─二十四章 決戦 ・ 上(4)─
「おい……みんな大丈夫か?」
闇の中から、スヴェンの声がした。
「オレは大丈夫」イノは答えた。「そっちは?」
「肩をだいぶ打ったぐらいだ。まあ……まちがいなく寿命は縮んだだろうけどな」
「わたしも……気分以外は……大丈夫よ」
酔ったような元気のない声で、レアが続いた。
「ラシェネは無事なの?」
「うん。わたしはイノとここにいる」
「そう……よかった」
「よかったついでに俺の上からどいてくれや、嬢ちゃん。またがる¢且閧まちがえてるぜ」
瞬間、バシッ──という痛々しい音。
「つくづく最低のヒゲね! あんた一人だけ、外に放り出されていればよかったんだわ!」
「ぶつこたないだろうが! ったく、上品なのか下品なのかよくわからねえ嬢ちゃんだな!」
「二人とも、俺から降りてくれ」
暗闇ではじまった争いを止めたのは、カレノアの静かな訴えだ。
みんなの交わす声を聞きながら、イノは肩に手を伸ばしてみた。そこに触れたなじみの感触に胸をなで下ろす。シリアも無事だ。ありとあらゆる災害がいっぺんに襲ってきたような騒動だったが、ひとまず全員が助かったことに感謝する。
「とりあえずここから出ないとな。入り口は開くのか?」
スヴェンがたずねた。
「だめ。この乗り物は落ちて死んだ」
「おいおい。じゃあ、ここから出られないってのかよ? 俺はこのイモ虫≠ニ心中する気はないぜ」
「大丈夫。わたしが出口をつくる。みんなは今いるところを動かないで」
立ち上がったラシェネの言葉とともに、彼女の腕にはめたレマ・エレジオに青白い光が流れ、闇の中にいる面々を照らしだした。
軽快な音を立てて、白い籠手の先に鏡のような刃が生まれる。人には捉えることのできない速度で振動しているという剣だ。これで壁を斬り裂こうというのだろう。
「『光の矢』で吹っ飛ばした方が、手っ取り早いんじゃないの?」
「ううん。あれだと、大きな穴は開けられない」
イノの質問に答えると、ラシェネは剣先を壁に向けた。けたたましい音と火花を飛び散ちらせ、まるでそれが金属ではなく紙であるかのように、刃はやすやすと
壁を斬り裂いていく。あらためてその威力に目をみはるイノ達の前で、あっという間に外の光に白く縁取りされた四角い扉ができあがった。
ラシェネが腕を引いて扉を蹴りつける。金属の塊が外に落ちる派手な音が響き、そこには人一人がしゃがんで通れるぐらいの穴が口を開けた。まるで待ちかまえていたかのごとく、さっと暗闇にとびこんできた日の光に、全員が目のくらむ思いがした。
「行こう」
仕事を終えた刃を籠手の中に収納させると、ラシェネは外へと出て行った。イノ達がその後にぞろぞろと続く。
「やれやれ。もうこんなのは勘弁願いてえや」
外に出たとたん、ドレクが大げさに息をついた。
「それにしても……わたし達よく無事だったわね」
レアが頭上をあおいで驚嘆する。そこには、周囲に立ち並ぶ巨大な建物と張りあうほどの高さで一本の通路が走っていた。自分達はあの道から、乗り物ごと地面に落下したのだ。
「イノが〈武器〉を使って助けてくれた。そうでなかったら、みんな乗り物と一緒に死んでた」
ラシェネが静かに説明し、都市の通りに横たわった姿勢のイモ虫≠ふり返った。彼女の言うとおり、それが軽快な走りを見せることは二度とないだろう。胴の真ん中あたりが、イノの呼び出した黒い輝きに喰らいつかれたために無惨にもひしゃげている。
「落ちる前に、いったい何が起こったんだ? 俺には、あのセラーダの獣が何かを撃ったように見えたんだが……」
スヴェンが遠方を眺めながら言った。そこに巨大な噴煙がモクモクと上がっているのが、建物の間からでも十分確認できる。
「その通りよ」
レアが真顔でうなずいた。
「わたし達は、あの兵器が発射した光の巻きぞえを喰らったの」
「一発ぶっ放しただけでこれかよ……ムチャクチャすぎるぜ」
ドレクが嘆息する。遠くはなれたここからでは全容を把握することはできないものの、世の中すべての煙突が吐きだしたかのような煙の量だけでも、その破壊の規模だけは十分すぎるほどうかがえる。
獣の撃った光の奔流──同じ「光」でも、ラシェネのレマ・エレジオが放つものとは圧倒的に次元のちがう威力だ。もし、イモ虫≠ェもう少し先を走っていた
ならば、自分達はあの崩壊した建物群と同じ運命をたどっていたにちがいない。その事実に、イノはあらためてぞっとする思いがした。
「だが……」
スヴェンが眉根をよせた。
「なぜ本格的に戦闘がはじまった様子もなかったのに、これほどの威力を持つ兵器を発射したりしたんだ? 使うことで『楽園』にどれほどの被害が出るかは、
向こうの方がわかりきっていただろうに。ここはオレ達の理解を超えた技術の宝庫なんだぞ。上の連中は、喉から手が出るほどそれを欲しがっているはずだ」
「それはたぶん──」イノは返した。
「あの光が、『樹』を狙って撃ったものだからだ」
「『樹』をだと?」
イノは黙ってうなずく。はっきりと確信があるわけではないが、獣から放たれた途方もない光は、都市の中央にある『樹』を目ざしていたように思える。しか
し、どうしてセラーダが『樹』を攻撃するのだろう。『虫』を生み出している存在について、彼らは何ひとつ知らないはずだ。唯一それを知るあの男≠ェ、真
実を話しているとも思えない。
「そういや、あのバカでかい木はどうなったんだ? まさか今ので吹っとんじまったんじゃねえだろうな」
「ううん。『樹』は無事。でも……」
しだいに晴れていく噴煙を見つめるラシェネの顔が青ざめている。その理由はイノにもわかる。お互いが同じものを、あの煙の向こうに感じているのだから。
やがて、『樹』の上部が彼方に姿をのぞかせた。大きく張りだした枝。輝くような緑の葉。獣に攻撃される以前とまったく同じ姿をして。
「うそ……絶対に命中してたはずよ」
「俺も見てたぜ。だけど、枝一本折れた様子もねえ……なんなんだよありゃあ」
たとえ『楽園』の技術を用いた兵器であっても、『樹』を傷つけることはできない──アシェルはそう言っていた。あれは人の理など超越した、まったく異質な存在なのだと。
イノは天高くそびえる『樹』を見つめた。そこに内在しているどす黒い〈力〉の鼓動が、刻一刻と強く激しくなってきているのが伝わってくる。それが波のよう
に『楽園』全域に放たれていることも。その波が押し寄せてくる度に、服と手袋に隠された異形の腕がビリビリと震えることも。
「怒ってる……。『樹』の中の子供達がすごく怒ってる」
そう。怒り狂っている。『樹』に巣くっている子供達の想い≠ェ。
そのとき、前方の空に光が走った。
「今度は何だ?」スヴェンが叫ぶ。
「『ギ・ガノア』よ。また攻撃をはじめたんだわ!」
レアはさっと辺りを見渡すと、立ち並ぶ建物の一つへと駆けだした。その建物の外側には、幅広の階段とテラスとが備わっている。
イノ達が彼女の後を追う。
周囲を見渡せる高さにあるテラスまで駆け上がった一行の目に、扇状に破壊された都市の無残な有り様がとびこんできた。もはや瓦礫の平原と呼ぶにふさわしい
光景には、いまだ霧のように煙がただよっている。そして、その彼方には、全身から光を放ちながらゆっくりと歩みを進めている暗赤色の姿がある。
「イノの言ったとおりね。あの獣は『樹』を攻撃しているんだわ」
天にそびえる枝葉に向かって突き進んでいく輝きの数々。もはや『ギ・ガノア』の狙いが『樹』であることに、疑いの余地はなかった。槍のような細い光。玉のような形をした光。両者の間にある遠い距離は、それらの光に埋め尽くされる勢いだ。
「だけど見ろよ……撃ちまくってるわりには、てんで効いちゃいねえみてえだぜ」
ドレクの言葉どおり、すさまじい勢いで襲いかかる獣の光のことごとくが、『樹』に到達する前に四散している。まるでそこに見えない壁が存在しているかのように。
不可視の壁に青白い輝きが阻まれるたび、巨大な鈴を鳴らすような不思議な音響が周囲を震わせ、空中にきらびやかな虹色の波紋が広がる。おそらく、最初に放たれた光の奔流もこれで防がれたのだろう。
曇り空から差しこんできた陽光が、半壊した大都市に矢のように降りそそぐ。その中で繰りひろげられている、『樹』と『ギ・ガノア』の輝きによる戦い。様々な光の織りなしている光景は、もはや幻想的な美しさすらたたえているようにイノ達の瞳に映った。
「もうこんなのは戦とは呼べねえよ……」
ドレクが疲れ切ったため息をついた。
「威勢よく『一枚かませてくれ』なんて言っちまったけど……まさかこんなわけのわからないドンパチを目にするなんて思いもしなかったぜ」
「それは軍の連中も同じらしいな。様子がおかしいぞ」
廃墟を進む『ギ・ガノア』の足下に展開している軍勢を指して、スヴェンが言った。たしかに、兵士達は陣形も組まずに右往左往しているように見える。その後
方にうかがえる正門には、取り残されたようにわだかまっている大隊もあった。どう判断したところで、彼らが明確な作戦に従って行動しているとは思えない。
あきらかに混乱している。
「ひょっとしたら……あの獣は、軍の意志に関係なく『樹』を攻撃しているのかも──」
「イノ!」
レアの声にかぶさるように、ラシェネが声を上げた。彼女が指差している自分の肩を見て、イノは息をのんだ。
金色の小さなシリアが、まるで痙攣でも起こしたかのようにブルブルと震えていた。おそるおそる手を伸ばしてみる。触れた。かすかな〈繋がり〉を通して、はっきりと伝わってくる彼女の苦痛。
「子供達はすごく怒ってる。だから、シリアが苦しんでる」
獣の攻撃をに急激に膨れ上がっていく『樹』に宿る怨念が、それを抑えている少女に多大な負荷をあたえているのだ。このまま彼女にもしものことがあれば……。
「くそっ!」
イノは、光を放ち続けている『ギ・ガノア』をにらみつけた。
「あいつを止めよう。これじゃ、『樹』にたどり着く前に、シリアがもたないかもしれない。彼女に万一のことがあれば、何もかもが終わりだ」
「いや」
しかし、スヴェンは冷静に答えた。
「お前はこのまま『樹』に向かえ」
「このまま放っておくわけにはいかないだろ。それに、今度あのバカでかい光を撃たれたらどうするんだよ?」
と──久しぶりに頭を小突かれた。
「お前は、あいかわらず人の話を聞かないな。誰が放っておく≠ネんて言ったんだ?」
呆れたような相手の声。
「ここで二手に別れるんだ。お前とお嬢さん方は『樹』へ。獣の方は……俺達でなんとかするさ」
「なんとかするって──あいつをどう止める気なんだ?」
「あれだって人の造った道具だ。背中に見張り台みたいなものが確認できるし、俺達の乗ってきたやつと同じように、内部から人間が動かせる仕組みになっているんじゃないのか?」
彼はラシェネに顔を向けてたずねた。
「うん。あれは犬の形をした大きな乗り物。だから、中から止めるのはできると思う」
「そういうことだ。それに、俺達の格好なら、軍に飛びこんだところで誰も怪しみやしない。こっちの離反を知る者はいないだろうし、あの混乱模様だからな。なんとか獣に近づいて、中に入って……ま、臨機応変にやるさ」
「そんなの無茶すぎる。だったら、オレ達も一緒に行った方がいい。オレの〈力〉やラシェネの武器なら、壊すのだって楽になるはずだ」
「お前、シリオスのことを忘れてやしないか?」
その言葉に、イノは息を呑んだ。
「あの男のことだ。すでにこの混乱に乗じて軍から離れ、独自に動いているだろう。奴も『樹』を狙っているんだ。お前には獣をかまっているヒマなんてないぞ」
イノは都市を眺めた。今はシリオスの存在は感じられない。だが、あの男がこの光景のどこかを『樹』に向けて移動していると想像するのは簡単だった。それ
に、さっき自分は内なる扉を開けて〈武器〉を使ったのだ。それが相手に察知され、こちらの存在を知らしめてしまった可能性は十分に考えられる。
「自分の果たさなければならない目的を忘れるんじゃない。元上司として、デキの悪い部下には、最後ぐらいは言うことを聞いて欲しいんだがな」
スヴェンに顔をもどす。慣れ親しんだいつもの笑顔がそこにはあった。
ゆっくりと、イノは強くうなずいた。
「お前さんのいう『俺達』には……当然、俺も入ってるんだよな?」
気のぬけた様子でたずねるドレクに、スヴェンは肩をすくめてみせた。
「強制はしないさ。俺はもう隊長でもないしな」
「よせやい、水くせえ。どっちに行ったって、バケモンに当たるのはわかってるんだ。わけのわからない木よりは、まだ人の造った犬の方がかわいげがあるぜ。
付き合うよ」
「俺も行かせてもらおう」カレノアが言った。
「お前のやることには従うと約束したからな。それに、俺は狩猟民の生まれだ。獣の方が相手に向いている」
鋼の男≠ナある彼が、笑顔を浮かべて冗談を口にするのを、イノは初めて目にした。
「ま、結局はいつもの面々ってことだな」
仲間二人に向けて、スヴェンがニヤリと笑った。
「じゃあ、さっそく──」
「待って!」
そのとき、レアが毅然とした態度で進み出た。
「わたしも一緒に連れて行って」
彼女の頼みに全員が意表をつかれて驚く。
「お嬢さんまで付き合うことはないさ。イノ達といた方が安全だ。それに、この格好をしている俺達だけの方が、軍には近づきやすいだろう」
「それはわかってる。でも、わたしは、どうしてもあそこに行きたいの」
まだ戸惑った気持ちのまま、イノはレアを見た。彼女の青い瞳は、容赦なく『樹』を攻撃している獣に強く向けられている。
「わたしの祖先は、過去に大きな罪を犯した。そして、その祖先が造りだした兵器が、今さらに大きな罪を重ねようとしているの。わたしはそれを止めたい」
「ん? なんで嬢ちゃんの先祖と、あの犬とが関係あるんだよ?」
ドレクが首をかしげた。だが、スヴェンとカレノアは彼女の言葉の意味をわかったらしい。二人の表情にさらなる驚愕が現れた。
「それに、あそこにはガルナークがいる。彼に……叔父に会わなきゃならないわ」
ガルナーク──軍の将軍であり。レアの叔父であり。彼女から大切なものを奪った男。
「レア、それは……」
「ちがうわ、イノ。べつに復讐したいとかじゃないの。たしかに、叔父のことは今でも憎んでいるし許す気もないわ。ただ、教えてやりたいだけ。わたし達の祖
先が何をしたのか、自分が今何をしようとしているのかを。それで何がどうなるわけでもないのはわかってるけど、それでもわたしは……」
必死で訴えるレアの気持ち。むろん、イノとしては行かせたくはない。彼女には、自分の目の届くところにいてほしかった。離ればなれになり、姿も声も見えな
いまま相手を失うかもしれない可能性──そんなのは考えるだけで耐えられない。
だが、レアは『自分にできること』を見つけたのだ。だからこそ、危険をかえりみず獣のところまで行こうと決意している。
何がなんでも『樹』の下へと向かう意志を持つ、この自分と同じように。
「わかった」
イノは笑顔でうなずいてみせた。
「行ってきなよ」
そしてレアを抱きしめた。強く。優しく。しばらく別れることになるその暖かさとやわらかさを、少しでも我が身に残そうとするかのように。みんなが見てる前だろうが、全然かまわなかった。彼女も同じように腕をまわしてきた。
「ま、助けは多い方がいいか」
抱き合う二人を優しげに見て、スヴェンが肩をすくめた。
「それに、駄目だと言ったら一人で突っこんでしまいそうだしな。そのお嬢さん──いや、お嬢様
か?」
「おい、まてよ! ガルナーク将軍が叔父ってことはよ……つまりだな……」
レアが目を閉じて唇をかさねてきた。短く。
「あのバカ犬を始末したら、ちゃんとあなた達の後を追うからね」
「うん。オレもとっとと自分の用事をすませる。後でまた会おう」
「レア」
そのとき、ラシェネが声をかけてきた。
「これ。持って行って」
互いから離れた二人は目を丸くした。ラシェネがレアに差し出しているのは、彼女が左手から外した白い籠手だったからだ。
「敵は獣だけじゃない。もうすぐ『虫』も出てくる。これがあれば役に立つ」
「だめよ。それはラシェネに必要な武器じゃない」
「大丈夫」彼女はニコニコと右手を上げる。「わたしには、まだもう一つある」
「使い方がわかるの?」
少し驚きながらイノはレアにたずねた。
「昨日、彼女の部屋に泊まったときに、ちょっと教えてもらっただけよ。興味で聞いただけだし、とてもじゃないけど扱える自信なんてないわ」
「ううん。レアすごく頭いい。わたしが一度教えただけで、すぐ動かし方を覚えた。だから、きっと使える」
「でも──」
「いいから。いいから。レアはこれで自分とスヴェン達を守る。わたしはもう一つで自分とイノを守る。それなら、おじいだって、貸したことを許してくれる」
そう強引にわたされたレマ・エレジオを、レアがためらいがちに右腕に通す。展開していた装甲が閉じて彼女の腕を包み、白い表面を青白い光が流れる。
「でも、気をつけて。あの犬を外から撃つのはだめ。たぶん、あの犬の心臓は、レマ・エレジオよりもずっとずっと大きな力を蓄えてる。だから、変な壊し方を
すると大きな爆発を起こして、レア達も危なくなるかもしれない。スヴェンの言うとおり、中に入って仕組みを止めるのが一番いいと思う」
真剣に見つめあう二人の少女。そこに強い意志の交わされたことが、イノにもわかった。
やがてレアが決心したようにうなずいた。「わかった」
「やってみるわ」
「レアなら大丈夫。全部終わったら、また一緒にお風呂入ろう」
「うん。必ずね」
「よし!」スヴェンが景気よく声を放った。
「名残惜しいが、そろそろ向かうとするか。月並みな言い方で悪いが、敵さんは待ってはくれないからな」
「ああ」
イノは別れる面々を見渡した。スヴェン、ドレク、カレノア。そしてレアを。
でも、離ればなれになるのは少しの間だけだ。それを誰もが信じている。
「みんな、また後で!」
互いに言葉をかけあって、一行は二手に別れた。
レアとスヴェン達は『ギ・ガノア』へ。
イノとラシェネは『樹』へ。
そして──『楽園』に黒い輝きが満ちはじめた。
* * *
「将軍、『虫』です! 四方から現れます!」
技術士官の混乱した声が通話管から叫ぶ。眼下から聞こえてくるのは、同じく取り乱した兵士達の声だ。
ガルナークは周囲に目を走らせた。『終の光』から破損をまぬがれた建物の屋根を乗り越えて、忌々しい灰色のバケモノどもがこちらめがけて攻め寄ってくる様が小さく見えた。
「獣はどうした。まだ手なずけられんのか?」
動揺がにじみでないよう、声を抑え通話管にたずねる。
「だめです。我々の出す指示のすべてが拒絶されてしまいます!」
「なんとかしろ! このままでは取り返しのつかんことになるぞ」
そう命じたものの、もはや作戦に支障をきたすどころではない状況にまで、自軍が陥っていることはわかっていた。こんな混迷した状況で、『虫』の迎撃などおぼつくわけがない。
周囲の兵達に指示を出そうにも、外へ向けて呼びかけることのできる拡声器ですら無効になってしまっている。むろん、展望台から下に向けて怒鳴ったところで無意味だ。入り口も開けられず、ガルナークと技術士官達は、『ギ・ガノア』の中に閉じ込められてしまったに等しい。
これまで畏怖のまなざしで眺めていた獣を、ガルナークは初めて憎々しげににらみつけた。こいつが暴れ出してから、すべてが大きく狂いはじめたのだ。
目の前で明滅する光。空気を焦がし切り裂くごう音。瓦礫を踏みしだく巨大な振動。勝手な行動を取りはじめた『ギ・ガノア』は、おとなしくなる気配をまったく見せない。
いや、獣は狂ったわけではないのだ。この行動はあらかじめ、獣を造った祖先達によって定められていた。今となっては、それは疑いようもない事実だ。
『ギ・ガノア』の前進する先には、くもり空を背にした異様の巨木がたたずんでいる。『虫』ですら一瞬で消滅させる光を次々とあびながらも、鈴に似た音と、きらびやかな虹彩で光を打ち消し、まったくの無傷のまま荘厳な姿を崩さずにいる。
獣の真の敵。祖先が子孫への記録に残さず、故郷を灰燼に帰しても滅しようとしている存在。だしぬけに役目を終えたかのような人間達は何もできず、ただこの二者の激突に振り回されているだけだ。
これでは、まるで『聖戦』が──いや、セラーダそのものが、このバケモノ同士の戦いのために存在していたようなものではないか。
「ふざけおって……」ガルナークは歯ぎしりした。
息子アセナスを含む多くの兵達の死。血をわけた兄の一家を、亡き者にしてまで推し進めてきた理想と信念。そのすべては、こんな意味のわからない戦いのためにあったのではない。
シリオスは──奴と「黒の部隊」はどうしたのだ?
手すり越しに周囲を眺め渡しても、すぐそれとわかる漆黒の一団は影も形もない。負傷者と共に後方に取り残された部隊の中にも見えない。『ギ・ガノア』がアテにならない以上、攻めてくる『虫』に対して使える駒は『セラーダの英雄』ぐらいしかいないというのに。
そのとき、『ギ・ガノア』の各所に設置された砲塔が、巨木を攻撃しているものとは別に展開しはじめた。
またたく間に四方に狙いを定めた砲塔群。他の砲よりも小型に造られたそれらは、近距離掃射用の『弐の光』を放つためのものだ。どうやら、周囲から押し寄せはじめた『虫』達を迎撃するつもりらしい。
ガルナークは少し安堵した。
指示こそ無視してはいるが、少なくとも、獣は自分に群がる怪物達を片づけようとしている。これなら下にいる兵達も、体勢を立て直
す時間を稼げるかもしれない。
しかし。
ガルナークの希望ともいえる見通しは、次の瞬間、さらなる驚愕と混乱とに変わった。
展開した砲の群れが、いっせいに攻撃をはじめた。
小さな光の玉の連なり──それらは各砲身の動きにあわせて、まるで雨粒のように地上へと降りそそぎ、迫りくる『虫』達の甲殻をやすやすと
貫通しながら、次々にその生命を奪っていく。
斜線上にある建物も、人間達をも巻きぞえにして。