─十九章 ささやかなる決着(1)─
最果ての村を出発して歩き続けるうちに、周囲のさびれた光景が少しずつ変わりはじめた。ゆるやかな起伏をした砂色の地面はそのままだが、そこに、剃り残し
た髭のようにまばらに生えている草と、ねじれた枝と太い幹を持つ裸の木とが、わずかながらの彩りをそえるようになった。
「今日はここで休もう」
小さな丘を登り、その頂上に生えた木の下まで来たところで、イノは言った。レアがうなずく。辺りは夕暮れの色に染まろうとしている。ときおり草の間から現
れる小さな昆虫をのぞいて、動いているものは自分達だけだった。
行く手の斜面を下った場所に、小さな川が横切っているのが見える。その遠く先には、黒々とした森林が広がっていた。
『死の領域』──ついにそれを目の当たりにするところまで、自分達はやってきたのだ。そして、その禁忌の地という門をくぐりさえすれば、『楽園』に到達す
ることができる。幼い頃から昔語りに聞かされてきた伝説の地へ。この旅路の最後の目的地へ。
深い感慨と、先を急ぎたい気持ちとが、イノの胸の内を満たす。しかし、このまま休みなく進んだとしたら、『死の領域』にたどり着くのは夜になってしまうだ
ろ
う。さすがに、『虫』達が闊歩しているだろう夜の森へ、休息なしで踏みこむわけにはいかない。
二人は木の根もとに荷物を降ろして座りこみ、しばらくのあいだ黙って行く手の光景に目をそそいでいた。
現在、セラーダ軍はどの辺りまで進んでいるのだろう──イノは遠くを見つめながら思った。こちらの方が『楽園』に近いのは間違いないだろうが、レアの読み
通
りの速度で進軍しているのならば、向こうもじきに『死の領域』に踏みこむまで迫っているのかもしれない。下手をすると、本当に『楽園』で彼らとぶつかるこ
とにな
る可能性がある。
事実、イノにはそんな予感がしていた。あの男と……シリオスと自分とが、再び出会うだろうという予感が。
シリオスともう一度対峙する──そう考えるだけで、不安がわき起こるのを禁じえない。冷酷なまでの彼の意志と〈力〉とに感じた恐怖は、まだはっきりと覚え
ている。あのときの自分はそれに怯え、背を向けて逃げてしまった。
二度目は逃げるわけにはいかない。しかし、それはあの男と正面切って戦うことを意味する。人知を超えた力を持つ者同士の戦い……彼とアシェルが繰りひろげ
たような攻防を、今度は自分が為さなければならないのだ。
意識せずとも表情が引き締まってしまう。はたして勝てるのだろうか? 自分よりもはるかに〈力〉の扱いに長けたあの男に。
その答えを求めるように、イノは自分の肩に目をやった。そこには、ようやくポケットから出してもらったシリアがちょこんと乗っかっている。本人との会話は
いまだできずじまいだが、この小さな「半身」と自分とを結びつけている見えない糸はちゃんと存在していた。
今のところ、イノは彼女との微かな〈繋がり〉以外何も知覚していなかった。迫りつつあるシリオス。彼方にある『死の領域』で待ち受けているだろう『虫』。
そして、その中で暮らしているという『北の旅人』と呼ばれていた人々さえも。
『出会わずともお互いがそうだとわかる』──カビンの老人が、最後に出会った『北の旅人』の娘から聞いたという言葉。それが意味するものは、『樹の子供』
同
士による〈繋がり〉以外には考えられなかった。そのため、
老人が語ってくれた他の事実も含めて、『北の旅人』と呼ばれる者達の正体は、おそらく自分と同じ『樹の子供』なのだろうとイノ達は推測していた。
しかし、それでもわからないことはある。なぜ、彼らは『樹の子供』でありながら、しかも『楽園』の近くにいながら、どうして何もせずひたすらに『終の者』
という何者
かを待ち続けているのか。同じ〈力〉を持つのならば、彼らが『樹』に接触するなりの行動をしてくれていてもいいはずだった。それとも、そうできなかった理
由
でもあるのだろうか。
できることならば、イノは今このときに〈力の手〉を伸ばしてみたかった。自らと同質の〈力〉を持つ者を探り当てるあの能力を使えば、少なくとも『北の旅
人』達の安否ぐらいは確認できるはずだ。
しかし、それは同時に、『死の領域』に潜む『虫』達へ己の存在を知
らしめる危険性をはらんでいる。ここから先は、今まで以上に慎重に行動しなければならない。こちらはたった二人しかいないのだから。戦闘は可能な限り避け
ていきたかった。
晴れることのない不安ともどかしさを抱えたまま、黄昏に包まれゆく『死の領域』の森をイノは見つめ続けた。自分と同じ℃メ達が、まだそこに存在している
ことを祈りながら。
「手。どうしたの?」
ふと、右隣に座っているレアが話しかけてきた。
「手?」
「さっきから、ずっとそうやってるけど」
彼女は手袋をはめた手を、開いたり握ったりしてみせた。
どきり、としてイノは左手に目をやった。手袋の中にあるバケモノじみた手を動かすことが、自分でも知らない間に癖になってしまっていたようだ。
「ちょっと……」何気ないふりをした。「緊張しちゃってさ」
そうね、とレアは納得したように言った。上手くごまかせたようだ。彼女にだけは、この手を知られるわけにはいかない。
「わたしもさっきから震えが止まらないの。明日から『死の領域』に入るってことを考えるとね。自分でも情けないって思うけど……」
「そんなことはないよ。まともな人間なら誰だってそうなるさ」
イノ自身もそうだ。『緊張している』と言ったのは、まったくの嘘ではない。
「でも大丈夫。レアにはかすり傷一つ負わせやしない。オレが──」
相手を安心させるためと、自分の決意を固めるために、イノはそう口にしはじめた。旅の目的を果たすのと、彼女が最後まで無事でいることとは、同じ意味であ
り価値なのだから。どちらも絶対に失敗は許されない。そして、それは己の〈力〉一つにかかっている。
レアは黙って言葉の続きを待っている様子だ。夕日に照らされたきれいな顔立ちが、見慣れた青い瞳が、優しさと期待のようなものとをこめて真っ直ぐ自分に向
けられている。
イノがこれまで彼女に見たことのない表情──なぜだか急に声が詰まってしまった。
「オレが、そう、して、みせる」
そして、ようやくのことで口に出せた決心は、剣のごとく一直線に放たれることなく、腸詰め肉の連なりのように所々でねじれてしまった。なんだかすごく格好
悪
い。これでは少しも「大丈夫」に聞こえない。でも、いまさら言い直しなどできなかった。当たり前のことを、本心から言うだけの話だったのというのに……。
これこそ情けないじゃないか──と苦りきった気分で、イノは首の後ろを掻いた。レアが嬉しそうに微笑んでくれているのが、せめてもの救いだ。
やがて、彼女は座ったままこちらへと身体をずらしてきた。
外套と服の袖に包まれた互いの腕が触れあう。その柔らかい感触に、イノの胸は、さっき彼女から手のことを指摘されたのと別の高鳴りを覚えた。
レアを見る。彼女は立てた膝の上に左手で頬杖をついたまま、そしらぬ顔で彼方の景色を眺めている。沈んでいく夕焼けが、背中まである長い髪に赤く映えてい
た。
なんと声をかけていいものやら……。そして、なんとなく声をかけない方がいいような気がして、イノは視線を彼女と同じ方へ向け、そのまま静かにしていた。
しかし、景色こそ目に入っているものの、イノの頭の中を占めているのは、今触れている彼女の腕の柔らかい感触と温もりだけだった。考なければいけない大事
なことが山ほどあるというのに、それらはすべて頭の奥に引っこんでしまっていた。
緊張と心地よさの混じった、なんともいえない気分。
身体を寄せてきたレアはどう感じているのだろう──と、再び横目で様子をうかがってみる。頬に当てている手のせいで、表情の半分こそ隠されてはいるが、彼
女は自分よりもずっとくつろいでいるように見えた。
(不思議なもんだな……)
イノはぼんやりとそう思った。初めて出会った頃の自分達を振り返れば、お互いがこうして肩を寄せあって座ってる光景なんて、神様でも想像できなかったにち
がい
ない。もしかしたら、この旅で一番驚くべき出来事は、今の自分達の状態なのかもしれなかった。
不自然さのない沈黙はしばらく続いた。山あいにゆっくりと消えていこうとする太陽が、寄り添う二人の影を長く伸ばしていく。そして、互いの影と影との間に
は、イノの肩に止まっている金色の小さな輝きがあった。
「少し早いけど、食事にする?」
やがてレアが言った。イノはうなずいて同意する。いまだ胸の内に残る不思議な緊張が、彼女が立ち上がったことで互いの腕同士が離れていったのを
残念に思わせた。
「そろそろ、これを外さなきゃね」
うん、と伸びをした後で、名残惜しそうに頭の髪飾りに手をやって、レアは何気なく後ろを振り返った。
その彼女の目が、何かに気づき細められる。
「……イノ」
さっきまでの様子とは、うって変わって緊迫した声。
イノは座ったまま首をめぐらせて、レアが注視している方向へと視線を向けた。眼下に広がる寂しげな大地を、三つの人影がこちらへとゆっくり迫ってくるの
が、遠くに見えた。
灰色の外套をまとった三人──それが何者なのかは考えるまでもなかった。