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─二十四章  決戦 ・ 上(7)─



その施設は地下通路を出て街路を少し進んだ先にあった。都市にある他の建造物と同じく半球状の形をしており、両 翼から伸びた高い防壁でぐるりと『樹』を囲っている。まるでその内にある存在を、徹底的に隔離しようとでもいうかのようなたたずまいだ。もっとも、それは 事実なのだろうが。

正面にある扉は開いたままになっていた。その脇には、この建物の名称が刻まれた板が壁に埋めこんである。『楽園』の文字で綴られてるが、読み取るのは造作 もなかった。やはり、これは『樹』の監視と研究を目的として建てられたものだと理解した。

シリオスは頭上を仰いだ。そこには、施設と防壁ごしにそびえたつ『樹』の姿が見える。なんという巨大さ。なんという美しさ。なんという〈力〉の強さ。

遠く彼方から響いてくる鈴の音に似た音。『ギ・ガノア』はいまだ『樹』への攻撃を続けているようだ。もうじき『終の光』の二射目が放たれるかもしれない。 だが、結局それは無駄に終わる。否、終わらせる。

とうとうここまで来た。長かった。本当に長かった。

いや……まだ自分には仕事が残っている。現世での最後の務めが。

「セラ・シリオス」

恍惚としたまま『樹』を見上げていると、背後から緊張をはらんだ声が聞こえた。

「なんでしょう?」

シリオスは、漆黒の兵士達を振り返った。「黒の部隊」──これまで自らの手足となって働いてくれた兵士達。それなりの思い入れと用心のためにここまで連れ てきたものの、予想された『虫』との戦闘は地下通路を出た先で起こった一度きり……。しかもそれは、自分一人でも余裕でさばける程度の小競り合いだった。

ここまで来ればもう『虫』の具現化はない。周囲に流れている『樹』の〈力〉を読み取ればそれがわかる。なんとも残念な気分だ。部隊創設持の苦心を思い起こ せば、せめて最後ぐらいは「黒の部隊」に華々しい舞台をあたえてやりたかったのだが。

「我々は貴方の指示通りに従ってここまで着いてきましたが……その、これ以上従うことに疑問を感じております」

自分を見つめている部下達。緊迫した視線の数々。

「本隊から離れ『虫』を遊撃するというお言葉でしたが、貴方のとっている行動には、それとは別の目的があるように思われます。現に我々は今、本隊からはる かに遠く『虫』すら現れない場所にまで来ています。それでもなお引き返そうとしないのはどういうわけか、その……釈明をしていただきたいのですが」

「そうかしこまる必要はありませんよ」

シリオスはおだやかに口を開いた。

「あなたの言うとおり、私は『虫』の遊撃など最初から考えていなかったのですから」

あっさりと告げると、部下達の顔色が変わった。

「それは──」

「私はこの場所に来たかった。ただそれだけです」

沈黙の流れた黒い一団をおだやかに眺める。

「お戯れにしては……いささか度がすぎるとは思いませんか?」

「まさか。私は本気ですよ。本当にここに来たかったんです」

動揺している部下達の何人かは、あからさまに怒りの感情を見せはじめている。まあ、無理もないことだ。大戦の雌雄を決する土壇場で、まったく意味のないこ とに動かされたのだから。

「セラ・シリオス。こう言っては心苦しいのですが、我々は、もはやこれ以上あなたに付き従うことはできません。貴方がこのまま進み続けるというのなら、我 々はここで引き返し本隊と合流します」

「ほう」面白げに言った。「私にはもう従えないと?」

「我々は守るべきもののために戦い、この地まで来たのです。いかに貴方であろうと、この状況で……こんなわけのわからないことにまで付きあう義務はない」

断固とした決意を見せ、怒鳴りそうになるのを抑えた表情。事と次第によっては、こちらに向けて刃を抜くことも覚悟している雰囲気だ。

彼らの守るべきもの。戦うべき理由。もうじき、そんなものは何ひとつ無くなるというのに。何ひとつ。

「そうですね」シリオスは静かに目を閉じた。

「もう、ここらで終わりにしましょうか」

「終わり? ならば我々は今すぐ本隊と──」

「いえいえ。そういう意味ではありません」

小さく笑った。これまで自分がまとっていたものをゆっくりと剥がしていく。『英雄』という仮面を。『継承者』という殻を。そして……『人』という衣を。も はやこの先に偽りは必要ないのだから。

ありのままの我が身であることを許される解放感──その心地よさ。自分はずっとこれを求めてきた。願ってきた。幼かったあの頃からずっと。

そして開かれた内なる扉。そして膨大なる〈力〉の奔流。

「今、この時をもって『黒の部隊』は永遠に解散させる……わたしが言ったのはその意味だよ」

男達に向けてシリオスは微笑む。安らぎの光に満ちる深紅の瞳で。


*  *  *


駆けているイノの顔の脇から、ラシェネが白い籠手のある腕を突きだす。その先端から放たれた『光の矢』が、建物の屋根から這い下りようとしていた大型種を 撃ちぬいた。節のある平べったい身体をしたそいつが街路に激突して派手な音を立てる。彼女はそのまま、続けて現れた怪物の群れ目がけて次々と光を放ってい く。

側面から。背後から。ラシェネがさばけない方向から、数多の『虫』達が迫る。脳裏にさっと広がる意思の書物。一枚一枚に綴られている憎しみ。イノはそのす べて目がけて〈武器〉を解き放つ。瞬時に生み出された輝ける黒い凶器が、容赦なく獲物を斬り、穿ち、潰していく。

激しく呼吸が乱れる。ラシェネを背負いながら走り続けている肉体的な負担よりも、『虫』達に振るう〈武器〉を制する精神的な負担の方が、ずっと大きいため だ。内なる扉を開くたびに、その奥からあふれ出るどす黒い〈力〉は、執拗なまでに自分の意識を取りこもうとする。一瞬でも気を抜くことはできない。

進路上に出現し、ネチネチと脚を生やしはじめた巨大な肉塊に、さらなる大きさの顎≠差し向けて噛みつぶさせる。噴水のごとき血しぶき上げる肉塊を、ゴ ミでも棄てるように通りの脇にぶん投げ、顎≠ヘそのまま他に群がっている『虫』達へと襲いかかる。網にかかった魚よろしく黒い輝きの牙に捕らえられた大 量のバケモノは、一まとめに手近にあった建物の壁にたたきつけられた。衝撃。壁一面を駆けぬける亀裂。爆発したというにふさわしい様で飛び散った血潮。心 の底まで響く子供達の絶叫がそれらを締めくくる。

荒れ狂う人ならぬ〈力〉を抑える努力が、うめき声となってイノの歯の間からもれた。頭が割れるように痛む。鼓動が破裂しそうな勢いで高鳴る。貪欲に空気を 求める肺はひたすらに収縮をくり返す。とめどなく流れる汗が紅い瞳をしばたかせる。歪んでいる視界と。ぜいぜい震えている喉と。

はるか前方の空では虹色のきらめきが花開いている。『ギ・ガノア』はまだ『樹』への攻撃を止めてはいない。そして、それは『樹』の中で子供達の怨念を封じ ているシリアに大きな負荷をあたえ続けている。

イノは肩に目を走らせる。黄金色の輝きはまだそこにある。だが、苦しげに震えている様子もそのままだ。シリア自身の声を聞くことも、姿を見ることも今だに できないが、イノには苦痛に耐えている少女の姿が目に浮かぶようだった。この自分と同じ……いや、それ以上の。

「イノ。あそこ」

ラシェネが指差す方向。そこには、視界いっぱいに広がる大樹を背景に、半円をえがく大きな建物の屋根と、そこから両脇に伸びている防壁とがある。

「あれがそうなのか?」

「うん……あの建物を通って、『樹』まで行く」

やはり傷を負ったのがこたえているにちがいない。答えるラシェネの声は弱々しかった。

最後に残った『虫』を真っ二つに斬り裂き、足下にぶちまけられたおびただしい鮮血を跳ねあげながら、イノは街路を疾駆していく。交互に踏み出している靴の 中に生じる違和感。左腕にしかなかった異形の甲殻が、今や生き物のように脚をふくむ身体のあちこちを蠢きながら這いすすんでいるのがわかる。

ふと。

息を切らせながら、一本の通りの突きあたりまで達したとき、まるで見えない幕をすり抜けたような感触とともに、『虫』達の現れる気配が消えた。

「なんだ……?」

思わず声にだして辺りを見渡す。これまで殺伐とした〈力〉に満ちていた周囲の空気が、嘘のように静かで落ち着いたものへと変わっている。

「きっと、ここでは『樹の力』の方が強いんだと思う。だから『虫』達も好きには出てこれない」

背中のラシェネが答える。

彼女の言う『樹の力』とは、『樹』が持っていたという本来の〈力〉のことだろう。蓄積された想い≠ノよって『虫』という悪夢に変質してしまう以前に、 『樹』が見ていたという夢の力──それはまだ大樹の中にかすかに残っているのだ。自らの力を宿した『子供』への優しい呼びかけを発しながら。

「とにかく……もう『虫』に襲われることはないわけだな」

気力をふりしぼる思いで、イノは内なる扉を閉めた。立ちくらみによろけそうになる。

レアやスヴェン達は無事だろうか?

イノは空にある虹色の波紋をながめた。『楽園』に現れている『虫』のほとんどが、今も凶行を続けている『ギ・ガノア』とセラーダ軍へ向かっているのはわ かっていた。まちがいなく、そこは自分達がくぐり抜けてきたものよりも過激な戦場になっているだろう。レア達はそんな中にとびこみ、なおかつあの獣を止め ようとしている。心配するなという方が無理だった。

でも、今の自分が彼女達に直接してやれることはない。「また会おう」と別れぎわに交わした言葉を信じ、互いにすべきことをするしかないのだ。

イノは視線を『樹』に向けた。一歩、一歩、足を進めるほどに近づいてくる巨大な姿。まだ乱れたままの動悸を抱える胸の内に、安らぎと懐かしさが入り交じっ た不思議な感情がわき起こってくる。

そのとき、突如として前方に〈力〉が生まれた。

まるで冷水をたたきつけられたような感覚に全身が泡立ち、思わず足を止めてしまう。こちらと同じものを感じたらしきラシェネがぶるっと身を震わせ、息をの む音が耳のそばで聞こえた。

底冷えするような印象。それは『樹』のものでもなく、『虫』のものでもない。

「イノ」

「わかってる……あいつだ」

怪物達を相手にしていたときよりも緊迫した彼女の声に、イノは低く返事した。

シリオス──あの男がこの先にいる。やはり、彼はセラーダを離れて動いていたのだ。そしてすでに『樹』の近くまで迫っている。

「くそっ!」

あせりに歯がみし、イノが駆けだそうとしたそのとき、風に乗って流れてきた音があった。音──声だ。人の悲鳴だ。大勢の人間が上げる恐怖と苦痛の絶叫だ。 それはシリオスを感じている方向から聞こえてくる。今いる街路からでは、建物が邪魔で何が起こっているのかをうかがい知ることはできない。それでも、二人 の身体を凍りつかせるには十分だった。

殴りつけるよう一方的に伝わってくる相手の〈力〉──あの男は今〈武器〉を使っているのだ。人間を相手に。

絶叫が一つ、また一つと消えていく。やがて最後の一つが溶けるように去っていった。周囲に聞こえるのは、建物の間をゆるやかに吹きぬける風の音と、彼方か らの鈴の音に似たものだけだ。

静寂。しかし、目に見えずとも、耳に聞こえずとも、肌が粟立つぐらい寒々しい〈力〉はまだ存在していた。なおも自分を圧迫し続けているそれが、〈力の手〉 によるものであることがイノにはわかっていた。さらには、それがこちらを探すために放たれたものではなく、己の存在を知らしめる意図を持って送られてきて いることにも。かつてネフィアの本拠地で、あの男がアシェルに対して行ったのと同じに。

「……行こう」

イノは足を踏みだした。

背負ったラシェネとお互いに無言のまま進んでいく。しだいに林立する建造物が少なくなり、視界がひらけはじめた。そして、一つの曲がり角をこえた街路のは てに、めざす施設が『樹』を背景にして周囲から孤立するようにぽつんと建っているのが見えた。

イノの顔がさらに強ばった。施設の入り口の前が赤く染まっているのが遠目にもわかる。黒い塊がいくつも転がっているのも見える。一歩、一歩近づくごとにそ の正体がはっきりしてくる。

きれいに舗装された路面に散乱している幾十もの屍の数々。斬り裂かれ、貫かれ、潰され、日差しにねっとりとした光を映す血の海に浮かんでるそれらは、かつ ては人間であった者達だ。まともな身体を残している者は一人としていないが、それでも、彼らがイノが身につけているものと同じ黒い鎧をまとっていることぐ らいは判別できる。

ここにいる屍は全員が「黒の部隊」の兵士だった。他班の人間と一緒に行動することはめったになかったが、恐怖と苦痛の表情を浮かべたまま真新しい血をこび りつけている顔には、イノにも見覚えのあるものがいくつかあった。

彼らはおそらく、シリオスの護衛のためにここまで連れてこられたのだろう。そして何も知らないまま、用済みになったために殺された。いや、処分されたの だ。さきほど耳にした絶叫の数々。いかに歴戦の猛者達であっても、人知を超えた〈武器〉の前にはひとたまりもなかったにちがいない。死体の様子には抵抗し た痕跡すらなかった。

「ひどい……」

胸のむかつく臭いのたちこめる空気の中、かすれた声でラシェネがつぶやく。

それには答えず、イノは黙って目の前の光景を見つめていた。わき上がる怒り。だが、それを口にだすことは自分には許されない。なぜなら、自身これと同じ殺 戮をシケットで行っているからだ。あらためて己の醜さと罪とを突きつけられている重苦しさ。

イノは施設の入り口をにらんだ。開かれた扉の先にある通路。その先に感じるシリオスの存在。

彼が視て≠「る。この凄惨な所業に対するこちらの反応の一つ一つを、じっくりと観察するかのごとく。

あの男はすでにこの施設をぬけ『樹』の下にいる。だがそれにもかかわらず、何か動きを見せる気配はない。以前としてひしひしと伝わってくる相手の〈力〉 は、不気味なまでの静寂をたもっている。

イノにはわかっていた。あの男は自分を待っているのだと。アシェルの意志を継ぎ、その目的を阻もうとここまで来た自分を。

表情を引き締め、イノは血だまりの中を歩きだした。

暗がりに包まれた施設の内部は、頭上高くにある小さな窓からの日差しによって、静まり返った通路の様子がぼんやりと照らしだしていた。 

「こっち」

閉ざされた扉が整然と並んでいる細い通路を、ラシェネの言葉に従い黙々と進んでいく。ひんやりとした空気の中に、自分の足音だけが大きく響く。

やがて前方に強い光が見えてきた。そこから流れこんでくる緩やかな風が頬をなでる。

「あの先を行けば……『樹』がいる」

「わかった」

イノはゆっくりうなずくと告げた。

「ここからは、オレ一人で行く」

「だめ! もう一人の『終の者』がイノを待ってる。わたしにもわかる」

「ああ。シリアのところへ行く前に、まずはあいつと戦わなきゃいけない」

「だったら、わたしも一緒に戦う……イノだけ行かせるなんてできない!」

「それこそだめだ」首を振った。

「さっき入り口で見たろ? あいつはオレと同じ〈武器〉を使える。いくらラシェネでも立ち向かうのは危険すぎるよ。その身体じゃなおさら無理だ。だから、 ここで待っていてほしい」 

ラシェネを背中から下ろしながら、イノは言い聞かせるように話しかけた。自分とシリオス──人知を超えた〈武器〉を駆る者同士による対決。どのみち傷を 負っていようがいまいが、そんな戦いに彼女を巻きこむ気は最初からなかった。

「わたしのことはいい! 『導き手』としてずっと昔から覚悟はできてる。イノのために死ぬのはかまわない!」

「そんなのはオレが許さない」

必死で声を上げる彼女の肩に手を置き、静かに顔をのぞきこんだ。

「それに、レアはオレ以上にラシェネが死んだりするのを許さないよ。あとで一緒に風呂に入るって約束したんだろ?」

ラシェネがつらそうに顔を伏せる。今の自分が戦うことのできる状態でないことは、彼女自身がよくわかっているのだ。そして、もう一人の『終の者』の強大さ と恐ろしさも。

「……ごめん」彼女は声を詰まらせた。

「わたし、イノの役に立てなかった」

「ラシェネはちゃんと自分の役目をはたしたさ。オレをここまで連れてきてくれたんだから。オレにはもったいないぐらいの『導き手』だったよ」

そう微笑んでみせたとたん、彼女が強く抱きついてきた。

互いのぬくもりと〈力〉とを交わしあう抱擁。

やがて。

「レアに怒られるかな?」

静かに身体を離したあと、濡れた瞳のまま、ラシェネがいつもの笑みを浮かべた。

「これぐらいじゃ大丈夫さ──たぶんだけど」

同じく笑みを返し、肩をすくめた。

「全部終わったら迎えにくるよ。そしたらみんなと合流して……ラシェネの村へもどって、思いっきり休もう」

「うん。そのときは、イノもわたし達と一緒にお風呂入ろう」

一瞬ぽかんとしてしまい、思わず噴きだしてしまった。

「どうだろう。それこそレアに怒られるんじゃないかな」

「そう?」

「そうそう」

小さく笑いあう二人の声。それは静かな通路に響き、ゆっくりと消えていった。

「じゃあ行ってくる」

イノはラシェネに背を向けた。暖かな彼女との〈繋がり〉が少しずつ遠ざかるのを感じながら、出口をぬけ外へと出る。

目に映ったのは陽光が照らす草と大地。髪に触れたのは涼やかな心地よい風。そして、その穏やかな光景の中央に、『樹』は荘厳なたたずまいを見せてそびえ 立っていた。

それぞれ大木ほどもある太い根がからみあい、丘を思わせるなだらかな傾斜をみせて、さらなる幅をもつ一本の幹まで続いている。塔のごとく天上めがけて一直 線に伸びたその幹は、頂に近づくにつれ空を埋めつくさんばかりの枝葉となって果てしない広がりを見せていた。

イノは頭上をあおいだ。視界にちりばめられた輝き。日の放つ金色のきらめき。葉の放つ緑色のきらめき。それらが踊るよう優雅に交わり、目くるめく様々な形 をした光の模様を天上に描きだしていた。

そして、はるか高所にあるというのに、イノは空におおい茂る葉のざわめきを聞いていた。輝ける緑と緑のふれあう音。それは喜びを語る言葉でもあり。祝福を 奏でる音楽でもあった。

満たされていく心。自分の口からもれた吐息。

帰ってきた──どうしようもなく胸にこみ上げてくる懐かしさ。

視線を正面にすえる。からみあう根が造りあげている丘の上に、山のように見える幹の前に、一人の男がこちらに背を向けてたたずんでいる姿があった。

表情を引き締めて歩きだす。草地を横切り、太い根の織りなす斜面を上っていく。複雑で歩きづらそうな見た目とは裏腹に、その斜面は足の裏にぴたりと吸いつ くような不思議な感触をしていた。もし目を閉じたとしたら、自分が根っこの上を歩いているとは思えないだろう。

視界の端には、防壁の外に広がる都市がのぞいている。『樹』と『楽園』の姿と。それは、初めてシリアと出会ったときに見た幻そのままの光景だ。唯一ちがう のは、幹の前にいるのが少女ではなく黒衣の男という点だけ。

イノが近づいているにもかかわらず、相手がこちらを振り向く気配はない。もっとも、そんな必要などなかった。目で見るよりも、耳で聞くよりも、はっきりと 互いの存在を捉えているのだから。

やがて、風にざわめく葉の音と光の下に、二つの黒い姿は静かに対峙した。

「本当の『楽園』の感想はどうだ? イノ君」

しばしの沈黙が流れたあと、背を向けたままの相手がたずねてきた。

「本当の『楽園』?」

「そう。もちろん、愚か者達が造りあげたこの虚ろな都市のことではないよ。私達の『楽園』の話だ。『樹の子供』である我々にとって、『樹』のそびえ立つこ の地こ そが、故郷と呼ぶにふさわしい場所なのだから」

感慨深げに語りながら、シリオスは顔だけをこちらに向けた。

「君も感じているだろう? この偉大な存在の鼓動を。その中に渦巻く同胞達の想い≠。それはいま私達の訪れに喜び打ち震えている。なぜならば、私達が この場に現れたことで、永きにわたり不当に封じられていた〈力〉のすべてを、ようやく世界にむけて解き放つことができるからだ。そして──すべては本来あ るべきだった姿を取りもどす」

「そうはさせない」

イノは相手を強くにらみつけた。

「あんたのやろうとしていることはオレが止める。そして、シリアの願いを叶えて争いの何もかもを終わらせる。そのためにここまで来た」

「わかっているとも」

気さくなまでの笑顔で、シリオスが身体ごと向き直る。

「だからこそ、私はこうして君を待っていたのだからね」



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