが目に飛びこんできた。イノは考え事をやめ、その奇妙な光に気持ちを向けた。
しだいに近づくにつれ、村の奥の立てられている白い棒のような物体が確認できるようになってきた。その丸く膨らんだてっぺんの部分でクルクルと回転してい
る羽が、太陽の光を反射しているのだ。
不思議な形をした白色の棒。それは、木組みの小さな家々がぽつりぽつりと立ち並んでいるわびしげな農村の光景の中で、やけに場ちがいに浮いている印象を受
けた。
そのとき、村の入り口で遊んでいた七、八人の子供が、イノ達の姿に気づいた。その中の一人が「おーい!」と大声で呼びかけてくる。やがて、他の子供もそれ
にならって「おーい!」と手を振りはじめた。
どうやら、子供達は『おいでおいで』をしているらしい。めったにない旅人の姿に警戒するよりも、無邪気に喜んでいる様子だ。昨晩シケットを襲った騒動のこ
とは、この最果ての村にまでは届いていないのだろう。なんとものどかな雰囲気である。
一生懸命になって声を張り上げている小さな姿達。イノとしては、村に寄ることなく謎の棒を見るだけのつもりでいたが、こうなった以上、無視して素通りする
のもなんだか気が引けてしまった。そう思いレアを見ると、彼女は少し笑いながら肩をすくめて返してきた。
二人は、子供達がはしゃいでいる村の入り口へと向かっていった。
さっそく、わっと取り囲まれる。
「すげえ! 旅人なんて初めて見たよ!」
「うわぁ、まっ黒なよろい! カッコいいね。さわってもいい?」
「その袋の中にはなにが入っているの?」
「お兄ちゃん、カブトかぶらせてよ!」
「お姉ちゃんきれいな髪ね。ちょっとちょうだい!」
あちこちから飛んでくる元気な声の数々。これでもかというぐらいの熱烈な歓迎振りに、なんの構えもしていなかった二人は答える間もなく当惑してしまった。
イノは鎧をぺたぺたと触られ、要求されるままに渡した兜は子供達の頭の上をコロコロと行ったり来たりしている。「待って! ちょっと待って!」という悲鳴
に振り返れば、しゃがみこんだレアが、彼女の髪の毛を狙う少女達に襲われ、あちこち引っぱられる頭を必死で抱えていた。さすがの彼女も、この小さな盗賊に
は手が出せないようだ。
「オレ達、あそこで回ってるやつを見せてもらいたいんだけど」
小さな村の大きな歓待がようやく一段落したところで、主の下に返ってきた兜を頭に乗せながら、イノは村の奥に見える白い棒を指さした。乱れ放題な髪のま
ま、地面に
ぐったりとへたりこんでいるレアに手を差しのべて立たせる。
「うん。いいよ。おいでよ!」
バックという十歳ぐらいの男の子が、張り切った様子で村の中へと案内してくれた。彼は子供達の中で一番年長らしい。
「みんなのお父さんやお母さんは、どこへ行ってるの?」
髪を整えながら、村の中を見渡してレアがたずねた。立ち並ぶ民家に人の気配はない。聞こえる音といえば、子供達の声と、小さな囲いの中に飼われている巻き
毛で厚くおおわれた動物(シケットで食べた料理に出てきたバフ・バフという獣らしい)の、どこか哀愁の漂う鳴き声ぐらいである。
「大人や兄ちゃん達は、林の中にある畑に出かけてるよ。みんな夕方にならないと戻らないんだ」
村のはるか横手にのぞいている小さな林を指して、バックは答えた。年長の彼は、他の子供達や、自宅にいる祖父、そしてバフ・バフの面倒を見るために居残り
をしているのだそうだ。
相変わらずな無邪気さで色々と話しかけてくる幼い子らに導かれながら、イノとレアは村の北端へとやってきた。そこには問題の不思議な棒が、午後の光に輝く
ようにして立っている。
無造作に地面に突き立てられたように見える棒は、民家の屋根より少し低いぐらいの高さをしていた。その頂は植物の球根のようにぷっくりと膨らんでおり、真
ん中から水平に四枚の羽が生えていた。楕円形の平べったい羽は、ただひたすら音もなくクルクルと回り続けている。イノがこれまで目にしたことのない物体だ
が、あえて例えるなら、横向きに回転する風車のような外見だ。
「面白いでしょ?」バックが自慢げに言った。
「風がなくても回るんだよ。雨に濡れてもすこしも錆びたりしないし。夜になると羽のところが青白く光るんだ」
「たしかに面白いけど、この棒って何のためにあるんだ?」
回る羽を見上げながら、イノはたずねた。
「べつに何かに使ってるわけじゃないけど、みんなは『目印』って呼んでるよ」
「目印?」
「これ……」
そのとき、レアがイノの耳に顔を寄せた。
「『楽園』で使われてた金属よ」
「本当か?」驚いて問い返した。
不思議な棒を構成している白い金属を見つめて、レアはうなずいた。もっとも、それが金属なのかどうかすらもイノにはわからなかった。色はもちろん、素焼き
した陶器のような手触りも、自分の知るそれとは大きく異なっていたからだ。
「昔、父に見せてもらったことがあるから間違いない。先祖が『楽園』から逃げるときに持ち出してきた道具の一部だったと思うけど、これと同じ色をしてい
た。『現在のわたし達の技術では、精製は無理なんだ』って聞かされたわ」
「なら、その時代に立てたモノなのかな?」
「どうかしら。『楽園』では、自分達の技術が外にもれないよう徹底的に管理してたって言うわ。それをこの場所に……しかも、目印のためだけにわざわざ使っ
たとは思えない」
深く考えこんだ表情のまま、レアは顔をバックへ向けた。
「ねえ。これはいつからここにあるの?」
「じっちゃんが生まれる前からあったらしいよ。ええっと……百二十年前だって言ってたかな? とにかく、『北の旅人』さん達が持ってきて立てたんだって」
「『北の旅人』って?」
「あっちの方から来てた旅人のことだよ。おれは見たことないけど、じっちゃんは会ったんだってさ」
バックは北の荒野を指さした。そのはるか彼方には、アラケル山脈の下にうっすらとした森が広がっている。そこはもう『死の領域』のはずだ。
バックの言った百二十年前という数字が本当なら、この不思議な目印は、『楽園』が『虫』に奪われた後に、この村に持ち込まれたことになる。住む人間のいな
いと言われる『死の領域』からやって来た何者かによって。
イノは動悸が速くなるのを感じた。きっとレアも同じだろう。
「その人達のことを詳しく教えてくれないか?」
「それならじっちゃんに聞けばいいよ! おれの家にいるからさ」
元気にそう言うと、少年は二人に向かって手招きした。
* * *
バックの案内で、一軒の家に連れてこられたイノ達は、ギシギシ音を立てる両開きの扉のある玄関から中に通され、食卓らしきテーブルの前に座らさ
れた。
「じっちゃんを起こしてくるから、そこで待っててね」
「うん。ありがとう」
突然やってきた自分達のために、わざわざ暖炉に火を起こしてくれたバックにイノが笑みを向けると、相手からは気持ちのいい笑顔が返ってきた。少しずつ室内
に広がる暖かさと薪のはぜるパチパチという音。窓の外からは、子供達が遊んでいる声が聞こえてくる。
「あの子の言ってた『北の旅人』ってのが、アシェルが言ってたっていう『導き手』なのかもしれないな」
少年がドタドタと家の奥へ走っていった後、イノは口を開いた。さきほど高鳴った胸の鼓動はまだ静まってはいない。『死の領域』から『楽園』へと案内してく
れるという『導き手』──これまでいっさいが不明だったその存在の手がかりを、自分達は計らずとも得ようとしているのかもしれないのだ。
「そう考えるのが自然でしょうね」
こちらと同じく期待に目を輝かせながら、レアがうなずく。
「でも、『死の領域』で暮らしてるだなんて……あの目印を見てなければ、今だって信じられないわ」
やがて、バックが一人の老人をともなって奥の間から出てきた。
「ほ、これはまたずいぶんと若い旅人だ。こんな辺鄙なところまで、よう来なされたの」
おっとりとした口調。髪も髭もない真ん丸の顔に、いつも笑顔を浮かべているような細い目と口元をした、人のよさそうなおじいさんだった。彼はイノ達と向き
合っている椅子にゆっくりとした動作で座った。
「おれ、何か飲み物をとってくるよ」
バックが、またドタドタと奥に消えた。
「あの──」
話を切り出そうとレアが口を開いた瞬間、老人がこちらに向かって静かに頭を下げた。二人も慌てて腰を折った。
二人が顔を上げる。しかし、相手はまだお辞儀した姿勢のままだった。それを見たレアがまた腰を折ったのが、イノの目に映った。
家の奥からは、バックが忙しそうに準備しているガチャガチャという音が聞こえてくる。それでも、老人はまだ起きあがる気配を見せない。やたらと長い時間、
頭を下げっぱなしにする不思議な挨拶である。この村の風習だろうか。
食卓を挟んで浮かんでいる満月のような老人の頭を、ぽかんとした顔つきで眺めているイノに、身をかがめたままのレアが、とがめるような視線をよこしてき
た。「相手に合わすように」ということだろう。たしかに、ここで相手の機嫌を損ねるわけにはいかない。
イノが再び腰を折ろうとした瞬間、湯気の立つコップを乗せたお盆を手にバックが戻ってきた。老人の姿勢に気づき、パシッとその肩をたたく。
「じっちゃん、起きてよ!」
どうやら挨拶ではなかったらしい。
「この人達、『北の旅人』さんのことが聞きたいんだって!」
「ほ、それはまた珍奇な旅人だの」
目覚めた(常に目が細いためよくわからない)老人が、イノ達を見た。
「おじいさんは、その人達に会ったってバックから聞いたんだけど」
イノはたずねた。横目でちらとレアを見てみる。彼女はすでに頭を上げ、バックから手渡されたコップ(中身はバフ・バフのミルクなのだという)に口をつけて
いた。しかし、そのすました顔が耳まで赤くなっているのは、飲み物の暖かさのせいではないだろう。
「会ったとも、会ったとも。もう六十年ぐらい前の話だがの」
「何者なんだ? 『北の旅人』って」
「そりゃあ、わしらと変わらん普通の人間だったとも──」
そして老人は語りはじめた。
『北の旅人』と呼ばれる人間達が、初めてこのカビンを訪れたのは、バックの言ったとおり百二十年ほど前のことらしい。その頃はすでに、『楽園』で起こった
悲劇も、『虫』という存在のことも、大陸のすみずみにまで伝わっていた。そのため、怪物達に支配されてしまったという北の彼方の地からの一団がこの村に現
れたとき、村中は大騒ぎになったのだそうだ。
「最初はお互いに言葉が通じんかったらしくて、ひい爺さん達はずいぶん難儀したそうな。しかし、その後もたびたび村にやってくるたびに、彼らは少しずつこ
ちらの言葉を覚えた。そして互いに世代を経て……ワシが会った時分には、もうすっかり会話できるようにまでなっとったよ」
「彼らは、何のためにこの村を訪れ続けていたんです?」
顔色がもとに戻ったレアがたずねた。
「ここで取れる作物だとかのつまらん物を欲しがっておったようだの。あと、それの育て方とかも熱心にたずねておったらしい。そのお礼に、向こうは村の病人
やら怪我人やらの治療をしてくれよった。ワシはそれを見たことはないが、奇妙な道具と薬を使って、シケットの医者でもさじを投げるような病気でも平気で治
してくれたのだそうな」
「それは……『楽園』で使われていた医術ってことですか? 外にあった目印も同じ『楽園』のものみたいですし」
「はてのう。そこまではわからんが。しかし、その道具自体や、自分達の身につけてる物は、交換の材料にせんかったみたいだの。『北の旅人』が村に残して
いった唯一の物は、あの目印ぐらいなもんだわい」
「相手は、自分達のことについて何か説明していませんでしたか? どうして『死の領域』で暮らせているのか、何のためにそこに居続けているのか……。そう
いったことを」
「さっきも言ったが、お互い最初は言葉が通じんかったから、『北の旅人』についてはしばらく何もわからんかったらしい。だから、相手について知ったのは、
彼らがこっちの言葉を使うようになってからのことだがの」
そう前置きすると、老人は一息ついて飲み物を口に運んだ。
「向こうの言うには、自分達が『楽園』の近くで暮らせているのは、『護り』とやらのおかげだそうな」
「護り?」イノは眉をひそめた。
「はて。なんて名前だったかの……」
「『シリアの護り』だろ。じっちゃん!」
バックが得意げに持ち出した名前に、イノは息をのんだ。ポケットの中の感触に手をやる。その『シリア』が自分の知っている少女と同じ人物であることは、間
違いないとみていいだろう。
「そうだった、そうだった」と老人は笑った。
「とにかく、その『シリアの護り』のおかげだと言うておったらしいの。それでも、やはり『虫』達の土地に住み続けるのは、並大抵のことではなかったよう
だ。もちろん、ひい爺さん達は、そんな物騒な場所からこの村にでも移るよう忠告したらしいが、彼らは『自分達はそこを離れられない』と断ってしまったそう
な。ま、ここで暮らし続けてるワシらも人のことは言えんがの」
「それ以上のことは聞いていないんですか?」
「うまく伝えることができないと思ったのか、単に言いたくなかったのかは知らんが、『北の旅人』はあまり自分達のことを話さなかった。外の人間との交流
も、この村だけに限っておったようだの。村の方でも、この不思議な客人達のことは気に入っとったから無理にたずねることはせんかった。こうして長い間、わ
しらと彼らの付き合いは人知れず続いておったんだよ。たまにシケットの方から来た人間が、あの目印についてたずねてきても、適当にごまかすことにしての」
老人の言うとおり、最果ての村に関してイノ達が聞いた話には、この不思議な交流のことについて語られたものは一つもなかった。そのために最初は素通りにす
るところだったのだ。つまり、それほど秘密にされてきたのだろう。
「だったら……」
イノはいぶかしげな顔をした。
「どうしてオレ達には、こんな簡単に話をしてくれるんだ?」
「まあ、『北の旅人』がこの村に来なくなってしまったというのもあるが……」
と、どこか寂しげな口調で言った後、老人はイノを見つめた。
「それよりも、あんたの目だよ。若い人」
「オレの目?」
「そう。不思議な色をした緑の瞳。わしは、それと同じ色の目を見たことがあるんだよ。六十年前、最後にこの村にきた『北の旅人』達の中の一人に。だから、
話
してもかまわんだろうという気がしたわけだの」
自分と同じ色をした瞳──それが意味する可能性に、イノは再び息をのんだ。そんな見開かれた自分の目をさらに眺めながら、相手は語り出す。
「ひい爺さんの代では、『北の旅人』の全員が、あんたのような緑の目をしとったらしい。しかし、時が流れ、彼らの世代が重なるごとに、その目をした者を見
ることは少なくなっていったそうな。わしが出会ったときには、たった一人にまで減っておった。そちらの娘さんでほどではないが、きれいな娘でな。流れるよ
うな金色の髪。身体にぴったりとした不思議な青い服と白い鎧。そして、あの緑の瞳で彼女が笑いかけてきたとき……わしはコロっと参ってしもうたわい」
いまだ驚きの抜けきれない二人の前で、老人は懐かしげに笑った。
「最後に会ったときの、彼らの様子について聞かせてもらえませんか?」
興奮を抑えた様子でレアがたずねた。
「『これが村を訪れる最後になるかもしれない』と言うておった。年々『シリアの護り』が弱まり、『虫』達が活発になりはじめ、自分達が暮らしている里から
外に出ることが困難になってきているのだとな。そりゃあ悲しそうな顔で、あの娘は言っとったよ。そして……それは事実になってしもうた」
その後、『北の旅人』がこの村に現れることはなくなってしまったのだという。
「彼らの里がある場所というのは聞いておったが、わしらなんぞが『死の領域』を越えて訪ねていくわけにもいかんしの。今頃、あの娘はどうしておるかのう。
あれから六十年……あんたらぐらいの孫がおってもいいぐらいの歳にはなっとるだろうからなあ」
「その里の場所というのを、オレ達に教えてもらえないか?」
「それはかまわんがの。でも、まさか、お二人はそこまで行く気なのかね?」
イノ達は顔を見合わせ、やがてうなずいた。ここまできたら、いまさら隠し立てすることもない。その『北の旅人』というのが、自分達の探している『導き手』
という存在である可能性は非常に高いのだ。
しかし、目の前の老人の話が真実ならば、彼らが最後にこの村に姿を現してから六十年という月日が流れている。はたして、今も『死の領域』の中で暮らしてい
るのかどうかはわからない。それでもこの先進み続ける以上は、その場所を訪れてみる必要がある。
「ほ、これはますます珍奇な旅人だの。こりゃ驚きだ」
老人の愉快げな様子に、イノは不思議そうな顔をした。
「そのわりには、おじいさんは、あまり驚いてないみたいだけど?」
「いやいや。びっくりはしとるがの。ただ、あんたの目を見とるとね、それもおかしなことじゃないような気がするよ。ひょっとしたら、あんたが彼らの『待ち
人』なのかもしれん、とな」
「待ち人?」
そう、と老人はうなずいた。
「あの娘達と別れるときに、わしはこの村に移住するよう説得してみたんだよ。『シリアの護り』とやらが年々弱まっているのなら、そのうち『死の領域』には
住めんようになる。住んでいる土地を離れられん気持ちはようわかるが、だからといって命には代えられんだろ──とかなんとか言っての。まあ、わしは、ただ
単にあの娘とこれっきりになるのが嫌だったんだろうな。なんせ一目惚れしとったからの」
しかし、若かりし頃の老人が必死に説得したにもかかわらず、その娘は悲しげに笑って首を振ったのだという。
そして、彼女はこう告げた。
『わたし達は、ある者の訪れを待ち続けるために、あの場所に居なければなら
ない』──と。
「ある者?」
「そう。たしか……『終の者』とか言っておったかな」
『ツイノモノ──』
初めて耳にする言葉に、二人はいぶかしげな顔をした。
「それは『大きな夢を終わらせる者』なのだそうな。もちろん、わしには何がなにやらさっぱりわからんかったがの。とにかく、あの娘達にとって、その者が現
れることはよほど大事なことなんだろう。怪物が周りをうろついているような土地で、ずっと暮らし続けなければならないほどに」
「それが……オレかもしれないって、おじいさんは言うのか?」
「さてさて、それはわからんがの。ただ、あんたらが本気で『北の旅人』を訪ねるつもりなら、そうであった方がよかろうと願うよ。あんた達に
とっても、彼女達にとってもな」
人のよさそうな老人は、そう言って話を締めくくった。二人は今度こそ頭を下げ礼を述べると、バックの家を後にしようとした。
「あと──」
そのとき老人に呼び止められた。
「あの娘はこうも言っておったよ。『その者が近くまでくれば、出会わずともお互いがそうだとわかる』とね」
* * *
青い空の下を駆けぬける乾いた風。寂しげな村の端っこで、頭頂に生えた羽をクルクル回し続ける金属の棒。目印の役目を終えた今も、この先も、それはこうし
て永遠に周り続けているのだろうか。
「本当に行くの?」
バックの声に、イノは視線を下げた。子供達がそろって心配げな顔でこちらを見ている。
「うん」と優しく微笑んで。イノは北の彼方に目をやった。うっすらと広がる森──『死の領域』へと。その中で今もひっそりと暮らし続けているかもしれない
者達
への想いをはせながら。
「会えるといいね」
少年は笑顔を見せた。
「『北の旅人』さん達に」
「ありがとう。オレもそう思うよ」
イノはレアを見た。彼女がうなずく。二人は、荒涼とした北の大地への一歩を踏み出した。
しばらく歩き続けてもなお、遠く後ろから送られてくる元気な声援。振り返ったイノの目には、澄んだ青空と、砂色の大地と、村の柵に群がり手を振っている子
供達の姿と、そのとなりで太陽の光にきらめきながら回り続ける目印とが、小さく小さく映っていた。
* * *
シケットの北門から先に広がる岩地の中を、スヴェン達は休息することなく歩き続けていた。三人とも無言だった。聞こえるのは、乾いた土を踏みしめる足音
と、岩の間を通り抜ける風の音だけだ。
今、自分達が足を運んでいるみすぼらしい道。砂埃の舞い上がるその固い地面の上には、何の痕跡も残されてはいない。それでも、アイツとあの娘とが、そう以
前ではない時間に、この道を通っていったのだとスヴェンは感じることができた。
ヤヘナの話では、最果ての村カビンまでは、急げばすぐ着くとのことだった。あの二人がその村に立ち寄るのかどうかは不明だが、このまま休むことなく行け
ば、『死の領域』に入られる前に、彼らに追いつくことができるだろう。スヴェンはそう計算していた。そして、なんとしてもそうするつもりでいた。
こちらは『ただの人間』が三人。いくらなんでも、『死の領域』の中まで相手を追跡するのは不可能だ。そうなれば、間抜け面をさげて引き返すより他はない。
そんな惨めな結末だけはごめんだった。
だが追いついてどうするというのか。アイツの持つというバケモノじみた力にあくまでも戦いを挑むのか。それとも……。
『話をするぐらいなら、坊やは何もしないだろう』
あの老婆の言葉。
だが何を話すというのか、スヴェンにはいまだにわからなかった。こうなる以前は、アイツと口を聞くのに考える必要などなかったというのに。
何一つ答えの出ないまま、足だけが先へ先へと進んでいく。
やがて岩地を越えたスヴェンの目に、彼方に見える村からの、小さな眩きが飛びこんできた。