─二十三章 イノとレア(3)─
「やけに静かになったな」
即席で張られた小さな天幕の中、空になったグラスを机の上に置き、ガルナークはつぶやいた。
「ひょっとして、我々は、もはや『虫』のすべてを倒し尽くしたのではありませんか?」
相向かいの席にいる相手が言った。
「本気でそう思っているのか?」
「冗談ですよ。もっとも、そうであればいいという、ささやかな願いも含まれてはいますがね」
「くだらんな」
「それは失礼いたしました」
いつもながらのやわらかな口調で謝罪する男から、ガルナークは注意を外へ向けた。天幕をはためかせている夜風に乗り、遠くから運ばれてくる士官達の声。
そして、待機している『ギ・ガノア』の駆動音。これまで絶え間なく続いていた騒乱を思い起こせば、それら音の数々は囁きにも等しく耳に聞こえる。
首都フィスルナを発ったセラーダ軍の行程は、いよいよ『楽園』へ踏みこむまでに至っていた。もはや終わりの見えてきた『聖戦』。二百年前より培われてきた
人と『虫』との宿怨は、明日よりその正念場をむかえるだろう。
しかし、今日の夕刻前に行われた戦闘を境に、あれほど攻勢に出ていた『虫』達は、ぱったりとその姿を見せなくなっていた。そしてその状態は、日が沈み、月
が高々と天にさしかかっている今このときも続いている。
静寂──『死の領域』で激戦を繰りかえしながら、『楽園』での決戦を控えた今となって、まさかこのような穏やかな時が訪れようとは、ガルナークには予想外
だった。天幕の中にいるため景色こそ目にすることはできないが、外では自軍が行っている大規模な夜営のかがり火が、頭上でまたたく星々と同等に大地に広
がっていることだろう。
もちろん、今の状態が一時的なものにすぎないことを、この場にいるすべての人間は知っている。敵であるバケモノ達には、昼夜の概念などないのだから。現に
これまで行ってきた休息のほとんどは、彼らの襲来によって打ち破られる形で終わってきた。
しかし、そんな『虫』達の奇襲は、こちらの番犬≠スる『ギ・ガノア』にそのすべてをことごとく察知され、完膚無きまでに返り討ちにあわされている。いっ
さいの休息を必要としないこの庇護者の働きにより、人間達の疲弊は想定していたよりもはるかに少ないものとなっていた。戦いだけではなく、精神的な面にお
いても、『ギ・ガノア』の存在は大きな役割をはたしているのだ。
「それにしても……」
目の前にいる男が口を開いた。
「このような席に私を招いていただいたというのは、初めてのことではないですか?」
注意をもどしたガルナークに、燭台の小さな灯火の向こうから、グラスを片手にしたシリオスが微笑んだ。
「不服なのか?」
「まさか。光栄のいたりですよ」
突如として『虫』の出現が収まったため、全軍は予定より早く休息を取ることになった。これが『死の領域』で行う最後の夜営となるだろう。よほど不足の事態
が起こらないかぎり、明日の午前中には、自分達は伝説に語られる彼の地≠ノ足を踏み入れているのだから。
『楽園』で行われる作戦についての打ち合わせは、夜営をはじめたさいに、各大隊を率いている『継承者』達を集めすでにすませていた。その後ガルナークは天
幕にこもり、出発の時間が来るか、バケモノどもが再び奇襲をかけてくるまで、一人で休む気でいたのだが……。
グラスを掲げ会釈しているシリオスを、ガルナークは黙ったまま見つめた。なぜこの男を呼びつけたりしたのか──それは自身にもよくわからなかった。相手の
言うとおり、自分達が杯を重ねるのは、これが初めてのことなのだと今さらながらに気づく。
とはいえ、自分達の間に談笑など存在するはずもなく、燭台の立つ机をはさんで座りながら、お互いが静かに酒を口にしているだけなのだが。
少し感傷的になっているせいかもしれない──己の片腕でありながら、この世界で最も嫌っている相手と杯を交わしている理由を、ガルナークはそう結論づけ
た。
もうじきすべての決着が付けられようとしている。祖先達の悲願はもちろん、この自分が抱き続けてきた想いへの。それを達成するために、すべてを投げうって
ここまでやってきた。その象徴たる『楽園』を目前にひかえ、気分が高揚するのも無理はない。
むろん、それは自分一人に限ったことではなく、ここにいるすべての人間に対して言えることだろう。各々がちがう想いを胸に、この「嵐の前の静けさ」という
月並みな表現がふさわしい夜を過ごしているにちがいない。
おそらくはこの男も──ガルナークはシリオスを眺める。
認めたくはないが、『聖戦』という自分の理想が実現した背景には、彼の存在も大きく関わりを持っているのだ。嫌悪していることには変わりなく、あくまでも
手駒でしかないが、それでも相手に対し多少の感謝の念ぐらいは抱くべきだろう。それも呼びつけた理由の一つかもしれなかった。
「以前から、気になっていたのだがな」
髪をかき上げた相手を見て、ガルナークはふと口にした。
「なんでしょう?」
「貴様の頭にあるその傷のことだ」
「ああ。これですか」
シリオスは再び髪を上げて言った。そこには額の生え際から、頭部の中程にかけて、あきらかにそれとわかる惨い傷跡が走っている。
「ずいぶんと古い傷のようだが、貴様が軍に入る以前からのものなのか?」
「おっしゃる通りです。これは私がフィスルナにやってくる前から、頭にあったものでしてね」
「受けたときは、かなりの重傷だったのだろうな」
「ええ。危うく死ぬところでしたよ。閣下はこの傷に興味がおありで?」
「だから聞いているのだ。事故か、故意によるものかは知らんが、貴様がそこまでの傷を負わされるとは、よほどの出来事だろうと思ってな」
「なるほど」
相手は小さく笑って続けた。
「この傷は、私がまだ幼い頃に受けたものです。そして、事故によるものではありません」
「ならば『虫』か? 貴様の故郷は奴らに襲われたと、以前に聞いた覚えがあるが」
「その通りです。しかし、私を殺しかけた相手は『虫』ではなく、一人の女性ですがね」
「女だと?」
「母親ですよ。私の」
絶句するガルナークを見ながら、シリオスはグラスを口に運んだ。その顔に、いつもと変わらない笑みを浮かべて。
「母親に……殺されかけたというのか?」
「ええ。私の何か≠ェよほど気に入らなかったのでしょう。今となっては、彼女も故郷もこの世に存在していませんから、それを聞き出すのは無理でしょうけ
れどね」
おだやかなる口調。しかし、それが暗に物語っている一つの事実に、ガルナークの全身に鳥肌が立った。
この男は母親に殺されかけ──そして母親を殺したのだ。
もはやそれ以上たずねる気も起きず、ガルナークはグラスを手にとった。おぞましい事実を世間話でもするかのように語ったシリオスに、あらためてぞっとする
ものを抱いたものの、その感情を表に出すことはしない。なぜなら、自身も「肉親を手にかけた」という意味では、相手と同類だからだ。
同類──それがこの男を呼び寄せた一番の理由かもしれない。そして、出会ってから今日にいたるまで、自分が相手を忌み嫌い続けてきた最大の原因なのかもし
れない。ガルナークは今このとき、その真相を知り得たような気がした。
自分達の関係は、それぞれの抱えている闇≠ェ繋がることにより、成り立ってきたのだと。
互いに無言で酒を酌み交わすまま、時間だけが過ぎていった。