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─二十三章  イノとレア(4)─



「ほんと。バカね……」

頭のすぐ上から、本気で呆れているレアの声がした。

「飲めないなら『飲めない』って、ちゃんと言えばよかったじゃないの」

「しょうがないだろ」

腕を目蓋にあてがいながら、イノはぼやくように言い返した。

「いきなりみんなの前に出されて、アレを持ってこられて……そんなこと言える雰囲気じゃなかったんだからさ」

「口で言わなくても、ラシェネやトロフさんには〈繋がり〉で伝えられたんじゃないの? 『飲めない』って」

「そんな細かいことまでは通じないよ」

「ふうん。便利なのか不便なのかよくわからないわね。『樹の子供』って」

「オレもそう思う」

「とにかく。そのせいで、明日出発できなくなったらどうするつもりよ? こんなくだらない理由で、すべてがご破算になったりしたら……笑い話にもなりゃし ないわ」

「大丈夫だって。ラシェネのくれた薬が効いてきたから」

「それならいいけど……まったく」


*  *  *


『終の者』一行を迎えるための宴は、里の中央にある広場で行われた。

イノ達が到着したときには、宴の準備はすっかり整っていた。何もなかった広場には、白色の光を放つ棒のような形をした照明がいくつも立っており、各家庭が わざわざ持ち寄ってくれたのだろう色んな形をしたテーブルが、ごたごたと列をなして並んでいた。テーブルの上に乗っている皿の数々には、カビンの村人から 育て方を教わったという野菜を中心とした料理が盛られていた。

見るからに喜ばしげな様子をした人々の中を進み、イノ達はひときわ大きなテーブルの席に座らされた。そこには、白い長衣に着替えたトロフが、おだやかな表 情をして先に待っていた。

やがて彼は立ち上がると、この場にいるすべての者に向けて、朗々とした口調で語りはじめた。過去に起こった『楽園』での痛ましい出来事。そしてその悲劇に より、この隔絶された地に住まうことになった祖先から、現在の自分達へと続いてきた物語を。

「イノ」

静まり返った里の人達と同じく、トロフの話に耳をかたむけていたイノに、となりに座っていたラシェネが顔を寄せて囁いてきた。

「おじいの話が終わったら、わたしと一緒に前に出てほしい」

「前に出る?」

ぎょっとした。まさか、今のトロフのように、聴衆に向けて何か挨拶でもしなくてはいけないのだろうか。もちろん、そんな経験あるわけがない。

「ちょっと待ってよ。いきなりそんなこと言われても……何しゃべっていいのかなんてわからないって」

できることなら断りたい。祖先の代から待ち続けてきた『終の者』が、たかが挨拶でしどろもどろになっている姿など、誰も見たくはないだろうから。

焦るイノに、ラシェネは首をふって答える。

「ううん。しゃべるちがう。イノはわたしと杯を交わす」

「え。それだけでいいの?」

「そうそう」

ラシェネの説明によれば、『終の者』であるイノと、その『導き手』である彼女とが杯を飲み交わすことによって、この宴ははじまりを告げるのだそうだ。

なんだ。それなら大丈夫だ──と安心したあまり、ついイノはうなずいてしまったのである。杯を飲み交わす……そう聞いた時点で、気づくべきだったのに。

トロフの話が終わると、ラシェネに導かれるままイノは人々の前に立つことになった。我が身と、そして肩にいる小さなシリアへと向けられる視線。また 視線。そして視線……。これまでの人生で、こんなに多くの人間から注目を浴びたことはない。口を開かなくていいとはいえ、やはり緊張してしまう。

ラシェネが杯を持ってイノの前に立つ。彼女の両手がうやうやしく掲げている銀色の杯。大きく平べったい形をしたその器には、透明な液体がなみなみと満たさ れ、月の光に静かな波紋を輝かせている。この一見水のような飲物を、二人で飲み干せということなのだろう。

そう理解した次の瞬間──

器から漂ってくるほのかな芳香に、イノの身体が凍りついた。

(これって……)

ラシェネから手渡された杯の中で、まるでこちらを嘲笑うかのように揺れている液体を見つめたまま、イノは顔を引きつらせていた。

酒だ──まちがいなかった。

予期せぬ伏兵に出会った気分。『死の領域』のど真ん中で、しかも外界から隔てられたこの里で、世界で一番最悪な飲み物が襲いかかってくるなんて、想像すら して いなかったイノだ。

しかし、この期におよんで突き返すことなどできない。そんなことをすれば、あからさまな期待と喜びに満ちたこの空気を、一気に白けさせることになってしま う。

みんなが自分を待っている。ラシェネ達も。レア達も。この場にいるすべての人間が。

(せめて半分の半分の半分ぐらいは飲むか)

よし、とイノは覚悟を決めた。

杯を口に持っていく。慎重に傾ける。

そして、口内に流れこむ常識を超えたまずさ=c…。

いともたやすく挫折し、イノはすぐさま腕を下ろした。当たり前だが、器の中身は少しも減っていない。

するとラシェネが手を伸ばし、イノから杯を受け取った。いつになく厳粛そうな表情で中身を口にする。だが、どう見てもただ口をつけている≠セけで、ちゃ んと飲んでいる様子ではない。どうやら、彼女も『飲めない』人種のようである。

どうしよう──イノは絶望的な気分になった。お互いがこの調子では、世界が終わるその日になっても、器の中身はなくなりそうもない。

しかし、ラシェネが杯を下げた瞬間、周りの人々がわっと湧いた。

「え?」

自分の上げた間の抜けた声が、にぎやかな歓声に溶けて消えていった。ラシェネが杯に口をつけ終えたところで、なんと宴ははじまってしまったらしい。

つまり、律儀に中身を飲み干す必要などまったくなかったのだ。それどころか、彼女がしたように飲むふり≠セけで十分だったのである。

もっとも、イノがその事実に気づいたときには、何もかもが遅かったのだが……。


*  *  *


「ほんとに大丈夫?」

心配と、呆れと、そして、おかしさの入り交じったレアの声。笑われても文句は言えない。かなり情けない姿だと自分でも思う。

たった一口だけとはいえ、やはり酒は酒でしかなかった。吐くまでにはいたらなかったものの、気持ち悪くなったことには変わりない。せっかくはじまった宴を 楽しむ余裕などあるわけがなかった。

無駄に赤い顔をして、テーブルに手をついたまま動かずにいるイノを見て、一番に事態に気づいたのはレアとラシェネだった。そして、女の子二人に支えられる ようにしなが ら、イノは広場を見下ろす場所にあるベンチまで、そそくさと連れ出されてしまったのだ。

その後、申し訳なさそうな顔をしたラシェネが、水と一緒に持ってきてくれた白い丸薬を飲んで、イノはレアの膝に頭をあずけ、ずっと横になっている始末であ る。

もっとも、悪いことばかりではなかった。レアとこうして二人きりになれたのだから。それに、生まれて初めての膝枕の心地よい感触は、この世で最低な飲み物 の代償としては十分なものに思える。

「戦いの土壇場で、お酒に倒れちゃうカッコ悪い英雄の話なんて、聞いたことないわ。まあ、そこがイノらしいけどね」

目蓋に当てていた腕をどける。優しく微笑んでいるレアの顔があった。

「カッコ悪いのは当たってるけど──」

同じように笑い返した。

「オレは英雄なんかじゃないよ」

「世界を救おうとしているんだから、立派な英雄よ。誰にだって真似できることじゃないし、現にそれはあなたという人間にしかできないもの」

「ちがうよ。べつに……オレは、世界を救うとかって気張ってるわけじゃない」

相手を見つめながら、イノは静かに続けた。離れた広場から、みんなが楽しそうに騒いでいる声が風に乗って流れてくる。

「世界をどうこう考える頭なんてオレにはないよ。それに、世界のことなんて何も知りやしないんだ。どんな村や街があって、どんな人達が暮らしているのかと か……そういったことをさ。見たことのない場所や、会ったことのない人間のことまでは、オレの頭じゃちっとも実感できない。だから世界を救うなんて考え ちゃいないよ。結果的にそうなるってだけで……実のところはオマケみたいなもんだと思ってる。そんな不真面目な英雄はいないだろ?」

レアは笑みを浮かべたままだった。

「それでも、あなたがわたしにとって英雄だってことに変わりはないわ」

「やけに持ち上げるんだな」

「本当のことだもの。あなたは、わたしを救ってくれた……たくさんね」

「お互いさまじゃないか。オレもレアには何度も助けてもらった。それを言うなら、レアだってオレの英雄だよ」

「それは……女の子に対する誉め言葉じゃないと思うけど」

頭上の相手が目を細める。こちらは逆に目を開いてしまった。レアが自分のことを『女の子』だなんて言ったのを、初めて耳にしたからだ。

「本当に変わったな。レアって」

イノはしみじみと言った。

「そりゃあ……」彼女が口ごもる。「色々あったもの。少しは変わるわよ」

「いやいや。大ちがいだって」

「それって、以前のわたしの方が、あなたにとってはよかったってこと?」

「まさか」

と、少し不安げにたずねてきた彼女に笑いかけた。

「今のレアで全然いいよ。もう寝てるときに頭を蹴とばされることもなさそうだし」

「わたしが? あなたを?」

「そうだよ」

相手のぽかんとした顔に、思わず噴きだしてしまった。

「オレがアシェルと初めて会った日のことだけど。覚えてないの?」

あのときはめちゃくちゃ腹を立てたっけ──なんだか何年も昔のことのような気がした。

レアがみるみる赤面した。どうやら記憶に残っていたらしい。

「ほんと、つまらないことをネチネチ覚えてるのね!」

「べつにネチネチは言ってないけど……」

「ネチネチしてるから、『ネチネチしてる』って言ってるんですけどね」

思い出してくれたまではよかったのだが、すっかり拗ねてしまった彼女に強引に起こされ、イノはせっかくの膝枕から締め出されてしまった。なんとも残念な気 分だ。

「でも、イノだって、わたしに似たようなことしたじゃない」

「オレが? レアに?」

「そうよ──」

そして二人は、ついさっきまでお互いを持ち上げていたことをすっかりと忘れ、過去の出来事を『ネチネチ』ほじくり返しての、相手のあら探しに やっきになった。その一つ一つに、楽しそうな笑い声を上げながら。ほんの二ヶ月たらずの間といえども、思い返せば色々と出てくるものだ。

互いに十分すぎるほどコケにしあったところで、二人はしばらく沈黙して、眼下に広がる宴の光景を眺め続けた。その白色の明かりの中には、飲み食い しながら騒いでいる人々に混じって、スヴェン達やラシェネの姿も見える。

イノの調子も治ったのだし、そろそろ広場に戻るべきだった。だが、どちらも動かなかった。

イノも、そしてレアも、明日に待ち受ける最後の戦いについて語ろうとはしない。決戦への不安や怖れは、暗黙の了解のうちに、口に出すことを禁じられている かのようだった。

きっと、広場にいるみんなも、自分達と同じ気持ちでいることだろう。どのみち、もうじきしたら嫌でもそれと向き合わざるをえないのだから。

「さっきの話の続きだけど……」

やがて、レアがたずねてきた。

「世界を救うのが二の次なら、あなたにとっては何が一番なのかしら?」

「あの湖の畔で言ったことと同じさ」

イノは少し考えてから口を開いた。

「大切な人達に死んでほしくない、生きていてほしいって……ただそう思ってるだけだよ。簡単すぎる理由だけど、オレにはそれで十分なんだ。大きなことなん て少しも考えてないけど、十分すぎるほど一生懸命になれてる。だから、最後までそれでいいんだと思ってるよ」

「大切な人達って?」

彼女は興味津々といった様子。

「そうだな。まずスヴェン達やクレナだろ。イジャやネリイ達。ヤヘナの隊商のみんな。それに、この里のラシェネやトロフ達。もちろんシリアも……」

これまで出会った多くの人々の顔を思い起こしながら、イノは指折り数えていった。名前こそ挙げなかったが、そこには、もはやこの世界にはいないアシェル達 の顔もある。

みんな自分に大きな何か≠あたえてくれた。その何か≠フおかげでここまで来れた。イノはそう思っている。

だから、自分もみんなに何か≠あたえてあげたかった。そのために、ここまでやってきた。

「これぐらいかな。あんまり多くないけど」

「ねえ……ホントにそれで全員なの?」

どうしても欲しい品物が、目の前で売り切れになってしまったのを見たかのようなレアの顔。それはそうだろう。彼女の名前は言わなかったのだから。

浴槽で決意したこと。彼女に伝えなければと思ったこと。

今がそのときだろう。

イノは居ずまいを正した。さっき人々の前に立ったときよりも、なんだか緊張してきた。ラシェネの薬でせっかくおとなしくなった動悸が、再び暴れはじめる。

「もちろん全員じゃないさ」

まずまずな声が出せた。

レアはじっとこちらを見ている。売り切れになった品物が、実はまだ店の倉庫に残ってて、店主がそれを持ち出してくるかもしれないと期待しているみたい だった。そんな目をされると、よけいにアガってしまう。視線だって合わせにくい。

「もちろん全員じゃないさ」と、また同じことを言った。

「それはさっき聞いたわ」もっともだと思った。

咳払い一つ。

「一番大事な人が、まだ残ってる」

イノは努力して相手を真っ直ぐに見た。

レアは待っている。

高鳴る鼓動、うわずる声をおさえながら、ゆっくりと言った。

「レア。オレは誰よりも君に生きていてほしい」

沈黙が流れた。宴のにぎわいが、すごく遠いものに聞こえた。

伝わっただろうか? こんな短くていいんだろうか? もうちょっと、なんか付け加えた方がいいだろうか?──わからなかった。

ちゃんと言えたよ うな。まったく言えなかったような。すっきりするどころか、興奮と疲れのごっちゃになった、よくわからない気分。

「生きていてほしい人は、それで全員?」

レアが静かにたずねてきた。

イノはうなずいた。

「肝心な人が抜けてるんじゃない?」

意外な言葉にとまどう。他に誰かいただろうか。思いつく人間はすべて上げたはずだ。それに、彼女よりも肝心な人なんていやしない。

「ごめん。誰だかわからないんだけど……」

レアが身を寄せてきた。ベンチに置いていた右手に、彼女の手が重なった。青い瞳の中に、ぽかんとしている自分の姿が見えた。

「あなた自身よ」

重ねられた彼女の手に力がこもった。それが少し震えてるの感じた瞬間、相手の顔が、イノの視界いっぱいに広がった。

額にふれてきた彼女の艶やかな髪。目の下をくすぐった彼女の長いまつ毛。視野をふさいでいる彼女の閉じられた目蓋と、そのすみで瞬く装身具のきらめき。鼻 の先 に感じた彼女のすべすべした鼻──

そして、唇を包むやわらかさにイノが最後に気づいたとき、それはもう離れてしまった後だった。

「イノ。わたしは誰よりもあなたに生きていてほしい」

緊張が一気に解けたかのようなレアの表情。ほんのりと上気したその顔と、その言葉とを、イノは死ぬまで忘れることはないだろう。

この世界で、最高にきれいな存在に見える今の彼女を。

しかし、そんなレアに対して、今の自分が世界で一番マヌケな顔を返していることを、イノは自覚していた。なぜならば、彼女の行為の意味も、言葉の意味も頭 になく、ただただ必死で、唇を包んでいたさっきの 感触を思いだそうとしていただけなのだから。

「そういやそうだ……自分を入れるのを忘れてたよ」

頭をかきながら、のそのそと口から出てきたのは、どこまでも気のきかないセリフだった。でも、本当に何て言っていいのかわからなかった。

それでも、イノは自分がレアと繋がっているのを感じた。〈力〉のようなはっきりわかる感覚でなくても、ちゃんとお互いが結ばれているのだと。

唇と唇だけではなく。それ以上の大切な想い≠ナ。

「さ、行きましょ」

レアが立ち上がった。

「あなたのおかげで、まだ何も食べてないんだから。すっかりお腹が空いちゃったわ」

輝かしげな笑みと共に差し出された彼女の手、イノはその手をしっかりとつかんだ。

そして二人は、笑い声に満ちた広場の光へと歩いて行った。



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