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─二十三章  イノとレア(2)─



『イノ』

突然ラシェネの声がして、談笑していたイノ達は部屋の入り口を見た。だが、ドアノブのかわりに文字盤で開く不思議な扉は、ぴたりと閉まったままである。

『こっち。こっち』

よくよく耳にすれば、彼女の声は、扉とは反対にある部屋の奥から聞こえてくる。イノはそちらに顔を向け、そして、目と口とを大きく開けた。

奥の壁にラシェネの笑顔があった。正確には、壁にとりつけられた板状の物体にだが。

最初は窓かと思った。彼女はとなりの部屋からこちらをのぞいているのだと。だが、卵を真横にしたような形をした板≠ノ見える少女の顔は、どう見ても自分 達の二、三倍の大きさはある。

離れた場所にいる相手に声と姿を伝える道具が、『楽園』に関する昔語りの中に出てきていたのを、イノは思い出した。きっと、これがそうなのだろう。といっ ても、なかなかすぐには現実を受け入れられない。

『あれ? 壊れちゃった』

こちら側の誰一人として、声も出さず微動だにしないためだろうか。大きなラシェネが困り顔になった。

「いや。見えてる、聞こえてる」

イノはうわずった声で返事をした。まだ動揺から立ち直れないせいで、相手そっくりの言葉づかいになってしまった。

椅子から離れて、おそるおそる壁へと近づく。

『うわあ。すごいわね』

だしぬけに、ラシェネの横からレアの顔が現れた。 

いつもの倍以上の大きさをした青い瞳に見つめられて、イノは思わず後ずさりしそうになる。なんだか悪い夢でも見てる気分だ。

『わたし達そっちに行けない。だから、今からお風呂の使い方教える。イノ達も入って』

「風呂?」

壁に話しかけている自分──そんなのは、酔っぱらいがやることだとばかり思っていた。

『お風呂はそこにある』

ラシェネは部屋の一角にある扉を指して続けた。

『お風呂入って、着替えて、わたし達と宴に行く。服はその部屋にあるから、それも教える』

「そんなに覚えられるかな……」

『文字盤を触るだけだから、難しくないわよ』

レアが言った。

「まあ、実際に動かしながら聞いた方がいいだろうな」

現実に戻ってきたスヴェンが、元隊長らしく判断を下した。

一通り説明が終わると、『後で迎えに行く』と言い残し、壁に映っていたラシェネとレアの大きな顔は消えた。何をしているのかは知らないが、二人が今までに なく仲良さげな雰囲気を見せていたことが、イノには自分のことのように嬉しく思えた。


*  *  *


お湯をはった浴槽に身をしずめ、イノは大きく息をついた。『死の領域』のまっただ中で風呂に入れるなんて誰が想像できたろう。ぬるくもなく、熱くもない湯 加減が心地よかった。積み重ねてきた疲労が、全身から流れ出るようだ。

浴槽がそこまで広いものではないため、風呂へは一人ずつが順番に入ることにした。イノとしてはありがたい。服を脱いだ自分の身体を、誰にも見られずにすむ のだから。

くつろいだ表情を一転させると、イノは湯船から左手を持ち上げ、目の前にかざしてみる。人のものではない腕を。

ヌラヌラと濡れた光沢を見せる灰色の甲殻は、今や二の腕の中ほどにまで這い上ってきていた。ひび割れのような隙間から、血管のごとくのぞいている深紅の組 織がやけに生々しい。

忌々しい自分の腕を見たのは久しぶりだ。あいかわらず吐き気をもよおしてしまう。この腕だけは、まるで別物であるかのように、心地よいお湯のぬくもりを感 じていなかった。

痛みもなく、かゆみもなく、服と厚みのある手袋とでずっと隠しつづけていたため、自分自身ですらこの左手のことを忘れてしまいそうになっていた。だが、こ うして服を脱いでしまうと、嫌でもその現実と向きあわざるをえない。

今のところ、この腕のことは誰にも気づかれてはいない。常に自分のそばにいて見守ってくれているレアでさえも。仮にもし疑惑を抱いたとしても、想像すらで きないだろう。人間の腕がこのようなものに変わるなんて話は、誰も聞いたことがないのだから。

自分と同じ『樹の子供』であるラシェネやトロフに相談してみようかとも考えた。しかし、彼女達も『終の者』──つまりは〈武器〉を行使できるほどの強い 〈力〉を持つ人間に接したのは初めてのはずだ。それにまつわる異形の身体の治療法なんて知ってはいないだろう。

人の理解を超えた〈力〉を使うことによる代償。それは人の力ではどうすることもできないことが、イノはわかっていた。

異形の腕を浴槽にしずめる。どのみちここまで来た以上、自らの運命に対する覚悟は決めているのだ。見れば見るほど憂鬱になるだけの腕のことなんて、とっと と頭から締め出そうと思った。

視線をめぐらす。きれいな鏡のある洗面台。その下にたたんで置いた着替えの上には、『シリアの半身』がいる。こうして自分がくつろいでいられるのは、今も 『樹』の中で『虫』を封じ続けている彼女のおかげなのだ。それを思うと、ここでのんびりしていることに罪悪感を抱いてしまう。

このわずかな休息を力に、なんとし ても彼女の下へと行かねばならない。イノはあらためてそう心に誓った。

息を吐きだし、浴槽のへりに後ろ頭をもたれる。

湯気にかすむ白い天井を、しばらくぼんやりと見ていたとき、前髪がだいぶ伸びているのに気づいた。

「切らなきゃな」ぽつり、とつぶやいてみる。

すべてが終わったら。終わらせられたら。そして……終わらせられた先があるのなら。

無事に目的が果たされたとして、そのあと、みんなはどうするのだろう? 思えば、そのことについて考えたのは初めてだった。

スヴェン達はフィスルナに帰るのだろうし、レアはイジャやネリイの下に帰るはずだ。

(オレはどうするんだろう?)

人にはない〈力〉を持ち、人のものでない腕を持つ自分。「髪を切る」といったごく日常のことから、遠く遠くはなれた場所にいる自分。

今、自分達は『虫』や『楽園』といった非日常の出来事の中にいる。そのため、こちらが持つ異質さは特別に目立ったものにはなっていない。森の中に一本だけ 生えた風変わりな木といった感じで、周囲の状況に、なんとかまぎれこんでいるかのように思える。

だが、この戦いが終われば、非日常という森はとっぱらわれ、日常という更地へと変わることになる。その中に、ぽつんと木が立っていたら嫌でも目立つだろ う。その 木が自分なのだ。

シケットでの出来事。そして、トロフの話した『楽園』の悲劇。今のイノには、異質さに対する人間の反応というものがよくわかる気がする。

はたして、その中で生きていけるだ ろうか。あの男のように、なにくわぬ顔で異形の〈力〉と身体とを隠し続けながら、何年も、何年も……。

きっと自分には耐えられない。イノはそれを知っていた。 

そんな我が身を受け入れてくれそうなのは、住民すべてが『樹の子供』という存在を理解しているこの里しかないだろう。使命をはたし、その先も生き続けるこ とが許されるのなら、この隔絶された里でひっそりと生涯を終えるのが一番無難かもしれない。それぞれの人生へと戻っていく仲間達の背を見送って。

仕方のないことだとはいえ、無性に悲しく思えた。でも、まだ受け入れてもらえる場所があるだけマシだ。ここにはトロフやラシェネがいる。一人ではない。

しかし──そこにレアはいないのだ。

この先、離ればなれになるだろう親しい者達の中で、一番付き合いの短いレアの顔が真っ先に浮かんでくることは、イノにとってごく当たり前のことに思えた。

この世界にたった一人しかいないレア。その彼女と一緒にいるときの、あの弾むような気持ち──それが何という感情に根ざしたものであるかを、今の自分は ちゃんとわかっている。

この里でのわずかな一時。それは仲間達と……レアと過ごす最後の日常になるかもしれない。

伝えておこう。イノはそう思った。

レアに。彼女の存在が自分にとってどういうものであるかを。二人で続けてきた旅の土壇場で『浮ついてる』と怒られるかもしれないが、それでもかまわない。

それは『楽園』で成し遂げなければならない目的に比べれば、ちっぽけなことでしかない。でも、自分にとっては同じくらい大切なことなのだから。


*  *  *


「なんだか変わりばえのしない格好だな、おい」

風呂場から部屋に出てきたイノを見て、ドレクが言った。

イノは自分の身体を見下ろした。袖の長い黒服、黒いズボン、そして肩にいる小さなシリア──たしかにいつもと変わらない。せいぜい服が真新しいもので、襟 や袖口に白い縁取りがされてるぐらいだ。

「しょうがないよ」

肩をすくめた。

「身体にあったのが、これしかなかったんだから」

腕を隠せそうなのも……と内心でつけ加えた。

「手袋ぐらい外しゃいいだろ」

「気にはならないよ。旅をはじめてから、ほとんど付けっぱなしだったんだし」

「ふうん。そんなもんかね」

あらかじめ用意しておいた返答に、相手はそれ以上追求することもなく言った。とりあえず胸をなでおろす。

そんなドレク自身は、半袖のやたら真っ赤な上着を身につけている。胸から腹の部分にかけて、牙をむいた妙ちきりんな動物の絵がデカデカと描かれてるし、年 齢を考えれば正直似合っているとは思えないが、本人が納得してるならいいのだろう。

スヴェンは飾り気のない白っぽい上着、カレノアは同じく飾り気のない深い緑の上着。そして、いつもとたいして変わらない格好をした自分。四人とも「とりあ えず服を変えた」というだけの印象だ。もっとも、この中に洒落っ気のある人間がいやしないことは、とうの昔からわかっている。

「さて。後はお嬢さん方が迎えに来るまで待つか」

スヴェンが言ったとたん、部屋の扉が横滑りする音がした。

「おう。これはこれは!」ドレクが驚いた声を出した。

ニコニコ顔はいつものままに、丈の長いドレスを身にまとったラシェネが立っていた。薄青色のドレスには豪奢な銀の刺繍がほどこされ、金色の髪は、これまた き れいな模様の入った大きなリボンで、頭の後ろにくくられている。首もとや、肩から伸びた腕には、宝石のちりばめられた白銀の装身具が光っていた。

「うわ。すごいな……なんだか見ちがえたよ」

入り口に歩み寄りながら、イノは感嘆と口にした。これまでの戦士としての印象を、きれいさっぱりとぬぐい去ったラシェネの姿に、素直に目を奪われてしま う。今の彼女はまったく普通の女の子で、しかも、どこかの金持ちのお嬢様みたいだった。

(女の子って、服装一つでこうも変わるものなのか)

「ありがとう。イノ」

ラシェネは嬉しそうに笑った。彼女との〈繋がり〉を通して伝わってくる喜びの印象。どうやらイノの賞讃だけではなく、一緒にすごしていたレアとも何かいい ことがあったのだろう。なんとなくだがそれがわかった。

「あれ。そういえばレアは?」

「ちゃんといる」

ラシェネは目線を入り口の脇に向けた。どうやら、レアは部屋からは見えない場所に立っているらしい。

「どうしたのさ。そんなところで」

隠れてます≠ニいわんばかりに、姿を見せずにいる相手に声をかながら、イノは入り口から顔をのぞかせ──そして固まった。

レアがいた。壁に背中を張りつけるようにして。ラシェネと同じく丈の長いドレスをまとって。

彼女の身体を包んでいる純白の生地と、そこに織りこまれた金色の刺繍とが、天井の明かりを受けて淡く輝くかのように見える。その肩口は透き通った花びらを 重ねたような造りをしており、そこから伸びた白い腕や、大きめに開いた胸元には、ラシェネの身につけているものと似た形の装身具があった。

溶けこもうとするかのごとく壁に背をあずけた姿勢のまま、レアが顔だけをこちらに向ける。すっかり洗われたことで、本来の艶やかさを取りもどした明るい栗 色の髪には、ヤヘナから贈られた髪 飾りが、他のきらびやかな飾り物に負けじと光を放っていた。

入り口から顔を突き出した格好のまま、イノは彫像のように動けずにいた。身体と同様に固まってしまった思考に、これまで共にすごしてきたレアの姿が次々と 浮かぶ。

ときにはその姿に怒り、ときにはその姿に笑い、ときにはその姿に見とれ……。

色んなレアを見てきた。しかし、彼女がこんなにきれいだったとは知らなかった。

こんなにきれいだったなんて──

「おう。これはこれは!」

入り口から出てきたドレクが、またまた驚いた声を出した。

「へえ! 様変わりするもんだな」とはスヴェン。

うむ、という音はカレノアだろう。

「なんなのよ?」

あいかわらず壁と一体になろうとする虚しい努力を続けながら、レアがぶっきらぼうな口調で返してきた。本人はすっかり『やる気』の様子だ。誰も文句なんて 言っていないのに。

ようやく麻痺していた身体が動いて、イノは彼女の前に向かった。

相手がふてくされたようにしているのは、めかしこんだ自分の姿を人前にさらして、ただ単に緊張しているためだ。ぴんと伸ばした腕やら、その先でがっちりと 組まれた両手やらを見れば、どんな頭の鈍い人間にでもわかる。

「すごくきれいじゃないか」

声がうわずらないよう注意しながら、イノは口を開いた。我ながら単純すぎる感想だとは思う。しかし、今自分が感じているものすべてを言葉に出したら、それ こそ、夜が明けて朝になるまでの時間がかかってしまうだろう。

「そう?」

「うん。きれいだよ」

言葉の真偽をたしかめるようなレアの視線に、イノは自信をもってうなずいた。

相手の顔が目に見えて赤くなっていく。もちろん、こちらの顔も似たような色をしているはずだ。

「まあ……変に見えるのでなければいいわ。いつもの服は、洗わなきゃいけなくなったから」

レアが気丈に顎を上げた。さも「今の格好が不本意だ」と言わんばかりの口調だが、ゆるみそうになっている頬や唇を見れば、本心は真逆だとはっきりわかる。 剣の才能はあっても、嘘の才能はまったくない彼女だ。なんだかおかしかった。

「行こう」

イノは笑顔で手をのばした。

レアが素直に手を重ねてくる。あっけなく本心に屈した彼女の顔が浮かべた笑み。幸福げなそれは、身につけたドレスや飾り以上の美しさと輝きを放っていた。


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