─二十章 破壊の光と救いの光(3)─
揺らぎがひどい
みんなが暴れ狂っている。
網がどんどん食い破られていく。
外に出て行くみんな。殺されて戻ってくるみんな。
大きな戦いが外で起こっている。今はそれだけしかわからない。
造りなおす網。それでも破られていく網。
殺されてきた怒りと憎しみ。それがみんなをさらに強くする。
揺らぎがひどい。痛い。苦しい。
怖いあの人は近くまで来ているだろうか。
「終わり」を望むと言ったあの人は。
優しい彼は近くまで来ているだろうか。
「願い」を叶えると言ってくれた彼は。
彼のそばにいるあの子。彼を導いてあげられないわたし。
大きな揺らぎを抱え歌い出す『樹』。
その喜びと悦びの中を。
みんなは外へと出て行く。
* * *
呼んでいる。招いている。
行かなければ。帰らなければ。
大きな声。大きな手。大きな繋がり。
引かれる。惹かれる。
このまま。何もかもを忘れて──
「イノ!」悲鳴に近いレアの声。
弾かれたように身を退いたイノの鼻先を、灰色の鋭い爪がかすめた。
舌打ちすると同時に、〈武器〉を向かわせる。自らの呼び出した黒い輝きは鋭い槍の形となって相手の甲殻を容赦なく貫いた。
鈍い音を立てて地面を転がっていく『虫』の死骸をちらと見て、イノは小さく息をついた。
──危ないところだった。
「大丈夫なの?」
そばに立つレアがのぞきこんでくる。
「さっきから様子がおかしいわ。いったん後退して──」
「いつもと同じさ。問題ないよ」
イノは素早く返した。黒い兜の下にある汗にまみれたレアの顔。こちらの身を案じるあまり、せっかくかぶせた兜を返してきそうな雰囲気だ。それだと、今度は
こっちが彼女を心配してしまう。
しかし、相手の指摘は正しい。「いつもと同じ」と返したのは嘘だった。目の前の戦闘から度々それる意識。そのために、イノは思うように〈武器〉を操ること
ができずにいる。
「いや。お嬢さんの言うとおり、一度後退した方がよさそうだぞ!」
離れた場所で『虫』を斬り伏せたスヴェンが声を上げた。
周囲に満ちる異臭。死骸。そして黒い輝き。沸騰する泡のように、次々と光の中から肉体を持って現れる怪物の群れ。
『死の領域』に入って五日目。もう何度目になるかわからない戦闘。
たび重なる戦いに足止めをくらう形で、距離はほとんど進んでいないに等しい。積み重なるのは『虫』の死骸と、自分達の疲労のみだ。
こんなはずではなかった──こちらに迫る五匹に〈武器〉を向け、鉈でごっそり薙ぎ払うようにまとめて両断したイノは強く歯噛みした。
視界に広がる黒い輝き達。子供達の声。シケットでのときみたく内なる扉をめいっぱい開き、〈武器〉を思う存分解放してやれば、これらを殲滅するのは簡単だ
ろう。
だが、それは同時に莫大な消耗を己にもたらす。身体と心の両方を一気に削り取られたようなあの脱力感。そこから回復しきれないまま、さらなる新手に襲いか
かられたら、それこそ為す術はない。だからこそ、イノはこれまで〈武器〉を使うことを極力抑えながら戦ってきた。
レアが目の前にいる一匹の脚を斬りとばし体勢を崩させる。イノはすかさず手にした剣をその相手の「核」目がけ突き刺す。
制限しつつ〈武器〉を使いながらも、それでも何かが身の内に蓄積されていくのをイノは感じていた。休息では取れない何かを。どす黒い泥のような何かを。
目を向ける。ドレクの死角から攻めようとしていた一匹を〈武器〉でたたき潰す。
左手を握り締める。手袋の中にある異形の感触。武器を振るうことの代価であるそれが、今や肘の部分にまでに達していることをイノは知っている。
「こちらは片付いた。だがこれ以上は厳しい」
カレノアの言葉。仲間の誰よりも苦況を表に出さない彼の「厳しい」という言葉。
その声に、いくらこの〈武器〉があろうと自分は完全無敵の存在でないのだとイノはあらためて痛感する。
瞳を周囲に走らせ、脳裡に広がる怪物達の意思を読み取ろうとし──
そして、イノの全世界が揺れた。
呼ばれ。招かれ。
(くそっ……まただ!)
今朝から度々起こっているそれが、死線の最中にいる自分の集中力を妨げる。おかげで、さっきは危うく死ぬところだった。
『死の領域』に入ってから少しずつはじまり、今では無視できないほどに高まっているそれは、肩にいるシリアと初めて出会ったときの衝動に似ていた。だが、
相手の大きさと吸引力は桁外れだ。まるで、大人に手を引っぱられている幼児のような気分にさせられる。
巨大すぎる〈繋がり〉──その相手を知らないわけではない。シリアと会った幻の中に、ネフィアの本拠地で聞いた『歌声』の中に、〈武器〉をあたえてくれる
扉の中に、イノはその懐かしさと強さをずっと感じ続けてきた。
『樹』──それが呼んでいるのだ。『楽園』へと近付いた『樹の子供』である自分を。かつて『死の領域』に踏みこんだシリオスと同じに。
寄せては退く波のような、声ならぬ声による呼びかけ。不快ではない。だが、今の状況では邪魔でしかない。
手近にある木陰から現れた一匹に、すぐさま〈武器〉を向けようとした。
揺らぐ。乱れる。現れた自らの黒い輝きが形を成す前に消える。
内心で毒づき、イノは駆け出した。スヴェンの背に向かっていこうとしていたそいつの脇を、思いきり蹴とばす。横倒しになった胴体を黒い刃が貫いた。
さっと辺りを見回す。現れた怪物達のほとんどは倒されている。しかし、黒い輝きは以前として、いたるところで星々のように瞬いている。やがてそれらは肉体
を持って生まれ、襲いかかってくるだろう。
さらに、黒い星々の中にひときわ大きい輝きが脈打っているのが見える。あれは大型種と呼ばれる強力な個体の放つ光だ。これまでの戦闘で得た経験から、イノ
にはすぐそれとわかった。
『樹』の呼び声のおかげで、今では脳裡に浮かぶ相手の意思を読み取ることすら難しい。普段は整然と並んでいる書物の一枚一枚が、ぐちゃぐちゃに乱されてい
る感じだった。
まずい。みなの疲労に加え、自分がこの有様では、あのバカでかい黒い輝きから生まてくる『虫』に、対処しきれないのはあきらかだ。
「退こう!」
『死の領域』での初の撤退──イノはそれを苦渋に満ちた顔で叫んだ。
* * *
「これじゃあ……いくら身があっても、もたねえぜ」
どさっと置いた荷袋に腰かけ、ドレクがあえぎながら言った。寒々とした空気に似つかわしくない玉のような汗が、髭の上で光っている。
あれから決死の逃走を続けたイノ達は、なんとか身を休めそうな場所までたどり着いていた。雪と苔に覆われた小さな崖の下で、それぞれは担いできた荷物をお
ろす。
尖った葉を茂らせた古そうな木々の間にただよう冷気が、汗まみれの身体を冷やしていく。さっきまでの騒々しさが嘘のように、その場所は静まり返っていた。
雪のない地面に腰を落ち着け、イノは彼方に瞳を向ける。『虫』が現れそうな兆候はない。今のところは。
「おい、頼むぜ」
ドレクが声をかけてきた。
「調子が悪いのはわかるが……もう、こっちは、お前さんの〈力〉とやらをアテにするしかないんだからな」
「わかってる」
イノが苦々しくつぶやいたとたん、となりに座っているレアが、きっとドレクをにらんだ。
「そんな泣きごと言うぐらいなら、とっとと引き返せば?」
「誰が泣きごとなんか口にしたよ?」
「あんたよ。自分からイノに着いてきておいて、女々しいったらありゃしないわ」
「はん。そのイノにお守りされて戦ってる小娘に、言われたかねえやな」
「なんですって? もういっぺん言ってみなさいよ!」
レアが血相を変えて立ち上がった。
「やめろ。くだらん喧嘩をする元気があるのなら、次の戦闘まで取っておけ」
スヴェンにいさめられ、二人はふん、と鼻を鳴らしておとなしくなった。そして、彼はイノを見てたずねた。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
「ああ。身体の具合が悪いとか……そんなんじゃないんだ」
『樹』の呼びかけ。それは今も続いている。強く、大きく。
行きたい。帰りたい。という衝動は、最初に感じたときに比べれば、だいぶおとなしくなっている。おそらく、手を引いている相手に歩調を合わせるかのよう
に、この〈繋がり〉に少しずつ慣れはじめているためだろう。それでも、まだ無視できるほどではない。今でも、目を閉じてこの感覚にすべてをゆだねてしまい
そうになる。こんな乱れた集中力で戦闘をするのは危険だ。
「少し時間をくれれば、なんとかなるよ」
「そうか……ならいいがな。まあ、どのみち俺達も休息が必要だ。お前がいいと言うまで、しばらくここで休むことにしよう」
「わかった。ありがとう」
気にするな、という態度で肩をすくめるスヴェン。だが、その顔から疲労の色は隠しきれていなかった。彼だけでなく、他のみんなも同じである。旅の行程を少
しも進むことなく、肉体と精神の両方をすり減らしていくだけの状況に対する不安。それは、もはや濃い空気となって自分達の周りに漂っているようにすら感じ
る。
やはり無理だったのだろうか? 自分の〈力〉のみをあてにして、こんな戦力ともいえない人数で『死の領域』に挑むことなんて……とんでもない間違いだった
のだろうか。
自分よりも〈力〉の扱いに熟達した、シリオスとアシェルでさえも撤退したという『死の領域』。それも、シリアの助けを借りてようやく生還したのだとイノは
聞いていた。
彼らとはちがう進路で進んでいるとはいえ、やはりこの地での『虫』の攻勢は、通常の「発生領域」の比ではなかった。そして、今のイノにはシリアの手助けは
ない。彼女の『半身』は置物のように肩に止まったままだ。話しかけてくることもなく、わずかな〈繋がり〉から得られるものは何もない。
(ここで終わりなのだろうか……)
ふと浮かんだ弱気な思いを、イノは頭の奥に押しやる。そんなことは、考えることすら許されない。自分を信じ着いてきてくれている仲間達に対しての責任。そ
れを放棄することだけは絶対にできない。
こうしている間も、自分を呼び、招こうとしてくる巨大な存在。なんとしても、その者のいる場所までたどり着かなければならない。
なんとしても──
そのとき、そっとイノの左腕に触れてきたものがあった。
「ひどい顔色してるわ」
レアだった。
「オレは大丈夫だよ。そっちだって、人のこと言えない顔色だけど?」
冗談さを装い、イノはさりげなくレアの手から腕を引いた。強大な〈武器〉を使用する代価のため、今も少しずつ異形と化していく腕を。
「茶化さないで。わたしは本気で心配してるのよ?」
「オレだって本気で心配してるんだけど」
実際、レアの疲労の度合いはスヴェン達よりも高いだろう。なんといっても女の身だ。それでも愚痴の一つもこぼさずに戦い続けている。彼女に応えるために
も、自分が弱音を吐くわけにはいかない。
「やっぱり……」レアは頭に乗せた黒い兜に手をやった。
「これは返すわ」
「色ぐらい我慢しなって」
「そんなんじゃないわよ」軽くにらまれた。「わかってるくせに」
「それはレアにあげたんだから。返してこなくてもいいってば」
イノは手を振り、断固とした拒否の姿勢を見せた。
「わたしは……そんなに危なっかしく見える?」
少し悲しげな表情でレアはたずねてきた。さっきドレクに「お守りされながら戦ってる」と言われたことを気にしているのだろう。もっとも、彼も悪意から言っ
たのじゃないのはわかっているのだが。
「そんなことはないよ。今のレアに比べれば、『黒の部隊』にいたときのオレの方が、よっぽどひどい戦い方してたさ」
それはお世辞でもなんでもない。昨夜、スヴェンと見張りをしていたときに言われたセリフそのままである。めったに人を誉めることのない彼ですら、レアの実
力は素直に認めていた。事実戦いを重ねるごとに、イノが〈武器〉で彼女を援護する回数は減ってきている。それは、スヴェン達の動きを死に物狂いで観察して
学んだことと、それをすぐさま己の動きに反映させられる彼女の才が為した結果なのだ。
「だから、レアが危なっかしいからって理由で、『返さなくていい』って言ってるわけじゃないよ」
「じゃあ、どういう理由なの?」
相手に真っ直ぐに見つめられて、イノは少したじろいだ。
さて困った。「自分の使ってた兜を、レアが頭に乗せているのが嬉しいから」とは言えなかった。単純すぎてくだらない上に、彼女の嫌いな『浮ついた』感じの
理由だから。もし、それを正直に白状しようものなら、せっかくあげた兜はすぐさま突っ返されてくるだろう。
「いいじゃないか。たかが兜一つぐらいかぶったって」
「答えになってないわ」
問いつめてくる青い瞳。小手先のごまかしは効かなそうだった。
スヴェンとドレクが興味ぶかげにこちらを眺めている。関係ないくせにジロジロ見ないでほしい。カレノアみたく瞑想するか、天気の話でもしていればいいの
に。
レアは待っている。居ずまいすら正したような彼女の姿勢から、なにがなんでも答えを聞きだそうという気迫を感じた。そして、どうしてかは知らないが期待の
ようなものも。
奇妙な緊迫に、イノはさっきの撤退と似たような心持ちがしていた。このときばかりは、『樹』の呼び声が遠くに感じられた。
よし!──と決意を固める。
「水でも飲むかな」
イノは荷袋に手を伸ばした。
レアの顔が、エサを取り上げられた飼い犬とそっくりになった。
「わたしが取るわよ」
彼女はなんとも気の抜けた声をだす。
「それぐらい自分でやるってば」
「いいから」
イノが兜をあげてからというもの、レアはこうして身の回りの世話をしてくれることが多くなった。ありがたいし嬉しいけれども、そのたびに、赤ん坊になった
ような、子供になったような、年寄りになったような、重病人になったような……。なんとも言えない気恥ずかしさを感じてしまう。
それに──とイノは、自分達の様子をにニヤニヤ笑いながら眺めている、スヴェンとドレクを軽くにらんだ。彼らがいちいちあんな顔して見物してくるせいで、
よけいに照れくさい気分になるのだ。カレノアみたく瞑想するか、人生について語り合うとかすればいいのに。
やがて、「はい」とレアに水袋を手渡された。さすがに「口を開けて」と飲ませるまではしてくれない。そのことにホッとすると同時に、少し残念な気分にもな
るのが不思議だ。
イノは水を飲みはじめた。喉を滑り落ちていく冷たい感触が心地よい。気づけば、頭上にある曇り空からひらひらと雪が舞い降りてきていた。
紙切れのような、綿のようなそれをイノはしばら
く見つめ続けていた。大陸の北の果てに位置するこの地に入ることで、生まれて初めて目にした雪。『虫』との戦いばかりに神経を使い続けていたため、ちゃん
と眺め
たのはこれが最初のような気がする。
ふと肩に重みを感じた。転じたイノの目に映ったのは、自分に寄りそい頭をもたれてきたレアだ。黒い兜の下にある彼女の瞳は、気持ち良さげに閉じられてい
る。長いまつげが、そばにいるシリアの金色の輝きにうっすらとした光彩を放っていた。
戦いのときとはうって変わった彼女のあどけない表情に、イノは微笑した。身を寄せる相手から伝わる温もりが、弾むような不思議な安らぎを自分にあたえてく
れる。それは、今も我が身に呼びかけ続けている人ならぬ存在がもたらすものよりも、ずっと心惹かれる感覚に思えた。
もはや外野にいる見物人二人の視線も気にすることなく、イノはくつろいだ気分で再び水袋に口をつけた。
喉を通りぬける冷たい感触。
そして──背筋の凍りつくようなおぞましい感触。