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─二十四章  決戦 ・ 上(1)─



静かだ──そう思った。

視界に朝日が映るよりも先に。仲間達の寝息が耳に聞こえてくるよりも前に。

イノはベッドから身を起すと、部屋の大きな窓へ顔を向けた。薄い霧のかかった里の外縁の手すりと、その先に広がる木々の枝葉の向こうには、アラケル山脈の 白い連なりがある。それは昇りはじめた太陽の黄金色の輝きにうっすらと縁どられ、荘厳なたたずまいを見せていた。

静かだ──そう思った。

悠久の時を感じさせる山脈の姿に。その彼方にいる存在と自分との結びつきに。

『樹』の呼び声が止んでいる。それが静けさの正体だった。〈繋がり〉こそたしかに身内に存在するものの、最初は抗しがたいほど強く、その後も囁くように続 いてきた声ならぬ声が、今ではピタリと聞こえなくなっていた。

突如として訪れた静寂は、どこかしらイノを不安にさせた。まるで獣が牙や爪をといで待ち構えているような……そんな印象すら孕(はら)んでいるような気が する。

不吉な気分をふり払ってベッドから降りる。その先には、すっかり見慣れた黒い鎧があった。今イノが身につけている服は、宴で着ていたものではなく本来の自 分のものだ。どういう方法で洗ったのかは知らないが、宴が終わり寝る前に手元に返ってきたときには、汚れていた黒服はすっかりきれいになって乾かされてい た。

手慣れた動作で防具を身につけていく。黒い鎧は破損こそしてはいないが、フィスルナを最後に発ったあの日からロクに手入れもせず多くの戦いを経たため、表 面のいたる所に傷がついていた。武具の扱いにはやたらとうるさいクレナに見せたら、間ちがいなく大目玉を食らうだろう。

つい手を伸ばした先に、兜がないことに気づいた。兜はとっくの前にあげてしまっているのだ。この世界で誰よりも大切な人に。

剣を腰に帯びる。父の剣。今の自分を見たら、父はなんて言うのだろう。

机の上でやわらかな朝日を浴びている小さなシリアを肩に乗せた。こうして身支度を整えるのも、これが最後になるのだろうか。

「これは驚いたな」

声がした。起き上がったスヴェンだった。

「お前が俺達より早く起きて準備を終えてるなんてな。こんなの初めてじゃないか?」

「そういやそうだ。気づかなかったよ」

笑い声に、笑い声で返す。やがて、ドレクとカレノアも起き上がって、スヴェンと共に支度をはじめた。三人とも昨夜の宴でしこたま酒を飲んだにもかかわら ず、けろりとした様子である。早起きでは勝てたものの、その点だけはやはり勝てそうにもない。

「気分上々だな。『虫』でもセラーダでも何でもござれだ」

三人の準備が終わり、ドレクが勢いよく口にしたところで、小さく鐘を鳴らすような奇妙な音が部屋に響いた。それが「呼び鈴」なのだとの説明は受けていたた め、イノは驚くことなく入り口まで向かい扉を開けた。

外にはラシェネとレアが立っていた。こちらとは別に、二人は女の子同士で仲良く夜を明かしたのだ。昨夜のドレス姿とはうって変わった戦士としての装い── 彼女達も支度はすっかり整っているようだ。

「行こう。みんな」

ラシェネの言葉に、男達はうなずいた。

「それ、どうしたの?」

部屋を出て通路を移動する最中、イノはレアの姿を見てたずねた。こちらと同様に、すっかり洗濯された白い装束の所々には、ラシェネが身につけているものと 同じ色形の防具がある。

「うん。彼女が予備の鎧を貸してくれたの」

金の縁取りのあるケープをめくり、白い胸当てを見せながらレアは言った。

ラシェネ達の祖先が『楽園』から持ちだしてきたという武具は、百数十年以上もの間の中でそのほとんどが、里に侵攻してきた『虫』との戦いで破損するか、時 を経るうちに機能を失うかしてしまったらしい。『シリアの護り』が弱まり、『楽園』へ資材を調達しに行くことができなくなってしまった現状、まともに使用 できるものは、『導き手』の身につける装備ぐらしか残されていないのだと、昨夜トロフが嘆きながら説明してくれた。

「それはよかったじゃないか」

イノはあらためてレアの出で立ちをながめる。『楽園』の金属で造られた鎧は、自分が身につけている漆黒の鎧よりもずっと軽く頑丈に造られている。それが彼女を守ってくれるのだから一安心だ。

「一応……同じ服も着ているんだけれどね」

そう言って、彼女は白装束の首もとを引っぱってみせた。光沢のある革のような青い生地が、その中からのぞいた。

「へえ。その服も予備があったんだ。着た感じはどう?」

『導き手』の身につける服には、もはや「服」という次元ではくくれない様々な機能が備わっていることはすでに知っている。布よりもはるかに丈夫で、暑さ寒 さ も(限度はあるらしいが)関係なく、排泄物も処理し、なおかつ主が傷を受けた場合は、出血を抑える程度のことまでしてくれるのだという。トロフとしては、 この服だけでもイノ達に用意してあげたかったらしいが、他の武具と同様に、今ではラシェネの分ぐらいしか残されていないのだそうだ。

「最初は水で濡れたみたいな感触がしたけど、今は何も感じないわ。わたしとラシェネは背格好も近いから、すんなりと着れたみたい」

「そうなんだ──」

と、そこで一つの事実に気づいてイノは目を丸くした。

「あれ? でも、その服を着てるんなら、わざわざ上に白い服を着ることもなかったんじゃないの?」

「それはわかってるけど……」

口ごもりながら、レアは前を歩くラシェネに目を向けた。イノがあげた黒い兜の下の表情が、「わかるでしょ?」と告げている。

イノもラシェネを見る。少し視線を下げれば、そこには青い服でくっきりと浮きでた彼女のお尻が動いている。多くの機能を持つ奇跡のような服ではあるが、そ の唯一の欠点は裸そのものにしか見えない外見だろう。

レアの気持ちはわからないでもない。イノ自身が、もしあの服を着るとしたならば、きっと彼女と同じように普段の服を重ね着したと思う。

もっとも──イノはレアに視線をもどす。青い服を隠してしまった彼女の姿に、少し残念な気分がするのは確かだ。

「なに考えてるの?」

とたんに軽くにらまれた。

「えっ? 何もないよ」

「いやらしい想像してたんでしょ?」

「してないってば」

「さて、どうかしらね」

こちらの内心を見透かしたかのように、勝ち気な笑みを浮かべているレアの顔。唇を交わすのはよしとしても、いやらしい想像≠するのはダメらしい。彼女 についてわからないことはまだまだある、と実感したイノだ。

「本当にしてないって」

イノは重ねて弁明した。とりあえず、ここはシラを切り通すしかない。

「へえ。じゃあラシェネに聞いて確かめてみようかしら? 彼女には、あなたが何を想像してたかぐらいはわかるでしょうから」

「〈繋がり〉でってこと? そんなことが伝わるわけないだろ」

「ううん」

そのとき、ラシェネがふり返った。

「イノは、いやらしいこと考えてた」

「ちょっと──嘘つくなって!」

『導き手』のまさかの裏切りにぎょっとしつつ、イノは抗議の声を上げた。ニヤニヤ笑っている彼女の表情を見るだけでも、それが口からでまかせなのは十分に わかる。自分達の間にある人ならぬ〈繋がり〉が、そんなくだらないことを伝える──はずがない。

「気にするこたないぜ。男ってのはそういう生き物だからよ」

女の子二人に追いつめられ、苦況に立たされたイノを励ますかのように、後ろを歩いているドレクが口を開いた。

それによ、と彼は続ける。

「お嬢ちゃんの裸ぐらい、そのうち好きなだけ拝めるようになるって」

その言葉に息を呑んでしまうよりも先に、イノの視界からレアの姿が消えた。

続いて後ろから聞こえてきた盛大な音と、くぐもった男の声。

「何しやがんだ──危ねえだろうが!」

ふり返ったイノの目に、通路の床に倒れてわめていているドレクと、真っ赤な顔をして脚を突きだしているレアとが映る。どうやら、彼女が脚をひっかけてドレ クを転かしてしまったらしい。

「生意気なこと言ってるからよ。ヒゲのくせして」

「ふざけんな! 生意気なのはどっちだってんだ!」

「あんたに決まってるでしょ。怪我でもして、ここで留守番しながら男らしく≠「やらしいことでも考えてればいいんだわ」

「はん! そんなお上品すぎることじゃ、イノがあっちの嬢ちゃんとくっつくことになっても文句は言えないわな」

「なんですって!」

「やめろ。お前ら……なんでこんな時に喧嘩ができるんだ?」

やいやい言い争う二人を見て、スヴェンが心底からげんなりした表情で止めに入った。そのとなりでは、カレノアがよそに顔を向けている。そこには壁以外に見 るものはないし、とりあえず巻きこまれたくないのだろう。ラシェネはラシェネで、お腹をかかえて笑っている有り様だ。とてもではないが、今の自分達に、こ れから決戦に赴こうという雰囲気はカケラもない。

しかし。

イノにはうっすらとわかっていた。仲間達が演じている痴態は、それぞれが抱えている不安や怖れの裏返しなのだと。このくだらないバカ騒ぎは、去りゆく日常≠ヨの名残惜しさなのだと。つかの間おとずれた安らぎを、最後の一滴までしぼり取るための努力なのだと。

自分自身がそうであるように。


*  *  *


イノ達が向かったとき、朝焼けにほんの少しの霧がただよっている広場には、すでにトロフと住人達が集まっていた。

「ちょっとの間だったけど、ここのみんなには本当に世話になった。オレ達全員……この里で過ごしたことを決して忘れないよ」

一行を代表して、イノはトロフに礼を言った。

「なんの。わしらこそ、待ち望んでいた『終の者』があなた≠ニいう人であったことに、本当に感謝しております。あなた方をもてなしたことは、わしらに とっても忘れられぬ記憶となりましょう。それに、すべてが終わったあかつきにはぜひまたここを訪れて、今度こそゆっくりと羽を伸ばしてください」

そして、彼は朗らかな顔つきを真剣なものへと変えた。

「あなたには、もはやおわかりと思うが……今朝からの『樹』のこの静けさ。こんなことは今までになかったことです。あなたが感じておられるのと同じ不穏さ が、わしにも感じられる。彼の地で何が起こるのか……もはやわしにはわからぬ。心して向かわれよ」

イノは強くうなずいた。

「ラシェネ」

老人は彼女に顔を向けた。

「己が務めを果たすのだぞ」

「うん」

祖父と孫娘との短いやりとり。そこに多くの感情が行き交っていることが、イノには感じられた。『死の領域』とはちがって、大きな山脈に囲まれた『楽園』に 入ってしまえば、ラシェネの兜を使った遠距離での声のやりとりはできなくなるのだと聞いている。二人にとっては、これがひとまずの別れとなるのだ。

ふと右手に触れてくるものがあった。となりにいるレアだ。さっき騒いでいたときの表情は、もう彼女にはなかった。もちろん、それは自分も……そしてスヴェ ン達も同じだ。

互いを求めあうかのように、イノはレアの手を握り返す。その中にある自分達だけの繋がりが、少しだけ恐怖を静めてくれる気がした。

トロフ達に見送られ、一行は広場の外れにある皿≠ノ乗りこんだ。ラシェネが文字盤に触れ、不思議な皿は来たときと同じように静かに降下していく。

頭上へと遠ざかっていく里の姿を、イノはじっと仰ぎ見ていた。一時の平穏をあたえてくれた場所と人々が、まるで天上の彼方へと去っていくような錯覚をおぼ えながら。


*  *  *


「解せんな。奴らはどうしたというのだ?」

ガルナークの声に、シリオスは顔を向けた。

「『虫』のことをおっしゃっているので?」

「他に何がある?」

予想どおりの不快そうな返事に、黙って肩をすくめて見せる。       

静かだ──将軍の言うとおり、確かにそう思う。

風吹きすさぶ荒野。聞こえるのは、眼下に広がる大地を進軍する兵士達の足音と、『ギ・ガノア』の規則正しい駆動音だけだ。ここにくるまで際限なく襲いか かってきた怪物達は、昨夜以降もその姿を現す気配がない。人と『虫』とが織りなす饗宴は、突如としてお開きになってしまったかのようだ。

さらには、あれほどシリオスを捉えてやまなかった『樹』の呼び声でさえも、今は静まり返ってしまっている。九年前のあのときのように、『楽園』に近づけば 近づくほど、その〈繋がり〉は強くなるだろうと想定していただけに、最初に「声」が止んだときは、肩すかしをくらったような印象を受けた。

『死の領域』を突破し、『楽園』を間近にして、このような展開になるとは誰も予想していなかっただろう。ガルナークもふくめたこの場にいるすべての人間の 戸惑いが伝わってくるようだ。

しかし、シリオスにはこの沈黙の意味がわかっていた。

待ち受けているのだ。『樹』の中で荒れ狂う憎悪──二百年前、不当にも殺された子供達の怨念──は、こちらの戦力が並大抵のものでないことを理解し、自身 らが最も本領を発揮できる『楽園』でその決着を果たすつもりなのだ。『虫』として現出させることのできる〈力〉すべてを彼の地に結集させて、彼らは今その ための力をたくわえている。おそらく、昨夜から大陸には一匹のバケモノの姿も存在していないだろう。『樹』の呼び声が止んでしまったのも、その影響にちが いない。

さながら今の自分達は、大きく開いた怪物の口に飛びこんでいくようなものだ。いずれは閉じられてしまう鋭い牙のずらりと並んだ深淵へと。だが、こちらも 『ギ・ガノア』をはじめ、 相手の牙をへし折ってやれるだけの戦力は保持している。彼の地で繰りひろげられる最後の戦いは、この無益にして無意味な戦争を締めくくるにふさわしいものになるにちがいない。

やがて、荒野の彼方にアラケル山脈のふもとが見えてきた。そしてそこには、堅い岩盤を切りひらいて舗装された路面が広がっているのが、遠目にも確認でき る。

「見ろ」

白色の建材が敷きつめられ、両脇に太い支柱を立て並べた途方もなく大きな一本道を見て、将軍の口から声がもれた。

「あれが『楽園』の正門へと至る道だ。父祖の代より二百年……我らはついに真の故郷への帰還をはたした」

伝説の地へと通ずる道は、緩やかな斜面をえがいて山腹へ伸びていた。その先には、巨大な門が口を開けているのがぼんやりとだが見える。あれが『楽園』の正 門だ。再びくぐる者の訪れを待ち続けて、二百年もの間ずっと開きっぱなしになっていた扉……。

ガルナークが感慨にふけるのもわかる気がする。この場にいる他の『継承者』達も、彼と同じような気分をこの光景に感じているにちがいない。

シリオス自身もそうだった。もっとも、それは、この場にいる誰とも共有することのできないものであったが。

そのとき──馴染みの感覚がシリオスの内に走った。

夜にまたたく町並みの明かりのように、遠く正門付近に黒い輝きが溢れだすのが視えた。

どうやら、沈黙を保っていた怨念達の一部は、こちらが『楽園』に到達する前に痺れをきらして現れはじめてしまったようだ。

(なんとも、辛抱の足りないことだ)

シリオスは内心で嘲笑う。しかし、じっとしていられないのも仕方がない。しょせんは子供≠ネのだから。

久方ぶりに敵を感知した『ギ・ガノア』が頭をもたげる。この人造の獣も、決戦の興奮に打ち震えているのだろうか。

「いよいよ始まるか……」

『虫』の到来を告げる警報が全軍に向けて鳴り響く中、ガルナークが静かにつぶやく。

「では。私はそろそろ下に降りますよ」

シリオスは将軍に告げた。

「今回は獣の警護ではなく、『黒の部隊』を率いての『虫』の遊撃に当たらせてもらいたいのですが……よろしいですか?」

「ほう。ここにきて、ようやくその気になったか」

「ここが正念場ですからね。これ以上怠けてはいられませんよ」

そう。ここからが肝心だ。『虫』とセラーダ……両者を出しぬいて『樹』の御許へと向かうには、己のすべてをもって事に当たらねばならない。

「アテにはしておいてやろう。貴様の働きをな」

この愚物と口をきくのも、これで終わりだろう。

「有難うございます。『セラーダの英雄』としての最後の務め……存分に果たしてみせますよ。セラ・ガルナーク将軍閣下」

いつもと変わらぬ笑みを浮かべ、シリオスは一礼すると、最後まで不愉快そうな将軍の顔に背を向けた。



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