─十九章 ささやかなる決着(2)─
なだらかに盛り上がった丘の頂上。そこに立っている裸の木の下に、自分達が追い続けてきた二人の姿はあった。横手から差す夕日の光が、互いに茶色の外套をまとい身を寄せ合って座っ
ている人影を、遠目にもはっきりと照らしだしている。
あっけない──それがスヴェンの感想だった。一度目の邂逅から、はや十日以上。その間ろくに休息もとらず追跡を続けた結果にしては、拍子抜けするぐらいに
あっさりと相手を発見してしまった。もっとも、どういう展開を期待していたのかは自分自身にもわからなかったが。
娘の方が立ち上がるのが見えた。その顔がこちらを振り返る。遠く表情はわからなくとも、彼女がこちらに気づいて固まるのが手に取るように
わかった。だが、スヴェンは慌てることなく歩みを進める。周囲は身を隠せるような地形ではない。どうせ近づくまでに見つかるだろうとは思っていた。
彼女が教えたのだろう。アイツの頭もこっちを向いた。そして静かに立ち上がった。
二人とも逃げ隠れする様子はない。しかし、慌てふためいているわけでも、観念しているわけでもなさそうだ。それどころか、真っ向から自分達を待ち受けているようにさえ思える。
相手との距離が狭まる。スヴェン達は、やがて二人が立っている丘の下まで来た。少し視線を上げた先に、こちらを見下ろしているアイツと娘の顔がある。
敵意と警戒とをむきだしにしたレアという娘の表情とはちがい、反逆者の表情はひどく落ち着き払っていた。だが、そこに一切の親しみはなかった。それは、
過
去自分に向けられてきたものとは明らかにちがっていた。彼の肩には、あのときの邂逅には見られなかった『金色の虫』が乗っている。
そろそろ飛び道具の射程内だった。左右にいるドレクとカレノアに指示すべきかを、スヴェンは一瞬考え……そしてやめた。いくら正確に狙い撃とうと無駄に終
わる。シケットで目にした光景と、今目にしているアイツの表情がそれを感じさせた。
イノ──スヴェンは久々にその名を胸の内に呼び起こした。だが、今目にしている少年は彼であって彼ではない。それがはっきりとわかる。
見上げる自分。見下ろす相手。視線を外すことなくお互いの距離は縮まっていく。何のために迫ろうとしているのか、いまだその判断も定まらぬままに。向こう
の姿を目の当たりにしたことで、それはますますわからなくなった。
夕闇と。砂色の乾いた土を踏みしだく音と。ときおり吹く風の音と。
そして、二人と三人とは丘の上で対峙した。
交差する視線。張りつめた沈黙。
「驚いたな」
先に破ったのはイノだった。
「まさかここまで追ってくるとは思わなかったよ」
言葉とは裏腹に、みじんの動揺もない静かな口調だった。
「お前達が倒した『虫』の死骸を街道で見た。その『虫』が襲っていたという隊商とお前達が行動を共にしていると推測した結果だ」
「なるほど。じゃあシケットを通ってきたわけだ」
こちらの返答に対する落ち着いた瞳と物腰。この間会ったときとは別人のようだ。
「そうだ。ヤヘナという老婆にも会った」
「あの人達に何をしたの?」
レアが剣の柄に手をかけ、鋭い声を放った。
「話以外は、何もしていない」
そう答えたスヴェンを、彼女は不審もあらわににらみつける。
「オレ達を追っていることを話したのか?」
イノがたずねてきた。
「向こうが先にそうだと見抜いた」
「それでも、ヤヘナはオレ達のことを話してくれた?」
「ああ」
「そんな言葉を信用すると思うの? どうせ、手荒なことをして聞き出したに決まってるわ」
「落ち着きなよ、レア」
今にも刃を抜きそうな彼女の手に、イノがそっと手を置いた。
「相手の言ってることは本当だと思う。それに、ヤヘナだって裏切るとかそんなつもりで、オレ達のことをしゃべったわけじゃないさ。あの人がそんな人間じゃ
ないことは、レアが一番よくわかってるだろ?」
彼女の頭にある髪飾りに目をやって、イノは優しくさとすように言った。そして再びこちらを見た。
「シケットに訪れて、ヤヘナからも話を聞いた。なら、あんた達はオレがあの街でやったこと≠知っているはずだ」
どくん、と自分の心臓が跳ね上がる音をスヴェンは聞いた気がした。相手の示している事実と、初めて耳にした『あんた』という言葉とに。
「お前には──」
ようやく口を開いた。
「ああいうことができるのだ、とは聞いているが?」
「その通りだよ」
イノはあっさりと認める。自分も含め、両脇にいるドレクとカレノアがたじろぐのを感じた。
「オレには人が持つことのない〈力〉がある。それを使えば、人間だろうと『虫』だろうと簡単に殺すことができる。オレ自身、最初はその〈力〉が怖かった。
だから、以前あんた達と戦ったときだって使えやしなかった」
静かな口調で語られる、信じられないような内容の話。
「でも今はちがう。こっちの邪魔をしようというのなら、相手が誰だろうとオレはこの〈力〉を使うことをためらいはしない」
だから、と緑の瞳がスヴェン達を見据える。
「もうオレ達のことは諦めてほしい。あんた達がどうあがこうが、はっきり言って勝ち目はない。それでもやるというのなら、三人とも一瞬で死ぬことになる。
オレが殺す」
静かに。感情を高ぶらせるでもなく淡々と。だからこそ、相手が本気なのだとわかった。
オレが殺す──こんなことを平然と口にする『こいつ』は誰なんだ?
背筋を寒いものが伝う。しかし、スヴェンはそれを強引に無視した。戦士としての誇りが、相手の一方的な宣告に屈することを拒んでいた。
「そんな言葉を真に受けて、『仕方ない』と素直に引き返せると思うのか?」
単なる任務だからとここまで追ってきたわけではない。こちらにも背負うものがある。
「いいや」と、少年は静かに首を振る。
「そう言うだろうとは思ってたよ。あんたのことはよく知っているから。だけど……」
イノの目に暗い光が走った。
瞬間、耳をつんざく音と共に大気に振動が走った。自分達がいる小さな丘の上。そこに立っていた一本の裸の木に、突如として、大人一人が通り抜けできるぐら
いの穴が穿たれたのだ。
ドレクが驚愕の声を上げ、カレノアが一歩後ずさる音が、スヴェンの耳に聞こえた。そんな自分自身も、無意識のうちに後退していたと気づいたのは一番最後
だった。身体こそ動かさなかったものの、レアという娘も驚きの色を顔に見せている。
大量の木くずを夕日の中にまき散らし、まるで見えない槍に一突きにされてしまったかのような木を背にして、目の前の少年だけが、ただ一人振り返りもせず落
ち着いていた。
「お前が……」
口から出した声は、隠しようもないほど震えていた。
「これで信じただろう。オレの言うことが本当だって」
見えない『何か』に一撃で貫かれた木と、その前に立つ黒い装いの少年とを、スヴェンはあらためて見比べた。
こいつは──バケモノだ。
ごく自然に脳裏に浮かんだ言葉。理解を超えた力に対する恐怖が、最後まで抗おうとしていた兵士としての自分を粉々に打ち砕く音が、スヴェンには聞こえた気
がした。こんなものを見せられて、それでも戦おうという意志が保てるわけがない。全身の震えと表情が歪むのを抑えることができなかった。それは、脇にいる
二人も同様だろう。
自分達が注いでいる恐怖の眼差しに、少年の瞳が一瞬だけ深い悲しみの色に彩られるのを、スヴェンは見たように思った。しかし、それはすぐさま断固とした決
意の色に変わる。
「引き返してくれ。でなければ、次はあんた達がこうなる」
最後通告……というよりは懇願のような響き。驚きから立ち直った様子のレアが、そんな彼を支えようとするかのようにぴたりと脇に寄りそう。彼女も強い覚悟
をこめた瞳でにらんできた。
この二人には勝てない──力でも、意志でも。スヴェンはあらゆる意味でそれを悟った。
身体から力が抜けた。まるで無理やり握っていた手を振りほどくようにして、これまでの気負いが遠い彼方へと去っていく。そして、それはもう二度と戻ってくることはないと思えた。
追いついても無駄だ、というヤヘナの言葉は正しかった。反逆者イノの処分……この任務は失敗だ。もはや自分達の破滅は避けられないだろう。これから先、己
が為さなければならないのは、それを防いでやることができなかった仲間やクレナ達への謝罪と贖いだ。
得体の知れない力と強靱な意志を持つ、自分の知っている少年とは大きく様変わりしてしまったイノを、スヴェンは見つめ直した。
「あの老婆から……」
情けないほどに脱力した口を開く。敗北を認めた以上、せめて彼にたずねておきたいことがあった。
「お前達は『楽園』を目指しているのだと聞いた」
少年は静かにうなずいた。
「オレ達は『楽園』に行く。何があろうと」
「何をしようというんだ。お前達は?」
もはや本心からそれを知りたいと、スヴェンは思った。がむしゃらに『虫』と戦うだけだったこいつを、ここまで変えてしまったものを。
イノは少し考えるような表情をした。
やがて。「あんたが構わないなら、二人きりで話がしたい」
「話だと?」
「オレは、あんた達と別れてから起こった出来事を全部話すよ。それを聞けば、こちらのやろうとしていることが理解できるはずだ。この間はまともに話すこと
もできなかったから。そして──」
少し間があいた。
「あんたには父さんの話をしてもらう。それには二人きりの方がいいだろ?」
スヴェンはひるんだ。それは、自分が長年ひた隠しにしてきた事実を、いつかこいつに語る日が来るのではないかと抱いてきた怖れだ。ついに現実のものになっ
てしまった。しかも、まったく想像すらしていなかった形で。
動揺を抑え、スヴェンは左右を見た。ドレクとカレノアが目でうなずく。
「わかった。お前に従おう」
「レア。しばらく一人にさせて悪いけど……」
「あなたがそうしたいのなら、わたしは構わないわ」
すまなそうな顔をするイノに、微笑すら浮かべてレアは答えた。揺るぎない信頼に裏打ちされた強い絆が、この少年と少女との間に交わされていることは、誰が見てもあきらかだった。彼と自分との間にもそれが存在していたのが、はるか遠い昔のことのように思える。
「あんたら──」と、イノがスヴェンの脇にいる二人に声をかけた。
「オレ達を待っている間、レアに何かしようとは思わない方がいい」
「思っちゃいねえよ。なんなら武器を預けてでもおこうか?」
ドレクがおどけた声を出す。だが、内心の怯えを隠しきれてはいなかった。
イノは黙って首を振った。そして、スヴェンを見て「行こうか」と丘の斜
面を下り出す。その行く手には小さな川が流れていた。